第三十二話 四方より
雪は、なお降り続いていた。
諏訪上原城に入った武田勝頼は、城内に集められた兵とともに、雪の向こうにある木曽谷を見つめていた。二月二日、自ら一万五千の兵を率いて甲府を発したものの、深い雪に阻まれて進軍は思うように進まない。木曽義昌を討ち、その離反を武田家の内側から断ち切る――そのために動いたはずだったが、戦場へ向かう道そのものが、勝頼の前に立ちはだかっていた。
それでも勝頼は、まだ戦えると思っていた。
木曽義昌は武田家に背いた。だが、木曽を失ったからといって、武田家そのものが崩れたわけではない。甲斐には兵がいる。諏訪にも兵がいる。上野には昌幸らがいる。東海道から迫る徳川に対しても、これまで幾度となく戦ってきた。織田が敵であることも、今に始まった話ではない。
だからこそ、勝頼は木曽を討つために出陣したのである。
しかし、三日になって届く報せは、その考えを少しずつ変えていった。
「申し上げます。伊那方面より、織田方の軍勢が動き出したとの報せがございます」
勝頼は顔を上げた。
「信忠か」
「はい。織田信忠率いる軍勢が伊那へ入り、武田領へ向けて進んでいるとのことにございます」
織田三位中将信忠。信長の嫡男である。
木曽義昌が織田方へ離反したことで、木曽谷は織田軍が信濃へ入るための道となった。勝頼はその報せを聞きながら、信濃方面から甲斐へのもう一つの入り口である伊那口の陥落によって自らがさらなる窮地に追い込まれたことを感じた。
木曽を討てば済むのではなかった。
木曽を討っても、伊那の織田勢を打ち破らねばならなくなったことを意味していた。
だが、報せはそれだけでは終わらなかった。
「さらに、飛騨より金森長近の軍勢が進んでおります」
勝頼は眉を寄せた。
「飛騨からも、か」
「はい。飛騨口より信濃へ向けて進軍しているものと」
木曽に続いて、飛騨からも敵が入る。
武田家がこれまで相対してきた敵は、必ずしも一つではなかった。織田、徳川、北条――それぞれに戦線を持ち、それぞれに事情がある。だからこそ勝頼は、各地の兵を動かしながら、その時々に最も危険な場所へ力を振り向けてきた。
しかし今度は違った。
敵が一つの戦場に集まってくるのではなく、武田の領国そのものへ、それぞれ別の道から入り込もうとしている。
さらに続報が届いた。
「駿河方面では、徳川家康が動いております」
勝頼は黙った。
駿河は徳川にとって遠い場所ではない。武田家が駿河を失って以来、徳川はそこを足場として甲斐へ向かう機会を窺ってきた。これまでも幾度となく戦ってきた相手である。だから家康が動くこと自体は、予想できないことではなかった。
それでも、今この時に動いたという事実に重みがあった。
木曽から織田。
飛騨から金森。
駿河から徳川。
そして東からは――。
「北条も動いております」
その言葉に、勝頼は目を閉じた。
北条氏直の軍勢が関東から動き、武田領東部へ向けて進んでいるという。
北条とは、かつて甲相駿三国同盟を結んだ仲であった。だが、それは遠い過去の話である。武田と北条の戦いは長く続き、上野を巡る争いも終わってはいない。勝頼はその北条を敵として見てきたし、北条もまた武田を警戒していた。
だから、北条が動くこともまた理解できないことではない。北条は織田への臣従を明らかにしてもいた。
勝頼は城内に広げられた絵図へ目を落とした。
甲斐。
信濃。
駿河。
上野。
飛騨。
その周囲を囲むように、いくつもの軍勢が動いている。
それぞれの軍が、別々の理由で動いているようにも見える。織田には織田の、徳川には徳川の、北条には北条の事情がある。だが、それらが一つの時に重なれば、事情の違いなど意味を失う。
武田家という一つの家を、四方から削り取る動きになる。
「……そういうことか」
勝頼の口から、低い声が漏れた。
木曽義昌が織田方へ寝返ったことを知った時、勝頼は木曽を討つことを考えた。木曽は武田家にとって重要な親族であり、その離反を見過ごすことはできない。義昌が織田へ通じたことで、織田が木曽谷を利用して信濃へ入ってくることも理解していた。
だが、木曽だけではなかった。
織田は伊那から入り、金森は飛騨から入り、徳川は駿河から入り、北条は東から入る。
伊那郡では、守りを任されていた下条信氏親子が追われ、家老である下条氏長が織田方へ通じたという。武田家の家臣であった者が自ら道を開き、織田軍を迎え入れようとしている。
そして伊那郡の北側の守りの要である松尾城の城主小笠原信嶺もまた、織田方へ降ったとの報せが入った。
勝頼は一つ一つの名を聞くたび、胸の奥に冷たいものが沈んでいくのを感じた。
「殿、さらに……」
伝令が言い淀んだ。
「何だ!」
「浅間山が噴火したとの報せがございます」
勝頼は答えなかった。
浅間山は、東信濃にそびえる山である。活火山であり、その被害は大きなものであり、まるで自然までが騒ぎ始めたようだった。
だが、勝頼はそれを迷信として退けた。
山が噴火したから戦に負けるわけではない。兵が動き、城が落ち、敵が進んでくる。それらはすべて、人の意思によって起こっている。
だからこそ恐ろしかった。
これは天変地異ではない。
人間が、自ら武田家を滅ぼそうとしているのである。
勝頼はしばらく絵図を見つめていた。
思えば、これまでの武田家は常にどこかに戦場を持っていた。父・信玄の時代からそうだった。信濃、駿河、遠江、上野。敵と戦い、領土を広げ、また別の敵と戦う。それが武田家という家の生き方だった。
勝頼自身も、その道を歩いてきた。
戦えば勝てる時もあった。負ける時もあった。それでも軍勢を整え、兵を養い、次の戦に備えてきた。
しかし今は、次の戦を考える前に、その次の戦が始まっている。
一つの戦場へ兵を集めれば、別の場所から敵が入る。
別の場所へ兵を回せば、そこにいた兵が不足する。
木曽を討とうとすれば伊那が危うくなり、伊那を守ろうとすれば甲斐が危うくなる。東を見れば北条が動き、西を見れば織田が進み、南では徳川が迫っている。
これまでなら、どこか一つを抑えればよかった。
今は、四方を見なければならない。
「各地の状況をさらに探らせよ」
勝頼はようやく口を開いた。
「敵がどこから来るのかを知らずして、兵を動かすことはできぬ。木曽だけを見ている場合ではない。伊那も、諏訪も、甲斐も、すべてを見よ」
家臣たちは一斉に頭を下げた。
勝頼は立ち上がり、雪の向こうへ目を向けた。諏訪上原城の外では、なお雪が降っている。その白い景色の向こうで、武田領へ向かっていくつもの軍勢が動いている。
まだ、武田家には兵がいる。
まだ、戦える。
勝頼自身もそう信じていた。だがその時、彼の目の前に広がっていたのは、一つの敵軍ではなかった。
武田勝頼の前には、四方から敵が迫っていた。




