第四話 養子
数日後、源七郎は再び真田氏館の一室へ呼ばれていた。
前回と同じ座敷であるにもかかわらず、部屋の空気はどこか違っていた。上座には昌幸が座し、その傍らには盛清の姿もある。そして、昌幸の向かいには見慣れぬ一人の武士が静かに座っていた。
その男を一目見た瞬間、源七郎は思わず足を止めた。
年の頃は五十を過ぎたばかりであろう。幾度となく戦場を駆け抜けてきたのであろう鍛え抜かれた身体は年齢を感じさせず、日に焼けた顔には刀傷や矢傷が幾筋も刻まれている。太く節くれ立った腕は鎧を脱いだ今なお丸太のように逞しく、その厳つい容貌と鋭い眼光は、黙して座しているだけで一廉の武将であることを物語っていた。
信濃先方衆に属する真田家与力、その中でも小県随一の騎馬集団として知られる塩田衆の棟梁。
塩田信濃介時勝
若き頃は北信濃 村上家と熾烈な戦いを繰り広げ、武田家傘下となってからは川中島を始めとした数多の戦場を生き残ってきた歴戦の武人である。その一方で、生島足島神社では氏子総代を務め、別所温泉の管理にも尽力するなど、武のみならず塩田平を束ねる領主としても人々の信望を集める人物であった。
もっとも、その厳めしい顔立ちゆえ、幼子には泣かれることも少なくなかったという。
源七郎も例外ではない。恐ろしいというほどではないが、その迫力に気圧され、自然と背筋が伸びていた。
「来なさい、源七郎」
昌幸に促され、源七郎は静かに座へ進み出る。
時勝は腕を組んだまま、その鋭い視線で何も言わず源七郎を見つめていた。まるで戦場で敵を見定めるかのような眼差しである。
やがて時勝は低く口を開いた。
「近う寄れ」
源七郎は一瞬だけ昌幸の顔を窺う。昌幸が小さく頷くのを見て、恐る恐る時勝の前へ進み出た。時勝は立ち上がることなく源七郎の肩へ大きな手を置く。
その掌は分厚く、長年槍を握り続けた者だけが持つ硬さを帯びていた。
「ほう……」
肩を押し、腕を取り、手の平を返させる。まるで馬でも見るかのような様子に、源七郎は何をされているのか分からず戸惑うばかりであった。
「七つにしては骨が太い」
時勝は感心したように頷く。
「飯は食うか」
「……はい」
「好き嫌いは」
「ありません」
「山は走るか」
「毎日走っております」
「馬は」
「まだ乗ったことはありません」
その返事を聞いた時勝は、初めて口元を緩めた。
「そうか」
笑った、と言うにはあまりにも僅かな変化だった。しかし、その厳つい顔が少し和らいだだけで、部屋の空気は幾分柔らかくなる。
「主水佐殿のところで育ったと聞いた」
「はい」
「では山歩きは得意であろう」
「藤蔵には負けません」
思わず口をついた言葉だった。
時勝は目を丸くし、次の瞬間には腹の底から笑い声を上げた。
「はっはっはっ、それでよい。武士たるもの、それくらい負けず嫌いでなくてはならん」
その豪快な笑い声につられ、源七郎の緊張も少しだけほぐれていく。
時勝は源七郎から静かに手を離すと、再び上座へ腰を下ろした。しばらく腕を組んだまま考え込んでいたが、やがてゆっくりと昌幸へ視線を向ける。
「喜兵衛殿」
「はっ」
「……この子は、実によい目をしておる」
厳つい顔に、わずかに笑みが浮かぶ。
「山で育った子らしい足腰をしておるし、物怖じもせぬ。何より、人の目を真っ直ぐ見返す強さがある」
そこで一度言葉を切る。
その眼差しは自然と源七郎へ戻っていた。
「時信とは違う」
ぽつりと漏れたその一言には、長篠で散った嫡男を思う父の寂しさが滲んでいた。
「……されど、違うからこそよい。この子ならば塩田を継ぐにふさわしい者になろう」
その言葉を聞いた昌幸は姿勢を正した。今こそ、この日のために用意してきた願いを口にする時であった。
「時勝殿、不躾な願いとは存じますが、源七郎を御家の養子として迎えていただけませぬか」
座敷は静まり返る。
源七郎にはその意味がまだ分からない、いや分かりたくないというのが正しいだろうか。
時勝は黙って昌幸を見つめていた。
若き当主が頭を下げ続ける姿には、一人の父としての思いだけではない、一家の命運を背負う武将としての覚悟が見え隠れしていた。やがて時勝は静かに息を吐く。
「顔を上げられよ」
昌幸はゆっくりと顔を上げた。
「喜兵衛殿、お主の考えは分かっておる」
その一言に、昌幸の表情がわずかに動く。
「わしも時信を失った。家を残さねばならぬ気持ちは痛いほど分かる」
時勝は源七郎へ目を向ける。
「この子を、塩田四郎時勝が嫡子として迎えよう」
源七郎は驚いたように時勝を見つめた。
厳つい武人は、今度は先ほどとは違う穏やかな眼差しで源七郎を見返す。
「安心せよ。塩田へ来たからといって、お主から真田の血が失われるわけではない」
そう言うと、時勝は力強く頷いた。
「必ず一人前の武士に育て上げてみせよう」
昌幸は再び深々と頭を下げる。
「……かたじけなく存じます」
時勝はゆっくりと立ち上がると、源七郎の前まで歩み寄った。大きな手を源七郎の肩へ置き、その厳つい顔に穏やかな笑みを浮かべる。
「源七郎、今日から急に父が変わるわけではない。まだおぬしには分からぬことも多かろう。されど案ずるな。塩田へ参ったならば、武芸も馬も学問も、わしが責任を持って教えよう。時信に教えたものは、一つ残らずおぬしへ授ける」
源七郎は黙って時勝を見上げる。
時勝は続けた。
「塩田は山も川も豊かな土地じゃ。別所の湯もある。おぬしが来れば領内も案内してやろう。家中の者らも皆、おぬしを迎える支度を始めるはずだ」
そして昌幸へ向き直る。
「喜兵衛殿、この話、ありがたくお受けいたそう。吉日を選び、あらためて迎えの者を遣わす。それまでは親子水入らずで過ごされるがよい」
昌幸は深く頭を下げた。
「時勝殿、この御恩、生涯忘れませぬ」
「恩などではない。わしも家を繋ぎ、おぬしも家を繋ぐ。ただそれだけのことよ」
豪快に笑った時勝は盛清と共に座敷を後にした。
障子が閉まる音が静かに響き、広い座敷には昌幸と源七郎だけが残された。先ほどまでとは違う静けさが流れる。
源七郎は膝の上で小さく拳を握ったまま、しばらく口を開かなかった。やがて、意を決したように昌幸を見る。
「父上」
「どうした」
「……なぜ、私は家を出なければならないのですか」
その問いは幼子らしく真っ直ぐだった。責めるでもなく、恨むでもなく、ただ理由を知りたいという思いだけが込められている。
昌幸はしばらく答えなかった。
庭を渡る風が障子をかすかに鳴らす。
その音を聞きながら、昌幸はゆっくりと言葉を選んだ。
「源七郎、おぬしはまだ幼い。今の話をすべて理解するのは難しかろう。それでも一つだけ覚えていてほしい」
昌幸は源七郎の方へ身体を向ける。
「これは、おぬしが嫌いだからでも、邪魔だからでもない」
源七郎は目を見開く。
「真田という家を守るためだ」
昌幸は静かに続ける。
「長篠で兄上も昌輝兄上も討たれた。今の真田は少し道を違えればたちまち崩れてしまうほど危うい」
その声音には当主としての重責が滲んでいた。
「塩田殿は、小県でも指折りの武士じゃ。あのお方が真田と固く結ばれれば、多くの者が安心する。家中もまとまり、この先どれほど世が乱れようとも、真田は生き残ることができる」
源七郎は黙って聞いている、まだ理解したくなかった。それでも父は真剣に話している。
「だから……私なのですか」
昌幸は静かに頷いた。
「そうだ」
短い返事だった。
源七郎は俯く。
自分が役に立てるなら嬉しい。
けれど父と暮らせないことは寂しい。
幼い胸の中で二つの思いが入り混じり、どう言葉にすればよいのか分からなかった。その様子を見た昌幸は小さく息を吐く。
「源七郎」
優しく名を呼ぶ。
「一つだけ、おぬしに嘘をつきたくないことがある」
源七郎は顔を上げた、昌幸は少しだけ笑う。しかしその笑みはどこか寂しげだった。
「本当はな」
そこで言葉が途切れる。
昌幸は一度視線を落とし、もう一度源七郎を見た。
「本当は、おぬしを手放したくはない」
その一言は、真田家当主ではなく、一人の父親としての言葉だった。
「六年前、おぬしを盛清へ預けた時もそうだった。今日、おぬしを塩田へ送り出すと決めた時もそうだ。できることなら、この館で兄たちと一緒に育ててやりたいと思っておる」
昌幸は源七郎の頭へそっと手を置く。その手は武将らしく大きく、少し荒れていた。
「だが、人の上に立つ者は、ときに一番大切なものを家のために差し出さねばならぬことがある」
昌幸は苦く笑う。
「それが父であるわしの役目だ」
源七郎は何も言えなかった、昌幸は源七郎の頭から静かに手を離すと、床の間へ目を向けた。そこには、黒地に白く染め抜かれた六つの銭が掛けられている。
真田の家紋の一つ、六文銭である。
「源七郎、あれが何と呼ばれるか知っておるか」
源七郎も床の間を見上げる。
「……六文銭にございます」
「そうだ。では、その意味は」
源七郎は首を横に振った。
昌幸は静かに立ち上がると、床の間の前まで歩み寄った。しばらく六文銭を見つめた後、ゆっくりと語り始める。
「人は死ねば三途の川を渡るという。その渡し賃が六文であることから、この紋は六文銭と呼ばれておる」
源七郎は黙って耳を傾ける。
「故に世の人は、六文銭は『死を恐れぬ覚悟』を表す紋だと言う。無論、それも間違いではない」
昌幸はそこで一度言葉を切った、静かな眼差しのまま振り返る。
「だが、わしはそれだけではないと思うておる」
源七郎は父を見つめる。
「三途の川を渡る者は、渡し賃を渡してから初めて向こう岸へ渡れる。ならば、その六文銭は死ぬ間際になって慌てて探すものではあるまい」
昌幸の声は穏やかだった。
「生きているうちから備え、いつ何が起ころうとも慌てぬよう、日頃より支度を整えておく。その積み重ねがあってこそ、人は最後まで戦い抜くことができる」
源七郎は小さく頷く、昌幸は続けた。
「戦も同じだ、一度の勝ち負けで終わるものではない。幾度敗れようと、幾度苦境に立たされようと、そのたびに知恵を巡らせ、備えを怠らず、最後まで諦めずに道を切り開く。それが真田という家が代々守ってきた戦い方だ」
六文銭へ視線を戻す。
「死を恐れぬことだけが武士ではない。生き抜くために備え、どれほどの困難に遭おうとも最後まで諦めず挑み続けることこそ、真田の心である」
静かな声だった。しかし、その一言一言は幼い源七郎の胸へ深く刻まれていく。昌幸は源七郎の前まで歩み寄ると、その小さな肩へ手を置いた。
「やがておぬしは塩田の人間となろう。名も変わるであろう。だが、それでも流れる血までは変わらぬ」
昌幸はまっすぐ息子を見つめる。
「どこへ行こうと、この心だけは決して忘れるな」
源七郎は父の眼差しを見返した、まだその言葉のすべてを理解できたわけではない。
それでも、その一つ一つが、自分の人生を左右するほど大切なものなのだということだけは、不思議なほどはっきりと感じられた。
「はい、父上」
幼い返事に、昌幸は静かに頷く。
その瞳には、ようやく父らしい柔らかな笑みが宿っていた。
注:時信は時勝の嫡男、塩田二郎時信のこと。長篠の戦いにて真田信綱とともに突撃し討死している。




