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真田異子伝  作者: 海野快斗
第一章 滅亡 初節 喜兵衛の三男

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第三話 再会

天正三年六月。長篠の敗報が信濃へ届いてから程なくして、源七郎は出浦盛清に伴われ、初めて信濃小県郡にある真田の郷の地を踏んだ。


武田家の先方衆として名を馳せた真田氏の本拠は、甲斐の壮麗な城館と比べれば決して大きなものではない。しかし、大沢川が天然の堀となり松尾城や砥石城を支城とするこの館は代々この地に根を張ってきた豪族らしい堅実さを備え、華美な装飾こそないものの、戦乱の世を生き抜いてきた一族の歴史を静かに物語っていた。


館へ至る道すがら、源七郎は幾度となく辺りを見回した。盛清から「ここが真田の郷だ」と聞かされても、不思議なほど懐かしさは湧いてこない。物心ついた頃から育ったのは忍びの里であり、谷を渡る風の音も、山肌を縫う獣道も、朝夕に響く鳥の声も、彼にとっての故郷はあちらであった。


それでも、この館のどこかに父がいる。


その事実だけが、七歳の源七郎の胸を落ち着かなくさせていた。


やがて盛清に導かれ、館の一室へ通される。座敷には誰の姿もなく、磨き上げられた板張りの廊下から初夏の日差しが差し込み、庭では風に揺れる青葉がさらさらと音を立てていた。


源七郎は膝を揃えて座るものの、落ち着かない様子で何度も障子へ目を向ける。その姿を見た盛清は小さく笑みを浮かべながらも、何も声は掛けなかった。六年という歳月は、親子という絆さえ容易に遠ざけてしまう。今ここで掛けるべき言葉は、盛清には見つからなかったのである。


やがて廊下の向こうから足音が聞こえ、障子が静かに開かれた。


入ってきた男はまだ三十歳にも満たぬ若武者であったが、その双肩には真田家という一族の命運が重くのしかかっているように見えた。精悍な面立ちには長篠の敗戦以来ほとんど休む暇もなく家中の立て直しに奔走してきた疲労が色濃く残り、それでもなお、その眼差しだけは少しも揺らいでいない。


武藤喜兵衛


いや、今は真田喜兵衛昌幸


源七郎はその姿を見上げたが、父であるという実感は湧かなかった。幼い頃に別れた記憶などとうに薄れ、目の前に立つのはどこか厳格な武将でしかない。一方の昌幸もまた、六年前には腕に抱えられるほど小さかった我が子が、自分を真っ直ぐ見つめ返す少年へと成長していることに驚きを覚えながら、父として最初に何を語るべきか分からず、しばし言葉を失っていた。


部屋には重苦しい静寂だけが流れる。


その沈黙を破ったのは盛清であった。


「喜兵衛殿、お預かりしておりました源七郎、つつがなくお連れいたした」


 昌幸は静かに頷くと、ゆっくりと源七郎へ歩み寄った。


「……久しいな」


その一言には、六年という歳月の重みが込められていた。


源七郎も慌てて頭を下げる。


「源七郎にございます」


それ以上の言葉は続かない。


互いに相手を見つめながらも、親子として交わすべき言葉を見つけられず、再び部屋は静まり返った。


盛清はそんな二人を見比べると、この場に自分がいてはかえって話しづらかろうと考え、小さく一礼して部屋を辞する。障子が閉まる音だけが静かに響き、広い座敷には昌幸と源七郎、ただ二人だけが残された。


 い沈黙の後、ようやく昌幸は静かに口を開く。


「今日、おぬしをここへ呼んだのは、父子として積もる話をするため……と言いたいところではあるが、残念ながらそうではない」


その声には、当主としての厳しさと父としての後ろめたさが入り混じっていた。


「おぬしに、新たな家へ入ってもらいたい」


源七郎は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。


ようやく父と暮らせるのだと思っていた幼い期待は、その一言によってあまりにもあっさりと打ち砕かれたのである。


「新たな……家、ですか」


昌幸は頷き、視線を庭へ移した。


「塩田衆(しおだしゅう)の名は聞いたことがあろう、小県において最大の騎馬を扱う者たちだ。その棟梁である塩田時勝(しおだときかつ)殿は長篠において嫡男を失い、今は跡継ぎがおらぬ」


そして再び源七郎を見つめる。


「その塩田家の養子となり、家を継いでもらいたいと考えている」

 

源七郎はしばらく昌幸の顔を見つめていた。


塩田という名も、時勝という武将も知らない。養子という言葉の意味こそ理解していたが、それが自らの身に降りかかることなど考えたこともなかった。


ようやく父と暮らせる。


その淡い期待だけを胸に、この真田の郷まで来たのである。


それが再び別の家へ行けと言われても、幼い源七郎には到底飲み込める話ではなかった。


「父上は……」


言葉を探すように口を開く。


「私は、また父上と離れるのですか」


その問いに、昌幸は答えられなかった。


真田家当主としてであれば、幾らでも理由を並べることができる。塩田家は真田家与力の中でも有力な一族であり、その家督を継がせることが真田家のためになることも、家中をまとめるうえで欠かせぬ一手であることも説明できる。


しかし、それを目の前の六歳の我が子へ語ったところで何になろう。


昌幸は拳を膝の上で静かに握り締めると、小さく息を吐いた。


「……すまぬ、話を急ぎすぎた」


源七郎は黙ったまま俯いている。


「詳しいことは、また折を見て話そう。今日は疲れたであろう、まずは館でゆるりと休むがよい」


そう言うのが精一杯であった。


昌幸は立ち上がると、障子の外へ控えていた小姓を呼び、源七郎を客間へ案内するよう命じる。


源七郎は一度だけ昌幸の方を振り返ったが、結局何も言わず、小姓の後について静かに部屋を後にした。


障子が閉まると、部屋には再び静寂が戻る。昌幸はしばらく庭を眺めていたが、やがて廊下の方へ向かって声を掛けた。


「主水佐殿、入られよ」


障子が開き、盛清が静かに一礼して座へ入る。先ほどまでの穏やかな表情は消え、武田家三ツ者頭領としての鋭い眼差しがそこにはあった。


「……あのような話で良かったのですかな」


盛清の問いに、昌幸は自嘲気味に笑った。


「良いも悪いもあるまい。あれ以上話したところで、あの子には酷というものだ」


そう言うと昌幸は膝を崩し、疲れ切ったように柱へ背を預ける。


長篠以来、昌幸には休む暇など一日としてなかった。


当主信綱、そして副将として家中を支えていた昌輝を一度に失い、急遽家督を継いだものの、家中には動揺が渦巻いていた。真田はあくまで武田家の一先方衆に過ぎず、その勢力は周囲の国衆との均衡の上に成り立っている。ひとたび求心力を失えば、与力や地侍は離れ、真田家そのものが瓦解しかねない。


「塩田時勝殿は、まだ何も申してはおられぬ」


盛清が静かに言う。


「されど、嫡男を失われた今、家中では後継を案ずる声も少なくない」


「ああ」


 昌幸は短く頷いた。


「だからこそ、今しかない」


その声には、迷いではなく焦燥が滲んでいた。


「塩田衆は、小県でも屈指の騎馬を擁する一党だ。元をたどれば信濃国司の臣下として朝廷の牧場を任された者たち。戦となれば常に先陣を務め、土地の者からの信望も厚い。あの家が真田へ一層近づけば、家中はまとまる」


そこまで言って昌幸は言葉を切る。


しばらく庭の木々を見つめた後、静かに続けた。


「……いや、まとめねばならぬのだ」


その一言には、若き当主の胸中がそのまま表れていた。


「武田家は今、大きく傾いている。御屋形様は再び立ち上がろうとしておられるが、もはや以前のようにはいくまい。ならば、その時が来ても真田だけは生き残らねばならぬ」


盛清は黙って聞いていた。


目の前の男は、かつて知る武藤喜兵衛ではない。


一家の存亡をその双肩に背負う、真田昌幸であった。


「そのためには、塩田家には真田の柱となってもらわねば」


昌幸はゆっくりと顔を上げる。


「その役目を負わせるには、源七郎しかおらぬ」


盛清はしばらく沈黙した後、小さく頷いた。


「……親としては、酷な決断だな」


昌幸は苦く笑う。


「あの子の親になる前に、わしは真田の当主となってしまった」


注:塩田家・塩田衆は架空の一族ですが、小県に朝廷の牧場があったというのは事実のようです。

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