第四十七話 藤の願い
信時が塩田家の当主となり、藤と夫婦になってから、しばらくの時が過ぎた。
当主となった信時には、それまで以上に多くの務めがあった。朝から家臣たちとの打ち合わせがあり、領内の田畑や水のこと、年貢のこと、近隣の国衆との付き合いについても決めなければならない。時勝が館にいるとはいえ、これからは信時自身が判断を下す場面も増えていた。それでも、夕餉を終え、政務を片付けた後には藤と話をする時間を取るようにしていた。
半刻ほどの短い時間ではあるが、今日あったことを話したり、塩田の田畑の様子を聞いたり、ときには幼い頃のことを話したりする。特別なことをするわけではない。ただ、夫婦として言葉を交わす時間を、二人は自然と持つようになっていた。
その夜も、二人は館の一室で向かい合っていた。外からは夜の虫の声が聞こえ、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。しばらく他愛のない話をしていた藤だったが、ふと口を閉ざした。
「源七郎様」
「何だ?」
藤はすぐには続けなかった。膝の上で手を重ね、少しだけ俯いている。その様子に、信時は何かあるのだと察した。
「どうした?」
「……一つ、お聞きしたいことがあります」
「ああ」
藤は顔を上げた。
「源七郎様は、私より先にいなくならないですよね」
その言葉を聞いた瞬間、信時は黙った。
あまりにも唐突な問いだった。しかし、藤がなぜそんなことを尋ねたのかは、すぐに分かった。父の時信を戦で失ったこと、その後、自分の心を閉ざしてしまったこと。そして、ようやく戻り始めた日々の中で、今度は夫となった信時まで失うのではないかという恐れ。戦乱の世に生きる者にとって、家族が明日もそばにいるということは、決して当たり前ではなかった。
信時はすぐに答えを返さず、藤の顔を見つめた。彼女が求めているのは、戦の世では口にすることすら難しい約束なのだろう。明日になれば何が起こるか分からない。まして当主となった自分には、家を守るために危険を負わなければならない時が来るかもしれない。それを分かったうえで、藤は尋ねている。
「……戦は、少なくなっていくだろう」
「はい」
「織田家は甲斐、信濃、上野を押さえ、さらに天下を一つにしようとしている。北条や上杉が残っている以上、すぐに戦がなくなるわけではないが、それでも昔に比べれば、世の中は大きく変わった」
信時は、これから先のことを思い浮かべた。武田家が滅び、長く続いた戦乱の時代が少しずつ終わりへ向かっているようにも見える。塩田の地でも、戦に備えることだけではなく、田畑や水のことを考えられる日々が増えている。父・時勝が信時へ家督を譲ったのも、まさにそうした世の中が訪れつつあると考えたからだった。
「だから、藤が心配するほど戦ばかりの世が続くとは、俺も思っていない」
そう言ってから、信時は少しだけ言葉を切った。
「だが、それでも戦わなければならない時は来るだろう」
藤は黙って信時を見る。
「私が塩田家の当主である以上、逃げるつもりはない。塩田の土地を守り、ここで暮らす人々を守るために戦うべき時は戦う。それが当主としての務めだと思っている」
信時の声には迷いがなかった。戦うことを好んでいるわけではない。むしろ、戦によって失われるものを幼い頃から何度も見てきた。それでも、守るべきものがあるならば、武器を取らなければならない。それは塩田家の者としての責任であり、同時に真田の血を引く者として背負うべきものでもあった。
「それに、俺は真田の者でもある。父上も、兄上たちも、戦わずに済む道を探すだろう。それでも最後に戦わねばならぬ時が来れば、戦う。それは俺も同じだ」
藤はしばらく黙っていた。
信時が何を言いたいのかは分かっている。約束できることなど、戦乱の世にはほとんどない。明日何が起こるのかさえ、誰にも分からない。それでも、藤にとっては、それを承知したうえで聞かずにはいられないことだった。
「ですが」
藤が小さな声で言った。
「それでも、私は源七郎様に先にいなくなってほしくありません」
信時は藤の顔を見た。
そこには、以前のような閉ざされた色はなかった。ただ、大切なものを失いたくないという思いがある。その思いを向けられて、信時は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
「分かっている」
信時はゆっくりと頷いた。
「だから、俺も藤より先に死ぬつもりはない」
藤が少しだけ目を見開く。
「……本当に?」
「ああ」
信時は頷いた。
「戦うべき時に戦うことと、無謀に死ぬことは違う。俺は、生き残るための準備を怠るつもりはない」
兵のことも、武器のことも、城のことも、食糧のことも。そして何より大切なのは、戦になった時に何を守り、何を捨てるのかを、あらかじめ考えておくことだった。
「戦になってから考えるのでは遅い。だから、今のうちにできることをしておく。塩田の兵を整え、米を蓄え、水を確保し、周りの国衆とも話をしておく。俺が生き残るためだけではない。藤や、塩田で暮らす皆を守るためだ」
それは、信時がこれまで教えられてきたことの積み重ねでもあった。武士は強ければよいのではない。領主は戦に勝てばよいのでもない。戦になった時に生き残れるよう、戦がない時から備える。それこそが家を守るということなのだ。
「だから、安心してくれ」
信時は藤に向かって言った。
「俺は、藤を置いていくような戦い方はしない」
藤はしばらく信時を見つめていたが、やがて、ほんの少しだけ笑った。
「……はい」
それだけだった。
けれど、その返事には以前にはなかった穏やかさがあった。信時もまた静かに笑い、二人はそれ以上多くを語らなかった。外では虫の声が続き、塩田の夜は穏やかに更けていく。
戦乱の世が終わりへ向かっている。二人とも、そう信じていた。武田家が滅び、織田家が天下統一へ進もうとしている今なら、この先にはこれまでとは違う時代が待っているのだと思えた。だからこそ、信時も藤も、この穏やかな夜がいつまでも続くように願っていた。




