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疫病の夜、誰の名を呼びましたか  作者: 九葉(くずは)


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第3話 調合録の重さ

 あの夜から五日が経ち、ヴァルター様の熱はすっかり引いていた。


 屋敷の者たちがほっとした顔で廊下を行き交うのを横目に見ながら、私は調合室の扉を閉めた。鍵をかける必要はない——この部屋に用があるのは私だけだから。棚の薬瓶は朝の光を受けて整然と並び、どの瓶も中身が減っていない。五日の間、誰もここに薬を取りに来なかった。


 ヴァルター様を治したのはセレーネ嬢の薬だと、屋敷中がそう信じている。


 あの日、公衆の前で突き返された私の薬瓶は、今も机の隅に伏せてある。蓋を開けてもいない。中身が毒かどうか確かめようとした者も、結局は一人もいなかった。


 毒かもしれない——あの言葉を思い出すたびに、胸の奥の同じ場所がじくりと疼く。十年かけて磨いてきた腕を、たった一言で否定されるというのは、こういう痛み方をするものなのだと初めて知った。傷というより、芯のところが静かに冷えていくような感覚だ。


 けれど今日、この部屋に来たのは傷を舐めるためではない。


 机の下の木箱から、革装の帳面を一冊ずつ取り出す。調合録が十二冊、薬草の標本帳が三冊、領内の診療所への納品記録が七冊。さらに、季節ごとの土壌と日照の観察日誌が四冊。合わせて二十六冊の記録が、十年の間にこの部屋で積み上がっていた。


 机の上に並べると、革表紙の色の変化だけで年月の厚みがわかる。最初の一冊は十二歳の頃に書き始めたもので、文字がまだ丸く、分量の記載も不安定だ。最新の一冊は先月閉じたばかりで、背表紙の革がまだ柔らかい。


 一冊ずつ、開いていく。


 解熱薬の処方だけで三十七の変種がある。患者の年齢、体格、持病の有無によって配合を変え、季節ごとの薬草の成分変化に合わせて微調整を重ねてきた記録だ。鎮痛薬は二十四種、咳止めは十九種。傷薬、消毒液、鎮静剤、滋養強壮の煎じ薬、妊婦用の安定薬——数え上げれば三百を超える処方が、この二十六冊の中に眠っている。


 これだけのことを、あの人は「誰でもできる」と笑った。


 ページを繰る指が止まったのは、三年前の冬の記録だった。領内で赤熱病が流行した折、診療所の薬が尽きて私が七日間調合室にこもり続けた時の処方が残っている。通常の解熱薬では追いつかず、セルピア草の根とエーデル草の花弁を独自の比率で組み合わせた特別な調合だった。あの時、ヴァルター様は一度もこの部屋を覗かなかった。熱が収まった後で「ああ、大変だったらしいな」と人づてに聞いた程度の言葉が、唯一の反応だった。





 午後、マルタが茶を持って調合室に来てくれた。


 机の上に並べた二十六冊の帳面を見て、マルタは一瞬足を止めたが、何も言わずに茶を置いてくれる。湯気の向こうで、彼女の目がわずかに細まったのは、何かを察したからだろう。


「マルタ。一つ確認させてください」


「はい、お嬢様」


「この薬草園の管理委託契約のことです」


 マルタの手がティーポットの上で止まる。


「お嬢様がこの薬草園を管理されているのは、王家からの委託に基づくものでございます。土地も、そこで栽培される薬草も、調合録も、すべて王家の資産として登録されております」


 知っていた。婚約が決まった折、父がブレンナー公爵家と王宮の間で取り交わした契約書に私も目を通している。ただ、その条項の意味を本気で考えたことは一度もなかった。使う日が来ると思っていなかったから。


「契約の第七条に、管理者が離任する場合の規定がありましたね」


「はい。管理者の離任、もしくは婚約の解消に伴い、土地と資産は速やかに王家へ返還されるものとする、と」


 マルタの声には抑揚がなかった。事実を述べているだけの、静かな声だ。けれどその静かさの底に、十年間ずっとこの日を覚悟していたような落ち着きがあることに気づいて、私は茶杯に目を落とした。


「……マルタは、いつからこうなると思っていましたか」


「お嬢様がお尋ねになるまでは、何も申し上げるつもりはございませんでした」


 答えになっていない。けれど十分な答えだった。


 つまり、ずっと前からだ。ずっと前から、マルタは私がこの屋敷で報われることはないと見抜いていて、それでも私が自分で気づくまで待っていてくれた。


 茶を一口含む。薬草園で育てたカモミールの、素朴であたたかい香りが舌の上に広がって、不意に目の奥が熱くなりかけたが、まばたきひとつで押し返した。今は泣く場面ではない。





 夕刻、屋敷の二階の窓から、中庭を横切るヴァルター様の姿が見えた。


 隣にセレーネ嬢が寄り添い、ヴァルター様がその肩を支えるようにして歩いている。病み上がりの散歩だろうか、セレーネ嬢が何か言うたびにヴァルター様が微笑む。私の隣ではめったに見せない、柔らかな表情だった。


 目を逸らそうとして、別のものが視界にひっかかった。


 セレーネ嬢の手に、小さな薬包が握られている。あの夜、彼女が「私が取り寄せた特別なお薬」と差し出したものと同じ包み紙に見えた。


 ——あの薬。


 気になっていたことがある。ヴァルター様の熱を下げた薬の、あの匂いだ。セレーネ嬢が差し出した瞬間に部屋の空気にわずかに混じった、甘く重い香り。私の知る薬草のどれとも違っていた。王宮薬学院で認可されている薬草であれば、調合録のどこかに類似の記録があるはずなのに、あの匂いには覚えがない。


 追及する義理は、もうないのかもしれない。


 私はあの夜、毒呼ばわりされた薬師だ。何を言っても「嫉妬だ」と片付けられるだけだろう。セレーネ嬢の薬がどこから来たものであれ、ヴァルター様が信じたのはあちらの薬であり、突き返されたのはこちらの薬だった。


 窓から手を離し、背を向ける。中庭の笑い声は、ガラス越しでもよく聞こえた。





 深夜の薬草園に、虫の声だけが細く響いている。


 調合室の机の上には、二十六冊の帳面が黙って並んだままだった。月明かりに照らされた革の背表紙を、端から端まで指で撫でる。十年分の手触りは一冊ごとに違い、最も古い一冊は角が丸く擦れ、最も新しい一冊はまだ革の匂いがする。


 この記録は、私の腕の証明だ。


 そして同時に、王家の資産でもある。ヴァルター様のものではなく、ブレンナー公爵家のものでもない。私が去れば、この帳面も、薬草園の土地も、棚の薬瓶も、すべて王家に返還される。残るのは空の棚と、鍵のかかった門だけだ。


 ヴァルター様はそのことを知っているだろうか。おそらく知らない。この薬草園がどういう契約で成り立っているのか、一度でも書類を読んだことがあるなら、「誰でもできる」などとは言えないはずだから。


 ポケットの中で、薬草園の鍵が指に当たった。使い込んで角の丸くなった真鍮の鍵だ。十年間、毎朝この鍵で門を開け、毎晩この鍵で門を閉じてきた。手のひらに乗せると、体温でじわりと温まる。


 もう、ここにいる理由がない。


 あの人は私の薬を毒と呼んだ。私の仕事を誰でもできると笑った。私ではなくセレーネ嬢の薬を選び、私ではなくセレーネ嬢のそばにいることを選んだ。そのすべてが、十年という歳月をかけて少しずつ積み上げてきた私の仕事を、たった数日で踏み潰していった。


 怒りは、もうあまり感じない。怒るためには、相手に期待が残っていなければならない。今の私の中にあるのは、失望ですらなく、ただ静かに冷えた確認だった。


 ——私はこれだけのことをした。もう十分だ。


 鍵を握りしめ、それからゆっくりと力を抜く。爪の跡が掌に残ったが、痛みはなかった。


 明日、私はこの鍵を返す。あの人にではなく、本来の持ち主に。


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