第三十一話 木曽の背信
天正十年(一五八二)二月一日。甲斐の空は、朝から厚い雲に覆われていた。冬の寒さは未だ衰えず、盆地を取り囲む山々には雪が残り、風が吹くたびに冷気が新府城の石垣や板塀の間を抜けていく。新府城は武田家の新たな本拠として築かれたばかりであり、城内では多くの兵が出入りし、武具を整え、馬の世話をし、兵糧の搬入を続けていた。戦が近いことは、誰の目にも明らかだった。それでも、この日の朝までは、武田家の者たちにとって、それはこれまでと同じ「戦の前」でしかなかった。
織田、徳川、北条。武田家はすでに三方に敵を抱えていたが、勝頼にとって、それ自体は決して初めて経験する状況ではなかった。敵が多ければ、それだけ戦う場所を選び、兵を分け、同盟や外交を使って時間を稼げばよい。武田家にはまだ戦える兵があり、甲斐という本国があり、信濃や上野にも従う国衆が残っている。勝頼自身も、武田家が戦う力を失ったとは考えていなかった。むしろ、これまで幾度も苦境を乗り越えてきたからこそ、今回もまた戦い方次第で切り抜けられると考えていたのである。
その考えを変えさせる報せが、新府城へ届いた。
雪に濡れた衣をまとった使者が広間へ通されたのは、勝頼が重臣たちと政務を行っている最中だった。男は長い道を急いできたらしく、肩で息をしながら深く頭を下げた。その姿を見た勝頼は、報せの内容が尋常なものではないことを悟った。戦場からの急報など珍しいものではない。城の動き、敵軍の進出、兵糧の不足、国衆同士の争い――武田家の当主となってから、勝頼は数え切れないほどの報告を受けてきた。しかし、この時の使者の顔には、それらとは違うものがあった。
「木曽義昌、織田方へ寝返りましてございます」
その一言が告げられると、広間に沈黙が落ちた。
木曽義昌という名が持つ意味を、その場にいる者の誰もが理解していたからである。木曽氏は、単に信濃の一国衆というだけの存在ではない。木曽谷は甲斐と信濃を結び、さらに美濃や飛騨方面へ通じる山間の交通路を押さえる位置にあり、そこを領する木曽氏は、武田家が信濃を支配するうえで重要な役割を担ってきた。信玄の娘が義昌には嫁いでおり、木曽氏は武田氏の一門衆といってもよかった。
だからこそ、今回の離反は重かった。
義昌が武田家に背いたというだけならば、勝頼は兵を向けて討てばよい。戦国の世において国衆の反乱は珍しくなく、主家の命に背いた者を軍勢で押さえ込むことも、また大名の務めである。しかし今回は、義昌の背後に織田信長がいる。織田は義昌に対して、武田から離反するならば所領を安堵することを約し、その不満と不安につけ込んで武田家から引き剥がしたのである。
織田が武田家の内側へ手を伸ばし、その一角を切り崩した結果だった。
勝頼は報告を聞き終えても、すぐには口を開かなかった。胸の内には怒りがあった。義昌への怒りもあれば、その背後で動いた織田への怒りもある。だが、それ以上に強かったのは、苦い悔しさだった。これまで武田家が築いてきた主従関係が、一つずつ崩されていく。その現実を、当主である勝頼は誰よりも近くで見なければならない。
国衆にとって、主家への忠義は決して感情だけで決まるものではない。家臣を養い、領民を守り、一族を存続させるためには、自らの領地を守る力を持つ主家に従わなければならない。武田家が強い間は、その庇護を受けることが彼らにとって最も合理的な選択だった。しかし、武田と織田の力関係が変われば、その判断も変わり得る。勝頼はそれを理解していたからこそ、義昌の離反が単なる一国衆の裏切りではなく、他の国衆たちにも影響を与える可能性を持つことを理解していた。
木曽を放置することはできない。
ここで義昌の離反を許せば、武田家は木曽谷を失うだけでは済まないかもしれない。武田に従うことへ迷いを抱く者たちが、織田へ転じることを考え始める。その動きを防ぐためにも、勝頼は自ら軍を率いて木曽を討つ必要があった。
「木曽が織田についた以上、もはや木曽谷だけの問題ではない。織田は木曽を使い、甲斐へ入る道を開こうとしているのであろう。ならば、こちらから木曽を討つ。義昌が織田の力を頼むというならば、その頼みが誤りであったと思い知らせるまでよ」
勝頼の声に迷いはなかった。
木曽義昌を討つ。それが、この時の勝頼にとって最も明確な答えだった。木曽を放置すれば武田家の威信はさらに傷つき、織田に付け込む隙を与える。ならば、自ら兵を率いて義昌を討ち、その離反を失敗に終わらせるしかない。勝頼は戦うことを恐れていたわけではない。これまで幾度となく敵軍と戦場を共にし、敗北を経験しても、そのたびに軍を立て直してきた。戦えば勝てるという単純な考えではなく、戦わなければ何も変えられないという、武田家当主としての責任が彼を動かしていた。
だが、その決断には避けて通れない問題があった。
木曽義昌が武田家へ差し出していた人質である。
戦国の世において、人質は単なる囚人ではない。主従の関係を保証するために差し出される存在であり、その身には家と家との約束そのものが背負わされている。義昌が武田を裏切った以上、その人質をどう扱うかは、武田家の威信に関わる重大な問題だった。勝頼は、人質の処刑を命じた。
その判断を、勝頼自身が軽く考えていたわけではない。
人質となっている者たちに、義昌と同じ罪があるわけではないことくらい分かっている。だが、彼らを無事に返せば、武田家にとって別の問題が生じる。主家を裏切っても、その家族は守られるという前例ができれば、次に同じことを考える者が出た時、それを止めることが難しくなる。戦国大名にとって、主従の契約を守らせるための人質は、それほど重い意味を持っていた。
命令を下した後、勝頼はしばらく一人で考え込んだ。
自分で決めたことだからこそ、誰かに責任を押しつけることもできない。戦場で敵兵を討つこととは違う重さがあった。敵であれば、戦う理由がある。だが、人質となった者たちは敵ではない。それでも武田家を守るためには、当主として決断しなければならなかった。
やがて、人質たちが処刑されたとの報告が届いた。
勝頼は、その報せを黙って聞いた。
何も言わなかった。
ただ、それ以上そのことについて尋ねることもしなかった。
翌二月二日、勝頼は一万五千の兵を率いて新府を発った。目指すは諏訪上原城である。木曽谷へ通じる道を押さえ、義昌の勢力を討つためには、まず諏訪方面へ兵を進める必要があった。
一万五千という兵力は、この時期の武田家にとって決して小さなものではない。武田家にはまだ戦う力が残っていた。問題は、その力をどこへ、どのように向けるかだった。大軍を動かすには兵糧が必要であり、馬が必要であり、荷駄を運ぶための道が必要になる。まして冬の信濃は、敵軍だけを相手にすればよい土地ではない。雪に覆われた山道は人馬の進行を遅らせ、兵糧の輸送を難しくし、軍勢そのものの動きを鈍らせる。
そして、まさにその雪が、勝頼の前に立ちはだかった。
進軍を続けるうちに雪は強さを増し、道は白く覆われていった。馬の脚が雪に取られ、荷駄の列は伸び、兵たちの歩みも次第に遅くなる。勝頼は上原城へ入ったものの、そこから先へ一気に進むことはできなかった。木曽を討つという意思がどれほど強くとも、無理に軍を進めれば、戦う前に兵を疲弊させることになる。
勝頼は進軍を止めた。
焦りがなかったわけではない。しかし、戦は勇気だけでは勝てない。兵糧が尽き、馬が倒れ、兵が疲れれば、一万五千という数字も意味を失う。だからこそ勝頼は、雪の中で軍を止め、天候が回復するのを待つしかなかった。
だが、その間にも敵は動いていた。
二月三日、新たな使者が上原城へ到着した。
織田信長が、武田攻めを命じたという。
織田信長は、木曽義昌が武田から離反することを前提に、その後の軍事行動まで準備していた。織田信忠は伊那方面から武田領へ入り、飛騨からは金森長近が進む。南では徳川家康が駿河から武田領へ向けて動き、東からは北条氏直の軍勢が侵攻する。
西から織田。
南から徳川。
東から北条。
それらを食い止めるはずの守り口は既に一つが破られ、これまでの戦いとは明らかに違っていた。
勝頼は、上原城の外に広がる雪景色を眺めながら、静かに考えた。これまで武田家は、敵が多い時には、その一つを外交によって抑え、別の一つへ兵を向けることで戦線を維持してきた。しかし今度は、敵が同時に動いている。木曽を討とうとして兵を動かしたその瞬間に、織田が攻め込んできた。まるで、こちらの動きを待っていたかのようだった。
いや、実際に待っていたのだろう。
織田信長は、木曽義昌が裏切ることを知ったうえで軍を動かしている。そして木曽の離反によって武田家が取る行動さえも、ある程度は読んでいたのかもしれない。そう考えれば、今回の侵攻がどれほど周到に準備されたものであるかが分かる。
それでも、勝頼は退かなかった。
武田家にはまだ兵がいる。甲斐もある。城もある。そして、自分自身もまだ戦える。敵が四方から迫ろうとしているからといって、戦う前から敗北を認めることなど、武田勝頼にはできなかった。
木曽義昌を討つ。
そして、織田の軍勢を止める。
そのために、まずは目の前の雪が晴れるのを待つしかない。
勝頼はしばらく山々を見つめた後、振り返った。
「軍勢を整えよ。雪が止み次第、動く」
その命令とともに、上原城の中で再び兵たちが動き始めた。
武田家の命運を懸けた戦いは、まだ始まったばかりだった。




