第二十七話 勝頼の苦悩
天正八年、武田家と佐竹氏の間には、北条氏を共通の敵とする同盟が結ばれていた。甲斐の武田勝頼と常陸の佐竹義重は、それぞれ東西から勢力を伸ばす北条氏と対立しており、両者が手を結ぶことは、北条を挟んで互いの戦線を支え合う意味を持っていた。武田にとっては、上野へ勢力を広げるうえで北条の動きを東から牽制する佐竹の存在は大きく、佐竹にとっても、北条と結びつく諸勢力に対抗するためには、甲斐・信濃から上野へ進出してきた武田の力を無視することはできなかったのである。
この甲佐同盟は、単に北条を討つためだけの軍事的な取り決めではなかった。東国の諸勢力が複雑に結びつくなかで、武田と佐竹が互いの背後を支えることで、北条の勢力を東西から挟み込むことができる。そして勝頼にとって、この同盟にはもう一つの利用価値があった。佐竹は、織田信長との関係において武田とは異なる位置にあり、その佐竹を介することで、直接には敵対している織田との間にも、わずかながら外交の道を開ける可能性があったのである。
武田家の領国は広がっていた。しかし、その広がりは決して安定を意味してはいなかった。上野では北条と争い、東海では徳川と戦い、その背後には織田が控えている。北方の情勢にも目を配らなければならず、広大な領国を維持するためには各地へ兵を置き、国衆を繋ぎ止め、戦を続けるための兵糧と資金を確保しなければならない。勝頼は、父・信玄から受け継いだ武田家を守るために戦い続けてきたが、いつしかその戦いそのものが武田家へ重い負担を与え始めていることにも気づいていた。
だからこそ勝頼は、甲佐同盟を単なる北条対策に終わらせるつもりはなかった。
東国における佐竹との結びつきを利用し、織田との間に和睦の道を開く。それが勝頼の考えであった。
「佐竹から、織田へ話を通すことはできぬか」
甲斐の館で、勝頼は重臣たちを前にそう切り出した。
「織田と、でございますか」
「そうだ」
家臣たちの間に、わずかなざわめきが起こった。織田信長と武田勝頼が和睦する。その言葉だけでも、容易に受け入れられるものではなかった。
「佐竹とは、北条を挟んで手を結んでおる。その佐竹を通じれば、織田との間にも道を作れるやもしれぬ」
「信長が応じるでしょうか」
「応じさせるのだ」
勝頼は即座に答えたものの、その言葉とは裏腹に、胸の奥では自信が揺らいでいた。
「では、何を差し出されるおつもりです」
別の家臣が尋ねた。
勝頼はしばらく黙った。
「……御坊丸を返す」
部屋の空気が変わった。
織田信長の五男、御坊丸。武田と織田の関係を語るうえで、その存在が持つ意味は大きい。人質として抱えている以上、武田家にとっては外交上の材料となる。だが、同時にそれは、織田家へ返すことで関係改善の意思を示せる存在でもあった。
「御坊丸殿を返されるのですか」
「そうだ」
「それほどまでに、織田との和睦をお望みで」
勝頼はその問いに、すぐには答えなかった。
やがて静かに息を吐き、国絵図へ目を落とした。
「望む」
その一言には、これまで戦場で兵を率いてきた男とは思えぬほどの疲れが滲んでいた。
「だが、勘違いするな。織田に屈するという話ではない」
「では、何のために」
「武田家を守るためだ」
勝頼は絵図の上に置いた指を、東から南へゆっくりと動かした。
「北条と戦う。徳川とも戦う。領地を取れば、その地を守らねばならぬ。国衆を味方にすれば、その者らへの恩賞も必要になる。戦に勝てば領地が増える。領地が増えれば兵が必要になる。兵を増やせば、その兵を養うための米がいる」
そこで勝頼は指を止めた。
「このままでは、勝っても勝っても終わらぬ」
誰も口を挟まなかった。
「父上の頃から武田は戦ってきた。私も戦ってきた。勝った戦もある、負けた戦もある。だが、今の武田に必要なのはもう城を取ることではない」
「では、何が必要なのでしょう」
「息をつく時間だ」
勝頼はそう言った。
「一度、戦を止める。兵を休ませる。領国を整える。上野で手に入れた土地を固める。東海の兵も立て直す。その時間があれば、武田はまだやり直せる」
その言葉に、重臣の一人が苦い顔をした。
「しかし、織田がそれを許すでしょうか」
「だからこそ、佐竹を使う」
勝頼は答えた。
「そして御坊丸を返す」
「そこまでしても、なお信長が応じなければ」
その問いに、勝頼は黙り込んだ。
それは、勝頼自身が最も考えたくない可能性だった。
「……その時は、戦うしかない」
ようやく出た言葉は、決して力強いものではなかった。
戦えばよい。
武田家の当主として、それだけなら簡単だった。兵を集め、城を固め、敵へ向かって軍を出せばいい。しかし、勝頼はすでに知っていた。戦場で槍を交えることよりも、その戦いを始めるまでに何を失うのかのほうが重いことを。
佐竹を通じた働きかけは始まった。
御坊丸の返還を含め、織田との関係を修復するための道を探った。しかし、織田信長から返ってくる言葉は明確な拒絶ではなかった。だからといって、和睦を受け入れるものでもない。返答を待てば、また時が過ぎる。条件を整えて伝えれば、別の返答が来る。勝頼が一歩進もうとすれば、信長はその一歩を受け止めることなく、ただ時間だけを引き延ばしていった。
ある夜、勝頼は家臣を呼び、届いた返書を机の上へ置いた。
「また、返事が曖昧でございますな」
家臣が言うと、勝頼は返書を見つめたまま答えた。
「曖昧なのではない」
「では」
「待たせておるのだ」
家臣は黙った。
「信長は、こちらが何を望んでいるのか分かっておる。そのうえで答えを出さぬ」
「和睦する気がない、と」
「分からぬ」
「しかし――」
「いや」
勝頼は家臣の言葉を遮った。
「分からぬのではない。分かりたくないのだ、私は」
その言葉に、家臣は顔を上げた。
「もし信長が、最初から武田を滅ぼすつもりならば、何をしても意味がない。御坊丸を返そうと、佐竹を通そうと、こちらが戦を止めようと、すべて無駄になる」
勝頼はそこで一度言葉を切った。
「だが、もしまだ話し合う余地があるのなら、私はその道を捨てたくない」
「勝頼様……」
「私は戦うことを恐れているのではない」
勝頼は低い声で言った。
「戦うことしかできなくなるのが怖いのだ」
その言葉は、誰にも返すことができなかった。
勝頼自身も、そこまで口にして初めて、自分が何に苦しんでいるのかを理解したようだった。
父・信玄が築いた武田家を守る。そのために戦ってきた。だが、守るために戦うはずだった戦が、いつしか戦うために領国を維持するという逆転したものになりつつある。敵を倒すために兵を出し、兵を養うために領地を求め、領地を得ればまたそこを守るために兵を出す。その循環から抜け出せなければ、武田家は勝ちながら疲弊していく。
「……私は、どうすればよいのだ」
勝頼の呟きは、家臣へ向けたものではなかった。
それは父から家督を受け継いだ一人の男が、自らに問いかけた言葉だった。
その答えが出ぬまま、時は過ぎた。
そしてついに、勝頼のもとへ届いたのは、和睦に関する返答ではなかった。
「織田が、朝廷へ働きかけているとのことです」
報告を聞いた勝頼は、しばらく動かなかった。
「何を」
「武田勝頼を、朝敵として扱うよう求めていると」
勝頼は目を伏せた。
「……そうか」
怒鳴ることも、机を叩くこともしなかった。
ただ、長い沈黙が部屋を満たした。
「佐竹を通じても駄目だった、か」
勝頼は独り言のように呟いた。
「御坊丸を返しても駄目だった」
そして顔を上げた。
「戦を止めようとしても、もう駄目だったということか」
誰も答えられない。
答えは、すでに出ていたからである。




