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疫病の夜、誰の名を呼びましたか  作者: 九葉(くずは)


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第7話 査問

 王宮薬学院の廊下は、いつもの薬草の匂いに混じって、今日は封蝋と古い紙の匂いがした。


「ブレンナー公爵領から、禁制品が見つかった」


 アルヴィン殿下は、研究室の椅子に座ったまま短く言った。相変わらず感情の読みにくい表情だが、声の底にわずかな硬さがある。机の上には鑑定書が広げられており、見覚えのない薬品名がいくつも並んでいた。


「定期査察で領内に流通していた薬を回収し、成分を調べた結果です。王宮薬学院の認可を受けていない薬物が複数含まれていました」


「……それは」


「あなたの調合録が証拠として必要になる。あなたが在任中に調合した薬と、あなたが去った後に流通した薬が別物であることを、公的に証明するためだ」


 私の調合録が——私を守るための証拠になる。毒と呼ばれた薬が、正しかったことの証明になる。


 胸の奥で何かが小さく軋んだが、表には出さなかった。


「承知しました」


「査問には出席しなくていい。記録の提出だけで十分だ」


 殿下はそう言って、鑑定書の束を揃え直した。その手つきは丁寧で、書類の一枚一枚を大切に扱っている。私の調合録を「この国に必要なもの」と呼んだ時と同じ手つきだった。


「殿下」


「何だ」


「……よろしくお願いいたします」


 それ以上は言わなかった。復讐を頼んだのではない。ただ、記録が正しく読まれることを、信じてよいのだと思えたから。





 王宮薬学院の査問室は、窓のない石造りの部屋だった。


 長机の向こうにアルヴィン・レーヴェンシュタインと主任査察官エルンストが座り、その脇に書記官が控えている。壁際の椅子にはブレンナー現公爵ゲルハルトが無言で腰掛けており、部屋の空気は冷えた石と封蝋の匂いで重たかった。


 ヴァルター・フォン・ブレンナーは、扉をくぐった瞬間にはまだ余裕があった。


 何かの手違いだろう。セレーネの薬の件なら、彼女が勝手にやったことだと説明すれば済む。自分はブレンナー公爵家の嫡男であり、たかが薬の問題で大事になるはずがない。そう思いながら指定された椅子に座り、長机の向こうの二人を見た。


 王弟の顔には何の感情も浮かんでいない。その隣の査察官は書類の束を手元に揃え、ヴァルターの方を見もせずに口を開いた。


「ブレンナー公爵領における薬事査察の結果について報告いたします」


 エルンストの声は平坦で、抑揚がなかった。読み上げているのではなく、暗記した事実を順番に並べているだけの、事務的な声だ。


「本年秋の定期査察において、ブレンナー公爵領内で流通していた薬物を回収・分析した結果、王宮薬学院の認可を受けていない成分が四品目から検出されました。うち二品目は、王国薬事法に基づく禁制品に該当します」


 禁制品。その言葉で、ヴァルターの背筋がわずかに強張った。けれどまだ、致命的だとは思っていない。


「成分鑑定書をご確認ください」


 エルンストが書類を差し出す。ヴァルターは受け取ったが、並んだ薬品名の意味はほとんどわからなかった。セルピア草やエーデル草の名前は聞いたことがあるが、それ以外の長い学術名は見たこともない。わからないまま書類を置き、口を開いた。


「これはセレーネが——ハイデルン嬢が独断で取り寄せたものだ。俺は関与していない」


 エルンストは表情を変えなかった。手元の別の書類を一枚取り出し、長机の上に置く。


「ハイデルン嬢からはすでに証言を得ております」


 ヴァルターの目が書類に吸い寄せられた。そこにはセレーネの署名があり、その上に彼女の証言が記録されていた。


『薬の手配はブレンナー公爵家で使用するためと伺い、ヴァルター様のご要望に沿って取り寄せたものです。私個人の判断ではございません』


 一瞬、文字の意味が頭に入らなかった。二度読み、三度読み、そしてようやく理解した時、ヴァルターの喉の奥から短い息が漏れた。


「——あの女が、俺を売ったのか」


 声が掠れていた。セレーネ。あの震える声で「私なんかがお側にいてよいのでしょうか」と言っていたセレーネが、自分を庇うどころか全ての責任をこちらに押し付けている。そんなことがあるのか。俺はあの女を守ってやったのに。


 けれど査問室にセレーネはいない。この部屋にいるのは、王弟と査察官と書記官と、壁際で目を閉じている父だけだった。


 ヴァルターは方針を切り替えた。こうなれば原因を辿るしかない。そもそもなぜ禁制品に手を出す羽目になったのか。答えは一つだ。


「そもそも薬が不足したのは、あの女——リーゼロッテが勝手に出て行ったからだ。あの女が薬草園を持ち出して王家に返しやがった。それさえなければ、こんなことにはなっていない」


 自分でも声が大きくなっていることはわかったが、止められなかった。これは事実だ。あの女が出て行かなければ薬は足りていた。俺は何も間違っていない。


 エルンストが三枚目の書類を出した。


「管理委託契約書でございます」


 古い羊皮紙に、王家の紋章とヴァイスハイト伯爵家の紋章が並んでいる。その下に、細かい文字で条項が連なっていた。


「第七条をご覧ください。『管理者の離任もしくは婚約の解消に伴い、委託資産は速やかに王家へ返還されるものとする』。ヴァイスハイト伯爵令嬢は、本条項に基づき正規の手続きで資産を返還しております。契約上の瑕疵はございません」


 ヴァルターの口が開いたまま止まった。契約書を一度も読んだことがなかった。リーゼロッテが管理していた薬草園が、ブレンナー家のものではなく王家の委託資産だったということすら、あの女が出て行く日に初めて知ったのだ。


「だが——だが、あんな薬は誰でも——」


 言いかけた瞬間、それまで一言も発していなかったアルヴィンが口を開いた。


「調合録の鑑定結果を報告する」


 声は低く、静かだった。アルヴィンが机の上に革装の帳面を一冊置く。ヴァルターにも見覚えがある。リーゼロッテがいつも薬草園で書き込んでいた、あの帳面だ。


「返還された調合録二十六冊を精査した結果、記載された処方は三百十二。うち四十七の処方は、現在の王宮薬学院においても再現が困難と鑑定された。特に赤熱病に対する複合抽出法は、既存の文献に類例がなく、独自に確立された技術と認められる」


 アルヴィンの目がヴァルターを捉えた。


「先ほど何か仰いかけましたね」


 ヴァルターは答えられなかった。


「"誰でも作れる"——そう仰るおつもりでしたか」


 沈黙が、査問室の石壁に染み込むように広がる。


「では、領内の疫病をお止めください。誰でもよいので」


 エルンストの筆が書記に走る音だけが、静寂の中で小さく響いた。ヴァルターは唇を動かしたが、声にならなかった。王弟の目は冷たくはないが、温かくもない。ただ事実だけを見つめている目だった。


 壁際で目を閉じていたゲルハルトが、初めて声を出した。


「……わしは、あの娘を手放すなと言ったはずだ」


 父の声は低く、疲れていた。息子を庇う言葉は一語もなく、ただ事実を確認しただけの呟きだった。けれどその一言が、この部屋の中で最も重い断罪だった。


「父上」


 ヴァルターが椅子から腰を浮かせた。声が裏返っている。


「父上、何か——何か仰ってください。俺は——俺はただ——」


 ゲルハルトは目を開けなかった。


 ヴァルターは査問室を見回した。王弟は書類に視線を落としている。査察官は次の報告の準備をしている。書記官は淡々と記録を取っている。父は目を閉じたままだ。この部屋の誰一人として、自分を見ていない。自分の味方になろうとする人間が、一人もいない。


「あの女が——あの女が戻って来れば済む話じゃないか。戻って来いと言えば——」


 声が査問室の壁に跳ね返って、自分の耳に戻ってきた。その声がひどく見苦しいものだと、ヴァルター自身は気づいていない。


 アルヴィンが静かに言った。


「ヴァイスハイト伯爵令嬢は本日の査問に出席しておりません。出席の義務もございません」


 いない。この部屋にも、あの屋敷にも、もうどこにも。「困るのはお前だ」と笑って見送った相手は、振り返ることなく去り、二度と戻る理由を持たなくなった。


 査問は、その後も続いた。禁制品の流通経路の確認、領主としての管理責任の所在、爵位継承に関わる審議の予告——エルンストの事務的な声が、一つずつ項目を読み上げていくたびに、ヴァルターの顔から血の気が引いていくのが、部屋の全員には見えていた。本人だけが、まだ事態の全容を理解できていなかった。





 査問が終わり、アルヴィン殿下が研究室に戻ってきた時、私は窓際の椅子で待っていた。


「終わりました」


 殿下は机に鑑定書の束を置きながら、こちらを一瞥する。何かを言おうとして、やめたように見えた。代わりに、査問の概要だけを短く伝えてくれた。禁制品の認定、管理責任の審議、爵位継承の見直し。


「……そうですか」


 それだけ答えた。もっと何か感じるべきなのかもしれないと思ったが、胸の中は凪いでいた。あの人が追い詰められている姿を想像しても、ざまあみろとは思えなかった。ただ、私の調合録が正しく評価されたことだけが、静かに温かかった。


 殿下が研究室の棚から薬草の標本瓶を取り出し、机の上に並べ始めた。査問の直後だというのに、もう次の研究に頭が切り替わっている。その背中を見ながら、ふと気づく。殿下の手元に、小さな茶杯が二つ置かれていた。一つは殿下の分で、もう一つはこちらに向けて置かれている。いつ用意したのだろう。査問に行く前にはなかったはずだ。


 温かかった。茶杯に触れた指先から、じわりと熱が伝わってくる。


 査問室を出たヴァルターの背を、誰も追わなかった。


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