第十五話 御牧
安楽寺での学びと塩田流馬術の稽古が始まってから、幾月かが過ぎた頃のことであった。源七郎はいつものように朝の支度を終えると、今日は勝治が迎えに来るのを待つのではなく、御牧兼定とともに塩田城を出ることになっていた。兼定から御牧を見て回ると告げられたためである。
御牧家は、塩田家に仕える一族の中でも特別な位置を占めていた。塩田家の旧名でもある御牧の名を代々受け継ぎ、古くから馬の育成と牧場の管理を担ってきた一族であり、戦場で槍を振るうことを役目とする家臣たちとは異なり、日々の暮らしの中で塩田家の騎馬戦力を支えることを務めとしている。塩田衆が馬を重要な戦力として扱う以上、その馬を育てる者たちの存在は決して軽いものではなく、兼定自身もまた、その役目に強い誇りを抱いていた。
兼定は三十代半ばの男であり、時勝よりは若いものの、塩田家ではすでに長く政に携わってきた重臣の一人であった。亡き時信が当主であった頃には、まだ若かった時信を兄のように支え、その政について相談を受けることも多かった。温厚で人当たりの良い性格から家中でも信頼されていたが、こと馬の話になると普段の穏やかさが嘘のように熱を帯びる男でもある。
「今日は馬場ではなく、御牧を見てもらいます。若様も塩田家を継ぐのであれば、馬に乗る者だけではなく、その馬がどこで生まれ、誰の手で育てられているのかを知っておく必要があります」
兼定はそう言いながら、源七郎と並んで山道を歩いていた。源七郎の歩みに合わせて速度を落としているものの、その姿には老いを感じさせるものはなく、むしろ若々しい足取りには長年武家に仕えてきた者らしい確かな力があった。
「馬は戦場へ連れて行けば勝手に働いてくれるものではありません。どれほど血筋の良い馬であっても、育て方を間違えれば臆病にもなれば荒くもなる。逆に、生まれがそれほど良くなくとも、人の手を知り、土地を知り、仲間の馬を知って育った馬は、戦場で思わぬ力を見せることがあります。だから御牧の者は、馬そのものだけではなく、馬が育つ環境まで見ているのです」
源七郎は黙って話を聞きながら、山の斜面へ視線を向けた。道の先には広い牧草地が開け、その向こうでは何頭もの馬が草を食んでいる。馬たちは人の姿を見ても大きく騒ぐことなく、時折顔を上げてこちらを見るだけだった。遠くでは馬丁たちが柵の修繕を行い、別の場所では若い馬を歩かせながら様子を確かめている者もいる。
これまで源七郎は、馬とは乗るものだと思っていた。忍びの里にいた頃も馬に乗ることは教えられたし、塩田家へ来てからは時勝から塩田流馬術を教えられている。しかし、こうして馬が一日の大半を過ごす場所を見ていると、馬術とは馬に跨った瞬間から始まるものではないのだと初めて実感した。
御牧では、馬の世話をする者たちがそれぞれの馬の性格や体調を細かく把握していた。餌を食べる量が少し減った、歩き方がいつもと違う、他の馬を嫌がるようになったといった些細な変化にも目を配り、必要があれば休ませる。怪我をすれば治療し、成長すれば少しずつ人を乗せる訓練を始める。戦場へ出るまでに、人間と馬との間には長い時間をかけた関係が築かれていくのである。
「若様が今世話をしている馬も、ここで育った馬です」
「私の馬もここで?」
「ええ。御牧で生まれ、御牧の者が育てた馬です。時勝様から若様の馬を選ぶよう命じられた時、私がいくつか見た中から選びました」
その言葉を聞いた源七郎は、思わず牧の中にいる馬たちを見渡した。自分が毎日世話をしている馬が、このどこかで生まれ、誰かの手で育てられ、やがて自分のもとへ来たのだと思うと、これまでとは少し違って見える。
「では、私が大事に世話をすれば、この馬も強くなりますか」
「強くするのは馬だけではありません。馬と人が互いに信じられるようになることが大切なのです。若様は最近、少しずつそれが分かってきたようですな」
兼定はそう言って笑った。
それから二人は牧の中をさらに進んだ。兼定は馬の血統について話し、どのような馬が騎馬戦に向いているのか、どの馬は長距離を走るのに適し、どの馬は瞬発力に優れているのかを説明した。源七郎にはまだ難しい話も多かったが、それでも一つ一つを覚えようと耳を傾けた。
やがて御牧の高台へ出ると、兼定は足を止めた。
「若様、あれをご覧ください」
示された先に広がっていたのは、塩田平であった。
山々に囲まれた平地には田畑が広がり、そのところどころに集落が見える。遠くから眺めれば豊かな土地にしか見えず、源七郎はしばらくその景色に目を奪われた。これほど広い田畑があるならば、塩田家はさぞ豊かな土地を持っているのだろうと、幼いながらにもそう思ったのである。
「広いでしょう」
「はい。こんなに田畑があるなら、たくさん米が取れるのではありませんか」
源七郎の問いに、兼定はすぐには答えなかった。しばらく塩田平を眺めてから、静かに口を開く。
「土地だけを見れば、そのように思うでしょうな。塩田平は平らな土地が多く、耕作できる場所も広い。山間の土地と比べれば田畑を広げやすく、昔からこの地に人が集まってきた理由の一つでもあります。しかし、この土地には一つ、大きな問題があるのです」
「問題?」
「水です」
その言葉に、源七郎は首を傾げた。
「水なら川があります」
「確かにございます。しかし、川があることと、田畑へ十分な水を引けることは同じではありません」
兼定は塩田平の地形を指で示しながら説明を続けた。塩田平は周囲を山に囲まれた広い平地である一方、雨が多い土地ではない。晴れの日が多く、日照に恵まれることは農作には大きな利点となるが、その反面、雨が少ない時期には田畑へ必要な水を安定して届けることが難しい。川や沢から水を引くことができても、それだけですべての田畑を賄えるわけではなく、年によっては水の取り合いが起こることもあるという。
「雨が少なければ、田に水を入れられぬ。水が足りなければ、どれほど良い土地でも米は育ちません。晴れが多いことは恵みであると同時に、時には厄介なものにもなるのです」
源七郎は黙って眼下の田畑を見つめた。先ほどまで豊かに見えていた土地が、今は少し違って見える。田畑が広いからこそ、水が足りなければその広さそのものが問題になるのだ。
「では、雨が降らなかった年はどうするのですか」
「皆で水を融通し合い、川から引けるだけ引き、それでも足りなければ耐えるしかありません。もちろん昔から何もしてこなかったわけではありません。用水を整え、堰を作り、少しでも多くの水を田へ届ける工夫は続けられてきました。しかし、塩田平全体を考えれば、それだけでは十分とは言えぬでしょう」
兼定の言葉を聞きながら、源七郎はしばらく考え込んだ。そして、ふと顔を上げる。
「水を貯めておけばいいのではありませんか」
兼定は源七郎を見る。
「水を?」
「雨が降った時に、水をいっぱい貯めておいて、雨が降らない時に田へ流せば……」
幼い子供の思いつきに過ぎない言葉だった。しかし兼定は笑わなかった。むしろ、源七郎の言葉を聞くと、しばらく黙って塩田平へ視線を戻した。
「……そうですな」
「できるのですか?」
「できるかどうかを考えるのが、これからの仕事なのでしょう」
その返事には、何か含みがあった。
源七郎はそれに気付いたものの、まだその意味までは理解できなかった。ただ、眼下に広がる田畑を見つめながら、塩田家を治めるということは、城の中で家臣から報告を受けることだけではないのだということを、少しずつ感じ始めていた。
武士が馬を操り、槍を振るうことで戦うように、領主は土地を知り、そこに暮らす人々が何を必要としているのかを知らなければならない。馬一頭の世話でさえ、乗る者だけではなく、それを育てる者の手が必要なのだ。ならば領地も同じなのだろう。田畑を持っているだけでは、人は生きていけない。その土地で暮らす人々が何を必要としているのかを考え、それを整えていく者が必要なのだ。
源七郎は再び塩田平を見た。
広い土地だった。
そして、その広さに見合うだけの水が、まだ足りていない。
「兼定殿」
「何でしょう」
「この塩田平のことを、もっと知りたいです」
兼定は少し驚いたように源七郎を見た後、穏やかに笑った。
「それは良い心掛けですな。では次は、田畑のことも、水のことも、そこに暮らす人々のことも、一つずつ見て回りましょう。若様がいずれこの地を治めるのであれば、まずは自分の目で見ることです」
源七郎は力強く頷いた。
その日、御牧から見下ろした塩田平の景色は、源七郎の記憶に深く残った。
広大な田畑と、そこに暮らす人々。そして、その豊かさを支えるにはまだ足りない水。
それが後に源七郎が塩田家の政に関わっていくことになる、最初のきっかけであった。




