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疫病の夜、誰の名を呼びましたか  作者: 九葉(くずは)


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第8話 選ぶ朝

 王宮薬学院の温室は、外の冬枯れが嘘のように緑で満ちていた。


 ガラス天井から差し込む冬の陽光が薄く白く、空気には蒸した土と若い葉の匂いが混じっている。かつての薬草園に比べれば随分と小さな圃場だが、ここには私の名前を知っている人がいて、私の薬を待っている人がいる。それだけで、朝ここに来る足取りはあの十年間とはまるで違うものになっていた。


 新しい苗床にセルピア草の種を蒔く。土を被せる指先に迷いはない。この品種は発芽に十四日かかり、定植まではさらに一月を要する。来春には最初の収穫ができるだろう。配合比の調整には、もう少し時間が必要だ。


「根の深さはどうする」


 背後から声がして、振り返ると、アルヴィン殿下が温室の入口に立っていた。研究着の袖はいつも通り肘まで捲られ、ポケットからペンがはみ出している。手には薬草の成分表らしき紙束を抱えていて、どうやら自分の研究の合間にこちらへ寄ったらしい。


「浅めに取ります。この温室の土壌は水はけが良いので、根が深いと乾燥期に枯れる恐れがあります」


「なるほど。前の薬草園とは土質が違うか」


「ええ。ですので、調合の配分も一から組み直す必要があります。同じ処方でも、育つ環境が変われば成分の比率が変わりますから」


 殿下が小さく頷いて、私の隣にしゃがみ込んだ。苗床の土を指で摘まみ、粒の大きさを確かめている。王弟殿下がしゃがんで土を触る姿は端から見れば奇妙かもしれないが、この方にとってはごく自然な動作なのだろう。その横顔には、調合録を初めて開いた時と同じ集中がある。


「アグノス樹皮の圃場も必要になるな。西棟の裏に空いている区画がある」


「そこまでしていただかなくても——」


「必要だから確保する。それだけだ」


 素っ気ない言い方だったが、殿下の指先が苗床の縁を丁寧に整えているのが見えた。私が蒔いた種の上の土を、少しだけ均してくれている。聞かれていないことは手伝わないくせに、こういう細かいところで手が動く人だ。


 しばらく二人で黙ったまま苗床の手入れをして、殿下が立ち上がった。研究着の膝に土がついているが、気にした様子はない。


「リーゼロッテ」


 名前で呼ばれるのは、まだ慣れない。殿下がそう呼ぶようになったのはここ数日のことで、それまでは「ヴァイスハイト嬢」だった。呼び方が変わった理由を殿下は何も説明しなかったし、私も聞いていない。


「一つ、言っておきたいことがある」


 殿下はこちらを見ていた。感情の読みにくい顔は相変わらずだが、視線がいつもより少しだけ長く留まっている。


「あなたにいてほしい。——薬学院に、ではなく」


 言葉が途切れた。この方にしては珍しく、次の言葉を探しているのが見て取れる。ペンを回す癖が出ていて、指先がポケットの中で落ち着かなく動いている。


「俺の、隣に」


 短かった。けれど余計な言葉がない分だけ、その三語が温室の湿った空気の中にはっきりと残った。


 不思議と、驚きはなかった。この人がそういう言い方をする人だということを、もう知っているからだろうか。告白という行為にすら不器用で、甘い言葉の代わりに苗床の土を整えるような人だ。


 けれどだからこそ、この人の「隣に」は信じられると思った。


「……殿下」


「アルヴィンでいい」


「では、アルヴィン様」


 名前を呼んだら、殿下の——アルヴィン様の目がほんの少しだけ見開かれた。本当にわずかな変化だったが、この方の表情を読むことに慣れてきた自分に少し驚く。


「私は、あなたの薬学が好きです。あなたの手が調合録を開く時の真剣さが好きです。あなたが私の薬を、迷いもなく受け取ってくれたことが」


 言葉を探しながら、自分の気持ちの形を確かめていた。必要とされたから応えるのではない。恩があるから返すのでもない。この人の隣にいたいと、自分で思っている。自分で選んでいる。


「あなたが好きです」


 アルヴィン様は何も言わなかった。ただ、ポケットの中で落ち着かなく動いていた指が止まり、視線がわずかに逸れた。耳の先が赤くなっているのは——見間違いではないと思う。


 温室のガラス天井から冬の日差しが落ちて、苗床の上に二人分の影を伸ばしていた。





 疫病がブレンナー公爵領を襲ったのは、その冬のことだった。


 最初は使用人の数人が高熱と咳で倒れ、次いで厩番と庭師が寝込み、一週間のうちに領内の村々に広がった。診療所には薬の備蓄がなく、セレーネが手配していた薬は王宮に押収済みで、代わりの薬師は見つかっていない。公爵家の屋敷は、薬棚の空の瓶だけを抱えて冬を迎えていた。


 ヴァルター・フォン・ブレンナーは、使者を王都に送った。


 リーゼロッテのもとへ。


「戻ってきてくれ。お前の薬が必要なんだ」——そう書いた手紙を持たせた使者は、王宮薬学院の門前で丁重に追い返された。ヴァイスハイト伯爵令嬢はすでに公爵家の関係者ではなく、面会に応じる義務も義理もないと。使者はもう一通、もう一通と手紙を渡そうとしたが、三通目は受け取りすらされなかった。


 屋敷の中は静まり返っている。使用人の半数が暇を請い、残った者たちも最低限の仕事しかしない。セレーネは禁制品の件で王都に連行されたまま戻らず、父ゲルハルトは爵位継承の白紙撤回を進めるために別邸に引き上げてしまった。広い屋敷に、ヴァルターはほとんど一人で残されていた。


 夜、ヴァルター自身が熱に倒れた。


 寝台の上で汗にまみれながら、誰かを呼ぼうとして声を絞る。けれど駆けつける者がいない。枕元に水差しがあるが、手が届かない。かつてはリーゼロッテが常備薬を寝室の引き出しに入れてくれていたことを、この期に及んで思い出す。引き出しを開けると、空だった。


 熱に浮かされた意識の中で、口が勝手に名前を呼んでいた。


「リーゼ……」


 セレーネの名ではなかった。半年間そばに置いた女の名でもなく、守ってやったはずの女の名でもなく、「誰でもできる仕事」をしていた女の名を、ヴァルターは呼んでいた。「あの女の名前を出すな」と怒鳴った、その名前を。


「リーゼ……薬を……」


 返事はない。足音も、扉の軋みも、冷たい手が額に触れる気配も、何もない。あるのは自分の荒い息と、窓の外で吹きすさぶ冬の風の音だけだった。


 なぜ誰も来ないのか——ヴァルターには、最後までそれが理解できなかった。自分が何を捨てたのか、何を壊したのか、何に値段がついていたのか。熱に灼かれた頭の中では、まだ「あの女が出て行ったせいだ」という声が回り続けている。その声がいつか止まるのかどうかは、もう誰にもわからない。





 翌朝、王宮薬学院の温室に冬の光が差し込む頃、私は新しい薬瓶に調合薬を詰めていた。


 瓶の形は、あの日突き返されたものと同じだ。同じ形、同じ大きさ、同じガラスの薬瓶。けれど中身は違う。あの頃よりも精度を上げた配合比、この温室の土壌に合わせた新しい薬草、そしてアルヴィン様から教わった蒸留の新しい手法。同じ瓶の中に、前とは違うものが入っている。


 アルヴィン様が標本棚の整理を終えて、こちらへ歩いてきた。


「それは?」


「解熱薬の新しい処方です。前のものより、少しだけ良いものができました」


 そう言って笑った時、自分の笑い方が変わっていることに気づいた。あの屋敷で十年間かけて完成させた「完璧な笑顔」ではない。口の端の上がり方も、目元の皺の寄り方も、きっと不格好だろう。けれどこの笑い方のほうが、顔の筋肉が楽だった。


 マルタが温室に入ってきて、一通の封書を差し出した。


「お嬢様、ブレンナー公爵家からお手紙が届いております」


 封を見る。ブレンナー家の紋章。見覚えのある、けれどもう自分のものではない紋章だった。


 一瞬だけ手を伸ばしかけて、止める。


「……もう、読む必要はありません。そのままお返ししてください」


 マルタは頷いて、封書を持ったまま踵を返した。その背中を見送りながら、胸の中に痛みがないことを確かめる。痛みはなかった。未練もなかった。あの手紙の中に何が書かれていても、私の足がもう一度あの屋敷へ向かうことはない。


 窓の外では、王都の屋根に積もった薄い雪が朝日を受けて光っている。温室のガラスを通した日差しが苗床の新芽を照らし、セルピア草の種が蒔かれた土壌は春に向けて静かに呼吸を始めていた。


 アルヴィン様が何も言わずに隣に立ち、私が詰めたばかりの薬瓶を手に取って光にかざした。中の液体が淡い琥珀色に透けるのを見て、小さく頷く。


「良い色だ」


 たった一言。けれどその一言の中に、薬の品質への評価と、それを作った私への信頼が、分けようもなく混じっている。この人はいつもそうだ。言葉が少ない代わりに、一語の密度が高い。


 薬瓶を棚に戻し、次の調合の準備に取りかかる。隣でアルヴィン様が標本記録を開き、ペンを走らせ始める。二人の間に会話はないが、沈黙が苦しくない。薬草の匂いと紙の擦れる音とガラスを打つ冬の日差しだけが、温室の中を満たしている。


 ここにいてよいのだと思う。ここにいたいのだと思う。それは誰かに必要とされたからではなく、私が自分でそう決めたからだ。


 疫病の夜、あの人が誰の名を呼んだのか——私は知らない。知る必要も、もうない。


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