第四十一話 織田への臣従(その3)
昨日、誤って二話公開してしまいましたが、のちの投稿予定に影響がないためそのまま公開を継続いたします。申し訳ありませんでした。
諏訪上原城へ出仕した昌幸は、まず織田信忠と対面することとなった。
信忠は、武田家を滅ぼした軍の総大将として甲斐・信濃の情勢を見ていた。昌幸にとっては、これから仕えることになる織田家が、自分をどのように見ているのかを知る最初の機会でもある。
「真田安房守」
「はっ」
「そなたは新府を離れた後、小県へ戻ったそうだな」
「その通りにございます」
信忠の問いは静かだった。
「なぜだ」
昌幸は一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「勝頼公が新府を出られる前、私は小県へ戻りました。されど、武田家を見限って逃げたわけではございませぬ」
「では、何のために戻った」
「勝頼公をお迎えするためにございます」
信忠の表情がわずかに変わった。
昌幸は続ける。
「わしは岩櫃城へ戻り、勝頼公が来られた場合に備えて兵糧を集め、城の備えを整えるつもりでおりました。岩櫃には、勝頼公をお迎えするための館まで造っております」
「館を」
「はい。勝頼公が新府を出られ、岩殿へ向かわれることとなった後も、わしは勝頼公が岩櫃へ来られる可能性を捨ててはおりませんでした」
昌幸は、あえてそれ以上を飾らなかった。
勝頼が武田家を立て直せると信じていたわけではない。織田の軍勢が甲斐へ押し寄せる中で、それが難しいことは昌幸自身にも分かっていた。それでも、主君が生きている間に自分から武田家を見捨てることはできなかった。
それが、昌幸の考えであった。
信忠はしばらく昌幸を見つめていた。
「小山田信茂とは違う、ということか」
その名が出ると、昌幸は静かに答えた。
「小山田が何を考えておられたのか、わしには分かりませぬ。ただ、わしは勝頼公を裏切ったつもりはございませぬ」
昌幸は頭を下げた。
「武田家が滅びた今、わしは新たな主を求めております。されど、それとこれまで仕えた主君を裏切ることは、同じではないと考えております」
信忠はすぐには答えなかった。
やがて、わずかに頷く。
「よい。そなたの言い分は分かった」
昌幸は顔を上げた。
「岩櫃に勝頼を迎えるための備えをしていたというなら、少なくとも武田家が滅びる前から裏切っていたわけではあるまい」
「ありがたきお言葉にございます」
「だが、これより先は織田家に仕える身となる。武田家が滅びた以上、そなたもまた新たな道を選ばねばならぬ」
「承知しております」
信忠との対面を終えた昌幸は、そのまま信長との対面を許された。
部屋へ入った昌幸は、静かに頭を下げた。
目の前にいるのは、これまで武田家と幾度も戦い、ついにはその主家を滅ぼした男である。
織田信長。
昌幸はこれまで、その名を幾度も聞いてきた。だが、こうして直接対面するのは初めてのことであった。
「真田安房守か」
「はっ」
「武田では外様でありながら、宿老同様の働きをしていたそうだな」
思いがけない言葉に、昌幸はわずかに目を見開いた。
信長は続ける。
「上野へ兵を進め、沼田を取った。武田のためによく働いたそうではないか」
「武田家に仕える者として、務めを果たしたまでにございます」
「それだけではない」
信長は昌幸を見た。
「武田の家中では、そなたのような者が多くいるわけではなかった。外から入った者でありながら、宿老と並ぶところまで上った。その働きは認めよう」
昌幸は深く頭を下げた。
「過分なお言葉、恐れ入ります」
「そなたの旧領、小県は安堵する」
その言葉を聞いた瞬間、昌幸は顔を上げた。
小県。
真田家が長く根を張ってきた土地である。武田家の滅亡によって、そこまで失うことになれば、真田家は家臣を養うことも、これまで築いてきた領地を守ることも難しくなる。
「ありがたき幸せにございます」
昌幸は頭を下げた。
しかし、信長の言葉はそこで終わらなかった。
「ただし、沼田は別だ」
昌幸の表情がわずかに固まる。
「沼田は武田家より与えられた役職領であろう。そなたが武田家の下で守ってきたことは承知している。だが、武田家が滅びた以上、それをそのままそなたの領地として認める理由はない」
昌幸は黙って聞いていた。
沼田は真田家が長い時間をかけて手に入れた土地である。昌幸自身も、北条氏邦と戦い、力だけではなく国衆を味方につけることで、ようやく手中に収めた。
だが、それも武田家という後ろ盾があってこそのものであった。
「沼田は召し上げる」
信長は淡々と告げた。
昌幸は一度目を伏せた。
惜しくないと言えば嘘になる。
しかし、ここでそれを口にしても意味はない。小県を安堵されたことを考えれば、真田家そのものが失われたわけではない。むしろ、これまで守ってきた本拠を残されたことこそ、大きな意味を持っていた。
「承知いたしました」
昌幸は答えた。
信長はその返事を聞くと、次の言葉を告げた。
「これより上野は滝川一益に任せる。関東管領として上野を治めさせるつもりだ」
昌幸は静かに顔を上げた。
「そなたも一益の下で働け」
「滝川殿の下に」
「そうだ。上野はこれから新たな支配を整えねばならぬ。武田の旧臣であり、上野の事情にも通じたそなたの力は使える」
昌幸は、しばらく何も言わなかった。
小県は残るが、沼田は失う。そしてこれからは、織田家の命を受けて滝川一益の下で働くことになる。武田家が滅びたことで、昌幸の立場もまた大きく変わった。これまでの昌幸は、武田家の家臣として自らの領地を守り、その力を広げてきた。
だが、これからは違う。
新たな主の下で、自らの家を残していかなければならない。
「承知いたしました」
昌幸は、もう一度頭を下げた。
その言葉を口にしたとき、昌幸の胸に浮かんだのは、先ほどまで見ていた織田の旗であった。
武田の旗は、もうない。
その代わりに、織田の旗がこの信濃にも立とうとしている。
そして、その旗の下で真田家は生きていく。
小県を守り、家臣を守り、家族を守るために。
昌幸は顔を上げた。
これが、新しい時代の始まりだった。




