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真田異子伝  作者: 海野快斗
第一章 滅亡 四節 土台

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第十九話 人手

ため池を築くための大まかな方針が決まり、山田池を最初の候補として工事を進めることになったものの、計画が具体的な形を帯びるにつれて、源七郎たちの前には別の問題が浮かび上がってきた。水をどこへ集めるのか、どのような堤を築くのか、どれほどの規模にするのかということまでは話し合うことができても、それを実際に形にするためには多くの人手が必要になる。土を掘り、石を運び、堤を築き、水の流れを整える。それは数人の家臣だけで成し遂げられる仕事ではなく、かといって領民を一度に大勢集めれば、それだけ彼らの暮らしに負担を掛けることになる。


そのため、ある日の夕刻、安楽寺の一室には源七郎、範康、勝治、谷仙和尚の四人が集まり、山田池の絵図を前にして今後の工事について話し合っていた。絵図にはこれまでの視察で確認した水の流れや土地の高低が書き込まれ、どこから手を付けるべきかが細かく記されているが、それを眺めているだけでは池は一向に出来上がらない。計画を実行するための人手をどう確保するか、それが今の最大の問題であった。


「これほどの普請となりますと、塩田家の家臣だけでは到底足りませぬな」


範康が絵図から顔を上げて言った。家中の混乱が落ち着き、政務にも余裕が生まれ始めた範康は、現在では源七郎の側について計画を進める役を担っている。以前のように戦後処理に追われているわけではないからこそ、今回の計画についても現実的な問題を一つずつ洗い出していた。


「領民の力を借りるほかはないでしょう。しかし、ただ人を集めればよいというものでもありますまい」


勝治がそう続けると、源七郎も絵図へ目を落とした。自分たちが考えているのは、今日明日で終わるような小さな工事ではない。山田池を整えるだけでも相当な時間が掛かるうえ、これが成功すれば塩田平の各地へ同じような水の備えを広げていくことも考えられている。最初の池を造る段階から無理をすれば、後の計画まで続かなくなる可能性があった。


「ならば、まずどれほどの人が必要なのかを知ることから始めるべきでしょう」


源七郎がそう言うと、谷仙が静かに頷いた。


「その通りです。人を集める前に、人の暮らしを知らねばなりませぬ。どの村にどれほどの働き手がおり、いつならば田畑から手を離せるのか、それを知らずして人数だけを決めれば、池を造るために田畑を荒らすという笑えぬことにもなりましょう」


「では、村ごとに尋ねて回るのですか」


「それがよろしいでしょう。誰か一人が机の上で決めた数字より、実際にその土地で暮らす者の言葉の方が、この場合には確かなものです」


源七郎はその言葉を聞きながら、これまでの学びを思い返していた。谷仙は以前から、政とは人に命令することだけではないと教えている。領主が正しいと思ったことを一方的に押し付けるのではなく、その土地で暮らす人々が何を望み、何を恐れ、何ならば負担できるのかを知ったうえで物事を進めなければならない。今回のため池造りは、そのことを実際に学ぶための良い機会でもあった。


「しかし、村々の事情を一つずつ聞いて回るとなれば、かなりの時が掛かりますな」


範康がそう言ったところで、部屋の外から声がした。


「その役目ならば、私がお手伝いいたしましょうか」


四人が振り向くと、そこには一人の若い男が立っていた。


源蔵である。


出浦衆に属する忍びであり、源七郎とは幼い頃からの縁がある。藤蔵の従兄でもある源蔵は、戦うことよりも人の動きを探り、土地の様子を調べ、情報を集めることを得意としていた。忍びの里にいた頃からその性質は変わらず、誰がどこへ行ったのか、どの家とどの家が繋がっているのか、表向きには見えない人の関係を把握することに長けている。


「源蔵、いつからそこにいた」


勝治が呆れたように尋ねると、源蔵は小さく笑った。


「皆様のお話が始まった頃には」


「相変わらず気配を消すのが上手いことだ」


「忍びですので」


その返答に範康が苦笑し、それから改めて源蔵へ向き直った。


「何か考えがあるのか」


「はい。村ごとの人数や事情を調べるのであれば、最初から普請の人足を出してくれと頼むより、まず話を聞いて回った方がよいでしょう。どの村にどれほどの働き手がいるのか、農作業の都合でいつなら人を出せるのか、それを調べておけば、後から無理な人数を求めずに済みます」


「なるほど」


「それに、村によっては普請へ出ることを嫌がる者もいるでしょうが、池ができたことで水の恩恵を受ける田畑がどこなのかを説明すれば、考え方が変わる者もいるはずです。自分たちの暮らしを良くするための仕事だと分かれば、命じられたからではなく、自分から手を貸す者も出てくるでしょう」


源七郎は源蔵の話を聞きながら頷いた。


「人を集める前に、人が何を考えているのかを調べるのですね」


「左様です」


「それならば、私も見てみたいです」


思わず口にした源七郎に、範康が穏やかな目を向けた。


「若様が直接すべての村を回る必要はございません。しかし、いくつかの村へは実際に足を運ばれた方がよいでしょう。これから塩田家を背負うのであれば、領民がどのような暮らしをしているのかを、ご自身の目で見ておくことは決して無駄ではありません」


「分かりました」


その後、源蔵を中心に村々の様子を調べることになった。どの村にどれだけの働き手がいるのか、田植えや収穫などの農作業がいつ集中するのか、普請へ人を出せる時期はいつなのか、そして山田池が完成した場合にどの田畑がその水を利用することになるのか。調べるべきことは多かったが、源蔵は一つずつ村を回り、人々の話を聞きながら情報を集めていった。


一方、源七郎も範康や勝治に伴われていくつかの村を訪れた。そこで見たのは、安楽寺で学んでいるだけでは知ることのできない塩田平の姿であった。小さな田を耕す者、畑の作物を世話する者、馬を扱う者、家族のために薪を集める者。それぞれが自分の仕事を持ち、一日の中で自由に使える時間は決して多くない。池を造れば将来的にはその者たちの暮らしが楽になるとしても、工事の最中には自分たちの時間を差し出さなければならない。


「皆が賛成してくれるとは限らないのですね」


ある村を訪れた帰り道、源七郎がそう言うと、範康は静かに答えた。


「当然です。良いことだから従え、と言うだけでは政にはなりませぬ。人には人の暮らしがあり、それぞれに事情がございます。若様がこれから塩田家を継がれるのであれば、そのことだけは忘れぬようになされませ」


源七郎は返事をせず、道の先を見つめた。自分が考えていたよりも、人を動かすということは難しい。しかし、それだけに面白いとも感じ始めていた。


やがて村々から集められた情報をもとに、山田池の普請の日程と人数が決められていった。一度に大勢を呼び寄せるのではなく、農作業の状況を見ながら村ごとに順番を定め、無理のない範囲で人を出してもらう。工事に参加する者には池の目的を説明し、完成すればどの地域が恩恵を受けるのかも伝える。そうしてようやく、山田池の普請を本格的に始める準備が整ったのである。


数週間後、山田池の予定地には、これまでとは違う光景が広がっていた。


鍬を担いだ男たちが村ごとに集まり、塩田家の家臣たちが人数を確認しながら作業の場所を割り振っていく。農作業を終えてから来た者もいれば、その日の仕事を家族に任せて普請へ参加した者もいる。決して大軍のような人数ではない。それでも一人、また一人と人が集まり、山の斜面には土を掘る音と人々の掛け声が響き始めた。


源七郎もその中にいた。


身分を考えれば、自ら鍬を持って土を掘る必要などないのかもしれない。しかし、谷仙から「人に働けと言う者が、その仕事を知らぬままではいけませぬ」と言われて以来、源七郎はできる限り現場へ出ることにしていた。鍬を握る手にはまだ力が足りず、土の硬さに苦戦することも多かったが、それでも周囲の者たちに教えられながら一つずつ仕事を覚えていった。


「若様、そこはもう少し浅くてよろしいかと」


近くで作業を見ていた勝治が声を掛ける。


「こちらですか」


「はい。そこを深く掘りすぎますと、後で土を戻すのに余計な手間が掛かります。普請というものは、掘ればよいというものでもございませぬ」


源七郎は苦笑した。


「学問でも、何でも深くすればよいというものではないのですね」


「和尚様がお聞きになれば、きっと良いことを言うと褒められましょうな」


そう言って勝治が笑うと、源七郎もつられて笑った。


その一方で、範康は少し離れた場所から作業全体を見渡していた。誰がどの仕事をしているのか、どこに人手が足りないのかを確認しながら、必要に応じて指示を出している。源七郎はそんな範康の姿を見ながら、家臣をまとめるということもまた、戦場で指揮を執ることとは違う難しさがあるのだと感じていた。


夕方になり、最初の作業が終わる頃には、山田池の予定地には人の手による小さな変化が残されていた。まだ池と呼べるほどのものではない。堤も完成していなければ、水を蓄えることもできない。それでも、昨日まではただそこにあった土地へ、少しずつ人の意思が形を与え始めている。


源七郎は作業を終えた人々の姿を眺めながら、静かに息を吐いた。


「これだけの人が動くのですね」


隣に立っていた谷仙が頷く。


「人は一人では大きなことを成せぬこともあります。しかし、一人が二人になり、二人が十人になり、十人が百人になれば、やがて一人では到底動かせぬものまで動かせるようになる。それが人の力です」


「では、政とは、その人の力をどう使うかを考えることなのでしょうか」


「それだけではありませぬ。人を使うだけならば、力のある者なら誰にでもできます。大切なのは、人が力を使った先に何を残すのかを考えることでしょう」


源七郎は山田池の予定地へ目を戻した。今日動いた土は僅かであり、完成までにはまだ長い時間が必要になる。しかし、この池が完成すれば、雨の少ない年にも田畑へ水を届けることができる。今ここで働いている者だけではなく、その子や孫の代まで恩恵を受けることになるかもしれない。


そのことを考えると、目の前にある小さな変化が、決して小さなものではないように思えた。


「明日も来てもよろしいでしょうか」


源七郎が尋ねると、谷仙は穏やかに笑った。


「もちろんです。若君が自ら望んで学ばれるのであれば、私は止める理由を持ちませぬ」


山田池の普請は、こうして始まった。


それは城を攻め落とすような華々しい戦でもなければ、敵を討ち取るような武功でもない。人を集め、土地を見て、暮らしを知り、無理のない形で力を借りながら、何年も先のために一つのものを築いていく仕事である。


しかし源七郎にとって、それは馬術や兵法とはまた異なる意味で、塩田家を継ぐ者として必要な力を学ぶ機会となっていった。


そして山田池に最初の鍬が入ったその日から、塩田平の水を巡る長い仕事が始まったのである。

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