第四十四話 塩田家当主
諏訪上原城で織田家の直臣として認められてから、数日が過ぎていた。
塩田城の館では、それまでと変わらぬ日々が続いている。田畑では春の仕事が進み、村々では水の確保に向けた作業が続けられていた。城下を行き交う人々の顔にも、武田家が滅びた直後にあったような緊張は、少しずつ薄れつつある。
塩田家が新たな主として織田家を戴くことになり、戦は遠ざかっている。織田家は甲斐、信濃、上野へと支配を広げ、天下統一を目前にしている。北条や上杉といった周辺勢力の動きにはなお注意が必要であるものの、少なくとも塩田の地において、戦の気配は無かった。
そのような中、館の一角では、今日も武術の稽古が行われていた。
「もう一度」
範康の声が響く。
信時は槍を構え直した。
十四歳の身体には、まだ少年らしさが残っている。それでも、幼い頃から忍びの里で鍛えられ、塩田家へ移ってからは時勝や範康のもとで武術を学んできた。その動きには、年齢からは考えにくいほどの落ち着きがあった。
槍を繰り出す。
範康はそれを受け流し、柄を返した。信時が身を引く。続けて繰り出された一撃を受け止めると、そのまま槍を押し返した。
「今のは悪くございません。だが、足が遅れた」
「はい」
「槍だけを見てはいけません。相手の肩、腰、足を見る。次にどこへ動くのか、それを考えながら動きましょう」
「分かりました」
信時は槍を下ろし、息を整えた。
範康は信時を見ながら、ふと昔のことを思い出していた。
この少年が塩田家へ来たばかりの頃は、武術の腕だけなら年齢に似合わぬところがあった。しかし、領主として人を動かすことについては、何も知らなかった。
それも当然のことである。
忍びの里でひっそりと育てられた少年が、突然一つの家を背負う立場になったのだから。
だが、それから年月が過ぎた。
村人と話し、水の流れを見て、田畑の様子を確かめ、時勝や範康の仕事を傍らで学んできた。ため池の普請にも関わり、百姓たちの話を聞く機会も増えた。
信時は少しずつ変わっている。
それを最も近くで見ていたのが、範康だった。
その時、庭へ続く廊下から人の気配がした。
「信時」
呼びかけたのは時勝である。
信時が振り返る。
「養父上」
「稽古の途中であったか」
「はい」
時勝は二人のところまで歩いてくると、信時の手にある槍へ目を向けた。
「範康、どうだ」
「以前より随分と良くなっております。ただ、まだまだ教えることはありますな」
「それでよい」
時勝は笑った。
「武芸は一日二日で身につくものではない。これからも励めばよい」
そう言ってから、時勝は信時へ向き直った。
「信時、少し話がある」
「はい」
三人は稽古場を離れ、館の一室へ移った。
時勝が座ると、信時と範康もその前に座る。時勝はしばらく二人を見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「先日、織田家より塩田家が直臣として認められた」
「はい」
「これによって、少なくとも今すぐ大きな戦が起こるような情勢ではなくなった。織田家は日の本の統一を目前にしておる。甲斐も信濃も、その支配の中に入ったばかりだ。もちろん、北条や上杉の動きまで分からぬ以上、戦がなくなるとは言えぬ。だが、これまでのように主家の命によって、いつどこへ兵を出すか分からぬという状況とは違う」
信時は黙って聞いていた。
「それに、ため池の普請も順調に進んでおる。塩田の地を治めるために、これから必要な仕事はまだ多い。だからこそ、わしは考えた」
時勝は一度言葉を切った。
「そろそろ、お前に塩田家の家督を譲ろうと思う」
信時の目がわずかに見開かれた。
これまでにも、時勝から将来の話を聞かされることはあった。自分が塩田家の後継者であることも、いずれ家を率いることになることも分かっている。
しかし、それがいつになるのかまでは、考えていなかった。
「……私が、当主に」
「うむ」
時勝は頷いた。
「まだ十四の身である。何もかも一人で決められるとは思っておらぬ。これからもわしは側におるし、範康や他の家臣たちにも支えてもらう。だが、家督を譲るということは、名だけを与えるということではない。少しずつでよい。塩田家のことを、お前自身の責任として考えてもらいたい」
「……分かりました」
信時は姿勢を正した。
時勝はそんな信時を見て、穏やかに笑った。
「三日後の午後、家臣を皆、館へ集める。そこで正式にお前へ家督を譲ったことを伝える」
「はい」
「そして、その翌日には周辺の国衆を集めて宴を開く」
信時は顔を上げた。
「宴を?」
「うむ。お前が塩田家の当主となったことを披露するためだ」
時勝は続けた。
「それだけではない。先日、織田家から朝廷への献上を再開することも認められた。これも祝いとしてよいだろう」
塩田家が朝廷へ馬を献上すること。
それは単なる贈り物ではない。
かつて信濃国司のもとで御牧を守っていた頃から続いてきた、塩田家の古い役目である。武田家の勢力が信濃を覆うようになってから長く途絶えていたが、織田家のもとで再びその役目を果たすことが許された。
「数十年ぶりになる」
時勝は静かに言った。
「塩田家が古くから担ってきた役目を、もう一度取り戻すのだ。新たな当主のお披露目とともに祝うには、ちょうどよい」
信時は頷いた。
自分が当主になる。
その知らせを家臣たちに伝え、周辺の国衆にも知らしめる。そして、塩田家が古くから続けてきた朝廷への献上も再び始まる。
ただ戦うだけではない。
家を残すとは、こういうことなのかもしれない。
そんなことを、信時は考えていた。
「それから、信時」
「はい」
「この書状を」
時勝が懐から一通の書状を取り出した。
信時が受け取る。
「これは?」
「周辺の国衆へ出す案内状だ。三日後の家臣への披露、その翌日の宴について知らせる。塩田家の当主が変わることを、正式に伝えるためのものだ」
信時は書状へ目を落とした。
そこには、宴の日取りと場所、朝廷への献上を再開すること、そして新たな当主を披露する旨が記されている。
「これに、連署してもらいたい」
信時は顔を上げ、迷いなく答える。
「かしこまりました」
時勝は迷いなく答えた。
「これからは、お前が塩田家の当主になる。ならば、こうした書状にもお前の名を連ねるべきだろう」
信時はもう一度、書状へ目を落とした。これまでならば、時勝の名だけで出されていたはずの書状である。
そこへ、自分の名を並べる。
それは小さなことのようでいて、信時にとっては大きな意味を持っていた。
「……承知しました」
信時は筆を取った。墨を含ませ、書状の末尾へ自らの名を記す。
その筆先が紙の上を走る。
塩田源七郎信時。
まだ十四歳の少年の名である。
だが、この日を境に、その名は塩田家を代表する名として、周囲の国衆にも知られていくことになる。
時勝は、信時が筆を置くのを見届けると、静かに頷いた。
「これでよい」
範康も書状へ目を向けた。
そこに記された信時の名を見て、胸の内に何か感慨が浮かぶ。かつて塩田家に迎えられた少年が、今や家を率いる者になろうとしている。まだ時勝がすべての実権を手放すわけではない。
家臣との付き合い方も、領地のことも、朝廷との関係も、信時には知らぬことが多い。これから一つずつ学ばなければならない。
それでも、時勝はもう「後継者だから学ばせる」というだけではなく、「当主として経験させる」段階へ進もうとしていた。
信時自身も、そのことを感じていた。
塩田家の名を背負う。
この地を守る。そこで暮らす人々の生活を守る。
それは、これまで考えてきた以上に重い役目なのだろう。
それでも、逃げるつもりはなかった。
忍びの里で学んだことも、武術も、ため池の普請で学んだことも、これからはすべて一つにつながっていく。
時勝は立ち上がった。
「三日後までに、まだ話しておくことがある。家臣たちのことも、領地のことも、少しずつお前へ伝えていこう」
「はい、養父上」
「範康、お前にも頼む」
「承知しております」
範康は頭を下げた。
「これからは、今まで以上に厳しく教えることになりましょう」
信時が苦笑する。
「武術まで厳しくなるのか」
「当主だからこそ、鍛えねばなりませぬ」
「それは困りましたね」
範康が笑い、時勝も声を上げて笑った。
館の外では、春の風が塩田平を渡っていた。遠くには、これから水を引く田畑が広がっている。
戦乱が終わったわけではない。
それでも今、この地には穏やかな時間が流れていた。
時勝が信時へ家督を譲ろうと決めたのも、その穏やかな時間がしばらく続くと考えたからであった。
この先も、この日々が続いていく。
誰もが、そう思っていた。




