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真田異子伝  作者: 海野快斗
第一章 滅亡 四節 土台

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第十六話 水

御牧兼定に連れられて塩田平を見て回った日の帰り、源七郎の胸には一つの疑問が残っていた。広い田畑が広がり、馬を育てるにも人が暮らすにも恵まれているように見えるこの土地が、なぜか水には苦労しているというのである。塩田城へ戻ってからもそのことが頭から離れず、源七郎は数日後、館で時勝と顔を合わせた折に、その疑問を尋ねることにした。


「大殿、この前、兼定殿と塩田平を見て回った折に聞いたことがあるのですが、塩田は田畑を作るには良い土地である一方、水が少ないというのは本当なのでしょうか」


「うむ、本当だ」


時勝はすぐに答えた。源七郎が何を見てきたのかを確かめるようにしばらく顔を眺めてから、脇に置いていた書状を畳み、ゆっくりと話し始める。


「塩田平は土地そのものには恵まれている。山に囲まれているとはいえ平らな場所が多く、耕せる土地も広い。だからこそ、古くから人が集まり、田畑を開いてきた。だが、土地が広いからといって、そこへ勝手に水が入ってくるわけではない。塩田は雨が少ない年になると、どうしても水が足りなくなるのだ」


「川から水を引くことはできないのですか」


「できる場所もある。沢を利用しているところもあるし、井戸を掘っているところもある。だが、それだけでは足りぬ。特に雨の少ない年は、田植えの頃から水を求める者が増える。田を広げれば、それだけ多くの水が必要になるからな」


源七郎は、御牧で見た田畑を思い返した。あれだけ広い土地を持ちながら、水が不足するというのは不思議な話でもあった。しかし、考えてみれば当然のことだった。土地はそこにあるが、水は空から降ってくるものであり、人の都合で増やすことはできない。


「では、これまで塩田ではどうしていたのでしょうか」


「昔から工夫してきた。川や沢の水を引き、井戸を掘り、少ない水を皆で分けて使う。それでも足りぬ時は、我らが助けた」


「塩田家が、ですか」


「そうだ。塩田家は馬を扱うことで大きな収入を得てきたからな」


時勝はそう言って、少し懐かしそうに笑った。


「塩田衆は騎馬をもって戦うだけの家ではない。良い馬を育て、それを売ることも我らの大切な仕事だった。馬は一頭でも価値がある。良馬を何頭も育てて売れば、相応の金が入る。その金は兵を養うためにも使ったが、それだけではない。凶作になれば米を買い、領民へ回すこともあったし、年貢を納められぬ者がいれば、すぐに取り立てるのではなく翌年まで待つこともあった。不作のたびに馬を売って得た金を使うことになるから、家の蓄えは減る。それでも民が飢えてしまえば、翌年に田を耕す者がいなくなる。領主が土地を守るというのは、城や田畑だけを守ることではない。そこに住む人間を生かすことまで含めて、領地を守るということなのだ」


源七郎は黙って聞いていた。これまで時勝から聞いてきた話といえば、馬術や戦のことが多かっただけに、馬を売ることが民を救うことへ繋がっていたという話は意外だった。


「では、ため池を造るという考えはなかったのでしょうか」


その問いに、時勝はすぐには答えなかった。やがて庭へ目を向けると、昔を思い出すように静かな声で語った。


「もちろん考えていた。むしろ、私はずっと考えていたのだ」


「ずっと、ですか」


「時信へ家督を譲ったのは長篠の戦いの一年ほど前だった。あの子が家を継いだ後、私は当主ではなくなったからこそ、これから先の塩田をどうしていくべきかを考える時間ができた。その中で、谷仙和尚とも相談していたのが水のことだった」


時勝はそこで一度言葉を止めた。


「塩田平の水を安定させるには、雨の降った時に水を蓄えておく必要がある。川の流れに頼るだけではなく、ため池を整え、必要な時にそこから水を引けるようにする。それならば、馬を売って米を買うというやり方だけに頼らずとも、不作そのものを減らすことができるかもしれぬ」


「和尚も、その話を?」


「ああ。谷仙和尚は寺の僧であるが、ただ仏の教えだけを説いている者ではない。この土地で長く生きてきた者たちの話を聞き、塩田の歴史もよく知っている。水の流れについても、私とは違った目で見ていた。どこに池を置けばよいのか、どの沢から水を引くのがよいのか、どの村がどれだけ水を必要としているのか、そうしたことを一つずつ調べながら、計画を練ってきたのだ」


源七郎は、安楽寺で谷仙から学んでいるだけに、その話を聞くと少し驚いた。いつも穏やかに書を開き、人の道について語っている和尚が、塩田平の水のことまで考えていたのである。


「では、なぜ今まで始められていないのですか」


「長篠だ」


時勝の返事は短かった。


「時信が死んだ」


それ以上の説明は必要なかった。


時信が家督を継いで一年ほど経った頃から、塩田家では新しい当主を支えるための差配が進められていた。しかし、その当主が長篠で討死したことで、すべてが変わった。時勝は再び塩田家の実務を取り仕切らねばならず、家臣たちも新たな当主を失った家を立て直すことで手一杯となった。誰が悪いわけでもない。ただ、目の前にある問題を片付けるために、先のことを考える余裕がなくなったのである。


「計画を捨てたわけではない。止めているだけだ。いずれ再び動かさねばならぬと思っていた」


時勝はそう言うと、源七郎へ向き直った。


「そこで、お前にもこの計画に加わってもらう」


源七郎は一瞬、言葉を失った。


「私が、ですか」


「そうだ」


時勝は頷いた。


「お前はいずれ塩田家を継ぐ。ならば、馬に乗れるようになるだけでは足りぬ。領地がどのような土地なのか、そこで暮らす者が何に困っているのか、家臣たちが何を考えているのかを知らなければならぬ。水の問題は、そのすべてを学ぶのにちょうどよい」


源七郎は返事をせず、しばらく考えていた。自分が塩田家を継ぐ以上、いつかはこうした仕事にも関わらなければならないことは分かっている。御牧で田畑を見て回った時にも、ただ土地の広さを見るだけではなく、その土地で暮らす人々のことを知りたいと思ったばかりだった。だからこそ、時勝の言葉は源七郎にとって願ってもない話でもあった。


「谷仙和尚と相談しながら進める。まずは今までに調べたことを聞き、実際に田畑を見て、村の者たちから話を聞け。池を造ることばかり考えてはならぬ。池を造れば、それによって水を得る者もいれば、土地を使えなくなる者もいるかもしれぬ。誰にとって得なのか、誰にとって困るのか、それを考えた上でなければ、どれほど立派な計画でも長続きはせぬ」


「はい」


「それからもう一つ。お前自身が答えを出そうとする必要もない。分からぬことがあれば、家臣に聞け。百姓に聞け。和尚に聞け。水を実際に使う者の話を聞かなければ、机の上でどれほど考えても意味はない」


「分かりました」


源七郎は深く頭を下げた。


時勝はそんな源七郎を見ながら、わずかに口元を緩めた。まだ六つの子供である。家を治めることも、民を動かすことも、当然ながらできるわけではない。しかし、だからこそ今のうちに、武だけではなく政を学ばせる必要がある。塩田家を継ぐ者として、領地を歩き、人の声を聞き、土地の事情を知る。その経験は、後になって必ず源七郎の力になるはずだった。


「明日から和尚のところへ行け。私も時間が許す限り顔を出すが、まずはお前自身の目で塩田を見てこい」


「はい、養父上」


その日の夜、源七郎は北辰を探しながら御牧兼定と歩いた塩田平を思い返していた。広い田畑があり、馬を育てる土地があり、人々が暮らしている。その一方で、雨が少なければ田は乾き、米を作るための水が足りなくなる。土地はただ広ければよいのではなく、そこに人が暮らし続けられるように整えなければならない。


それは馬術とはまったく違う学びだったが、源七郎は不思議と嫌ではなかった。むしろ、これまで知らなかった塩田の姿を少しずつ知っていくことに、静かな興味を覚えていた。


そして翌日から、源七郎は谷仙和尚とともに、長篠によって中断されていた塩田平の水の計画へ加わることになる。馬を世話し、書を読み、武を学んできた少年が、今度は領地そのものと向き合いながら、当主となるための新たな学びを始めようとしていた。

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