第三十八話 兄との再会
第二章より毎日1話、7時更新です。よろしくお願いします。
天正十年三月十三日、真田の郷に、出浦家から一人の使者が訪れた。
もたらされたのは、誰もが悟っていた報せであった。甲斐の武田勝頼が天目山において自害し、嫡男信勝もまた命を落とした。土屋昌恒ら僅かな家臣が最後まで主君に従って戦ったものの、その抵抗も織田軍を止めるには至らず、甲斐武田家は滅亡したという。
昌幸は使者の言葉を黙って聞いていた。
高遠城が落ち、新府城が炎上し、穴山梅雪までが武田家を離れた時点で、もはやこの日が遠くないことは分かっていた。勝頼が岩殿へ向かったことを知ったときにも、昌幸は武田家そのものが生き残る可能性をほとんど見ていなかった。それでも、長く仕えてきた主家が実際に滅びたと聞けば、胸の奥に残っていたものが静かに沈んでいく。
武田家は、昌幸にとって単なる主家ではなかった。父幸隆の代から真田家は武田家の庇護を受け、その力を借りながら信濃に根を張ってきた。昌幸自身も武田家の一員として戦場に立ち、武藤喜兵衛として過ごした年月も含めれば、その人生の大半を武田家とともに歩んできたのである。なにより武田信玄の薫陶を受けたからこそ今の自分があるという思いは昌幸が常に抱いているものであった。武田家が消えた以上、これから真田家がどこに立つのかは、誰かに決めてもらえることではない。自分たち自身で選ばなければならなくなった。
だが、そのことを考えるより先に、昌幸には確かめなければならないことがあった。
甲斐に残されていた家族である。
武田家の人質として置かれていた妻と母、娘のまつ、そして信幸と信繁の二人の息子たちは、武田家の滅亡間際によってようやく真田へ戻ることができることになった。甲斐では織田軍の進入によって各地が混乱し、武田家に仕えていた者たちも、それぞれの身を守るために動き始めている。昌幸は無事に帰ってくることを願いながらも、家族が真田の郷へ戻るまでは心から安堵することができなかった。
その日の昼頃、館の外から人の気配がした。
昌幸が外へ出ると、見慣れた顔がいくつも目に入った。長い人質生活を終えて戻ってきた家族である。
妻の姿を認めた瞬間、昌幸の表情から武将としての緊張がわずかに消えた。
「よう戻ったな」
妻はしばらく昌幸の顔を見つめていた。昌幸が真田家継承後は甲斐へ出仕すれば会い、会話を交わしていたが、武田家の衰退に応じてその時間は減っていた。甲斐に残される者と、上野や信濃を駆け回る者とでは、同じ武田家の危機を見ていても、その重さは決して同じではなかっただろう。それでも、今こうして互いの顔を見ることができたことだけは確かだった。
「こちらこそ。ようやく真田の郷に帰ってこられました」
妻がそう答えると、昌幸は小さく頷いた。
「苦労をかけた」
「あなたもでしょう」
それ以上の言葉は続かなかった。長い年月を経た夫婦にとって、再会の喜びを言葉だけで表す必要はなかったのかもしれない。
昌幸は妻の傍らに立つ二人の息子へ目を向けた。
信幸は、昌幸の記憶にある幼い姿から大きく成長していた。真っ直ぐに父を見つめるその目には、久しぶりに父と顔を合わせた喜びがありながらも、武家の男子として自分を律しようとするところが見える。人質として過ごした年月は、幼い子供をただ成長させただけではない。武田家の行く末を見つめながら暮らした経験は、信幸の中にも何かを残していた。
「父上、戻りました」
信幸が頭を下げる。
昌幸は息子の前まで歩み寄ると、その肩に手を置いた。
「大きくなったな」
「はい。父上も、お変わりなく」
「そうか。わしは変わっておらぬか」
昌幸が冗談めかして言うと、信幸は少しだけ笑った。
「変わられたようにも見えます」
「どちらなのだ」
「どちらも、でしょうか」
その答えに昌幸が笑う。長く離れていた親子の間に、ようやく昔のような空気が戻り始めていた。
その隣では、信繁が静かに父を見ていた。
兄の信幸ほどには言葉を発さず、昌幸が近づいても、ただじっとその顔を見つめている。昌幸もまた、無理に声をかけようとはしなかった。信繁がどのような思いで人質として甲斐にいたのか、昌幸にはすべてを知ることはできない。幼い息子を武田家へ差し出したのは、真田家を守るために必要なことであった。しかし、その選択によって子供たちが何を見てきたのかを考えれば、父親として胸に残るものがないわけではなかった。
「信繁」
ようやく昌幸が呼びかける。
「はい」
短い返事だった。
「戻ったな」
「はい」
信繁はそれだけ答えると、静かに頭を下げた。
昌幸はその姿を見て、わずかに目を細めた。言葉は少なくても、息子がここに戻ってきたことは十分に伝わっている。今はそれでよかった。
母も娘も無事に戻り、館には久しぶりに家族が揃った。武田家が滅びた直後であり、真田家のこれからを考えれば喜んでばかりもいられない。それでも、その日の昌幸にとっては、家族が生きて帰ってきたことが何よりも大きなことであった。
武田家の滅亡によって、昌幸は主家を失った。しかし同時に、長い間人質として離れていた家族を取り戻したのである。そのことを思えば、武田家の終焉という大きな時代の変化の中にも、昌幸自身にとって一つの区切りが生まれていた。
そして三月二六日、昌幸は再び塩田時勝、信時、出浦盛清を真田の館へ呼び寄せた。
今度の話は、武田家が滅びた後の自分たちの進む道についてであった。
この席には信幸と信繁も同席していた。
信時が二人の兄と顔を合わせるのも、この日が初めてである。
幼い頃に別れたとはいえ、信時はまだ赤子だった。信幸も信繁も、その頃の弟を覚えてはいない。信時にとっても、二人の兄は父昌幸や塩田家の者たちから聞かされてきた存在であり、顔を知る兄ではなかった。
血を分けた兄弟でありながら、三人の間には十四年近い空白がある。
信時は、二人の兄を前にして、どう接するべきか分からずにいた。
兄だということは知っている。
しかし、兄というものがどのような存在なのかは知らない。
そんな信時の様子を見ていた信幸が、先に口を開いた。
「お前が源七郎か」
「はい」
「俺は源三郎信幸だ。お前の兄になる」
あまりにも素直な言葉だったので、信時は一瞬だけ戸惑った。
「……はい。存じております」
「そうか」
信幸は信時をしばらく見つめたあと、穏やかに笑った。
「ならば、もう遠慮することはないな。俺たちは兄弟なのだから」
信時は返事をしようとしたが、すぐには言葉が出てこなかった。自分には兄がいる。そのことは幼い頃から知っていた。しかし、兄の顔を見たことも、その声を聞いたことも、兄弟として言葉を交わしたこともない。その兄が今、自分を弟として迎えようとしている。
「……兄上」
信時がそう呼ぶと、信幸は少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに頷いた。
「うむ。それでよい」
その様子を見ていた信繁は、しばらく黙っていた。信幸ほど人との距離を縮めることに積極的ではないのか、信時へ声をかけることもなく、ただ静かにその姿を見ている。
やがて信時と目が合うと、信繁は小さく頭を下げた。
「源次郎信繁だ」
「はい」
「源七郎の兄で、源三郎兄上の弟だ」
それだけであった。
しかし信時には、その短い言葉で十分だった。
「はい、兄上」
信繁はそれ以上何も言わなかったが、わずかに表情を和らげた。
信時は二人を見ながら、不思議な気持ちになっていた。これまで自分は、真田の兄たちを遠い存在として考えていた。自分とは別の場所で育ち、自分とは違う人生を歩んできた二人だと思っていたのである。ところが実際に会ってみれば、そこにいたのは自分と同じ父を持つ二人の少年であり、兄として自分を受け入れようとしてくれている。
戸惑いは消えない。それでも、嬉しかった。
ようやく会えた兄弟なのだと、信時は少しずつ実感し始めていた。
その三人を、昌幸は黙って見ていた。
信幸も信繁も、信時も、それぞれ違う場所で育ってきた。昌幸が知らない時間を二人の息子は過ごし、信時もまた昌幸の知らない時間を塩田家で過ごしてきた。それでも、三人の間には血が流れている。
これから先、どのような関係になっていくのかは分からない。
だが、今日がその始まりになることだけは、昌幸にも分かっていた。
「さて」
昌幸が声を発すると、穏やかだった空気が再び引き締まった。
「これからの話をしよう」
武田家は滅びた。
これまで真田家も塩田家も出浦家も、武田家という大きな主家の下に置かれていた。しかし、その武田家はもうない。これからは、それぞれが自分たちの家を守るために、誰と結び、誰に従うのかを決めなければならなかった。
最初に話題となったのは北条であった。
昌幸は以前から北条氏邦と繋がりを持っている。沼田をめぐって戦った相手ではあるが、戦場で敵となったからといって、その後の政治まで敵であり続けなければならないわけではない。武田家が滅びた今、東に勢力を持つ北条家を頼るという道は、十分に考えられるものであった。
「北条ならば、わしにも氏邦との縁がある。武田が滅びた今、向こうも我らを敵として扱い続ける理由は薄いだろう」
昌幸がそう述べると、時勝も頷いた。
「北条は東上野にも手を伸ばしておる。時勝殿から見ても、これから無視できる相手ではあるまい」
「だからこそ、味方につけるという考えもある」
昌幸の言葉に、盛清が静かに口を挟んだ。
「北条だけが道ではない」
「上杉か」
昌幸が先回りして言うと、盛清は頷いた。
「あぁ、北信濃での繋がりを考えれば、上杉を頼ることもできる。武田家が滅んだ今、北信濃で上杉家の力を借りることは決して考えられない話ではない」
「しかし、上杉も織田と戦っているのでは」
信幸が問うと、盛清はしばらく考えてから答えた。
「あぁ、今のままいけば上杉家もいずれ織田家に滅ぼされるだろうな」
部屋に沈黙が落ちた。
「それなら、なぜ上杉を口にされたのか」
時勝が尋ねる。
「選択肢の一つとしてです。我が家の伝手を使える以上、考えておくべき道ではありますからな。上杉を選ぶべきだと申し上げているのではありません」
盛清はあくまで淡々と答えた。
昌幸は腕を組み、黙って考え込んだ。
北には上杉、東には北条、そして甲斐を押さえた織田がいる。さらに徳川家も動いている。武田家という一つの大きな勢力が消えたことで、これまで武田領国によって抑えられていた諸勢力の境目が、一斉に動き始めていた。
どこか一つを選べば、それ以外の勢力との関係は悪くなる。
かといって、どこにも属さずに生き残れるほど、真田も塩田も大きな家ではない。
昌幸は、向かいに座る信幸、信繁、そして信時へ目を向けた。
三人とも、黙って話を聞いている。
つい数日前まで武田家の家臣として生きていた者たちが、今は自分たちの意思でこれからの道を決めなければならない。武田家の滅亡は、昌幸たちから主家を奪っただけではなかった。それぞれの家が、自らの力で立つことを強いる出来事でもあった。
昌幸はやがて、静かに口を開いた。
「北条も上杉も、捨てるには惜しい道だ。だが、もう一つある」
その言葉に、皆の視線が昌幸へ集まった。
「織田だ」
武田家を滅ぼした者の名が、部屋に落ちた。
それは、誰にとっても容易に口にできる名ではなかった。
しかし昌幸は、その名から目を逸らさなかった。
武田家が滅びた今、真田家も、塩田家も、出浦家も、これまでとは違う時代を生きなければならない。その最初の選択を、彼らはこれから迫られることになるのであった。
注:昌幸の子どもたちについて
長女:村松殿(作中では「まつ」真田丸準拠)
昌幸の長女、甲斐郡内領主小山田家の分家である弾正家当主小山田茂誠に嫁ぐ。信幸・信繫の兄弟とも仲が良く、ある意味真田家姉弟の支柱。
長男:源三郎信幸(史実では関ヶ原以降信之と名乗る)
父昌幸が安房守の名乗りを許された時期と同時期に元服。叔父信綱の娘:清音院殿を妻としている。史実では記録に残る中で常勝無敗の名将。また長寿であることでも有名。信濃上田藩・信濃松代藩初代藩主、将軍家綱から「天下の飾り」と称えられた。
次男:源次郎信繁(真田幸村の名が有名)
幼少期から多くの時期を人質として過ごす。そのため真田家の本貫である信濃小県で過ごした時間はほとんどなかったと考えられている。大坂の陣での徳川勢に対する戦いぶりから「日の本一の兵」と称される。後世の軍記物・講談などで英雄像が確立され、真田幸村の名で全国に名が知れ渡る。




