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真田異子伝  作者: 海野快斗
第一章 滅亡 二節 新たな地にて

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第十話 塩田流馬術(その2)

馬に乗るのに少し慣れ始めた頃、源七郎は時勝に呼ばれ、館の裏手にある小さな庭へ出ていた。昼間の暑さはまだ地面に残っていたものの、日が山の端へ近づくにつれて風は次第に涼しくなり、遠く塩田平を囲む山々には夕暮れの影が伸び始めている。源七郎は時勝の隣に座りながら、ここ数日の馬術の稽古を思い返していた。馬に乗ることそのものは、忍びの里にいた頃から経験していた。しかし、塩田家で教えられる馬術は、それまで源七郎が知っていたものとはまるで違っていた。


馬に乗る者が巧みに手綱を操り、速く走らせるだけではない。どの馬がどのような性質を持っているのかを知り、馬の呼吸や足取りを感じ取り、騎手と馬が一つの生き物になったように動くことを求められる。そして何よりも、個人の技量だけではなく、幾十、幾百という騎馬を一つの意思で動かすことこそが塩田流の本質であると、時勝はこれまで何度も語っていた。


「源七郎、先日の話の続きをしようか」


時勝は庭の向こうに広がる塩田平を眺めながら、ゆっくりと口を開いた


「改めてになるが塩田流というものは、ただ馬に上手く乗るための技ではない。馬に乗って戦うための技であり、もっと言えば、馬を使って戦に勝つための術だ。信濃には小笠原流という名高い馬術があるが、あちらが礼法や作法を重んじるのに対して、我らが求めるものはもっと単純でな。どうすれば敵より先に動けるか、どうすれば敵の槍を避けられるか、どうすれば敵の矢を潜り抜け、最後まで生きて帰れるか、それだけを考えてきた」


源七郎は黙って聞いていた。時勝はそこで一度言葉を切ると、太い指を一本立てる


「戦場では美しい乗り方など何の役にも立たぬ。馬上で姿勢が崩れても、それで敵を討てるならよい。泥にまみれても、馬が倒れそうになっても、最後まで手綱を離さず生き残ればよい。塩田流が古くから大切にしてきたのは、そういう馬術だ」


その言葉は豪快であったが、そこには長い年月を戦場で過ごしてきた者だけが持つ現実感があった。時勝自身、若い頃から幾度となく馬を駆り、敵陣へ突入しては生きて戻ってきた。その身体に残る無数の傷もまた、塩田流が決して書物の上だけに存在する技ではないことを物語っている。

塩田流が長い年月をかけて磨いてきたのは、馬上で敵と渡り合うための技だけではなかった。戦場という場所では、どれほど腕の立つ武者であっても、自分がどこにいるのかを見失えばその力を十分に発揮することはできず、まして大勢の騎馬を率いる者であれば、敵味方の位置だけでなく、山や川、道筋、日の昇る方角までを把握した上で次の動きを決めなければならない。塩田衆では古くからそうした「戦場を見る目」を重んじており、馬を扱う技術と同じように、土地を知り、時を知り、周囲の変化を読むこともまた騎馬武者の務めとされてきたのである。


その中でも、塩田家に伝わる独特の戦法として密かに受け継がれてきたものがあった。それは敵の東側から、朝日を背負って攻め掛かるという極めて単純なものでありながら、実際に戦場で行うには相応の知識と経験を必要とする戦法であった。


朝日を背にすれば、敵から見ればこちらの姿は朝日の光に紛れやすくなる一方、こちらからは敵の姿を捉えやすい。特に夜明け前から敵陣の近くに潜み、日の出とともに一気に距離を詰めれば、眠りから覚めたばかりの敵は眩しさに目を細めながら、迫り来る騎馬の姿を見定めなければならなくなる。もちろん、敵の東側へ回り込めなければこの戦法は成立せず、夜のうちに自軍がどこへ移動しているのかを正確に知っておく必要がある。そのためには、山中であろうと見知らぬ土地であろうと、自らのいる場所と向かうべき方角を見失わないことが何より重要だった。


この戦法がいつ頃からあるものなのか、その正確な年月を記した記録は残されていない。ただ、塩田家の家伝書では、その源流を遠い昔に信濃東部へ移り住んだ渡来の人々に求めている。彼らは大陸より伝わった騎馬の技と戦の知識を携えていたとされ、それが御牧を守る一族の技術と結びつき、長い年月をかけて塩田流の一部へと取り込まれていったという。後世の者が聞けば伝承としか思えぬほど古い話ではあったが、塩田家ではそれを単なる昔話として扱わず、戦場で生き残るための知恵として代々守り続けてきたのである。


そして、その古い戦法を支えるために塩田家が重んじてきたものこそ、星を読む技術であった。


「しかしな、源七郎」


時勝の声が再び聞こえ、源七郎は顔を上げた


「塩田流には、あまり外へ語らぬ技もある」


「外へ語らぬ技、ですか」


「そうだ。塩田家が古くから伝えてきた戦のやり方の中には、他家へ教える必要のないものもある。馬の扱いだけではない。敵がどこから来るか、いつ攻めるか、どこへ逃げるかを知ることもまた、戦では大切なことだからな」


時勝はそれ以上をすぐには語らなかった。


源七郎が不思議そうに見つめていると、時勝はわずかに笑い、空を見上げた。


「今夜、空を見てみろ」


「空を、ですか」


「そうだ。馬の稽古とは関係ないと思うかもしれぬが、そうでもない」


夕暮れの空には、まだ星は見えていない。西の空だけが赤く染まり、山の稜線が黒く浮かび上がっている。


「馬に乗る者は、足元だけを見ていてはならぬ。戦場では道があるとは限らぬし、敵が道を教えてくれるわけでもない。自分がどこにいるのか分からなくなれば、どれだけ強い騎馬隊もただの群れになる」


時勝はそう言ってから、しばらく黙って空を見つめていた。


「塩田家には昔から星を見る習わしがある。星読みなどと大層な名で呼ぶこともあるが、やっていることは難しくない。毎晩、空を見るのだ」


源七郎は首を傾げる


「毎晩、ですか」


「そう、毎晩だ。晴れている夜も、曇った夜も、月の明るい夜も、何も見えぬ夜も、とにかく空を眺める。そして星の位置を覚える。そうしているうちに、いつもほとんど同じ場所にある星が分かってくる」


時勝は夜空を指差した。


「つまり北辰(いわゆる北極星)を見つけられるようになればよい。北辰は北にある。だから北辰が分かれば、自分がどちらを向いているのかも分かる」


「それだけですか」


「それだけだ」


時勝は笑った


「だがな、源七郎。『それだけ』というのが難しいのだ」


その言葉に、源七郎は黙り込んだ。


「一晩だけ星を見ても何も分からぬ。二晩見ても同じだ。三日、四日と見たところで、雲が出れば分からなくなる。しかし十日、百日、千日と見続けてみろ。いつしか空を見上げただけで、ああ、あの星はここにある、あれはあそこにあると分かるようになる。そうなれば、初めて訪れた土地でも、北辰を見つければ自分のいる方角を知ることができる」


時勝の声音はいつになく真剣だった。


「だから星読みというのは、星の知識を覚えることではない。空を見ることを当たり前にすることだ。毎晩見る。戦がある日も見る。疲れていても見る。雨が降って見えなくても、晴れた夜にはまた見る。それを続けているからこそ、いざという時に役に立つ」


源七郎は時勝の言葉を胸の中で繰り返した。


毎晩、見る。


それは簡単なようでいて、六つの少年にとっては途方もなく長い修練に思えた。


「では、北辰が分かれば何ができるのですか」


源七郎が尋ねると、時勝は少しだけ目を細めた。


「それを使えば、夜の山でも道を失わぬ。昼ならば太陽があるから方角を知ることは難しくない。しかし夜になれば話は別だ。火を焚けば敵に見つかる。道を歩けば足跡を残す。山の中では目印になるものも少ない。そんな時、空を見ればよい」


そこで時勝は一度言葉を切り、やがて静かに続けた。


「そして方角が分かれば、敵がどこを向いているのかも考えられる」


源七郎はその意味を考えようとしたが、まだうまく理解できなかった。


時勝はそれを見て、これ以上は今すぐ教えるつもりがないのか、再びいつもの穏やかな顔に戻った。


「その先はまだ早い。馬を覚えたばかりのおぬしに、戦場の話を詰め込んでも仕方がない。まずは馬を知り、人を知り、土地を知れ。その上で、いつか星を使う意味も分かるようになる」


その夜、源七郎は館へ戻ると、夕餉を終えてから一人で外へ出た。


空には雲一つなく、塩田平の上には無数の星が広がっていた。山々に囲まれたこの土地では、甲斐の武藤屋敷で見た空とも、忍びの里で見上げた空とも違うように感じられる。


源七郎はしばらく空を見上げていた。


星の名前など分からない。


どれが北辰なのかも分からない。


それでも、時勝に教えられた言葉を思い出しながら、一つ一つの星の位置を目に焼き付けようとした。


その日から、源七郎は毎晩、星を見るようになった。


初めのうちは何も分からなかった。昨日見た星が今日も同じ場所にあるのか、それすら確信が持てなかった。しかし、それでも源七郎は空を見上げた。晴れた夜にはもちろん、雲が多い夜にも雲の切れ間を探し、月が明るい夜にはわずかに見える星を探した。


そして一つ、また一つと、夜空の中に自分だけの目印を増やしていった。


それがいつの日か、戦場で自らの命を救い、塩田衆の騎馬を敵の予想もしない方角から突入させるための力になることを、この時の源七郎はまだ知らなかった。

注:今回出てくる朝日を背にした奇襲は信濃に住み着いたとされる半島渡来人の祖である東突厥系の戦法を参考にしています。


明日以降カクヨムとの投稿ペースを揃えるため、毎日7時・21時に投稿いたします。

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