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真田異子伝  作者: 海野快斗
第二章 独立 二節 天正壬午、その始まり

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第四十五話 披露の宴

今日は、塩田家の新たな当主となった信時を、周辺の国衆へ披露する宴の日である。


昨日の夕刻には、すでに塩田家中の者たちを集めて、信時が正式に新当主となったことが伝えられていた。


館の広間に集まった家臣たちを前に、時勝は自ら口を開き、これまで養子として育ててきた信時へ家督を譲ることを告げた。


家臣たちから驚きの声が上がることはなかった。信時がいずれ塩田家を継ぐことは、皆が知っていたからである。


それでも、実際にその時が来れば、感慨はある。


時勝が家督を譲り、信時が当主の座へ着く。これまで時勝へ向けられていた家臣たちの視線が、少しずつ信時へ向けられていく。


「これより先、塩田家のことは、信時が中心となって考えていくことになる。わしもまだこの館におる。何もかもを一人で背負わせるつもりはない。だが、これからは皆も、この者を塩田家の当主として支えてやってほしい」


時勝の言葉を受け、信時は立ち上がった。


「未だ若輩の身ではあるが、塩田家の名を汚さぬよう務めるつもりだ。皆の力を借りながら、この塩田の地と、ここに暮らす人々を守っていきたいと思う。どうか、これからも頼む」


信時が頭を下げる。それに応えるように、家臣たちも次々と頭を下げた。


「この身、源七郎様にお預けいたします」


「塩田家のため、これまでと変わらずお仕えいたします」



家臣たちはもう、この少年を単なる後継者として見てはいなかった。


塩田家の当主。


それが、今日から信時に与えられた立場だった。


そして、その場でもう一つの知らせがあった。時勝は家臣たちを見渡した後、少しばかり表情を和らげた。


「もう一つ、皆に伝えておきたいことがある」


家臣たちが顔を上げる。


「藤についてだ」


その名を聞いて、信時も時勝を見る。


藤。


亡き塩田時信の娘であり、時勝にとっては孫娘でもある。長篠で父を失って以来、藤は以前の明るさを失っていた。安楽寺へ送られた後も、しばらくは心を閉ざしていたが、そこで信時と過ごすようになってから、少しずつ変わっていった。


最初は、ただ話をするだけだった。


信時は藤の過去を無理に聞こうとはしなかった。


父を失った悲しみを消すことなどできない。それでも、信時は藤を特別扱いすることもなく、いつもと変わらぬ態度で接した。


それが、藤の心を少しずつ動かしていった。


やがて藤は、以前のように笑うことも増えていった。


時勝は、その様子をずっと見ていた。


「信時が当主になるに際して、藤を信時の妻とする」


一瞬、広間が静まり返った。


信時も目を見開く。


「……私の、ですか」


思わず声が漏れたが、時勝は笑った。


「そうだ」


家臣たちの間から、驚きとともに納得したような声が漏れる。塩田家の当主となった信時と、先代当主の一人娘である藤。


二人の婚姻には、家の上でも意味がある。


時信の血筋を塩田家の中に残すことができる。そして、養子である信時が当主となったことで生じる家中のわずかな不安を抑える意味もあった。


だが、それだけではない。


時勝がこの縁を決めた理由は、藤自身のことでもあった。時信を失ってからの藤が、少しずつ笑えるようになった。


そのきっかけを作ったのが信時だった。


だからこそ、時勝はこの二人を結びつけることを考えた。


「藤も、このことを承知しておる」


こうして、昨日のうちに家督相続と婚姻の話が家中へ伝えられた。


そして翌日。


塩田城の館には、周辺の国衆たちが集まっていた。


織田家による新たな支配が始まったばかりとはいえ、信濃の国衆たちにとって、互いの関係を確かめることは今まで以上に重要になっている。


その中には、昌幸もいた。昌幸の隣には、信幸と信繁が座っている。


信幸は弟の姿を、どこか嬉しそうに眺めていた。信繁はいつも通り口数が少ない。しかし、その視線は時折、信時へ向けられていた。


今日の宴が終われば、信繁は名馬の献上で上洛する兼定とともに安土へ向かう。織田家への人質として、再び家を離れるのだ。


だからこそ、こうして兄弟三人が同じ席に揃うことは、しばらくないかもしれなかった。


その少し離れたところには、出浦盛清の姿もある。


盛清は織田家への臣従を認められ、北信濃四郡を治める森長可のもとで動くことになっていた。


ほかにも、小県の国衆である室賀正武をはじめ、周辺の有力者たちが顔を揃えている。


塩田家にとっては、単なる祝いの宴ではない。新たな当主を周辺の国衆に認めてもらうための場でもある。


やがて宴が始まり、しばらくして時勝が立ち上がった。


「本日は、塩田家のために集まっていただき、誠にありがたい」


皆の視線が時勝へ集まる。


「先日、織田家より塩田家は直臣として認められた。そして、このたびわしは家督を源七郎信時へ譲ることとした」


時勝が横を見る。


信時が立ち上がった。


これまでなら、こうした場で前へ出るのは時勝の役目だった。


しかし、今日は違う。信時はゆっくりと周囲を見渡した。


そこには、これまで塩田家と関わってきた国衆たちがいる。


真田昌幸。


出浦盛清。


室賀正武。


そして、多くの顔。


誰もが、自分がこれから付き合っていくことになる者たちだった。


信時は一度深く息を吸った。


「このたび、養父上より家督を譲っ、塩田家譲り受け、当主となりました塩田源七郎信時にございます」


声は大きく、よく通った。


「私はまだ若輩の身であり、皆様方より学ばねばならぬことも多くございます。しかし、塩田の地を守り、この地に暮らす人々の暮らしを守るという務めに、年齢は関係ないと思っております」


昌幸がわずかに目を細めた。


信時の言葉を黙って聞いている。


「戦が起これば、我らは兵を出さねばなりません。されど、領主の務めは戦うことだけではございません。田畑を守り、水を引き、民が安心して暮らせるようにすることもまた、家を守ることだと教えられてまいりました」


信時は続けた。


「私は、養父上や家臣の方々に教えていただいたことを胸に、塩田の地をより良きものとして次の世へ渡せるよう努めてまいります。そのためには、ここにおられる皆様のお力をお借りすることもあるでしょう。その折には、どうかお力をお貸しいただきたい」


一度言葉を切り、信時は深く頭を下げた。


「若輩ではございますが、塩田源七郎信時を、これからもよろしくお願い申し上げます」


頭を上げる。


しばらくの間、静けさが広間を包んだ。


やがて、室賀正武が口を開いた。


「立派な口上ですな」


それをきっかけに、周囲からも感嘆の声が上がった。


信時は小さく頭を下げた。


その姿を見ながら、昌幸は微かに笑った。十四年前に別れた息子が、今は一つの家を背負っている。父として、誇らしく思う気持ちがないわけではない。だが、それを表に出すことはしなかった。信時はもう、ただの息子ではない。


塩田家の当主なのだ。


その後、宴が進み、酒と料理が運ばれていく。


時勝は頃合いを見て、再び立ち上がった。


「皆様に、もう一つお伝えしたいことがある」


宴の席が静まる。


「先日、織田家より、塩田家が長く途絶えさせていた朝廷への献上を再開することを認めていただいた」


その言葉に、周囲からどよめきが起こった。


「献上するのは、塩田家が育ててきた名馬である」


時勝は続けた。


「これは、単なる祝いの品ではない。塩田家が信濃国司のもとで御牧を守ってきた頃より続く、我らの務めでもある。武田の世に入り、長く途絶えていたものを、今一度再開することとなった」


時勝の声には、これまでとは違う重みがあった。


「数十年ぶりに、塩田の馬が朝廷へ献上される。今日、この場に集まってくださった皆様とともに、その再開を祝いたい」


国衆たちから、改めて祝福の声が上がった。信時はその声を聞きながら、館の外へ目を向けた。


塩田平には、春の陽が差している。


田畑があり、山があり、その間を水が流れている。


そして、その土地を守る家の名を、今、自分が背負っている。


忍びの里で生きていた頃には、こうした日が来るとは思っていなかった。


父と兄たちと同じ席に座り、周囲の国衆から当主として見られ、古くから続く塩田家の役目が再び動き始める。


すべてが、ようやく落ち着き始めているように思えた。


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