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真田異子伝  作者: 海野快斗
第一章 滅亡 四節 土台

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第二十話 鉄砲対策

山田池の普請が始まってから、しばらくの時が流れた。塩田平では相変わらず田畑の仕事が続き、その合間を縫うようにして普請へ出る者たちの姿が見られるようになっていた。まだ池と呼ぶには小さく、土を掘り返した跡と積み上げられた石が目立つ程度ではあるものの、それまで何もなかった場所に少しずつ人の手による形が生まれている。その変化を見れば、長い時間を掛けて土地を変えていくということが、どういうものなのか源七郎にも次第に分かってきた。


しかし、源七郎が塩田家で学んでいることは政だけではない。安楽寺での学問、塩田流馬術、領内の視察、そして家臣たちとの交流を重ねる中で、六歳だった少年の身体も少しずつ成長していた。忍びの里で鍛えられていたこともあり、同年代の子供と比べれば身のこなしは軽く、馬にもかなり慣れてきている。最初の頃には馬の世話をするだけでも戸惑っていたが、今では自分が世話をしている馬の機嫌を表情や耳の動きから読み取り、馬の方もまた源七郎が近づけば警戒することなく鼻先を寄せるようになっていた。


そんな日々の裏側で、塩田家ではもう一つの仕事が静かに進められていた。


長篠の教訓を生かした鉄砲対策である。


塩田衆そのものが長篠で壊滅したわけではない。しかし、武田家が鉄砲の威力を思い知らされた戦いであったことは間違いなく、騎馬を家の大きな力としてきた塩田家にとっても、決して他人事ではなかった。馬が銃声を恐れる以上、騎馬をどれほど鍛えても、いざ戦場で鉄砲の音を聞いた瞬間に隊列が崩れれば、その力を十分に発揮することはできない。そこで時勝は、長篠から戻って以来、塩田家の騎馬を鉄砲の音に慣らすための方法を考え、御牧家を中心に少しずつ訓練を始めさせていた。


ある日の夕刻、時勝は館の一室で兼定と向かい合っていた。二人の間には馬の調練について記した書き付けが置かれ、その脇には塩田衆が所有する馬の数や、それぞれの調練状況を記した帳面が積まれている。時勝はしばらくその帳面へ目を通してから、兼定へ視線を向けた。


「兼定、鉄砲への慣らしはどこまで進んでいる」


「少しずつではございますが、進んでおります。ただ、思っていた以上に時間と金が掛かります」


兼定はそう答え、帳面を開いた。そこには馬ごとの様子が細かく記されている。音を聞いてもほとんど動じなくなった馬もいれば、火薬の臭いを感じただけで落ち着きを失う馬もいる。銃声そのものには慣れてきても、馬上で突然音が鳴れば驚いて身体を跳ねさせるものもあり、個体差も大きかった。


「まずは遠くで火縄銃を打ち、それに慣れさせる。次に少しずつ距離を縮め、最後には馬のすぐ近くで鳴らす。やり方そのものは単純ですが、一度に進めるわけには参りませぬ。馬が恐怖を覚えたところで無理に続ければ、慣れるどころか、鉄砲の音そのものを危険なものとして身体に刻み込んでしまいます」


「やはり、馬には相当な負担か」


「はい。人間ならば、音の正体を理解できます。鉄砲から出る音だと分かれば、次に何が起こるのかを頭で考えられる。しかし馬にはそれができませぬ。ただ突然、大きな音が鳴り、火と煙が上がる。それが自分を傷つけるものなのかどうかも分からぬのですから、恐れるのは当然でしょう」


時勝は黙って頷いた。


「長篠では、鉄砲そのものだけでなく、それを恐れぬ人間と、恐れる馬との違いが戦を分けたのかもしれぬな」


「左様かと。だからこそ、馬が鉄砲の音を聞いても、騎手の指示を聞けるようにする必要があります。音に慣れさせるだけでは足りませぬ。驚いたときにも騎手へ意識を戻せるようにしなければ、実戦では役に立ちません」


兼定はそこで一度言葉を切り、帳面を閉じた。


「しかし、これには時間が掛かります。すべての馬を同じように仕上げることは難しいでしょう。若い馬ほど音への反応が強いものも多く、無理をさせれば逆に使い物にならなくなる。今のところは、調練に耐えられる馬を選び、その馬から少しずつ数を増やしていくのがよいかと思います」


時勝はしばらく考えていたが、やがて静かに答えた。


「急ぐ必要はない。塩田流の騎馬は、一年や二年で作るものではないのだからな。今の我らが整えたものを、次の世代が受け継げばよい」


「その通りにございます」


「ただし、やめることだけは許さぬ。長篠で起きたことを忘れれば、同じことが起こる」


時勝の言葉に、兼定は深く頷いた。


「承知しております」


二人が話していたのは、単なる馬の訓練ではなかった。塩田家がこれからも騎馬を武の柱とするのであれば、鉄砲の時代に合わせてその騎馬を変えていかなければならないという、家の未来そのものに関わる問題である。塩田流馬術は古くから受け継がれてきた。しかし、古いものをそのまま守るだけでは、戦場そのものが変わってしまえば通用しなくなる。だからこそ時勝は、先人から受け継いだものを残しながら、新たな戦いに対応する道を探していた。


そして、その先にいるのが源七郎であった。


源七郎が塩田家へ迎えられてから、すでに二年が過ぎようとしていた。安楽寺での学びは続き、谷仙から読み書きや歴史、政について教わる一方、塩田家では馬の世話を続け、騎馬の扱いも少しずつ身についている。山田池の普請に関わるようになってからは、領民や家臣と接する機会も増え、ただ教えられたことを覚えるだけではなく、自分で考えて物事を見ることも覚え始めていた。


特に変わったのは、人を見る目だった。


忍びの里で育った源七郎は、もともと周囲の様子を観察することに長けていた。しかし、安楽寺で谷仙の教えを受け、塩田家で家臣や領民と接するうちに、それまでとは違ったものが見えるようになっていた。同じ言葉を口にしていても、その裏にある事情は人によって違う。村人が普請を嫌がるのにも理由があり、家臣がある案に反対するのにも理由がある。その理由を知らずに人を動かそうとすれば、いずれどこかで無理が生じる。


それを少しずつ理解していくことこそ、源七郎が塩田家で得ていた大きな成長の一つだった。


藤との関係にも、ほんのわずかな変化があった。


初めて会った頃、藤は源七郎に声を掛けられるだけで逃げていた。父を失い、母も生まれた時に亡くしていた彼女にとって、他人と接することそのものが苦痛だったのである。しかし、安楽寺で過ごす日々の中で源七郎は何度も藤の姿を見かけ、そのたびに無理に話しかけることはせず、ただ挨拶をするようになった。やがて藤も逃げなくなり、短い言葉を交わす程度にはなっていた。


「今日は何を学んだのですか」


「馬のことを習いました」


「馬……好きなのですか」


「はい。最初は怖かったですが、今は好きです」


そんな短いやり取りであった。それでも源七郎にとっては大きな変化だった。藤が以前のように塞ぎ込んだままではなくなっていることが嬉しく、藤にとっても、自分へ無理に踏み込んでこない源七郎は少しずつ安心できる存在になっていた。


そして時が経つにつれ、源七郎の元服についても塩田家で考えられるようになっていた。


まだ幼さの残る少年ではあるが、いつまでも「若様」と呼ばれるだけの存在ではいられない。塩田家の養子として迎えられた以上、いずれは正式に家名を継ぎ、当主として家臣や領民を率いることになる。あくまで時勝は当主の代行として再び塩田衆棟梁となっているだけである、本来は源七郎を若くても元服させ当主とするべきだった。


時勝もまた、その時期が近づいていることを感じていた。


「源七郎も、もうすぐ元服を考える歳になるな」


ある日、そう口にした時勝に、範康は頷いた。


「安楽寺での学びも、馬術も、以前とは比べものにならぬほど身についております。まだ若いとはいえ、家を継ぐ者としての自覚も少しずつ芽生えてきたように思います」


「そうか」


時勝は静かに笑った。


源七郎が初めて塩田城へ来た日のことを、時勝は今でも覚えている。まだ六歳だった少年は、突然知らぬ家へ迎えられても怯えることなく、自分を見つめていた。その少年が今では、馬の世話をし、学問を修め、領民と共に土を掘っている。


「時が経つのは早いものだな」


そう呟いた時勝の脳裏には、長篠で失った時信の姿が浮かんでいた。


時信が生きていれば、今ごろは自分と共に源七郎の成長を見守っていたのかもしれない。しかし、失われたものを嘆いているだけでは前へ進めない。だからこそ時勝は、源七郎にできるだけ多くのものを見せ、学ばせようとしていた。


そして源七郎自身も、まだ自分が何者になるのかを完全には知らなかった。


忍びの里で身につけた技、安楽寺で学ぶ知識、塩田家で学ぶ馬術と政。父から授かった真田の心。それらがやがて一つに重なったとき、自分がどのような当主になるのかも分からない。


ただ一つ確かなことがある。


源七郎が少しずつ、塩田家を継ぐ者へと変わり始めているということであった。


そしてその成長を見守る大人たちの側でも、長篠の戦いによって突きつけられた新たな時代への備えが、静かに進められていた。


馬は、鉄砲の音を恐れる。


ならば、その恐れを乗り越えさせなければならない。


古くから続く塩田流馬術を、これからの戦場でも通用するものへ変えるために。


その仕事もまた、源七郎がいずれ背負うことになる塩田家の未来へ、確かにつながっていた。

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