第三十九話 織田への臣従(その1)
「織田だ」
昌幸がそう口にすると、部屋の中にしばし沈黙が流れた。
武田家を滅ぼした織田家。その名を、この場にいる誰もが忘れているはずはない。高遠城を攻め、新府を焼き、天目山へ勝頼を追い詰めたのも織田軍である。つい数日前まで武田家に仕えていた者たちにとって、その名は決して軽々しく口にできるものではなかった。
信幸が最初に口を開いた。
「父上、織田に仕えるということは、武田家を滅ぼした者の下に入るということです」
「そうだ」
昌幸は否定しない。
信幸は一度言葉を選ぶように間を置いてから、続けた。
「武田家に仕えていた者たちが、織田家に受け入れられるとは限りません。甲斐では、多くの者が織田の残党狩りによって殺されております。織田に従った者であっても、これからどのように扱われるのか分かりません。武田に仕えていたというだけで、疑いを持たれることもあるでしょう」
昌幸は黙って息子の顔を見た。
信幸が心配していることは、昌幸にも分かっていた。武田家が滅びたからといって、その家臣だったという事実まで消えるわけではない。むしろ織田にとっては、これまで敵であった者たちをこれからどう扱うのかという問題が残されている。
時勝も信幸の言葉を受けるように口を開いた。
「わしも同じことを考えておる。武田に仕えていたというだけで、織田から信用されるとは思えぬ。ましてや、先日まで敵として戦っていた者たち。どれほどこちらが忠節を示したところで、疑いの目を向けられることはあるだろう」
「小山田のこともありますからな」
盛清が静かに言った。
小山田信茂。武田家の重臣でありながら、勝頼が甲斐を落ち延びる際に進路を断ち、その後、織田方へ通じた男である。しかし信茂は織田家からその功を認められることなく、処刑された。
信幸はその名を聞いて、わずかに表情を曇らせた。
「武田家に仕えていた者が織田へ行けば、同じようになる可能性もあるのではありませんか」
「小山田と我らを同じにすることはできぬ」
昌幸はすぐに答えた。
「しかし、父上」
「小山田が処刑されたのは、武田家に仕えていたからではない」
昌幸の声は静かだった。
「勝頼公を裏切ったからだ」
信幸は黙った。
「小山田は武田家の重臣でありながら、主君が滅びようとする時にその主君を見捨てた。岩殿へ向かう勝頼公を受け入れず、織田方へ通じた。それが織田にとっても許されぬことであったからこそ、処刑されたのだ」
昌幸はそこで一度言葉を切った。
「わしらは違う。我らは武田家を裏切ってはおらぬ」
その言葉には、これまで武田家に仕えてきた者としての確かな自負があった。
「勝頼公が新府を出るまで、わしは武田家のために動いていた。高遠が落ち、新府が焼かれ、勝頼公が岩殿へ向かった後も、わしは勝手に敵へ走ったわけではない。武田家が滅びたから、その後の真田の道を考えているだけだ。武田家が滅んだ以上、これから真田がどこに立つのかを決めなければならぬ。それは裏切りとは違う」
信幸は父の言葉を聞きながら、黙って頷いた。
昌幸の言っていることは分かる。武田家が滅びた以上、真田家はもう武田家臣として生きることはできない。しかし、それと主君を裏切ることは同じではない。昌幸が武田家に対して抱いている恩義を、信幸も知っていた。
「織田から見ても、武田家が滅びた後に新たな主を求めることと、主君を裏切って敵に通じることは別の話だろう」
盛清が続けた。
「少なくとも、今のところ織田が真田を討つ理由はない。問題は、織田が我らをどう見るか。だな」
「そこなのだ」
昌幸が頷いた。
「だからこそ、いきなり臣従を決めるのではなく、まず向こうの考えを知る必要がある」
時勝は腕を組み、しばらく考えてから口を開いた。
「ならば、まずは臣従という形を急がず、我ら塩田家が朝臣として前右府《信長》殿へ挨拶をしてくる。という手もあるな」
「前右府へか」
昌幸が問い返す。
「うむ。武田家が滅びた以上、我らもこれまでのように一つの主家の下にいるわけではない。わしら塩田家は信濃国成立以来の帝・そして信濃国司の家来。まずは朝臣として、織田家へ礼を尽くす。その上で、向こうが我らをどう扱うつもりなのかを探る」
時勝は慎重に言葉を選びながら続けた。
「こちらから織田家に身を差し出すのではない。まずは挨拶をし、相手の考えを知る。そのうえで、塩田家として今後どうするのかを決める」
昌幸は黙って時勝を見た。
時勝の言うことには筋が通っていた。塩田家は真田家の家臣ではない。武田家の下で与力として協力してきた家ではあるが、武田家が滅びた今、塩田家もまた一つの独立した家として、これからの道を決めなければならない。
だからこそ、時勝は臣従を急いで決めることを避けようとしている。
「それならば、織田の出方も見られますな」
盛清が言った。
「そうだ」
「しかし、問題はそれだけではないでしょう」
信時が口を開いた。
皆の視線が、十四歳の信時へ向く。
信時は少しだけ緊張しながらも、言葉を続けた。
「織田に仕えることができたとして、上野沼田はどうするのですか。今北条は上野を席巻しつつあります。真田家が北上野《沼田》の要所を抑えていることは今後我らにとって大きな価値を持つでしょう」
信時は三人の父といってよい者たちを見つめながら言った。
昌幸の表情が変わる。
「武田家が滅びたことで、北条家は上野へさらに兵を入れてくるはずです。真田家が織田に従ったとしても、北条が上野を狙うことがすぐなくなるとは思えませぬ。織田が真田を守ってくれるとしても、すぐに上野まで兵を送れるとは限らないでしょう」
信時の言葉に、昌幸は黙って頷いた。
それは昌幸自身が最も考えていたことであった。
沼田をめぐって長く争ってきた北条家は、武田家という大きな壁が消えたことで、これまで以上に上野へ手を伸ばしやすくなっている。織田へ北条は臣従しているため、上野が織田領になってしまえば脅威ではなくなるが、織田家に臣従することができたとしても、織田の勢力がすぐに上野まで届くわけではない。真田家の領地を守るのは、結局のところ真田自身なのだ。
昌幸は信時の言葉を受け止めたあと、隣に座る源次郎へ目を向けた。
「源次郎も、何かあるか」
信繁はしばらく考えてから、静かに口を開いた。
「織田に仕えるとしても、北条との戦は避けられないのでしょうか」
「分からぬ」
昌幸は正直に答えた。
「織田と北条がどう動くのか、まだ誰にも分からぬ。だからこそ、今のうちに考えておかねばならぬ」
信繁は黙って頷いた。
源七郎が領地の問題を考え、源次郎が戦の行方を考えている。昌幸は二人の息子を見ながら、いつの間にか自分の知らないところで成長していたのだと感じた。
幼い頃に甲斐へ送った二人の息子と、塩田家で育った源七郎。三人とも、それぞれ違う場所で生きてきた。それでも今、同じ席に座り、真田家のこれからについて考えている。そのことに、昌幸はわずかな感慨を覚えた。
しかし、感傷に浸っている暇はない。
織田へ行くのか。北条をどうするのか。上杉との関係をどうするのか。そして、真田家だけではなく、塩田家と出浦家もまた、それぞれの家を守らなければならない。
昌幸はしばらく黙って考えた。
やがて顔を上げる。
「まだ決めるには早い」
時勝が頷いた。
「私もそう思います」
「織田へ臣従すること自体は、わしも考えておる。だが、臣従した後に何が起こるのかを考えずに決めるわけにはいかぬ」
昌幸は皆を見渡した。
「少し考える時間が欲しい」
誰も反対しなかった。
武田家が滅びてから、まだ幾日も経っていない。その間にも、世の中は動き続けている。甲斐では織田の支配が始まり、上野では北条が動き、北信濃では上杉がなお戦っている。
真田も、塩田も、出浦も、これからどこへ向かうのかを決めなければならない。
だが、その答えを今すぐ出す必要はなかった。
「今日はここまでにしよう」
昌幸がそう言うと、時勝と盛清が立ち上がった。信幸、源次郎、源七郎もそれに続く。
部屋から人が去っていく中、昌幸だけがその場に残った。
目の前には、まだ何も決まっていない未来が広がっている。
武田家が滅びたことで、真田家には初めて、自らの意思で主を選ぶ時が来ていた。その選択を誤れば、真田家そのものが消える。
昌幸は一人、静かに思案を続けていた。




