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疫病の夜、誰の名を呼びましたか  作者: 九葉(くずは)


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第5話 あなたの薬が必要だ

 王都の安宿の窓は小さくて、朝日が部屋の半分までしか届かない。


 それでも目が覚めて最初に感じたのは、薬草の匂いがしないという不思議な軽さだった。十年間、毎朝あの調合室の乾いた青い匂いの中で目を覚ましていたから、何もない空気というのがこんなにも素っ気なく、こんなにも広いものだとは知らなかった。


 狭い部屋に家具はほとんどない。寝台と小さな机、椅子が一つ、それから旅行鞄と薬道具の小箱だけが壁際に並んでいる。マルタは隣の部屋を取ってくれたが、公爵家の客間に慣れた彼女がこの安宿をどう思っているかは、聞かないことにしている。


 机の上に、父からの手紙が置いてあった。昨日の夕刻に届いたもので、封を切った時のインクの匂いがまだかすかに残っている。


『お前が決めたことなら、それでよい。ヴァイスハイト家の娘は、自分の足で立てる。必要なものがあれば言いなさい。ただし、帰ってこいとは言わない。帰りたくなった時だけ帰りなさい』


 父らしい手紙だった。短くて、余計な慰めがない。ブレンナー公爵家との婚約は伯爵家にとっても大きな縁だったはずだが、そのことには一言も触れていなかった。父は昔から、私の判断に口を出さない人だ。口を出さないかわりに、選んだ道の結果は自分で引き受けろという厳しさが、あの短い文面の行間にある。


 手紙を畳み直して鞄にしまい、顔を洗う。冷たい水が目を覚まさせてくれる。今日は、何をしよう。薬師としての仕事を探すなら、まずは王都の薬種問屋に顔を出すべきだろうか。それとも——


 扉を叩く音がした。


「お嬢様、お客様です」


 マルタの声だが、どこか緊張した響きがある。こんな安宿に客が来るはずもなく、怪訝に思いながら扉を開けると、マルタの後ろに見知らぬ男が立っていた。王宮の紋章が入った外套を身につけた、事務官と思しき初老の男性だ。


「ヴァイスハイト伯爵令嬢リーゼロッテ様でいらっしゃいますか」


「はい」


「王宮薬学院より、出頭のお願いでございます。先日返還された調合録について、院長がお話を伺いたいと申しております」


 調合録。あの二十六冊の帳面は、もう王宮薬学院に届いたのか。返還の手続きは正規のものだから、問題があるとは思えないが——もしかしたら、記載に不備でもあっただろうか。


「承知しました。いつ伺えばよろしいですか」


「本日、午後のお時間をいただければと」


 断る理由はなかった。





 王宮薬学院は、王城の東棟に併設された石造りの古い建物だった。


 入り口を抜けると、乾燥した薬草と蒸留液の匂いが廊下に満ちていて、不意に胸の奥がきゅっと縮まる。慣れ親しんだ匂いだ。あの薬草園の調合室と同じ匂い——けれどここには、私の帰る場所はもうない。


 事務官に案内されたのは、二階の奥まった一室だった。扉を開けると、広い机の上に見覚えのある革装の帳面が並んでいる。私の調合録だ。二十六冊すべてが封を解かれ、開かれた状態で机の上に広がっている。


 そして、その向こう側に一人の男が座っていた。


 年は私より少し上だろうか、二十代半ばほどに見える。黒い髪を無造作に後ろへ流し、白い研究着の袖を肘まで捲り上げている。手元に広げた帳面の一冊を凝視したまま、こちらが入ってきたことに気づいていないのか、あるいは気づいていて区切りがつくまで顔を上げないつもりなのか。指先が帳面の文字を辿るように動いており、その目はひどく真剣だった。


 事務官が咳払いをする。


「殿下、ヴァイスハイト伯爵令嬢がお見えです」


 殿下。


 男がようやく顔を上げた。切れ長の目が、帳面から私へと移る。感情の読みにくい表情だったが、敵意や不審ではない——何かを確かめるような、査定するような視線だった。


「アルヴィン・レーヴェンシュタインだ。王宮薬学院の院長を兼ねている」


 レーヴェンシュタイン。王家の姓だ。私の知識が正しければ、現国王の弟君——王弟殿下ということになる。薬学院の院長が王族だという話は聞いたことがあったが、こんな若い方だとは思わなかった。


「ヴァイスハイト伯爵家が息女、リーゼロッテと申します。本日はお呼び立ていただき——」


「この調合録を書いたのは、あなたか」


 挨拶を遮られた。無礼ということではなく、この方にとって挨拶より先に確認すべきことがあったのだろう。開かれた帳面の一冊を指で示しながら、殿下は早口で続ける。


「赤熱病の処方、セルピア草とエーデル草の複合調合。この配合比は現行の薬学文献のどこにも載っていない。学院の調合師に見せたが、誰も再現の見当がつかないと言った。蒸留温度を二段階に分けて抽出している——この手法は、どこで学んだ」


「……独学です」


 殿下の眉がわずかに動いた。


「独学」


「はい。認められた調合師の免状は持っておりません。ブレンナー公爵領の薬草園で十年間、試行を繰り返して辿り着いた処方です」


 沈黙が落ちる。殿下は帳面に視線を戻し、ページを数枚めくってから、また顔を上げた。その目つきが先ほどとは少し違っている。査定の目ではなく、何か——敬意に近いもの、と言えばいいのだろうか。私の見間違いかもしれないが。


「独学で、ここまで辿り着いたのか」


 返す言葉が見つからなかった。「誰でもできる」と呼ばれた仕事に、この方は帳面を開いただけで驚いている。その反応が信じられないような、信じたいような、どちらにも踏み切れない気持ちが胸の中で揺れていた。


 殿下が立ち上がり、机の脇へ回ってきた。そこで初めて気づいたのだが、研究着のポケットからペンが二本はみ出しており、袖口にはインクの染みがある。王弟殿下という肩書きからは想像しにくい、研究者そのものの出で立ちだった。


「もう一つ聞きたい。鞄の中に薬瓶が入っているな——あれを見せてもらえるか」


 思わず鞄を胸に引き寄せた。なぜわかるのだろう。匂いだろうか、この方には薬の気配がわかるのだろうか。


「……これは、その」


 鞄の底から布に包んだ薬瓶を取り出そうとして、指が止まった。あの夜の記憶が蘇る。差し出した瓶を突き返された手の感触、「毒かもしれない」という声、使用人たちの視線。また同じことを言われるのではないかと、体のどこかが勝手にこわばる。


 殿下が一歩近づいて、私の手元を覗き込んだ。


「出してくれ」


 短い声だった。命令ではなく、ごく自然な促し方で。躊躇しながら布を解いて差し出すと、殿下は迷いのない動作でそれを受け取った。蓋を開け、瓶の口に鼻を近づけ、中の液体を光にかざす。一連の手つきに、薬師の所作が染みついているのがわかる。


「セルピア草の根、エーデル草の花弁、それからアグノス樹皮の微量抽出。解熱と消炎を兼ねた処方だな。保存状態もいい。……誰がこの薬を不要と言った?」


 その問いかけに答えることは、できなかった。声が出なかったのではなく、出す必要がなかった。殿下は答えを待たずに瓶の蓋を閉じ、丁寧に布の上へ戻してくれた。その手つきが、ヴァルター様が同じ瓶を払いのけた時の手つきと、あまりに違っていた。


「王宮薬学院で働かないか」


 唐突な言葉だった。殿下は机に寄りかかるようにして腕を組み、感情の読みにくい顔のまま続ける。


「あなたの技術は、この国に必要なものだ。学院には調合室も薬草の圃場もある。免状はこちらで手続きする。条件が合わなければ断ってくれて構わない」


 条件の前に「必要だ」と言った人は、十年の間に一人もいなかった。ヴァルター様は「薬を用意しておけ」と言い、「誰かに届けさせろ」と言い、「誰でもできる」と笑った。必要としていたのは薬であって、薬を作る私ではなかった。


 それなのにこの方は、帳面を読んで、瓶を手に取って、「あなたの技術」と言った。薬ではなく、技術と。


「……少し、考えるお時間をいただけますか」


「構わない。急かすつもりはない」


 頷いて、一礼して部屋を辞する。廊下に出てから、指先が微かに震えていることに気づいた。あの薬瓶を受け取ってもらえたことが——突き返されなかったことが、こんなにも体に響くものだとは思わなかった。





 リーゼロッテが部屋を出た後、アルヴィンは机の上の調合録をもう一度開いた。


 三百を超える処方。季節ごとの薬草の成分変動を独自に記録し、配合比を年単位で微調整し続けた痕跡。文献に頼らず、自分の手と目と舌だけで確立した調合体系。十年という歳月の重みが、この革装の帳面の一ページ一ページに刻まれている。


 これを書いた人物が、公爵家の薬草園で十年間「誰にでもできる仕事」として扱われていた。


 ペンを取り上げて鑑定報告書の余白に走り書きをする。『技術水準:王宮薬学院主席調合師に準ずる。複合抽出の独自手法に関しては、学院の現行技術を上回る可能性あり。正式鑑定を進言する』


 書き終えてから、先ほどの場面を思い返す。薬瓶を差し出す時、彼女の手が止まった。一瞬だが、確かに止まっていた。受け取ってもらえないかもしれないという恐れが、あの指先に出ていた。あれだけの技術を持つ人間が、自分の薬を差し出すことを恐れている。


 ——誰がそうさせた。


 アルヴィンはその問いを声にはせず、鑑定報告書の表紙を閉じて封蝋に手を伸ばした。


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