第二十二話 後閑の戦い
小川城が武田方へ従属したという報せが届いてからも、沼田周辺の情勢は静かに動き続けていた。小川可遊斎が武田方へ転じたことは、沼田城を守る北条方にとって決して小さな出来事ではない。沼田城の西方を固めていた一角が崩れたことで、これまで北条の勢力圏として保たれていた利根川上流域には、武田の影響が入り込み始めていた。
もっとも、城を一つ従わせたからといって沼田城が孤立したわけではない。沼田城には北条氏邦が在城し、周辺にもなお北条方の国衆が残っている。武田が上野を完全に支配するためには、ここからさらに幾つもの障害を越えなければならなかった。
そして天正八年閏三月、上野では最初の大きな衝突が起こった。
沼田周辺へ進出していた真田勢を迎え撃つため、北条方も兵を動かした。これまで調略によって少しずつ勢力を広げてきた真田であったが、相手が黙ってそれを見ているはずもない。北条にとって沼田は上野支配の要であり、ここを失えば利根川流域からさらに南西へ押し込まれることになる。
指揮を執ったのは矢沢頼綱であった。
昌幸が駿河にあって勝頼の陣へ出仕している以上、上野の戦を任せられるのは頼綱しかいない。真田一族の中でも長く戦場を経験し、上野の地理と国衆の事情にも通じている頼綱は、集めた兵を率いて北条勢と対峙した。
戦いは決して大規模な会戦ではなかった。しかし、互いに相手の出方を窺うだけの小競り合いでもなかった。真田勢は北条方の動きを見極めながら進み、要所を押さえて敵を圧迫していく。頼綱は無理に深追いすることを避けながらも、ここぞというところでは兵を前へ出した。
やがて北条勢が押し返される。
真田勢はこれを破り、上野における足場をさらに一つ広げた。
その報せが駿河の勝頼のもとへ届いたのは、それから間もなくのことであった。
「頼綱が勝ったか」
報告を聞いた勝頼は、しばし黙っていた。
武田家は今、徳川・北条との戦いを抱えている。駿河では徳川方の動きも活発になり、勝頼自身が軍勢を率いて戦場に立たねばならない状況が続いていた。そのような中で、上野では真田が北条を押し返したのである。
勝頼にとって、それは都合のよい報せであった。
「昌幸を呼べ」
そう命じられた昌幸が勝頼の前へ参上すると、勝頼は上野の戦況を伝えた。
「頼綱が北条を破った。これを機に沼田を取る」
昌幸は黙って頭を下げた。
「はっ」
「そなたは上野へ戻り、沼田を落とせ」
その言葉に、昌幸の胸の内で一つの線が繋がった。
小川城はすでにこちらへ付いている。周辺の国衆にも働きかけを続けている。そして今、頼綱が北条勢を退けたことで、沼田城へ向かう道も開きつつある。
ここで動かなければならない。
「承知いたしました」
昌幸はそれ以上を語らなかった。
だが、陣を辞したあとその顔には僅かな笑みが浮かんでいた。
ようやく、自分で動ける。
天正八年四月八日。
昌幸は上野へ戻り、沼田城を目指して進軍した。
その頃、沼田城には北条氏邦が入っていた。
氏邦は北条家における上野方面の大将であり、武田の侵攻によって次々と支配地を失いつつある上野を守る役目を負っていた。北条方にとって、この戦いは単に沼田城を守るためだけのものではない。これ以上、武田に上野を奪われることを防ぐための戦いでもあった。
昌幸が兵を進めると、氏邦もまた城から兵を出した。
両軍が向かい合ったのは、後閑の地であった。
その間には利根川が流れている。
川を挟んで対峙する両軍を見渡しながら、昌幸は黙って敵陣を眺めていた。
「北条も本気でございますな」
側にいた家臣が言う。
「そうでなければ困る」
昌幸はそう答えた。
「沼田を守る気がないのなら、こちらとしても話が早すぎる」
冗談めかした言葉ではあったが、昌幸の目は笑っていなかった。
目の前にいるのは、これまで書状を送り、言葉を交わし、人の心を動かすことで相手にした国衆たちとは違う。北条家の兵であり、その背後には関東一円に勢力を広げる北条氏の力がある。
策だけでどうにかなる相手ではない。
昌幸はそれを理解していた。
やがて真田勢が動いた。
利根川を越え、北条勢の陣へ迫る。北条方もこれを迎え撃つため、川沿いに陣を固めていた。
両軍が激突すると、戦場は一気に騒がしくなった。
槍が交わり、弓矢が飛び交う。怒号と馬蹄の音が重なり、先ほどまで静かだった川辺が瞬く間に戦場へ変わっていく。
真田勢は正面から押し進み、北条方の仕寄せを突破した。
「押せ!」
昌幸自身も馬を進める。
これまで人の心を読み、敵の利害を見極め、戦わずして城を一つずつこちらへ引き寄せてきた昌幸であったが、戦場ではそれだけでは足りない。目の前にいる敵を退けなければ、沼田城へ進むことはできない。
昌幸は兵の動きを見ながら、自ら前へ出た。
真田の旗が進む。
一度は北条勢を押し込み、戦線を崩しかける。
だが、北条もまた戦国の世を生き残ってきた勢力である。
崩れかけた陣を立て直すと、今度は反対に真田勢へ激しく反撃を加えた。
「退け!」
昌幸が叫ぶ。
追撃を受けながら、真田勢は徐々に後退していく。
利根川を挟んだ戦いは、真田の勝利とはならなかった。
昌幸は兵をまとめながら、遠ざかっていく北条勢を見つめていた。
悔しさがないわけではない。
だが、それ以上に冷静だった。
「北条も、まだこれほどの力を残しているか」
小川城を従わせ、周辺の国衆をこちらへ引き寄せ、頼綱が北条勢を破った。上野の他の地域でも武田方が押している。そこまで積み上げてきたものがあったからこそ、昌幸は沼田城へ手を伸ばせるところまで来た。
しかし、最後の一歩を踏み出すには、まだ力が足りなかった。
策を巡らせれば敵を動かすことはできる。
人を味方につけることもできる。
だが、それだけで戦場そのものを支配できるわけではない。
「戻りますぞ」
家臣の声に、昌幸は頷いた。
「そうしよう」
兵をまとめ、真田勢は撤退を始めた。
沼田城は、まだ落ちない。
だが、昌幸は諦めてはいなかった。
むしろ、戦場から戻る道すがら、次に何をすべきかを考えていた。正面から沼田を攻めれば北条は必ず兵を集める。
ならば、別の道がある。
沼田城そのものへ手を伸ばす前に、その周囲をさらに切り崩す。小川城だけでは足りない。沼田の北西、越後との国境に近い場所にも、武田が押さえるべき城がある。
昌幸の脳裏に、一つの名が浮かんだ。
猿ヶ京城。
上越国境のこの城を落とせば同盟国上杉の領国を守ると同時に、さらなる周辺国衆の動揺も誘える。昌幸は馬上から遠くの山々を眺めた。
「沼田は、まだ取らぬ」
側の家臣が怪訝そうに昌幸を見る。
「では、どこへ?」
昌幸は答えず、ただ北西へ目を向けた。
沼田を取るために、沼田を攻めない。その策はすでに昌幸の中で次の段階へ移っていた。戦はまだ終わっていない、そして昌幸の上野攻略もまた、ここからさらにその形を変えていくことになる。




