表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
疫病の夜、誰の名を呼びましたか  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/8

第4話 辞去の朝

 夜明け前の調合室は、まだ暗い。


 いつもなら灯りをつけて薬草の仕分けを始める時刻だが、今朝の私の手元にあるのは薬草ではなく、王宮薬学院宛ての封書だった。管理委託契約の終了届、薬草園の土地および資産の返還申請書、調合録の引き渡し目録——三通の書類に署名と押印を済ませ、封蝋で閉じる。蝋が固まるまでの数秒間、蝋燭の炎が書類の表面をちらちらと舐めていた。


「お嬢様、お荷物はこちらに」


 マルタが調合室の隅に旅行鞄を置いた。中身は着替えと身の回りの品だけで、驚くほど軽い。十年この屋敷で暮らしたのに、持ち出すものがこれだけかと思うと、可笑しいような寂しいような、どちらとも言えない気持ちが胸の底をかすめた。


「調合録は」


「二十六冊すべて、目録通りに木箱に収めてございます。封をするのはお嬢様のお手で」


 頷いて、棚に向かう。


 革装の帳面を一冊ずつ確認しながら、木箱に移していく。十二歳の頃に書き始めた最初の一冊は角が丸く擦れて、手に馴染む重さだった。ページの端が少し黄ばんでいるのは、あの頃まだ乾燥の手順が甘くて、調合中に薬液を跳ねさせてしまったせいだ。最後の一冊を入れると、木箱はずっしりと重くなった。


 蓋をして、王家の封印用の細紐で結ぶ。結び目に封蝋を垂らし、ヴァイスハイト伯爵家の紋章を押す。これでもう、開封の権限は王宮薬学院にしかない。


 棚に薬瓶が並んでいる。解熱、鎮痛、咳止め、消毒——ラベルの文字が朝日に透けて、一本ずつ私に見られている気がした。この瓶たちも王家の資産として返還される。空になるのは棚だけではない、この部屋から私の痕跡がすべて消えるのだ。


 最後に、机の隅に伏せたままだった薬瓶を手に取る。あの夜、毒かもしれないと突き返された一瓶。中身は劣化していないはずだが、もうこれを誰かに差し出すつもりはない。旅行鞄の底に入れ、布で包んだ。理由は自分でもよくわからない。捨てる気にはなれなかった。


「お嬢様」


 マルタが扉の前に立っている。その顔に迷いはなく、私が決めたことに最後までついてくるという意思だけが、静かに据わっていた。


「参りましょう。ヴァルター様にご挨拶を」





 ヴァルター様は書斎にいた。


 取り次ぎを頼むと、使用人が怪訝な顔をしたのは、私がこの時間に書斎を訪ねることがめったにないからだろう。通されるまでの数分間、廊下の窓から中庭の薬草園が見えた。門は閉まっている。今朝は開けなかった。もう開けることはない。


「何だ、改まって」


 書斎の机に書類を広げたまま、ヴァルター様はこちらを見上げた。機嫌は悪くなさそうだ。セレーネ嬢の体調が安定しているのだろう。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


 一礼して、背筋を伸ばす。声が震えないことを確かめてから、口を開いた。


「本日をもちまして、婚約をお返しいたします」


 ヴァルター様の手が、書類の上で止まった。


「薬草園は、管理委託契約に基づき王家への返還手続きを完了いたしました。調合録および資産の引き渡し目録は、本日中に王宮薬学院へ送付いたします」


 沈黙が、一拍。


「……何を言っている」


 ヴァルター様が顔を上げた。驚いてはいるが、怒ってはいない。むしろ戸惑いに近い表情で、まるで使用人が急に辞めると言い出した時のような——そう、その程度の動揺だった。


「あの夜のことなら、別に本気で毒だと思ったわけじゃない。彼女が不安がっていたから、つい口にしただけだ。そんなことで——」


「そんなことではございません」


 声を荒らげたつもりはなかった。ただ、遮った。それだけのことなのに、ヴァルター様が一瞬たじろいだのは、おそらく私が十年間一度もこの人の言葉を遮ったことがなかったからだ。


「ですが、その件をここで議論するつもりはございません。手続きはすべて正規のものです。契約書の第七条に基づく管理者の離任ですので、ご確認ください」


 ヴァルター様の眉が寄った。契約書の第七条など、読んだこともないのだろう。けれど今この場で「何のことだ」と聞くわけにもいかず、口を引き結んでいる。


 それから、ふっと力を抜いたように笑った。


「困るのはお前の方だろう、リーゼ」


 椅子の背にもたれ、腕を組んで私を見る。余裕を取り戻した顔だ。


「伯爵家の娘がうちとの婚約を捨てて、どこに行くつもりだ? 薬草園はうちのものじゃなかったのか、まあいいが——お前にはうちしかないだろう」


 お前にはうちしかない。


 その言葉には侮辱の意図すらないのだと、十年一緒にいた私にはわかる。この人は本当にそう信じているのだ。私がこの屋敷を離れられるはずがないと、帰る場所がないのだからいずれ戻ってくると、心の底から思い込んでいる。


 怒りは湧かなかった。湧いたのは、薄い驚きだった。十年かけて私が見てきたこの人の輪郭が、初めてくっきりと結ばれた気がした。この人にとって私は最初から、ここにいて当然の、いなくなるはずのない、だから大事にする必要もない存在だったのだ。


「ご心配なく」


 それだけを言って、頭を下げた。背を向けて書斎を出る時、ヴァルター様が何か言いかけた気配があったが、振り返らなかった。


 廊下を歩く足取りが、不思議なほど軽い。石畳を踏む靴音がこんなに軽やかに響いたことは、この十年間で一度もなかった。





 屋敷の正門を出ると、秋の空が高く澄んでいた。


 マルタが馬車の横で待っている。旅行鞄と、私の薬道具を収めた小箱だけが荷台に載っていて、それが十年間の全てだった。


「お嬢様、よろしいのですか」


「ええ」


 振り返って、屋敷の外壁越しに薬草園の木立がわずかに覗いているのが見えた。あの中に、私が育てた薬草が今も風に揺れている。冬を越す準備がまだ途中のものもある。セルピア草の根の養生、エーデル草の霜よけ——心残りがないと言えば嘘になるが、あの園はもう王家のものだ。然るべき人が管理を引き継いでくれるだろう。


 馬車に乗り込み、扉を閉める。マルタが向かいの席に座った。


「王都までお願いします」


 御者が手綱をとり、車輪が動き出す。屋敷の正門が、ゆっくりと遠ざかっていく。


「十年」


 呟いた声は、車輪の音に紛れてマルタにも聞こえなかったかもしれない。窓の外を流れる並木道の景色は十年前と何も変わっていないのに、見え方がまるで違う。行きは不安で胸がいっぱいだった。帰りは——帰りというのも違う。ここから先は、行きだ。





 リーゼロッテが屋敷を去った翌朝のことを、ヴァルター・フォン・ブレンナーは大した出来事だとは思っていなかった。


 朝食をとりながらセレーネに昨日の顛末を話すと、彼女は目を伏せて「私のせいで……申し訳ございません」と震える声で言った。その肩を抱き寄せ、「お前のせいじゃない、あいつが勝手に出て行ったんだ」と答えた時、自分は正しいことを言っているという確信があった。


 まあ、すぐに戻ってくるだろう。伯爵家の娘が一人で何ができる。薬草園のことは——そうだ、あれは確か契約がどうとか言っていたが、紙切れの話はあとで事務方に聞けばいい。


 そう思いながら朝食を終え、執務室に向かおうとした時、使用人が一人、血相を変えて廊下を走ってきた。


「ヴァルター様、薬草園の門が——鍵が変わっております。王家の封印がされていて、開けることができません」


「封印?」


「はい、昨夜のうちに王宮からの使者が来て、封印を施したと門番が……」


 ヴァルターは数秒、使用人の顔を見つめてから、軽く舌打ちをした。


「放っておけ。あんなもの、手続きをすればすぐに開く」


 使用人は何か言いたそうな顔をしたが、頭を下げて引き下がった。


 ヴァルター・フォン・ブレンナーは、まだ気づいていなかった。あの薬草園の中に自分の領地の医療基盤のすべてがあったことも、封印を解く手続きには新たな薬師の選任と王宮薬学院の審査が必要であることも、何より——「困るのはお前だ」と笑って見送ったあの女が、もう二度とこの門をくぐらないということも。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ