第四十三話 一益との対談
武田家が滅びてから、幾日かが過ぎていた。甲斐では武田家に代わる織田の支配が進み、信濃でも各地の国衆が新たな主を求めて動き始めている。上野では、織田信長から関東方面の支配を任された滝川一益が兵を進め、武田家の旧領を次々と掌握していた。その中には、かつて真田昌幸が武田家のために幾度も戦い、ようやく手にした沼田の地も含まれている。
昌幸は、その沼田城へ向かっていた。城を取り戻すためではない。すでに織田家によって収公され、滝川一益が新たな城主として入っているからである。信長から「沼田は召し上げる」と告げられた時、昌幸はそれを受け入れていた。悔しさがないわけではない。だが、今の真田家にとって何より大切なのは、沼田を守り続けることではなく、武田家の滅亡後も自らの本貫である小県を失わず、家臣と領民をともに残すことであった。
やがて沼田城が見えてくる。かつて真田の旗が翻っていた城には、今や織田の旗が掲げられ、その下には滝川家の旗が並んでいる。昌幸はそれを眺めながら、ここまでの歳月を思った。上野へ兵を進め、北条と戦い、国衆を味方につけ、武田家のためにこの地を守ってきた。そのすべてが無意味になったわけではない。ただ、時代が変わったのである。そう思い直すことで、昌幸は馬を止めることなく城門へ向かった。
城内へ通された昌幸を待っていたのは、すでに沼田城の主となっていた滝川一益であった。
「安房守殿。遠路、よく参られた」
「滝川殿におかれましては、お時間をいただき、かたじけのうございます」
「なに、これからは同じ織田家のもとで働く身だ。そう堅くならずともよい」
一益はそう言って昌幸を座につかせた。かつては武田家と織田家の将として敵味方に分かれていた二人である。それが武田家の滅亡から間もない今、同じ主を戴く者として向かい合っている。戦国の世では、昨日までの敵が今日には同じ陣に並ぶことも珍しくない。昌幸もまた、その変化を当然のものとして受け入れていた。
「さて、沼田のことであるが」
一益が本題を切り出す。
「すでにご承知とは思うが、沼田は織田家の領分となった。信長公より、この地を預かるよう命を受けておる」
「承知しております。信長公からも、沼田については召し上げるとのお言葉をいただいております」
「そうか。それならば話は早い」
一益は頷いた。
「そなたのここまでの沼田での働きについては、信長公も聞いておられる。北条と戦い、周辺の国衆を取り込み、武田の勢力を上野へ伸ばした。その働きまで否定するつもりはない」
「ありがたきお言葉にございます。ただ、武田家が滅びた以上、沼田をこれまで通り真田が治める理由もなくなりましょう」
昌幸は淡々と答えた。沼田を惜しむ気持ちはあったが、それを一益の前で露わにするつもりはなかった。
「もっと何か言われるかと思っていたが、随分と物分かりがよいな」
「沼田は武田家より預かった地にございます。武田家が滅びた今、それを織田家が召し上げることに道理がないとは思っておりませぬ。それよりも、信長公が真田の本貫である小県を安堵してくださったことの方が、今の私には大きゅうございます」
昌幸は一度言葉を切った。
「沼田を失ったことは惜しゅうございます。しかし、真田家そのものを残せたのであれば、まだ次の道を考えることができます」
一益は黙って昌幸を見た。
沼田という土地に対する執着を捨てたわけではないのだろう。それでも今ここで感情を優先すれば、失うものは沼田だけでは済まなくなる。そのことを、一益も理解しているようであった。
「そうか、そなたにはこれからも小県を治めてもらうことになる。だが、武田が滅びたことで、信濃の国衆も落ち着いてはおらぬ。これまで武田のもとにいた者たちが、皆すぐに織田へ従うとは限らない」
「その通りにございます」
「そなたには、小県の国衆をまとめてもらいたい。ああ、塩田家は別だ。あれは直臣であるからな」
その言葉に、昌幸は少しだけ目を細めた。
小県には真田だけがいるわけではない。長く武田家のもとでそれぞれの領地を守ってきた国衆たちがおり、武田家が滅びた今、彼らもまた新たな秩序の中で自らの立場を定めなければならない。そうした者たちを織田の名のもとにまとめることができれば、真田家にとっても決して悪い役目ではなかった。
「お任せいただけるのであれば、力を尽くしましょう」
「うむ。武田の内情を知るそなたであれば、他の者より話も通じよう。必要であれば、織田の名を使ってよい」
「ありがたく存じます」
昌幸は頭を下げた。
沼田を失った代わりに、小県を治める立場を改めて認められた。それだけではない。小県の国衆をまとめる役目まで与えられたことは、真田家がこれから織田家のもとで生き残るための一つの足掛かりになる。
その後、二人はしばらく信濃と上野の情勢について話し合った。北条が上野へ勢力を伸ばそうとしていること、武田家の旧臣たちがそれぞれ新たな主を探していること、そして織田家がこれから東国をどのように治めていくのか。昌幸は一益の言葉を一つずつ聞きながら、織田家の中で自分たちが置かれる位置を探っていた。
やがて話が一段落したところで、一益はもう一つの話を切り出した。
「それともう一つあるのだがな、人質を安土の上様に出してもらいたい」
「人質、でこざいますか」
「ああ、織田家へ出仕する以上、人質は出してもらわねばならん。仮にも武田の旧臣であるからな」
昌幸は少しの思案の後答えた。
「承知しました、源次郎を安土に出仕させまする」
一益は少し考えるように昌幸を見た。
「源次郎というと、そなたの次男か」
「左様にございます」
昌幸の声は落ち着いていたが、その胸中には父としての思いがあった。
信幸も信繁も、幼い頃から武田家のもとで人質として暮らしてきた。武田家が滅びたことでようやく二人とも真田へ戻ることができたが、今度は織田家への臣従を示すため、そのうちの一人を再び家から出さなければならない。
それでも昌幸は、家を守るためには必要なことだと考えていた。
「承知した。安土へ送る手筈については、こちらでも話を通しておこう」
「お願いいたします」
昌幸は深く頭を下げた。
対談を終え、沼田城を出た昌幸は、城を振り返った。
かつて自らが苦労して手に入れた城には、今や織田の旗が翻っている。そこに悔しさを覚えないわけではなかったが、それ以上に胸にあったのは、真田の郷へ戻ればまだ守るべきものが残っているという思いであった。
沼田を失った。
しかし、小県は残った。
家臣も、領民も、妻も、子らもいる。武田家の滅亡によって真田家を取り巻く環境は大きく変わったが、家そのものまで失ったわけではない。ならば、今は残されたものを守り、新たな主のもとで力を蓄えるべきだった。
真田の郷へ戻った昌幸を待っていたのは、矢沢頼綱であった。
「沼田は、やはり取られたか」
「うむ。すでに滝川殿が城へ入っておられます」
「これまで、あれほど苦労して守ってきた土地だ。それを、織田についた途端に召し上げられるとはな」
頼綱の言葉には、抑えきれない不満が滲んでいた。
昌幸は、それを咎めなかった。頼綱にとって沼田は単なる領地ではない。幾度も兵を動かし、北条と戦い、ようやく真田の勢力として守り抜いてきた土地である。それを手放すことに納得できないのは当然のことだった。
「叔父上の気持ちは分かります。しかし、今は沼田よりも小県を守れたことを重く見るべきでしょう」
「小県を残すために、沼田を捨てたということか」
「捨てたのではありませぬ。今は、取り戻すことよりも残すことを選んだまでです」
頼綱は何も言わず、昌幸を見た。
「信長公は真田の本貫を安堵されました。それだけではありません。滝川殿からも、小県の国衆をまとめる役目を任されました。これからは織田の名のもとで、我らが小県をまとめていくことになります」
「沼田を失った上で、か」
「ええ。沼田を失ったからこそ、小県を失うわけにはいきませぬ」
昌幸は静かに続けた。
「武田家が滅びた以上、これまでと同じやり方では生き残れません。織田に従うのであれば、その中で真田の立場を作る。国衆をまとめ、領地を守り、家臣と領民を生かす。それが今の我らに必要なことでしょう」
頼綱はしばらく考え込んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった。わしも、いつまでも沼田にこだわってはおれぬな」
「ありがとうございます」
「ただし、昌幸」
頼綱が顔を上げる。
「沼田を失ったことを忘れるな。あの地は、真田にとってただの土地ではなかった」
「承知しております」
昌幸は頷いた。
今すぐ取り戻すことはできない。
だが、戦国の世において、今ある領地が永遠にそのままであるとは限らない。逆に、一度失った土地を二度と取り戻せないとも限らない。
だからこそ、今は焦るべきではなかった。
まずは小県を守る。そして、織田家のもとで新たな秩序がどのように形作られていくのかを見極める。その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、武田家が滅びたことで、真田昌幸もまた新たな時代へ足を踏み入れたということであった。




