第三十三話 鳥居峠
天正十年二月十六日。
木曽谷へ通じる鳥居峠には、冬の冷気が深く残っていた。山肌にはまだ雪が残り、踏み固められた道は凍りついている。大軍が自由に動ける場所ではない。それでも、この峠を押さえる意味は大きかった。
木曽義昌の離反によって木曽谷は織田方の手に渡りつつあった。織田軍がこの道を越えれば、木曽から信濃の中部へ進むことができる。諏訪郡司 今福昌和に与えられた役目は、その進路を塞ぐことであった。
今福勢が峠へ入ると、ほどなくして木曽勢と織田方の軍勢が姿を現した。
戦いは、峠道を挟んで始まった。
狭い山道では、平地のように兵を広げることができない。先頭の兵が押し込まれれば後ろの兵も動きを制限され、逆に一度押し返せば、その勢いを利用して敵を崩すこともできる。雪と岩の残る斜面を兵たちが駆け、槍を交え、刀を振るう。その一方で、織田方は木曽勢と連携しながら武田勢を少しずつ押し込んでいった。
今福昌和も自ら兵を指揮し、何度も敵を押し返そうとした。
しかし、戦況は好転しなかった。
木曽勢に加えて織田方の兵が攻め立てる中、武田勢は次第に後退を余儀なくされる。峠を守るはずだった今福勢は、ついにその場を維持できなくなった。
鳥居峠で、武田勢は敗れた。
この報せが信濃中部の要所、深志城へ届いたのは、その日のうちであった。
「今福殿が敗れたか」
報告を受けた深志城主・馬場昌房は、しばらく黙っていた。
鳥居峠の先には、信濃の中部へ通じる道がある。ここを織田勢に突破されれば、木曽谷からさらに奥へ敵が入り込むことになる。今福昌和が敗れた以上、そのまま敵を進ませるわけにはいかなかった。
「敵の勢いは」
「木曽勢も織田勢も、峠を越えてさらに進もうとしているとのことにございます」
昌房は立ち上がった。
「ならば、こちらから迎え撃つ」
深志城に残る手勢をまとめ、馬場昌房は鳥居峠へ向かった。
それは、武田家の命運を左右するような大軍同士の決戦ではなかった。だが、昌房にとっては目の前の敵を一歩でも先へ進ませないことがすべてだった。今福勢が敗れた直後だからこそ、織田勢の勢いが増す前に食い止めなければならない。
馬場昌房の軍勢が峠へ向かう。
そして、鳥居峠では再び武田の兵と織田方の兵が向き合った。
その頃、諏訪上原にいる勝頼のもとへも、木曽方面の戦況が届いていた。
「今福昌和殿、木曽・織田勢に敗れましてございまする」
その報告を聞いた勝頼の表情は険しかった。
「深志の馬場昌房殿が、手勢を率いて鳥居峠へ向かわれました」
「昌房が」
「はい。織田勢の進撃を食い止めるためとのことにございます」
勝頼は小さく息を吐いた。
今福昌和は敗れた。
だが、そこで終わりではなかった。敗れた将に代わり、別の将が敵の前へ出る。武田家にはまだ、戦おうとする者がいる。
勝頼にとって、それは決して小さなことではなかった。
しかし、その報せと前後して、別の戦線からも急使が届いていた。
「伊那谷より、申し上げます」
勝頼は顔を上げた。
「二月十四日、飯田城が織田方の手に落ちました。また、大島城も織田方に押さえられております」
「飯田が……どうなった」
急使は息を整えてから、報告を続けた。
「二月十四日、織田方の先陣が梨子野峠を越え、伊那谷へ入りました。下条氏長が道を開き、小笠原信嶺も織田方へ従ったことによるものにございます」
飯田城は、ただ城兵だけで守る孤立した城ではなかった。
その周囲には伊那谷の国衆がおり、南から敵が入るならば、それらの勢力と連携して防ぐことが想定されていた。だが、下条氏や小笠原氏が相次いで織田方へ回ったことで、その前提が崩れていた。
織田軍は、まともに飯田城へ大軍をぶつける必要さえなかった。
城へ至る道が開き、周囲の国衆が敵方へ傾いたことで、飯田城は次第に孤立していったのである。
飯田城を守っていた坂西織部と保科正直も、それを理解していた。
敵は迫っている。
味方は減っている。
そして、このまま籠城しても援軍が来る保証はない。
二月十四日の夜。
飯田城から、人の気配が消えていった。
城兵たちは闇に紛れて城を離れ、保科正直も高遠方面へ逃亡。坂西織部も城を去った。翌日には飯田城を離れた兵の一部が市田で討ち取られるなど、伊那谷南部では混乱が広がっていった。
飯田城の放棄は、さらに北の大島城へ伝わった。
大島城は飯田城とともに下伊那を守る重要な拠点であった。天竜川沿いに築かれたその城は、伊那谷を北へ進もうとする敵を防ぐ役割を持っている。飯田城が健在ならば、その南側を支えることもできた。
だが、その飯田城が消えた。
城を守る武田信廉らにとって、状況は明らかだった。
「飯田が落ちたのではない。捨てられたのか」
報告を聞いた信廉は、低い声で呟いた。
「はい、既に飯田城は織田方のものになっております」
信廉は大島城の外へ目を向けた。
城の南に広がる伊那谷。その向こうから敵が来る。
そして、自分たちを支えるはずだった飯田城には、もう武田の旗がない。
大島城に残って戦うという選択肢がないわけではなかった。だが、ここで兵を失えば、その先に残る高遠を支えることもできなくなる。
結局、大島城もまた戦場になることなく放棄されることとなった。
飯田城が消え、大島城も消えた。わずか数日の間に、伊那谷南部を支えていた二つの拠点が武田の手から失われたのである。
諏訪上原の勝頼は、その一連の報告を聞き終えると、しばらく口を開かなかった。
鳥居峠では、今福昌和が敗れた後も馬場昌房が立ち上がった。しかし、伊那谷では違った。飯田城は敵に正面から攻め落とされたのではない。周囲の国衆が崩れ、敵の進路が開き、守る側が孤立した結果として城を捨てざるを得なくなった。大島城も同じだった。二つの城を失ったこと以上に、伊那谷の防衛体制そのものが崩れ始めていることが問題だった。
勝頼は絵図へ目を落とした。
木曽谷と伊那谷。
二つの戦線は別々である。
だが、そのどちらからも織田方が甲斐へ近づいている。
伊那谷では、飯田と大島が失われたことで織田軍の進路が開いている。その先に残る大きな防衛拠点は、高遠城であった。高遠には弟である仁科信盛がいる。兵も残っている。まだ敵を食い止める場所はある。ここで勝頼自らが出陣し、自身の率いる一万余りの兵で織田勢に決戦を挑めばまだ僅かな可能性があった。武田家の滅亡を免れるという可能性が。
しかし、2月28日 武田勝頼及び勝豊は諏訪上原城の陣を払い甲斐へ撤退する。
これが決定打となり、武田領国は崩壊していく。
注:深志城
現在の松本城の前身となった城。1504年に信濃守護・小笠原氏の本拠 林城の支城として築かれる。武田氏による信濃支配後は林城が破却され地域の中心となる城へ変わった。 本能寺の変の後、小笠原氏が奪還し現在の名前である松本城へ改名。




