↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真田異子伝  作者: 海野快斗
第二章 独立 二節 天正壬午、その始まり

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/52

第四十八話 本能寺の変

天正十年六月二日未明。


京都本能寺で、日の本を揺るがす大事件が起ころうとしていた。


この頃、織田軍はすでに日の本の各地へ勢力を広げ、その支配はかつてないほど大きなものとなっていた。東では甲斐の武田家が滅び、信濃・上野も織田家の支配下に入っている。北では越後の名門、上杉氏の本拠である春日山城へ向け、柴田勝家を筆頭とする織田家北陸方面軍が進軍を続けていた。


西国では、中国の覇者たる毛利氏と羽柴秀吉率いる織田家中国方面軍が対峙している。秀吉は毛利氏の勢力を押し込んでおり、両者はやがて大規模な決戦に入ろうとしていた。


四国でも情勢は動いていた。長宗我部氏を討つため、神戸信孝と丹羽長秀を中心とする征伐軍が編成され、摂津から出陣する直前にまで至っていた。


まさに織田家による天下統一が目前に迫っていたのである。


その織田家の前当主にして天下人、織田信長は本拠安土を離れ、京都に滞在していた。


信長は羽柴秀吉から毛利氏との戦況について書状で報告を受けると、自らも西国へ向かうことを決めていた。秀吉を援け、毛利氏との決戦を終わらせる。その先には、天下統一が見えている。


その途上で信長は本能寺に宿を取っていた。


供回りの兵は決して多くない。


天下人である信長が、これほど少ない兵力で京に滞在していたことは油断としか言いようがない。しかし、うつけと呼ばれた織田信長という人物を考えれば、自然なものであるのかもしれない。


そして畿内には織田家の大軍が存在していた。


その中心にいたのが、明智光秀である。


丹波・近江などを支配し、畿内の軍事を担う光秀が信長に反旗を翻すなど、信長にとって考えにくいことであった。だが、現実にはその明智光秀が兵を動かしていた。


信長と、その後継者である信忠が同じ京にいる。


しかも、二人を守る兵は決して多くない。


考えてみれば、これほど大きな力が一つの場所に集まっている以上、何かが起きてもおかしくはなかった。ただし、なぜ光秀がこの決断をしたのか、その理由は今に至るまで明確には分かっていない。


怨恨だったのか。


天下を狙ったのか。


信長の政治や軍事方針に対する不満だったのか。


あるいは、幾つもの事情が重なった結果だったのか。


確かなことは、一つしかない。


光秀は、織田家に刃を向けた。


夜明け前。


本能寺を取り囲んだ明智軍が、一斉に攻めかかった。


突然の襲撃に、本能寺は騒然となった。


信長も異変を察し、自ら槍を取って戦ったと伝えられている。しかし、相手は明智光秀率いる大軍である。次第に寺内へ追い詰められた信長は、もはや逃れることはできないと悟った。やがて本能寺に火が放たれる。


炎が夜の京都を赤く染める中、織田信長は自害した。


天下統一を目前にしていた男の生涯は、あまりにも突然に終わった。






本能寺で織田信長が自害し、二条新御所では織田信忠が自害した。


その日の夕刻。御牧兼定と源次郎信繁の一行は、織田家の本拠である安土城へと到着していた。本来であれば、安土の町は天下人の居城を仰ぐ人々で賑わい、織田家の勢威を改めて感じさせる場所であったはずである。だが、城下へ入った兼定は、すぐにその異変を感じ取った。


人の動きが妙に慌ただしい。


町人たちは何かを恐れるように声を潜め、街道を行き交う者の中には、荷をまとめてどこかへ逃げようとしている者さえいる。安土城下に暮らす者たちが、ただ事ではない何かを知っていることは明らかだった。


兼定は一行をいったん止めると、近くにいた町人へ声を掛けた。


「何があった」


突然問い掛けられた町人は、周囲を気にしながら答えた。


「京で……信長様が討たれたそうです」


「何?」


兼定の表情が変わる。


「明智が本能寺を襲ったとか。信長様だけではありません。信忠様も討たれたという話です。それで、明智の軍勢がこちらへ向かっているとも……」


そこまで聞いたところで、兼定はそれ以上の言葉を待たなかった。


町人から離れると、すぐに随行していた出浦衆の者を呼び寄せる。


「京の様子を探れ。信長公と信忠様のこと、それから明智軍がどこへ向かっているのかを確かめるのだ。噂だけで判断するわけにはいかぬ」


「承知しました」


出浦衆の者は短く答えると、すぐに人の流れへと紛れていった。


兼定は安土城を見上げた。


ほんの少し前まで、ここは天下人の本拠だった。織田家が日の本を統一する、その中心となる場所である。だからこそ、ここへ来る途中の兼定も、これから先は織田家の庇護のもとで信濃の地を守っていけるものと考えていた。


だが、今は違う。


「兼定殿」


隣から信繁が声を掛けた。


「どうされますか」


兼定はしばらく黙っていたが、やがて決断した。


「献上は取りやめる」


今回の旅には、朝廷へ献上するための名馬を連れている。塩田家が長く途絶えていた朝廷への献馬を再開する、その第一歩であった。しかし、今となってはそれを果たすことができる状況ではない。


「馬を使う。信濃へ戻るぞ」


信繁は兼定を見た。


「……しかし、私は織田家への人質として、安土へ来たばかりです」


その声は静かだったが、そこには迷いがあった。


「ここを離れれば、織田家から逃げたと思われるのではありませんか。それに、今聞いた話が本当なのかも分かりません」


信繁の言うことはもっともだった。


まだ何も確かめられていない。信長が討たれたという話も、明智軍が安土へ向かっているという話も、今のところは町に流れている噂にすぎない。しかも信繁は、織田家に仕えるために人質として送られてきた身である。到着したその日に安土を離れれば、かえって疑念を招く可能性もある。


だが、兼定は首を横に振った。


「源次郎殿。わしも、今聞いた話がすべて真実だとは思っておらぬ」


「では……」


「だからこそ戻るのだ」


信繁は黙って兼定を見た。


「わしらが塩田を出た時と、今とでは状況が変わっておる。出発した時、織田家は日の本で最も大きな力を持ち、信長公も健在だった。源次郎殿を人質として安土へ送り、わしは馬を朝廷へ献上する。それでよかった」


兼定は安土城へ目を向けた。


「だが、今は違う。信長公が討たれたという噂が安土にまで届き、しかも明智軍がこちらへ向かっているという話まで出ている。それが真実であろうとなかろうと、そんな噂が立つこと自体が異常なのだ」


信繁は何も言わなかった。


兼定は続ける。


「少なくとも、近江からは出ねばならぬ。ここに留まって、もし明智の軍勢が本当に来たならば、その時には逃げることすらできぬ。逆に、噂が誤りであったとしても、信濃へ戻ればそれで済む」


「……」


「源次郎殿は人質として来たばかりだ。だからこそ、今は生きて戻ることを考えるべきだ。織田家に忠義を示すために、織田家そのものがどうなったか分からぬ場所で命を捨てる必要はない」


信繁はしばらく考えていた。


幼い頃から、彼は人質として生きることに慣れていた。甲斐へ送られ、武田家が滅びた後には織田家へ送られる。自分の意思だけでは決められない立場であることは、誰よりも理解している。


だからこそ、今回も与えられた役目を果たすつもりでいた。


しかし、その役目を与えた織田家の前提そのものが崩れたのであれば、話は変わる。


信繁は静かに息を吐いた。


「……分かりました。戻りましょう」


兼定は頷いた。


「決まったな」


すぐに一行へ指示が飛ぶ。


朝廷への献上は中止する。名馬はすべて帰路に使う。荷をまとめ、不要なものは捨て、できる限り身軽になる。出浦衆の者から新たな情報が届けば、それを聞いたうえで進路を決める。


安土城を目前にしながら、一行は再び西へ向かうことなく、来た道を引き返すことになった。


信長が死んだ。


信忠も死んだ。


天下統一を目前にしていた織田家の頂点が、一日のうちに失われたのである。


そのことが意味するものを、この時点で兼定も信繁も完全には理解していなかった。


だが、一つだけ確かなことがあった。


塩田を出た時とは、もう世の中そのものが変わっている。


そして二人は、その変化から逃れるように、急ぎ信濃へ向かい始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。