第三十六話 滅びゆく主家
高遠城が落ち、新府が焼けた。
天正十年三月の甲斐では、武田家が築いてきたものが、まるで雪解けの水に押し流されるように失われていた。勝頼は岩殿城を目指して甲斐を東へ向かっている。だが、その先に何が待っているのかを知る者はいない。
真田昌幸は、すでに武田家そのものを救うことができるとは考えていなかった。
だからこそ、これから先のことを決めなければならなかった。
昌幸は真田の郷へ戻ると、塩田家当主の塩田時勝と、出浦盛清の二人を呼び寄せた。武田家に仕えるという一点だけで結ばれていた時代が終わろうとしている今、これから真田がどう動くのかを自分一人で決めるわけにはいかない。
時勝は長年、塩田平を治めてきた。盛清は武田家の内外に広がる情報を扱ってきた。どちらも、真田家がこれから生き残るためには欠かすことのできない存在である。
そして時勝は、この話し合いに信時を連れてきた。
元服を終えた信時は、もはや幼子ではない。塩田家の養子となり、いずれは時勝の跡を継いで塩田の地を治める身である。これから先の塩田家がどのような道を選ぶのかを知っておく必要があった。
真田の屋敷に姿を現した信時を見た昌幸は、しばらく何も言わなかった。
幼い頃に別れた息子の姿を最後に見たのは、まだ六つの頃だった。あの頃は、出浦の手元から戻ってきた小さな子供を前にして、昌幸自身も何を話せばよいのか分からなかった。
それから八年。
目の前にいるのは、十四の若武者だった。
背丈も伸び、顔つきにも幼さが薄れている。塩田家で身につけた馬術のためか身体には芯があり、立っている姿にも、以前にはなかった落ち着きがあった。
「……大きくなったな、信時」
昌幸がそう言うと、信時は少し照れたように頭を下げた。
「お久しゅうございます、父上」
その一言に、昌幸の表情がわずかに緩んだ。
父と呼ばれることが、昌幸には嬉しかった。
だが、今はそれを喜んでばかりもいられない。信時もまた、それを察していた。久しぶりに会った父と、もっと話をしたいという思いはある。それでも今日ここへ来たのが、ただ親子が顔を合わせるためではないことも分かっていた。
四人が座につくと、昌幸はまず武田家の現状を語った。
高遠城は落ちた。仁科信盛は討死した。穴山梅雪は武田家を裏切り、新府もすでに焼け落ちている。勝頼は岩殿へ向かったが、その道が安全だという保証はない。
昌幸の言葉を、信時は黙って聞いていた。
これまでにも武田家が危ういことは知っていた。織田、徳川、北条の三方から攻められ、木曽義昌をはじめとして武田家を離れる者が相次いでいることも知っている。
しかし、父の口から一つ一つ聞かされると、その意味は違っていた。
武田家は、敗れている。
ただ敗れているのではない。
滅びようとしている。
「……では、武田家は」
信時はそこで言葉を止めた。
昌幸が続きを待つように見つめる。
「もう、立て直すことは難しいのでございますか」
昌幸はすぐには答えなかった。
父としてならば、息子に希望を持たせたいと思う。だが、真田家当主としてここで都合のよい言葉を口にすることはできなかった。
「その可能性を、わしはもう大きくは見ておらぬ」
信時の表情が固まった。
「勝頼様が岩殿で持ち直し、再び兵を集め、武田家を立て直すことができれば、それに越したことはない。だが、今の武田家には、それを成すだけの時間も兵も、そして人の心も残されておらぬ」
昌幸は淡々と話した。
そこには勝頼への侮りはなかった。勝頼が弱かったから武田家が滅びるのではない。これまで戦い続けてきた結果、敵があまりにも多くなり、家臣や国衆の一部までもが離れ始めた。その崩壊を、今から一人の力で止めることは難しいというだけだった。
「武田家が滅びれば、我らも変わらねばならぬ」
昌幸の言葉に、時勝が静かに頷いた。
「塩田も、だな」
「ええ」
これまで塩田家は武田家の麾下にあり、その中でも真田家の与力として動いてきた。だが、武田家という主家そのものがなくなれば、その関係もこれまでと同じではない。
塩田家は塩田家として生き残らなければならない。
真田家も同じだった。
時勝はしばらく考えたあと、昌幸をまっすぐに見た。
「しかし、ここで真田と塩田が、それぞれ勝手に動くのは悪手だろう」
昌幸は黙って時勝を見る。
「武田家が滅びるのであれば、これまでのように主家の命に従っておればよい時代ではなくなる。ならば、それぞれが自らの家を守らねばならぬ。されど、それは互いに離れるということではない」
時勝の声には迷いがなかった。
「真田が生き残るために動くのであれば、塩田もまた協力いたしよう。塩田が独立して生き残ることだけを考えるより、これまで築いてきた繋がりを使うほうが、我らにとっても生き残る道は広がる」
昌幸は黙って聞いていた。
時勝が何を言いたいのかは分かっている。
武田家への忠義だけで塩田家を動かすのではない。これから先、真田と塩田が互いの力を利用し、支え合うことが生き残るために必要なのだ。
「塩田の兵も、人も、そう簡単には動かせぬでしょう」
「分かっておる。だからこそ、無闇に兵を動かすつもりはない」
時勝はそこで信時へ目を向けた。
「この子には、これからの塩田を率いてもらわねばと思っておる」
信時は少し驚いたように顔を上げた。
自分のことが話題になったからである。
時勝は続けた。
「家を守るとは、戦場で槍を振るうことだけではない。村を守り、田を守り、水を守り、家臣を守ることでもある。武田家が滅びるのであれば、なおさらそれを考えねばならぬ」
信時は黙ってその言葉を聞いていた。
元服してから、時勝から家の仕事を少しずつ教えられている。村から上がる訴えを聞き、水の配分を考え、田畑の様子を知り、家臣たちの顔を見る。それらは戦とは違い、目の前に敵がいるわけでもない。
それでも、一つ判断を誤れば人の暮らしが変わる。
今になって、その意味が少しだけ分かった気がした。
「主水佐《盛清》殿は、どう考えられる」
昌幸が問うと、盛清はしばらく沈黙してから口を開いた。
「信濃介《時勝》殿と同じでございます」
短い答えだった。
「今、真田と塩田が別々に動けば、敵にそれぞれを見られることになる。武田家が崩れた直後の世は、誰がどこへ付くのかすら定まっておらぬ以上、そのような時にこちらから動けば、こちらの意図を敵に知られるだけとなる」
盛清は、武田家が崩れていく過程を情報の側から見てきた男である。
「今は動かぬことが、最も肝要」
「動かぬ?」
「何もせぬという意味ではない」
盛清は淡々と続けた。
「城を固める。兵を整える。兵糧を蓄える。そして、周囲の動きを探る。織田がどこまで来るのか、徳川がどう動くのか、北条が何を狙うのか。それを知らずに先へ動くのは危険だ」
昌幸も頷いた。
それは昌幸が考えていたこととも一致していた。
真田の郷を守るための備えを整え、岩櫃をはじめとする上野の動きを把握し、信濃の国衆との繋がりを保つ。さらに北条との関係も探っておく。今は一つの勢力にすべてを賭ける時ではない。
「では、決まりだな」
昌幸が二人を見る。
「当面は、それぞれの領地と城を固める。無闇に兵を動かさぬ。そして、世の動きを見ながら、必要となれば互いに力を貸す」
「異存ない」
時勝が答える。
「私も」
盛清も頷いた。
話し合いは、それで終わった。
大きな決断が下されたわけではない。どの勢力に従うのかも、これから真田や塩田がどこへ向かうのかも、まだ決まっていない。
ただ一つだけ、三人の考えは一致していた。
武田家の命運が尽きようとしている今、互いに離れて生き残ろうとするのではなく、これまで築いてきた繋がりを残しておく。
それが、この先を生きるために必要だった。
話し合いが終わり、信時は昌幸と二人で庭へ出た。
春とはいえ、まだ風は冷たい。
「父上」
「なんだ」
「武田家は、本当に滅びるのでしょうか」
信時は先ほどと同じ問いを、今度は二人きりになってから口にした。
昌幸はすぐには答えず、遠くの山々へ目を向けた。
「滅びる」
信時は父を見る。
「だが、それは真田や塩田家が滅びることを意味するわけではない」
昌幸は息子へ視線を戻した。
「家を守るというのは、最後まで戦うことだけではない。戦わずに済むなら、それもまた家を守ることだ。人を死なせず、領地を失わず、次の世まで家を残す。そのために何をするべきかを考えるのが、これからのお前の務めになる」
信時は黙って聞いていた。
父と再び会えたことは嬉しかった。
もっと昔の話を聞きたいとも思う。幼い頃の自分を父がどう見ていたのか、なぜ自分を塩田家へ預けたのか、まだ聞きたいことはいくらでもあった。
けれど今は、それを尋ねる時ではないように思えた。
目の前にいる父は、かつて自分が知っていた父とは違う。いや、変わったのは父ではなく、自分のほうなのかもしれない。
自分もまた、家を背負う者になった。
真田家の嫡子ではない。
塩田家の養子として、塩田源七郎信時として生きていく。その自分が、武田家の滅亡を前に何を考え、何を守るのか。
その答えは、まだ分からなかった。
ただ、武田家が滅びゆく今も、そこに仕えてきた者たちの家や暮らしまで一緒に消えるわけではない。
昌幸は真田を守ろうとしている。
時勝は塩田を守ろうとしている。
盛清は、その二つを守るために世の動きを探ろうとしている。
信時は、その姿を見ながら、初めて「家を残す」ということの重さを考えていた。
武田家の命運は、すでに風前の灯である。
それでも、真田も、塩田も、出浦も、まだ生きている。
だからこそ、戦乱の中で次の一手を選ばなければならなかった。




