第十三話 仕込み
真田家の家督を継いでからしばらく経った頃、昌幸は一人、館の一室に広げた絵図を眺めていた。そこに描かれているのは信濃の地ではない。西上野から東上野にかけての山々と街道、城や館、そしてそこに名を連ねる国衆たちの名である。
上野は、昌幸にとって決して縁のない土地ではなかった。真田家は古くから上野と関わりを持ち、父・幸綱の代から多くの国衆と縁を結んできた。何より、真田家の祖先たる海野氏の血は、上野にも広がっている。幸綱の兄弟や親族、その一族と縁を結んだ者たちまで含めれば、上野の国衆の中には真田と遠からぬ血縁を持つ者が少なくなかった。また信玄公の側近であった頃は、時折主命を帯びて上野へ赴き、父や兄と行動したこともある。そのため、昌幸にとって上野は絵図の上だけで知る土地ではなく、自らの目で見た景色と、そこで交わした言葉が残る土地でもあった。
昌幸はそのことを思い返しながら、絵図の上に置いた指をゆっくりと動かしていった。
武田家が信濃を支配するようになって久しい。上野においても武田家は勢力を伸ばしているが、その支配は決して盤石なものではなく西上野にとどまっている。国衆たちはそれぞれに領地を持ち、代々の家臣や一族を抱え、周囲の勢力との関係を考えながら生きている。武田の旗を掲げているからといって、心の底から武田のために戦っているとは限らない。
それは当然のことであった。
国衆にとって何より大切なのは、自らの家と領地を守ることである。昨日まで味方だった者が明日には敵となることもあれば、敵だった者が事情一つで味方となることもある。戦国の世において、忠義だけで国衆を動かすことなどできない。むしろ、家を守らねばならぬ者にとっては、誰に従うかという問題そのものが、家を存続させるための手段に過ぎないことさえある。
ならば何をもって動かすのか。
昌幸はそこを考えていた。
土地を守りたい者には土地を安堵することを約すればよい。家臣や一族を抱える者には、その者たちの身分や所領を保証してやればよい。武田家に従うことで得られる利益が、敵対することで失うものより大きいと理解させれば、それだけで人の心は動く。
何も難しいことではない。
むしろ、難しいのは相手が何を欲しているのかを見誤らないことだった。
同じ国衆であっても、事情は一人一人違う。領地を広げたい者もいれば、ただ先祖から受け継いだ土地を守れればよいと考える者もいる。隣接する家との争いを抱えている者もいれば、一族の中に別の勢力へ通じようとする者を抱えている家もあるだろう。そうした者たちに同じ言葉を投げかけても、人が動くはずはない。
だからこそ、まず相手を知らなければならない。
昌幸はそこで一度、視線を上げた。
「戦とは、槍を合わせることだけではない」
誰に聞かせるでもなく呟く。
父・幸綱が村上氏と戦った時も、ただ兵を率いて城を攻め続けたわけではなかった。人の心を読み、敵の内情を探り、味方を増やし、相手の弱いところを突く。それによって初めて、少ない兵でも大きな相手と渡り合うことができる。
昌幸は幼い頃から、その父の姿を見てきた。
そして今、自分がその立場に立っている。
武田家は長篠で大きな敗北を喫した。しかし、それによってすぐに武田家が滅びるわけではない。むしろ今だからこそ、武田家の力が衰え始める前に、真田家自身の立場を強くしておく必要があった。
そのためにも、上野は重要だった。
真田の領地は信濃と上野の境に位置している。上野に影響力を持てば、真田家の領地を守ることにも繋がる。武田家から命じられた戦に従うだけではなく、自らの力で上野の国衆との繋がりを増やしておけば、いずれ武田家の情勢がさらに悪化したとしても、真田家が生き残るための道を残せる。
ただし、昌幸には一つだけ心に留めていることがあった。
上野を武田家のものにすることと、上野における真田家の力を強くすることは、必ずしも同じではない。
武田家が直接領地を増やせば、それだけで真田家が豊かになるわけではない。ならば、武田家の勢力が上野へ伸びる過程で、自分たち真田家もまた国衆との縁を深め、その土地に根を張っていく必要がある。武田家のために働きながら、その働きによって真田家自身の立場も強くする。それが昌幸の考えている上野攻略であった。
だが、昌幸は焦ってはいなかった。
今の段階で兵を動かす必要などない。城を攻め落とす必要もない。ましてや、まだ武田家中において家督を継いだばかりの自分が、勝手に上野へ軍勢を送り込めば、余計な警戒を招くことになる。
まずは人を知ること、そして、人に自分を知ってもらうこと。それだけでよかった。
昌幸は絵図から目を離し、机の脇に置かれていた書状へ手を伸ばした。
家督を継いだ今ならば、書状を送る理由はいくらでもある。
兄たちの死によって家督を継いだことを知らせる。これまでの付き合いに礼を述べる。父・幸綱の代から続く縁を改めて確かめる。今後とも変わらぬ付き合いを願う。それだけならば、誰も不審には思わない。
昌幸は筆を取ると、墨を含ませた筆先を静かに紙へ落とした。最初に記すのは、上野のある国衆へ宛てた挨拶である。家督を継いだことを知らせ、これまで真田家とその家が結んできた縁を大切にしたいという旨を記す。そして最後には、父・幸綱の名を出した。
幸綱が築いてきた縁は、昌幸にとって何よりも大きな財産だった。
自分自身がまだ知られていなくとも、父の名を知る者は多い。
ならば、その名を使わぬ手はない。
一方で、相手に余計な警戒を抱かせるような言葉は避けた。今はまだ、上野の情勢について踏み込んだことを書く必要はない。家督を継いだ新当主として挨拶をし、旧縁を確かめ、これからも付き合っていきたいと伝える。それだけで十分だった。
一本目の書状を書き終えると、昌幸は続けて二通目、三通目と筆を走らせた。
相手によって文面は少しずつ変えた。ある者には父との旧縁を強調し、ある者には家督継承の挨拶を中心に据える。また別の者には、これまでの付き合いへの感謝を記し、今後も互いに助け合いたいという言葉を添える。
どれも、一見すればただの挨拶状に過ぎない。しかし昌幸にとっては違った。一枚の書状は、一つの縁を結び直すための糸である。それが何本も集まれば、やがて一つの大きな繋がりになる。
もちろん、返事が来るとは限らない。こちらを警戒する者もいるだろう。北条家への忠誠を示して、真田との関係を深めようとしない者もいるかもしれない。だが、それもまた相手を知るための一つの材料となる。返事の内容だけではない。返事が届くまでに要した日数、誰の名を添えてきたのか、どのような言葉を選んだのか。そうした小さな違いの中にも、人の考えは現れる。
それでも構わない、今はまだ何かことを起こす必要などない。ただ、昌幸という男の存在を知ってもらえばいい。
真田家の新しい当主が、どのような男なのかを知ってもらえばいい。
そして、いざという時に「真田ならば話を聞いてみよう」と思ってもらえれば、それで十分だった。
昌幸は書き終えた書状を一枚ずつ確認し、封をするよう家臣へ命じた。
「この書状を届けよ。急ぐ必要はない」
「承知いたしました」
家臣が書状を受け取り、部屋を出ていく。昌幸はその背中をしばらく見送った後、再び絵図へ目を戻した。
そこにはまだ、何も変化はない。
城も落ちていない。
兵も動いていない。
敵も味方も、昨日と同じ場所にいる。
それでも昌幸には、ほんの僅かな変化が始まったように思えた。
一本の糸を結んだ。
ならば次は、もう一本。
その先にまた一本。
急ぐ必要はない。
人の心は、戦場のように一日で動くものではない。だからこそ、時間をかけて積み重ねればいい。今日送った一通の書状が、明日すぐに何かを変えるわけではない。だが、半年後、一年後、あるいはもっと先になれば、その一通が思わぬところで意味を持つかもしれない。その時に備えて、今はただ種を蒔いておけばいい。
昌幸は静かに筆を置いた。
武田家の未来がどうなるのか、それはまだ分からない。だが、真田家がその未来に巻き込まれるだけの存在で終わるつもりはなかった。自ら考え、自ら人を動かし、自ら生き残る道を作る。
それは、父・幸綱が一度失った真田の家を、再び故郷へ戻した姿を見て育った昌幸にとって、決して特別な考えではなかった。父が戦場で槍を振るいながら、その裏で人の縁を繋ぎ、機を待ち続けたように、自分もまた自分のやり方で真田の道を作っていく。
そのための仕込みは、まだ始まったばかりだった。




