第二十九話 新府城
天正九年正月、甲斐で新たな城の築造が始まった。武田勝頼が韮崎の地に築こうとしたその城は、後に新府城と呼ばれることになる。長く武田家の本拠として機能してきた甲府を離れ、武田家の政治と軍事の中心を新たな場所へ移すための大規模な築城であった。
それまで武田家の本拠は甲府に置かれていた。武田信虎の時代から整えられ、信玄の時代に発展した甲府は、単なる城下町ではなく、武田家による領国支配の中心そのものである。躑躅ヶ崎館には当主と重臣たちが集まり、領国内の政務が行われ、その周囲には家臣や商人、職人などが集まって一つの都市が形成されていた。そして館の北方には要害山城が築かれ、戦時には詰めの城として甲府を守る役割を担っていた。平地にある躑躅ヶ崎館と、山上に築かれた要害山城を組み合わせることで、平時には政務を行い、敵が甲斐へ侵入してきた際には山城へ退いて戦うという体制が整えられており、信玄の時代までの武田家にとって、それは十分に機能する本拠であった。
その体制が成り立っていたのは、武田家が甲斐一国を中心に周辺諸国へ勢力を広げ、その軍事力によって敵を領国へ近づけさせなかったからでもある。武田信玄の時代には、敵が甲斐へ侵入すること自体が容易ではなく、信濃や駿河、上野などに置かれた武田方の諸城や国衆が外縁部で敵を食い止めることによって、甲府は武田家の中枢として安定して機能していた。ところが、信玄の死後に武田家を取り巻く情勢は大きく変化し、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した後は、徳川家による遠江への攻勢が強まる一方、北では北条氏との戦いが続き、さらに西からは織田信長の圧力が加わるようになった。かつて敵を遠くに押し留めていた武田家が、今では複数の敵から同時に攻め立てられる側へと変わりつつあったのである。
そして天正九年三月、高天神城が落ちた。
遠江の重要拠点を守りきれなかったという事実は、武田家の軍事的な後退を示しただけではなく、周辺の国衆たちが武田家を見る目を変えるきっかけにもなった。武田に従っていれば、いざという時には武田の大軍が駆けつけて自分たちを守ってくれるという信頼があったからこそ、武田家は広大な領国を維持することができていたのである。しかし、その信頼を支えるはずの高天神城を救うことができなかったことで、国衆たちの胸には「武田は本当に自分たちを守れるのか」という疑念が生まれ始めた。
勝頼も、その変化を感じ取っていた。
だからこそ、甲府に留まり続けることに不安を覚えるようになったのである。
新府城が築かれることになった韮崎の地は、甲府盆地の北西部に位置し、釜無川の流域に広がる七里岩と呼ばれる台地を利用できる場所であった。周囲を見渡すことのできる高台に城を築き、地形そのものを防御に取り込むことで、従来の甲府とは異なる形で武田家の本拠を守ることができる。信濃方面や駿河方面への交通を考えても、戦時の指揮拠点として一定の利点を持っていた。
勝頼にとって、新府城は決して思いつきだけで築こうとした城ではなかった。
敵の攻勢が強まり、従来の甲府を中心とした体制だけでは武田家を守りきれなくなりつつある中で、新たな本拠を築いて軍事と政治の体制を立て直すという考えには、それなりの合理性があった。甲府という場所が悪いのではない。長年にわたって武田家を支えてきた甲府という本拠を、今の戦況に合わせて作り替える必要があると勝頼は考えたのである。
だが、その決断に対して、家臣たちのすべてが賛成したわけではなかった。
「なぜ、今なのでございます」
評議の席でそう口にした重臣の声には、勝頼への反抗というよりも、現状に対する困惑が滲んでいた。
「高天神を失い、遠江で徳川に押されているこの時に、新たな城を築くために領国から人足を集め、材木を運び、銭と兵糧を使う。それだけの負担を国衆や領民に求めてまで、本拠を移す必要があるのでしょうか。躑躅ヶ崎館には長年積み重ねてきた政務の仕組みがあり、要害山城もございます。甲府を捨てることが、果たして武田家を立て直すことに繋がるのでしょうか」
勝頼は、しばらく何も答えなかった。
その問いが間違っていないことを、勝頼自身が理解していたからである。新しい城を築くには莫大な労力が必要になる。各地から人足を集めれば、その間は村々から働き手が失われ、材木や石などの資材を運ばせれば、それだけ領民の負担も増える。戦場で兵を失い、領国の財政にも余裕がなくなりつつある武田家にとって、決して軽い事業ではなかった。
「甲府を捨てるのではない」
やがて勝頼はそう答えた。
「武田を守るために、甲府だけに頼ることをやめるのだ」
勝頼の脳裏には、これまでの戦いが次々と浮かんでいた。長篠で失った将兵、高天神で救えなかった城兵、北条との戦い、徳川の攻勢、そして織田信長との断ち切られた関係。そのすべてを考えれば、今までと同じやり方を続けているだけでは、いずれ甲斐そのものが戦場になるという危機感を抱くのは当然だった。
「敵は、我らが甲府に座している間も待ってはくれぬ。高天神を見よ。あれほど守りの固い城であっても、援軍を送れなければ最後には落ちる。ならば、敵が甲斐へ迫る前に、我ら自身が戦うための備えを整えなければならぬ。新府はそのための城だ」
重臣たちはなお納得しきれない表情を浮かべていた。
勝頼の言葉には理がある。それでも、家臣たちの胸に残る違和感は消えなかった。新府城を築いたからといって、北条が黙って退くわけでもなければ、徳川の兵が遠江から消えるわけでもない。織田信長が武田家との和睦を受け入れるわけでもなく、失われた兵や財力が新しい城によって戻ってくるわけでもない。むしろ今の武田家に必要なのは、新たな城を築くことよりも、疲弊した領国を立て直し、離れつつある国衆との関係を繋ぎ直すことではないかという思いを抱く者も少なくなかった。
しかし、勝頼は築城を止めなかった。
そこには、当主としての判断だけでは説明できないものもあった。
追い詰められた人間は、自分を守ってくれると信じられるものを求める。敵が増え、味方が減り、これまで頼りにしてきたものが一つずつ崩れていく中で、それでもなお自分の手で掴むことのできるものがあれば、人はそこへ希望を託そうとする。勝頼にとって、それが新府城だった。
城は目に見える。
土を掘れば堀になる。土を盛れば土塁となり、曲輪を整えれば敵を迎え撃つ場所になる。人を集め、材木を運び、建物を建てれば、そこには武田家の新しい本拠が形として現れる。失われた威信や、離れていく国衆の心を直接取り戻すことはできなくても、少なくとも「まだ武田家には新しい城を築く力がある」ということを、自分自身にも、家臣たちにも示すことができる。
勝頼は、そこへ縋ろうとしていた。
それが自分の焦りから生まれたものなのか、武田家を立て直すための冷静な判断なのか、勝頼自身にも完全には区別できなかったのかもしれない。ただ、何もせずに時を待つことだけはできなかった。高天神城を救えなかった後では、なおさらであった。
新府城の築城には、武田家中の諸将や国衆が動員された。
真田家もまた、その命を受けた。
昌幸自身が新府城の縄張を行ったという確かな記録が残っているわけではない。しかし、武田家に仕える国衆として、昌幸は領内から人足を動員し、築城に必要な労力を差し出す役割を担っていた。真田の郷からも人々が甲斐へ向かい、山を越えて新たな城を築くための作業に従事した。
昌幸にとって、その築城は武田家への忠勤であると同時に、主家の置かれた状況を改めて目にする機会でもあった。
新府へ集められた人足の数は多く、城は急ピッチで築かれていった。土塁が形を現し、堀が掘られ、曲輪が整えられていく。その姿を見れば見るほど、昌幸は複雑な思いを抱いた。新府城そのものには確かに軍事的な価値がある。甲府とは異なる地形を利用し、新たな本拠として武田家を再編するという考えも理解できる。しかし、これほど大規模な築城を必要とするほど、武田家が追い詰められているという現実もまた、そこにははっきりと表れていた。
かつて武田家は、敵を退けるために城を築いた。
今は、敵に押し込まれないために新しい城を築いている。
その違いを、昌幸は見逃さなかった。
それでも築城は進み、新府城は次第にその姿を現していった。未完成ながらも、台地の上に広がる曲輪と土塁は新たな武田家の本拠としての威容を見せ始め、勝頼がそこへ視線を向ける時、その胸には久しぶりに明確な未来の姿が浮かんだ。
ここから立て直す。
新府を中心に家臣を集め、国衆を繋ぎ止め、失われた武田家の威信を取り戻す。徳川が遠江を奪おうとするならばそれを防ぎ、織田が甲斐を狙うならば甲斐を守る。これまで失ったものを、もう一度取り戻す。
そう考えれば、まだ戦えるように思えた。
しかし、現実は勝頼が希望を託した新府城の完成を待ってはくれなかった。
高天神城の落城によって揺らいだ武田家への信用は、築城によって回復することはなく、むしろ領国各地から人足を集め、莫大な負担をかけてまで新たな本拠を築かなければならないという状況そのものが、武田家の苦境を国衆たちに意識させることになった。武田家に従うことによって自分たちの領地を守れるのか、それとも武田家とともに滅びることになるのか。その問いは、高天神城の落城以後、国衆たちの胸の中で少しずつ大きくなっていた。
そして、天正九年十二月二十四日、勝頼はまだ完成していない新府城へ移った。
長く武田家の本拠であった躑躅ヶ崎館を離れるその日、勝頼は館を振り返った。
そこには父・信玄の時代から続いてきた武田家の歴史があった。信玄がこの地から領国を治め、家臣たちを率いて戦場へ送り出し、武田家の名を天下に轟かせた。その場所を今、自分の代で離れようとしている。
勝頼は、しばらくその景色を眺めていた。
未練がなかったわけではない。
むしろ、長く武田家を支えてきた場所だからこそ、そこを離れることには大きな痛みがあった。
それでも、新府へ向かわなければならない。
新しい城で、新しい武田を築かなければならない。
そう自分に言い聞かせるように、勝頼は甲府を後にした。
新府城へ入った勝頼を待っていたのは、完成にはまだ遠い城であった。建物も整わず、城下の体制も十分には整っていない。それでも勝頼は、その未完成の城を見渡しながら、ここを武田家再興の拠点にするのだと心に決めた。
敵に囲まれ、従来の本拠が時代に合わなくなりつつある中で、新たな防御拠点を築き、領国支配を立て直そうとすることには十分な理があった。だが同時に、その決断の根底には、戦況が悪化し、自分を支えるものが一つずつ失われていく中で、せめて自分の手で確かなものを築きたいという勝頼の切実な思いがあった。
だからこそ、新府城は武田家の希望であると同時に、その衰退を映す城でもあった。
城そのものは、まだ強い。
土塁も、堀も、曲輪も、これからさらに整えられていく。
しかし、城を支えるのは土や石ではなく、人である。
武田家を支えてきた国衆たちが主家を信じ、戦うために兵を出し、領地を守るために武田の旗の下へ集まるのでなければ、どれほど堅固な城を築いても、その城は本当の意味で武田家を守ることはできない。
高天神城の落城によって揺らいだその信頼は、新府城が完成するより先に、さらに深く傷ついていくことになる。
そして翌年、織田信長が甲斐へ向けて軍を動かした時、武田家はなお相当の兵力と領国を残していたにもかかわらず、その崩壊はあまりにも速かった。
国衆たちは次々と武田から離れ、城々は戦うことなく開かれ、家臣団の結束も瞬く間に失われていく。
それは、甲州征伐が始まってから突然起こったことではなかった。
高天神城を救えなかったことで、武田家ならば自分たちを守ってくれるという信頼が揺らぎ、その後も戦況を好転させることができないまま新府城の築城へ巨額の労力を注ぎ込んだことで、国衆たちは武田家の衰えをより現実のものとして感じるようになっていたのである。
勝頼が新府城へ入ったこの時、まだ武田家の滅亡は決まっていなかった。
だが、武田家を内側から支えていたものは、すでに静かに崩れ始めていた。
そして新府城は、武田家が最後に希望を託した城として、その後の歴史に残ることになる。
注:新府城
穴山信君の献策とも、勝頼側近の跡部などの進言によるともいわれるが真相は不明。この城の築城に関する記録は非常に少なく、昌幸の配下に対する動員の書状などが僅かに確認されているのみである。
ただ間違いなく言えるのはこの築城は大名の末期に見られる「自らの身を守れるものに縋ろうとする」行動であろうということのみである。




