第6話 崩壊の足音
ブレンナー公爵家の薬棚が空になったのは、リーゼロッテが屋敷を去ってからちょうど一ヶ月後のことだった。
最初に気づいたのは使用人たちである。厨房の女中頭が風邪をひいた時、いつものように薬棚を開けて解熱薬を探したが、瓶が一本も残っていなかった。隣の棚も、その隣も。ラベルの貼られた空の瓶だけが整然と並び、中身はどれも底をついている。かつてはリーゼロッテが月ごとに補充していた在庫を、この一ヶ月の間に屋敷の人間が使い切っていた。補充する者は、もういない。
報告を受けたヴァルター・フォン・ブレンナーは、執務室の椅子にもたれたまま片手を振った。
「薬師を雇え。王都にいくらでもいるだろう」
家令が一礼して退出したが、その足取りにわずかな躊躇いがあったことに、ヴァルターは気づかなかった。気づいたところで意味を汲み取れたかどうかは怪しい。腕のある薬師は王宮薬学院の管轄下にあり、辺境の公爵領まで赴任する者は容易に見つからないということを、ヴァルターはまだ知らなかった。知ろうともしなかった。薬とは棚にあるもので、なくなれば買えばいいものだと、彼はそう思っている。
それが「誰か」の手で作られ、「誰か」の知識で管理され、「誰か」の十年で蓄積されたものだという事実は、ヴァルター・フォン・ブレンナーの視界には一度も入ったことがなかった。
◇
薬師の募集は難航した。
王都の薬種問屋を通じて三人の薬師に声をかけたが、いずれもブレンナー公爵領の条件を聞いた時点で断ってきた。薬草園は王家の封印がかかっていて使用できない、調合録は返還済みで処方の引き継ぎ資料がない、常備薬の在庫はゼロ——この条件で腕の良い薬師が来るはずもないのだが、ヴァルターにはその理由が理解できなかった。
「なぜ来ない。ブレンナー公爵家だぞ。待遇に不満があるなら上乗せすればいい」
家令は言葉を選びながら答える。
「薬師の方々が懸念されているのは、待遇ではなく設備でございます。薬草園が使えず、処方の基盤となる調合録もない状態では、一から体制を築くのに数年を要すると……」
「数年? あんな庭仕事に数年もかかるのか」
家令の口がわずかに引き結ばれた。ほんの一瞬だったが、そこに何かを堪えた気配があったことを、ヴァルターはやはり見ていない。
セレーネが申し出たのは、その翌日だった。
「私にお任せいただけませんか、ヴァルター様。薬草のことは詳しくありませんけれど、知り合いの商人を通じて薬を取り寄せることならできますわ」
居間の長椅子に腰掛けたセレーネは、いつものように少し俯き加減で、睫毛を伏せている。病み上がりの頬は白く、声にも力がない。それでも自分にできることをしたいのだという健気さに、ヴァルターは素直に胸を打たれた。
「ありがとう、セレーネ。助かる」
セレーネの取り寄せた薬は、一週間後に届いた。紙包みに包まれた丸薬と、小さな瓶に入った液薬が数種類。ヴァルターはそれを見て安堵し、使用人たちに配るよう指示した。これで当面はしのげるだろうと。
しかし三日も経たないうちに、使用人たちの間から不満の声が漏れ始める。
「効きが弱い」のだと。風邪をひいた女中頭は丸薬を三日飲んだが熱が下がらず、厩番の膝の痛みに処方した液薬もほとんど変化がない。リーゼロッテの薬であれば一晩か二晩で効果が出ていた症状が、セレーネの取り寄せた薬では一向に改善しなかった。
使用人たちは面と向かっては何も言わない。けれど廊下の曲がり角や厨房の奥で、ひそひそと言葉を交わしている。前の奥様の薬なら。前の奥様がいらした頃は。その囁きは、屋敷の壁を伝うようにして少しずつ広がっていた。
◇
決定的だったのは、古参の執事フリードリヒの一言だ。
ある朝、ヴァルターが執務室で領地の報告書に目を通していた時、フリードリヒが茶を運んできた。ブレンナー家に三十年仕える老執事で、ヴァルターが幼い頃から屋敷の隅々を知り尽くしている男だった。
「ヴァルター様、領内の診療所から再三の問い合わせが参っております」
「診療所?」
「薬草の供給が途絶えて以来、備蓄が底をつきかけているとのことです。特に冬場の解熱薬と呼吸器系の煎じ薬について、至急の対応を求められております」
「セレーネが取り寄せている薬を回せばいいだろう」
フリードリヒは一拍の沈黙を置いてから、抑えた声で言った。
「僭越ながら、あの薬では診療所の需要には応えられないかと存じます。前の奥様——リーゼロッテ様の調合薬は、領内の風土と住民の体質に合わせて配合を調整されたものでした。市販の薬とは、根本的に性質が異なります」
ヴァルターの手が、茶杯の上で止まった。
「あの女の名前を出すな」
低く、硬い声だった。フリードリヒは目を伏せたが、引き下がらなかった。
「ヴァルター様、事実を申し上げているだけでございます。リーゼロッテ様が管理されていた薬草の中には、市場に流通しない希少種が多数含まれておりました。あの薬草園でなければ栽培できないものもあり——」
「くどい」
茶杯を受け皿に置く音が、執務室に鋭く響いた。ヴァルターは立ち上がり、窓に背を向けたまま声を絞り出す。
「あの女が勝手に出て行ったんだ。薬草園だって、勝手に王家に返しやがった。俺のせいじゃない。わかっているだろう、フリードリヒ」
フリードリヒは深く一礼した。
「……かしこまりました」
退出する老執事の背中を見送りながら、ヴァルターは窓の外に目を向けた。中庭の奥に、王家の封印がかかったままの薬草園の門が見える。あの門の向こうで、手入れされなくなった薬草が枯れ始めていることを、ヴァルターは知らない。知っていたとしても、おそらく意味を理解できない。
数日前、薬草園の封印解除を王家に申請したが、返答は素っ気ないものだった。『管理委託の再開には、王宮薬学院認可の薬師を新たに選任し、院長の審査を経る必要がある。現時点で該当する薬師の申請はない』——要するに、手続きを踏めということだ。
たかが薬草園に、なぜここまで手続きがいる。あの女が一人でやっていた庭仕事に、王宮の認可だの院長の審査だのが必要だとは、どういうことなのか。ヴァルターには理解できなかったし、理解しようという気もなかった。あの女が勝手に出て行った。それが全てだ。自分は何も間違っていない。
——そう思わなければ、立っていられなかった。けれどそのことに、ヴァルター自身は気づいていない。
◇
セレーネ・ハイデルンは、自室の書き物机の前で手紙を書いていた。
燭台の火が一つだけ灯った薄暗い部屋の中で、羽根ペンが紙の上を走る音だけが響く。宛先は国境の向こう側にいる薬商人——半年ほど前から取り引きのある、顔も知らない相手だ。
『先日お送りいただいた品では足りません。もっと効きめの強いものをお願いいたします。費用の件はご心配なく、ブレンナー家の名前で工面いたします』
書き終えて、ペンを置く。指先が震えていた。
セレーネは自分が何を取り寄せているのか、正確には理解していない。国の認可を受けた薬草とそうでないものの区別がつくほどの知識はなく、あの商人が「よく効く特別な品」と呼ぶものを、そのまま信じて買い付けているだけだ。最初はヴァルターの熱を下げるために一度だけのつもりだった。それが二度、三度と重なり、今では屋敷中の薬をこのルートに頼るようになっている。
リーゼロッテがいなくなれば、自分の居場所が確保される。そう思っていた。あの人がいる限り、ヴァルター様の正式な婚約者の座は動かないし、私はいつまでも「庇護を受けている病弱な令嬢」でしかない。だからあの人がいなくなった時、正直なところ胸の奥で小さく息をついた。
けれど実際にあの人がいなくなってみると、穴が開いたのは婚約者の席ではなく、この屋敷の足元そのものだった。薬が足りない、薬草がない、処方がわからない、診療所が困っている——すべての不足が「あの人がいない」という一点に収束していく。その穴をセレーネが埋められないことは、日を追うごとに明らかになっていた。
ヴァルター様のそばにいるためには、自分が役に立たなければならない。薬を手配できる自分でいなければ、ここにいる理由がなくなる。だから書く。知らない商人に、知らない薬を、もっと効くものをと頼む手紙を。
封をする指が、まだ震えている。封蝋を押す時に少し傾いて、紋章が歪んだ。やり直す気力はなかった。
この手紙が、やがて王宮薬学院の査問の場に証拠として並ぶことになると、今のセレーネは知らない。
手紙を引き出しにしまい、燭台の火を吹き消す。暗くなった部屋の中で、セレーネは両手を膝の上で組んだ。
廊下の向こうからヴァルターの怒鳴り声が聞こえる。また誰かがリーゼロッテの名前を出したのだろう。「あの女の名前を出すな」と叫ぶ声が石壁に反響して、やがて沈黙に呑まれていく。
あの女の名前を出すな——ヴァルターはそう怒鳴った。
だがやがて疫病の夜が来る。その時、彼が真っ先に呼ぶ名前が誰のものか。この時の彼は、まだ知らない。




