第四十九話 一報と対応
今節より隔日7時投稿となりますが、よろしくお願いいたします。
現在先行するカクヨム版では今節最終話が最新話となっていますので、今節投稿後は基本的にカクヨム版との同時更新になる予定です。
天正十年六月五日。
本能寺の変が起きてから三日後、御牧兼定と源次郎信繁の一行は、安土から急ぎ引き返し、小県の地へと帰還した。朝廷への献上に用いるはずだった名馬を帰路に使い、道中では必要な休息を取りながらも、可能な限り足を速めてきたのである。安土を出た時点では、信長と信忠の死が確かなものとは言えなかった。しかし、織田家の本拠である安土の町にまで動揺が広がっていた以上、何事もなかったかのように旅を続けるわけにはいかなかった。
小県へ戻った一行は、塩田城と真田の館へそれぞれ向かった。兼定は塩田家の当主である信時へ、信繁は父の昌幸へ、安土で聞いた情報と帰路で得た状況を報告するためである。
塩田城の館では、帰還した兼定を迎えた信時と時勝が、すぐさま報告を求めた。信時は兼定の表情から、今回の旅が当初の目的を果たせなかっただけでは済まない事態になっていることを察していたが、それでも先入観を交えず、まずは事実を確かめることに努めた。
「京で前右府様が本能寺を襲った明智光秀の軍勢に討たれ、三位中将様も二条新御所で自害されたとの噂が、安土の町にまで届いておりました。さらに、明智の軍勢が安土へ向かっているとも申しておりましたので、朝廷への献上は断念し、信繁殿とともに引き返してまいりました」
兼定の報告を聞き、信時はしばらく考え込んだ。織田信長と嫡男の信忠がともに命を落としたというのであれば、これまで織田家の威勢によって保たれてきた秩序は大きく揺らぐことになる。だが、現時点で得られた情報は、安土の町人たちから聞いた話と、そこから判断した危険に基づくものだった。天下人の死という重大事である以上、噂だけを頼りに今後の方針を決めるわけにはいかない。
「出浦衆からも、何か報せが届くはず。それを待って、事の真偽を確かめる」
信時の言葉に、時勝はすぐには同意しなかった。確かな情報を重んじること自体は間違っていない。しかし、情報を待つ間にも周囲の情勢は動き、もし噂が真実であれば、対応が遅れたことが塩田家の命取りになりかねない。
「信時、確かな報せを待つのはよい。だが、万が一に備えることも当主の務めであろう。もし前右府様と三位中将様が討たれたという話が真実ならば、織田家の支配は大きく揺らぐ。各地の国衆が動き始めれば、小県もまた無関係ではいられぬ。兵を動かすかどうかは、報せを待ってから決めればよい。だが、いざという時に動けるよう、今から準備だけは進めておくべきだ」
信時は養父の言葉を受け止め、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。各家に命じて、動員の準備を進めましょう。ただし、今はまだ戦が始まったと決まったわけではありません。兵を集めるにしても、領内の者たちを無用に動揺させぬように」
「それでよい。備えを整えることと、いたずらに騒ぎ立てることは違う」
時勝はそう答え、兼定にも続報が入り次第、すぐに知らせるよう命じた。信時にとって、当主となってから間もないこの時期に、家の存続を左右しかねない事態が訪れたことになる。それでも、まずは情報を集め、必要な備えを整えたうえで判断するという方針は変えなかった。藤との間で交わした、無謀に命を投げ出すのではなく、生き残るための準備を怠らないという約束を、領主としての務めにも重ねていたのである。
一方、真田の館でも、信繁からの報告を受けた昌幸が、すでに次の手を考え始めていた。
信長と信忠が討たれたという知らせは、昌幸にとっても俄かには信じがたいものだった。しかし、安土にいた信繁が実際に目にした町の動揺は、ただの風聞として片づけられるものではない。織田家の本拠で異変が起きていることは確かであり、信長の死が事実ならば、これまで織田家の威勢によって押さえられていた各地の勢力が、再び独自の動きを始める可能性は高かった。
昌幸はすぐに家臣たちを集め、真田家の兵を動員する準備を進めるよう命じた。領内の守りを固めるとともに、周辺の動向を探り、いつでも軍勢を動かせる態勢を整えさせる。そして、もう一つ、急いで手を打つべきことがあった。
「小県から上野へ向かう人の流れを、できる限り押さえよ。街道を行き来する者をすべて止める必要はないが、京や安土の噂を持ち込む者が、むやみに上野へ抜けぬようにせよ。とりわけ、滝川一益のもとへこの報せが届くのは、可能な限り遅らせたい」
家臣たちは昌幸の意図を察し、命令を受けて動き始めた。情報が伝わるのを完全に防ぐことはできない。人の往来をすべて封じれば、かえって不自然な動きとして警戒されるうえ、真田家自身の情報収集にも支障をきたす。それでも、報せが広く伝わるまでのわずかな時間を稼ぐことには意味があった。
その場にいた信幸は、父の判断に疑問を示した。
「父上、我らは織田家に仕える身です。上野を治める滝川一益殿も、織田家より任されたお方。前右府様と三位中将様の安否が分からぬ今、まずは一益殿に協力し、織田家の命令を待つべきではありませんか」
信幸の考えは、織田家の家臣として考えれば筋の通ったものだった。新たな主君に仕えると決めた以上、その秩序が揺らいだ時こそ、主家を支えるために動くべきだというのである。だが、昌幸は息子の言葉を聞いても、考えを変えなかった。
「両人が本当に討たれたのならば、織田家はこれまでのようには動けぬ。命令を待っている間に、周囲の者たちは己の利を求めて動き始めるだろう。誰が織田家を継ぐのか、誰がどの土地を押さえるのか。それすら定まらぬうちに、これまでの約束が守られると思うか」
昌幸は地図へ目を落とした。信濃の小県と上野の沼田は、真田家にとって切り離して考えられない土地である。沼田を押さえたことで真田家は吾妻から上野へと勢力を伸ばし、北関東へ通じる道を確保してきた。だが、織田家に仕えることが決まった際、沼田は滝川一益の支配下に置かれ、真田家の手から離れていた。
昌幸はその決定を受け入れた。小県を守ることを優先したからである。だが、今、その前提となる織田家の秩序が崩れようとしている。
「信長が死ねば、再び乱世となる。誰もが己の領地を守ろうとし、隙あらば勢力を広げようとするはずだ。ならば、我らもまた、その機を逃すわけにはいかぬ」
昌幸は顔を上げ、信幸を見据えた。
「沼田を取り返すのだ」
信幸は父の言葉を受け、すぐには返答しなかった。織田家の支配が崩れれば、沼田を取り戻す機会が訪れるかもしれない。しかし、それは同時に、滝川一益を敵に回すことにもつながりかねない。まだ信長と信忠の死が確定したわけではなく、織田家の今後も分からない段階で、そこまで踏み込んでよいのか。信幸には、父の判断が早すぎるようにも思えた。
だが、昌幸は一益への報せを遅らせるよう命じたうえで、軍勢を動かす準備を始めている。単なる風聞に賭けているのではない。もしも報せが真実だった場合に備え、動ける時間を確保しようとしているのだ。
「もちろん、今すぐ沼田へ攻め込むわけではない。まずは確かな報せを得る。それから、誰がどこへ動くのかを見極める。だが、好機が訪れてから準備を始めていては遅い」
昌幸の言葉に、信幸はようやく頷いた。父の判断にすべて納得したわけではない。それでも、情勢が大きく変わる可能性がある以上、備えを整えることに異論はなかった。
塩田家と真田家、それぞれの館で兵を動かす準備が進められる一方、両家は出浦衆からの続報を待つことになった。信時は確かな情報を得てから判断を下そうとし、昌幸は情報を待ちながら、その先に訪れるかもしれない好機を見据えていた。二人の考え方は異なっていたが、今この時点で軽々しく軍勢を動かさないという点では一致していた。
本能寺の変が本当であれば、織田家を中心として保たれていた秩序は、もはや元には戻らないかもしれない。だが、まだ何が起きるのかは分からず、徳川、北条、上杉をはじめとする周辺勢力がどう動くのかも見えていなかった。
乱世が再び訪れるのか。それとも、織田家の支配が形を変えて続くのか。
その答えを知るためにも、まずは確かな情報が必要だった。両家はそれぞれ備えを進めながら、出浦衆がもたらす次の報せを待ち続けた。




