第十二話 源蔵
長篠の敗戦から時が過ぎても、武田家を取り巻く空気が晴れることはなかった。表向きにはこれまでと変わらぬ日々が続いているように見えても、甲斐から信濃、上野に至るまで、武田家の勢力圏では人々の心に少しずつ変化が生じ始めている。これまで武田の旗を見れば従っていた国衆たちが、それぞれに己の領地と一族の行く末を考え始め、家臣たちの間でも、これから先に何が起こるのかを探るような言葉が交わされるようになっていた。
真田の郷も例外ではなかった。
ある日の夕刻、昌幸は館の一室に盛清を招いていた。二人の間には書状が幾通か置かれ、外からは暮れ始めた山里の音が静かに入り込んでいる。昌幸はその一枚を手に取ってしばらく眺めていたが、やがてそれを脇へ置くと、深く息を吐いた。
「武田家も、長篠の一件で随分と変わったものだな」
盛清は向かいに座ったまま、静かに頷いた。
「戦に敗れたからというだけではない。あの戦で失われたものは兵の数だけではなく、これまで武田の強さを信じていた者たちが、その強さに疑いを持ち始めた」
「その通りだ。武田がすぐに滅びるとは思わぬ。だが、以前と同じように何も考えず武田に従っていればよい時代ではなくなった。それだけは確かだろう」
昌幸はそう言って庭へ目を向けた。
まだ若い彼にとって、家督を継いでからの日々はあまりにも忙しかった。兄たちが残した家臣をまとめ、領地を守り、武田家へ奉公しながら、その一方では真田家がこの先も生き残るための道を考え続けなければならない。しかも、自分自身が真田家の嫡流ではないという弱みを抱えている以上、ただ武勇や戦功だけで家中をまとめられるとも思っていなかった。
「これからは、目に見えるものだけを信じていてはならぬな」
昌幸の言葉に、盛清はわずかに目を細めた。
「らしい言葉だ」
「そう思うか」
「あぁ、武藤家にいた頃から人の表情や言葉の裏を読むのが好きな様子だったからな」
「好きでやっていたわけではないだがな」
昌幸は苦笑したが、その顔からすぐに笑みが消えた。
「だが、それだけでは足りぬと思うようになった。真田家を継いでから、以前よりもはっきりと感じるのだ。自分の目で見えるものだけでは、この家を守れぬ」
盛清は何も答えず、昌幸の次の言葉を待った。
しばらくして、昌幸は静かに口を開いた。
「主水佐、頼みがある」
「何だ」
「源七郎に、出浦衆の者を一人付けてもらいたい」
その言葉に、盛清の表情が僅かに変わった。
「……源七郎に、か」
「ああ」
昌幸は迷うように一度目を伏せ、それから盛清を真っ直ぐ見た。
「塩田家へ養子に出した以上、あの子はもう真田の館で暮らす者ではない。いずれは塩田家を背負うことになるだろう。だが、あの子にはまだ後ろ盾がない。塩田家には時勝殿や範康殿をはじめ、優れた者たちがいることは承知している。それでも、あの子が成長していく過程で、もし何かあったときに陰から手を差し伸べられる者が必要だと思っている」
昌幸の声は静かだったが、その奥には父親としての強い思いが滲んでいた。
「正直に言えば、あの子を塩田へ出したことを、今でも時折悔やむことがある。真田のためには必要だった。そう自分に言い聞かせてきたし、それが間違っていたとも思っていない。だが、それと父としてあの子を案じることは別の話だ。せめて遠くからでも、あの子が無事に成長していることを確かめられる者が欲しい」
盛清はしばらく黙っていた。
昌幸の言葉を聞きながら、六年前のことを思い出していた。
まだ幼かった源七郎を自分のもとへ預けられた日のこと。何も知らぬ幼子だった源七郎が、忍びの里で少しずつ成長していったこと。そして、普通の子供ならば身につけることさえ難しいものを、源七郎が驚くほど早く理解していったこと。
身のこなし、周囲を見る目、危険を察する感覚、そして何より、教えられたことをただ覚えるのではなく、その意味を自分なりに考えようとするところ。
盛清は、あの子には何かがあると感じていた。
それが何なのか、その時の盛清には分からなかった。ただ、いずれ大きくなれば、ただ武芸に秀でた武士とは違う何かを見せるのではないかという感覚だけは残っている。
「……私も、同じことを考えていた」
昌幸が顔を上げる。
「同じことを?」
「源七郎には、影が必要だろう」
盛清はゆっくりと言葉を続けた。
「私はあの子を六年間預かった。幼い頃から間近で見てきたからこそ申すが、あの子はただの武家の子ではない。まだ六つで塩田家へ入ったばかりの身ではあるが、いずれ当主となった時、何か大きなことを成すような気がしてならぬ。もちろん、これは私の勘に過ぎないが。しかし、もし本当にそうなったならば、その力を表に出す者だけでは足りない。表に立つ者を支えるため、見えぬところで動く者が必要になる」
「……やはり、おぬしもそう思うか」
「あぁ」
盛清は僅かに笑った。
「それに、源七郎を育てた者として、あの子がどこへ行こうとも無事でいてほしいと思うのは私も同じだ」
昌幸はしばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの僅かに表情を和らげる。
「ならば頼めるか」
「もちろん」
盛清は即答した。
「出浦衆の中から一人、あの子に付けよう。表向きには塩田家の者として動く必要もないだろう。あの子自身が出浦衆で育ったのだから、我らの者だと分かったところで不思議には思わぬ」
「そうだな。むしろ、あの子ならばすぐに気付くかもしれぬ」
昌幸は少しだけ笑った。
「六年前まで主水佐のところで育っていたのだからな」
「それも含めて、適任を選ぼう」
盛清はそう言うと、ふと考えるように目を伏せた。
「一人、心当たりがある」
「誰だ」
「源蔵という若者だ。源七郎と同じ出浦衆の里で育った者で、藤蔵の従兄にあたりる。歳も若く、源七郎殿と自然に接することができるでしょう」
「藤蔵の従兄か」
昌幸は頷いた。忍びの里での源七郎の様子は盛清経由で昌幸の耳に入っていた。もちろん源七郎の親しくしている藤蔵のこともである。
「それなら源七郎も喜ぶかもしれぬな」
「ええ。あの子にとって、出浦の里は故郷のようなものだからな」
その言葉に、昌幸の表情が僅かに曇った。
源七郎にとっての故郷は真田ではなく、出浦なのだ。
その事実を昌幸は理解していた。それでも父親としては、いつかあの子が真田の名を自分のものとして受け入れてくれることを願わずにはいられなかった。
「……頼む」
「任された」
こうして、源七郎の知らぬところで一つの決定がなされた。
それからほどなくして、塩田の地を一人の若い男が訪れた。
源七郎が安楽寺での学びを終え、塩田城へ戻った夕刻のことである。
館へ続く道を歩いていた源七郎は、門の近くに見慣れぬ若者が立っていることに気付いた。年の頃は十代半ばから後半ほどに見える。武士とも忍びとも一見しただけでは判断できぬような質素な身なりをしていたが、その立ち姿にはどこか隙がなかった。
男は源七郎の姿を認めると、静かに頭を下げた。
「源七郎殿でございますな」
「そうですが……あなたは?」
男は顔を上げると、どこか懐かしそうな笑みを浮かべた。
「私は源蔵と申します。出浦衆の者にございます」
その言葉を聞いた瞬間、源七郎の表情が変わった。
出浦衆。
六年間を過ごした、あの里の名である。
「出浦の……?」
「ええ。そして、藤蔵の従兄です」
源七郎は目を見開いた。
「藤蔵の……従兄?」
源蔵は頷いた。
「はい。盛清様から、あなた様のところへ向かうようにと言われましてな」
その声を聞いた瞬間、源七郎の胸の奥に、懐かしい山の匂いと、忍びの里で過ごした日々が一気に蘇った。
そしてこの日から、源七郎の側には新たな「影」が付き従うことになる。
それが後に、源七郎の人生において大きな役割を果たすことになるとは、この時の二人はまだ知らなかった。




