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真田異子伝  作者: 海野快斗
第一章 滅亡 終節 甲州征伐

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第三十七話 天目山

天正十年三月。


武田勝頼は、岩殿城を目指していた。


新府を捨ててから、すでに何日も過ぎている。かつて一万を超えていた武田の軍勢は、逃亡する者が相次ぐにつれて見る間に数を減らしていた。主君に最後まで従おうとする者もいれば、家族や領地を守るために離れる者もいる。勝頼は、その一人一人を引き留めることはしなかった。


引き留めるだけの力が、もう自分には残されていなかった。


それでも、勝頼は歩き続けた。


岩殿城へ入ることができれば、まだ戦うことができるかもしれない。小山田信茂の領地である郡内には、武田家に従ってきた者たちもいる。岩殿の堅城に籠もり、兵を集め、少しでも時間を稼ぐ。それが、最後に残された道だった。


だが、その道さえも、すでに閉ざされていた。


駒飼に滞在していた勝頼のもとへ、小山田信茂が岩殿へ迎え入れるどころか、郡内への道を閉ざしたとの報せが届いた。


勝頼は、しばらく何も言わなかった。


「……信茂が」


それだけを口にした。


小山田は武田家の譜代ではない。しかし、長く武田家に従い、郡内を支配してきた有力国衆である。何より、勝頼自身が岩殿へ向かうことを決めたのは、その小山田を頼ったからだった。


その男が、道を閉ざした。


裏切りである。


勝頼は怒鳴らなかった。刀に手をかけることもなかった。ただ目を閉じ、静かに息を吐いた。


これで、岩殿へは行けない。


勝頼一行は引き返すしかなかった。


その頃には、従う者の数は百を切っていた。武田家の最後を見届けようとする者だけが、わずかに残っている。


かつてならば、勝頼の周囲には数千、数万の兵がいた。


今は、百にも満たない。


それでも勝頼は歩いた。


どこへ行くのか、明確な答えがあったわけではない。ただ、甲斐の山々を見渡したとき、その先にある天目山が勝頼の心に浮かんだ。


天目山。


そこは、武田家にとって決して無縁の場所ではなかった。


室町時代、武田家の当主であった武田信満は、上杉禅秀の乱に巻き込まれ、最後にはこの天目山で自害したと伝えられている。


武田家の歴史は、長かった。


甲斐に根を張り、幾度となく危機を迎えながらも、その家は続いてきた。先祖たちは戦い、敗れ、時には命を捨てながら、それでも家を繋いできた。その長い歴史の果てに、自分もまた同じ山を目指そうとしている。


勝頼は天目山を見つめた。


自分もまた、そこへ向かうことになるのかもしれない。


だが、その思いを口にすることはなかった。


まだ生きている。


まだ歩ける。


ならば、歩かなければならない。


勝頼一行は天目山へ向かった。


山あいの道を進むにつれ、従う者はさらに減っていった。疲労の色は濃く、馬も人も限界に近づいている。それでも、土屋昌恒、小宮山友晴、阿部勝宝ら、最後まで勝頼の側を離れない者たちは残っていた。


そこには、もう武田家の大軍はなかった。


あるのは、主君のそばに残ることを選んだ者たちだけだった。


天目山の麓、田野に着いた頃には、勝頼もまた、これが最後になるかもしれないと感じていた。


夜が明ける。


甲斐の山々には、まだまだ冬を感じさせる雪が積もっている。


冷たい空気の中、織田軍の姿が見えた。


滝川一益らの軍勢である。


数の差はあまりにも大きかった。


勝頼は、残った者たちを見渡した。逃げる者はいない。誰もが、もう分かっている。ここが最後になるのだと。


「来るぞ」


土屋昌恒が静かに言った。


勝頼は頷いた。


「迎え撃て」


織田軍が押し寄せてくる。


矢が飛び、鉄砲の音が山間に響いた。武田方は少ない兵でそれを受け止め、何度も敵を押し返した。もはや勝つための戦ではない。それでも、武田の兵は戦った。


土屋昌恒は敵中へ斬り込み、激しく刀を振るった。追い迫る敵を食い止め、勝頼のもとへ届かせまいと一人で戦い続ける。その姿は後世に「片手千人斬り」と語り継がれるほどの壮絶なものとなった。


小宮山友晴もまた戦った。


かつて勝頼の側から遠ざけられていた男である。それでも最後の時には主君のもとへ駆けつけ、武田家のために最後まで刀を振るった。


阿部勝宝も敵陣へ切り込み、戦場にその身を置いた。


武田家が滅びようとしている。


それでも、この男たちは離れなかった。


その姿を、勝頼は見ていた。


そして、ふと前方へ目を向けた。


そこには信勝がいた。


十六歳。


まだ若い。


それでも信勝は敵陣へ斬り込み、周囲が目を奪われるほどの勢いで戦っていた。若武者らしい華やかさと、武田家嫡子としての覚悟が、その姿にはあった。


勝頼は、しばらく息子を見つめていた。


自分がこの子に残せるものは、もうない。


領国もない。


城もない。


兵もない。


残っているのは、武田という名だけだった。


それでも、その名を背負って信勝は戦っている。


勝頼は静かに目を伏せた。


戦場では、時間だけが過ぎていく。


敵を押し返しても、また次の兵が来る。武田方の兵は、一人、また一人と倒れていく。それでも土屋昌恒らは戦い続けた。僅かな手勢で織田軍を相手に奮戦し、その抵抗は容易には崩れなかった。


やがて勝頼は悟った。


もう逃げる必要もないのだと。


天目山が近い。


先祖の武田信満もまた、この地で自ら命を絶った。


長い年月を経て、同じ武田の血を引く自分もまた、この場所へ来た。


不思議なものだった。


武田家が始まった場所ではない。


武田家が最も栄えた場所でもない。


それでも、滅びの時になると、この山が自分を待っていたように思えた。


勝頼は、これまで歩んできた道を振り返った。


父・信玄の跡を継いだ。


甲斐を守り、信濃を守り、上野をめぐって戦い、織田や徳川と幾度も刃を交えた。長篠で大きな敗北を喫してからも、武田家を立て直そうと戦い続けた。


だが、力及ばなかった。


それでも、最後まで武田を捨てることだけはしなかった。


勝頼は、もう一度天目山を見た。


その山は何も語らない。


ただ、そこにあった。


勝頼は信勝を呼んだ。


「信勝」


「はい」


「こちらへ来い」


信勝が近づく。


勝頼は息子の顔を見た。


幼い頃の面影が残っている。


だが、もう子供ではない。


十六歳の若武者だった。


「これまで、よく戦った」


「父上も……」


信勝はそこで言葉を止めた。


その顔には、涙があった。


勝頼は何も言わなかった。


ただ、息子の肩に手を置いた。


武田家の当主として、自分は何を残せたのだろう。


父・信玄が築いたものを守り切れなかった。領国を失い、多くの家臣を失い、最後にはこのような場所まで追い詰められた。


それでも、勝頼は自分の生涯を恥じてはいなかった。


戦い続けた。


何度も敗れた。


それでも、最後まで武田を捨てなかった。


そして今も、武田の名を背負っている。


勝頼は、信勝に武田家に伝わる楯無の鎧を着せた。


それは、武田家が長く受け継いできたものだった。


城も領地も失った。


しかし、最後の時まで残ったものがある。


武田の名。


武田の血。


そして、ここまで共に歩いてきた者たち。


勝頼は天目山を見た。


山は静かだった。


さっきまで激しい戦いが続いていたとは思えないほど、遠くの山々は何も変わらずそこにある。


武田家が滅びても、山は残る。


川も流れ続ける。


人々の暮らしも、やがて新しい主を迎えることになる。


歴史は、武田家だけを待ってはくれない。


勝頼は、ふと空を見上げた。


そこに父の姿があるわけではない。


それでも、最後の時を迎えようとする今になって、遠い昔に見た父の背中が脳裏に浮かんだ。


幼い自分が見上げていた、大きな背中。


甲斐を治め、戦国の世を生き抜いた男。


その父から受け継いだものを、自分は守り切ることができなかった。


それでも、ここまで歩いてきた。


勝頼は静かに目を閉じた。


「父上……」


それ以上の言葉は、出なかった。


天正十年三月十一日、巳の刻。


武田勝頼は、嫡子信勝、北条夫人とともに、天目山麓の田野において自害した。


勝頼、三十七歳。


信勝、十六歳。


長く甲斐を治めてきた武田家は、ここに滅亡した。


その最期は、かつての武田家からすればあまりにも小さなものだった。


大軍もない。


城もない。


領国もない。


ただ、最後まで主君のそばに残った者たちがいた。


そして、最後まで武田の名を背負った男がいた。


武田勝頼は、最後まで武田勝頼だった。


それから幾百年が過ぎても、甲斐の山々は変わらない。

 

天目山も、田野も、そこを流れる川も、春になればまた草木を茂らせる。


ただ、その山を見上げる者の心には、一つの時代が終わったことだけが残る。


武田家は滅びた。


だが、武田に仕えていた者たちまで、すべてが滅びたわけではない。


真田も。


塩田も。


それぞれの家が、それぞれの場所で生き残ろうとしていた。


そして、戦国の世はなお続いていく。



天正十年 三月十一日 源氏の名門 甲斐武田家滅亡と、歴史書は記す。

以上で第一章「滅亡」完結となります。

本日21時に第一章の登場人物紹介を投稿いたします、また同時に活動報告の方に第一章あとがき(カクヨム版では第一章の終わりに)も掲載しますのでよろしければお読みください。


明日以降第二章の投稿を開始しますが、カクヨム版とのペースを再度揃えるために毎日7時投稿に変更致します。21時の投稿はございませんのでご了承ください。

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