第十七話 ため池
長篠の戦いから一年余りが過ぎ、塩田家ではようやく家中の動揺も収まりつつあった。時信の討死によって一時は大きく揺れた家臣たちも、時勝が再び差配を取り戻し、範康をはじめとする重臣たちがそれぞれの役目を果たすことで、日々の政務は少しずつ以前の形を取り戻している。失われたものが戻ってきたわけではない。それでも残された者たちは、それぞれの立場で家を支え、これから先の塩田家を形作っていかなければならなかった。
源七郎は時勝から命じられたため池の計画について、範康と安楽寺へ足を運んでいた。これから始めるのは、ただ池を一つ造るという話ではない。塩田平という土地そのものの暮らしを変えるかもしれない仕事であり、時勝が家督を時信へ譲った後から谷仙と相談を重ね、長い時間をかけて考えてきた計画でもあった。
境内へ入ると、すでに谷仙和尚が本堂脇の一室で待っていた。その隣には勝治の姿もある。源七郎が頭を下げると、谷仙はいつもの穏やかな笑みを浮かべて迎えた。
「よう参りましたな、源七郎殿。今日は馬の話ではなく、田畑と水の話にございますぞ」
「はい。大殿から、ため池のことを学ぶようにと言われております」
「うむ。それならば、まず池を造ることから考えてはなりませぬ。なぜ池が必要なのか、誰のために造るのか、そして造った後に誰がそれを守るのか、それを考えねばなりません」
源七郎は頷きながら、谷仙の向かいへ腰を下ろした。範康もまた、その様子を見ながら静かに口を開く。
「大殿が考えておられた計画は、単純に水を溜める場所を増やそうというものではありません。塩田平の田畑を安定して耕せるようにし、旱魃の年にも民が飢えぬようにする。そのために、どこへ水を溜め、どこから水を引き、どの村へどれだけ分けるのかまで考えなければなりません」
源七郎は、以前御牧を訪れた帰りに見た塩田平の景色を思い出していた。広々とした田畑は、この土地が農を営むには決して悪い場所ではないことを教えてくれる。しかし、その一方で、空は晴れている日が多く、雨が少ない。田畑を広げることができても、そこへ与える水が足りなければ、その広さはそのまま強みにはならない。
「田畑が広いからこそ、水が足りなくなった時の影響も大きいということですね」
「その通りです」
範康が答えた。
「一つの村だけが困るのであれば、まだ話は簡単です。しかし塩田平は多くの村が一つの水に頼っている。上流の村が多く水を取れば下流の村が困り、誰かが勝手に堰を造れば別の場所で水が足りなくなる。水というものは、土地そのものよりも扱いが難しいのです」
勝治も腕を組みながら頷いた。
「それに、池を造れば終わりというわけでもありません。土が崩れれば修繕が必要になりますし、水路にも手を入れなければならない。誰が働くのか、費用をどうするのか、村同士でどう分けるのかまで決めておかねば、せっかく造っても長くは持ちません」
源七郎は黙って三人の話を聞いていた。忍びの里では敵の動きを読むことを教えられ、安楽寺では人の考えを知ることを教えられてきた。しかし、こうして一つの土地を治めるための話を聞いていると、これまで学んできたものとはまた違う難しさがあることが分かる。
戦ならば、敵と味方を分けることができる。しかし政においては、そうはいかない。水を必要とする者は皆、塩田家にとって守るべき民でありながら、その者同士の利害が一致するとは限らないのである。
谷仙はそんな源七郎の表情を見て、ゆっくりと口を開いた。
「源七郎殿、政とは人を思い通りに動かすことではありませぬ。人がそれぞれに抱えている事情を知り、その者たちが同じ方向を向ける道を探すことにございます。ため池を一つ造るだけでも、百姓には百姓の事情があり、村には村の事情があり、家中には家中の事情がある。それらを一つずつ拾い上げていくのが、治めるということでございましょう」
その言葉を聞き、源七郎はしばらく考え込んだ。
時勝がこの計画を進めようとしていた理由も、少しずつ理解できてきた。塩田平という土地を安定して耕せるようにし、そこで暮らす人々の生活を守る。そのためには、これまでのやり方だけに頼るのではなく、土地そのものが持つ力を高めなければならない。
時勝が家督を時信へ譲った後、谷仙とともにこの計画を考え始めたのも、そのためであった。ところが、その計画を実際に動かそうとした矢先、長篠で時信が討死した。家督を継いだばかりの当主を失ったことで、塩田家には直ちに処理しなければならぬ問題が幾つも生じ、時勝は再び家中の差配を引き受けることになった。ため池の計画は重要でありながら、急を要する仕事の陰へ押しやられ、そのまま手を付けられずにいたのである。
だからこそ、今になって改めて動かす意味があった。
範康が机の上に広げた絵図へ指を置く。
「大殿は以前から幾つか候補を考えておられました。山から流れる水を受けやすく、なおかつ村々へ水を配りやすい場所です。ただし、候補地を決めるだけなら簡単ですが、そこに池を造るとなれば話は変わります。土地を持つ者への話、村々との取り決め、必要な人足、材木や石の確保、そして何より水をどう分けるかを決めなければなりません」
「では、最初に何をすればよいのでしょうか」
源七郎が尋ねると、範康はすぐには答えず、谷仙へ視線を向けた。谷仙は小さく頷く。
「まず見ることですな」
「見る、ですか」
「ええ。絵図だけでは分からぬことが多い。どこが高く、どこが低いのか。雨が降った時に水がどこを流れるのか。今ある水路はどこへ続いているのか。村人たちはどこから水を取っているのか。池を造るなら、まず土地そのものに尋ねる必要がございます」
源七郎はその言葉を聞き、自然と背筋を伸ばした。
安楽寺で学んできたことと同じだった。答えを先に決めるのではなく、まず自分の目で見て、考える。人の話を聞き、土地を見て、そこから一つの答えを探していく。それは剣や馬とはまったく違う学びでありながら、これまで谷仙から教えられてきたことともどこか繋がっているように思えた。
「明日から、私と共に村々を回りましょう」
範康がそう言ったところで、谷仙がふと思い出したように源七郎へ視線を向けた。
「それと、もう一人連れて行っていただきたい者がおります」
「もう一人、ですか」
「ええ」
そう言って谷仙は、廊下の向こうへ声を掛けた。
「有仙、こちらへ来なさい」
しばらくして、若い僧が姿を見せた。源七郎も以前に安楽寺で見かけたことがある。谷仙の弟子として学んでいる男であり、年齢も源七郎よりは上だが、まだ若く、少年の面影を残していた。
「有仙にございます」
「この者は私の弟子の一人でございます。私も年を取りましたゆえ、これから先は有仙にも土地を見せ、学ばせねばなりませぬ。源七郎殿と歳もそう離れておりませんし、共に歩けば互いに気付くこともあるでしょう」
有仙は静かに頭を下げた。
「源七郎殿、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
源七郎も頭を下げる。
谷仙は二人を見て微笑んだ。
「一人で見れば見落とすものも、二人で見れば気付くことがある。さらに村人の話を聞けば、三人、四人と見えるものが増えてまいります。学ぶということは、己の目だけを信じることではございません。他人の目を借り、自分では見えなかったものを知ることでもあるのです」
その言葉に、源七郎は深く頷いた。
こうして、ため池の計画を進めるための最初の視察が決まった。源七郎は範康と有仙、そして勝治らとともに塩田平を歩き、実際の土地とそこに暮らす人々の声を聞くことになる。
その日の帰り道、源七郎は山門を出たところで一度振り返った。夕暮れの安楽寺はいつものように静かで、境内の奥には古い堂宇が木々の間から覗いている。その静けさの中で、これから始まる仕事のことを考えると、不思議と胸が高鳴った。
馬に乗ることとは違う。刀を振るうこととも違う。人を動かし、土地を見て、水を分ける。まだ六つの源七郎にはあまりにも大きな仕事に思えたが、それでも時勝が自分に任せた意味を、少しずつ理解し始めていた。
翌日から、源七郎は範康と有仙とともに塩田平を歩くことになった。そこで彼が見ることになるのは、絵図の上に描かれた線ではなく、実際にそこで暮らし、田を耕し、水を待つ人々の姿であった。そしてその中から、塩田家がこれから進むべき道を見つけ出していくことになる。




