第二十一話 小川城
塩田平では、あれから季節が一つ巡った。源七郎が関わったため池の整備は大小合わせて四つが完成し、田畑へ引かれる水も以前より安定しつつあった。馬を鉄砲の音に慣らすための調練も続けられているという。塩田家で積み上げられた小さな変化とは裏腹に、真田家を取り巻く情勢は大きく動き始めていた。
天正七年九月
真田昌幸は駿河にいた。
武田勝頼は徳川・北条との戦いのため、駿河方面へ兵を集めていた。甲越同盟によって上杉との関係を結んだ一方、北条との関係は完全に断たれ、武田家は東西に敵を抱える状況となっていたのである。
そのような中で、昌幸に新たな命が下った、上野は沼田への進出である。
沼田は、真田家にとって単なる一つの城ではない。越後から上野へ抜ける道を押さえ、利根川流域を支配するための要衝であり、北条にとっても上野支配の重要な拠点である。ここを手に入れることができれば、真田家は吾妻から利根へと勢力を伸ばし、東上野における武田家の立場を大きく変えることができる。
だが、昌幸自身がそこへ向かうことはできなかった。
勝頼の命に従い、駿河での戦況を見守りながら武田家の陣に出仕していたからである。
昌幸は陣中の一室で地図を広げ、その上に視線を落としていた。信濃から上野へ伸びる道筋を辿り、その先にある沼田へ目を向ける。沼田城を直接攻めるだけなら、兵を集めて進軍すればよい。しかし、それでは北条の援軍を呼び寄せるだけである。
昌幸が考えているのは、城を攻めることではなかった。
城の周りから崩していくことだった。
「沼田を取るなら、まず沼田の外からだな」
そう呟いた昌幸の前に、一人の男が現れた。
昌幸よりも年長で、白髪の混じった髪を後ろへ束ねている。しかし、老人と呼ぶにはまだ早い。身体には武人としての鍛錬を重ねた者特有の張りがあり、その眼差しには長年戦場を生き抜いてきた者の鋭さがあった。
矢沢頼綱
真田幸綱の弟であり、昌幸にとっては叔父にあたる男である。
真田一族の中でも古くから家を支えてきた長老格の一人であり、昌幸が家督を継ぐ以前から真田家の軍事を支えてきた。兄・幸綱が武田家のもとで真田家を再興して以来、頼綱もまたその一翼を担い、吾妻方面の戦いにも深く関わってきた。
昌幸にとって、頼綱は単なる叔父ではなかった。
父の代から真田家を知る者であり、自分がまだ武藤喜兵衛として生きていた頃から、その背中を見てきた人物でもある。
「沼田を取ると聞いたが」
頼綱が地図を覗き込みながら言った。
「御屋形様から命を受けました。だが、私はここを離れらませぬ」
「ならば誰にやらせる?」
「叔父上に」
頼綱は一瞬だけ昌幸を見た。
「随分と簡単に言ってくれるな」
「叔父上ならできましょう」
「お前は昔から、人を使うのが上手いな」
「叔父上が使いやすいだけでございます」
「それは褒めているのか?」
「もちろん」
頼綱は呆れたように息を吐いたが、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
この二人の間に、家督を継いだ当主とそれに仕える家臣というだけでは説明できないものがある。昌幸は頼綱を信頼していたし、頼綱もまた、三男として生まれた甥が武藤家へ出され、その後に真田家当主となった経緯を知っている。それだけに、昌幸が何を考えているのかを言葉にされる前から察することも多かった。
「沼田城を攻めるのか」
「最後には」
「最後?」
頼綱が眉を上げる。
「城というものは、城だけで立っているわけではない。周りに人がいる。城を支える村があり、道があり、兵糧を運ぶ者がいる。そして何より、その城を守る者にも家族や領地がある」
昌幸は地図の上を指でなぞった。
「そこを崩す」
「力攻めはせぬ、と」
「今は」
昌幸の指が沼田城の西側へ移る。
「まず小川を」
沼田城の西方には、小川城がある。その城主は小川可遊斎。もともと上杉方に属していた国衆であり、沼田周辺の情勢が変化する中で、北条と武田のどちらにつくかを迫られる立場にあった。
昌幸は、そのことをよく理解していた。
戦国の国衆にとって、主家への忠義だけで全てを決めることなどできない。家臣を養い、領地を守り、一族を存続させる。そのために最も有利な道を選ばなければならない。
「小川可遊斎は、簡単には動かんだろう」
頼綱が言った。
「本人を直接動かす必要はないでしょう」
「ほう」
「まずは、その周り」
昌幸は小川城の名を囲むように指を動かした。
「可遊斎の家臣に、こちらへ話を聞く者がいるはず」
「小菅刑部少輔か」
その名を聞いて、昌幸は頷いた。
「知っておられるので?」
「吾妻や利根の者を忘れるほど、私は老いておらん」
頼綱は海野平の戦いでの敗北後、兄幸綱に従い上野へ落ち延びていた時代がある。当然上野国衆についても把握していた。
「なるほど。小菅をこちらへ引き込めれば、可遊斎にも話が届く」
「そういうことだ」
「それで、何を与える?」
昌幸は少し考えた。
「本領安堵。それに、働き次第では新しい所領も」
「随分と気前がいい」
「戦って取るより安い」
頼綱はしばらく黙って昌幸を見た。
昌幸の考えは単純だった。敵を一人討ち取るより、敵を一人味方にする方が得になる場合がある。そして、その者がさらに別の者を説得してくれれば、一人分の恩賞で二人、三人と人を動かせる。
もちろん、そのためには褒美が必要になる。
だが、沼田を取った後に得られるものを考えれば、今ここで惜しむ理由はなかった。
「御屋形様の御印判をいただけるなら、話は早い」
昌幸が言うと、頼綱は頷いた。
「では、わしが動こう」
「頼みます」
「まず小菅だな」
「ええ」
昌幸は筆を取った。
そこから先の話は、驚くほど静かに進んだ。
戦場で槍を交えるわけでもない。城へ兵を差し向けるわけでもない。ただ一通の書状が書かれ、それが人の手から人の手へ渡っていく。
小菅刑部少輔へは、武田方に属することによって本領を安堵すること、さらに功があれば新たな所領を与えることが伝えられた。それは単なる誘いではなかった。勝頼の権威を背景にした、具体的な約束だった。
小菅にとっても、決して悪い話ではない。
小川可遊斎の家臣として生き続けることと、武田方へ転じることで自らの所領を守り、さらに加増の可能性まで得ること。その二つを天秤にかければ、答えは決して一つではなかった。
そして昌幸は、その迷いこそが重要だと考えていた。
人は完全に納得しなければ動かないわけではない、自分にとって損ではないと思えば動く。
自分の家を守れると思えば動く。
そして、今の主君よりも新しい主君の方が自分を大切にしてくれると思えば、なおさらである。
小菅はやがて武田方へ傾いた。
その報せを受けた頼綱は、すぐに可遊斎への働きかけを始めた。
「小菅はもうこちらへ付いた」
「可遊斎は?」
「まだ決めていない」
「ならば、決める理由を」
昌幸はそう答えた。
小菅を通じて伝えられたのは、武田方へ従属したとしてもこれまでの所領を奪うつもりはないということ、そして早く決断すれば、それだけ厚く遇するという約束だった。
可遊斎にとって、これは簡単な決断ではなかった。
上杉謙信が死に、越後では御館の乱が起きた。その後、上杉景勝と武田勝頼が手を結び、これまでとは全く異なる勢力図が上野にも押し寄せている。かつて上杉方に属していた小川氏にとって、今や北条と武田のどちらにつくかは、家そのものの存亡に関わる問題だった。
まして沼田の北条勢が健在である以上、武田に付くことには危険もある。
しかし、だからこそ昌幸は急がなかった。
武田に付けば何が得られるのか、北条に従い続ければ何を失うのか。
その二つを可遊斎自身に考えさせればいい。
昌幸は小川城を攻めることなく、小川氏をこちらへ引き寄せようとしていた。
やがて、その働きかけが実を結ぶ。
小川可遊斎は、武田勝頼に従うことを決めた。
それは一つの城を落としたわけでも、一度の戦で大勝したわけでもない。ただ一人の家臣が動き、その者を通じて一人の国衆が考えを変えた。
その結果、小川城は武田方へ傾いた。
昌幸はその報せを受けても、大きく喜ぶことはなかった。机の上に広げた上野の絵図へ目を戻し、小川城の位置を確かめる。そこは、沼田城周辺一つに過ぎない。しかし、地図の上では小さな変化でも、それを積み重ねればやがて大きな差になる。
「一つ動いたな」
昌幸が呟く
上野へ向かった頼綱の代わりに駿河に来た頼康の子で昌幸の従弟にあたる矢沢頼康が聞く。
「次はどこへ?」
昌幸は地図を見つめたまま、指をさらに北へ動かした。
「まだ沼田ではない」
その眼差しの先には、沼田城を取り巻くいくつもの城と、そこに暮らす国衆たちの名が並んでいた。
「沼田城を取るために、沼田の周りを先に取る」
戦は、まだ始まったばかりだった。




