表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
疫病の夜、誰の名を呼びましたか  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/8

第2話 毒かもしれない

 真夜中に叩かれた扉の音で、目が覚めた。


「お嬢様、ヴァルター様が倒れられました」


 マルタの声に寝台から跳ね起きる。詳しく聞けば、夕食後に急な高熱を出し、今は寝室で臥せっているという。侍医はこの時刻には呼べず、使用人たちが額を冷やしているが熱は上がる一方だと。


 寝間着のまま調合室に走った。


 石造りの小部屋は夜の冷気で冷えきっており、息が白く曇る。棚から薬草を三種取り出し、火を起こして蒸留の支度を始めた。セルピア草の根を砕き、エーデル草の花弁を計量し、アグノス樹皮の抽出液を一滴ずつ加えていく。解熱と消炎を兼ねた処方で、急な高熱にはこれが最も効く。ただし配合比を誤れば腎臓に負担がかかるため、蒸留温度を二段階に分けて慎重に抽出しなければならない。


 手が勝手に動く。十年間繰り返してきた手順だ。この調合ができる人間は、少なくともこの屋敷には私しかいない。


 ——誰でもできる仕事、だったか。


 晩餐会の夜の言葉が頭をよぎったが、振り払った。今は、そんなことを考えている場合ではない。


 蒸留が終わり、冷ました液を薬瓶に詰める。ラベルに分量と服用間隔を書き込み、布で包んだ。調合を始めてから二刻ほどが経っていて、窓の外はまだ暗い。指先が冷たさでかじかんでいるのに、額には汗が浮いていた。


「お嬢様、お持ちしましょうか」


 マルタが扉口に立っている。


「いいえ、私が持っていきます。容態を見て、服用量を調整しなければなりませんから」


 薬瓶を手に、ヴァルター様の寝室へ向かった。





 寝室の扉を開けた瞬間、甘い香が鼻についた。


 誰かが焚いた花の香だ。ヴァルター様の寝室にこんな匂いはなかったはずで、一瞬足が止まる。部屋の中には使用人が三人と、そして寝台の脇の椅子に、セレーネ嬢が座っていた。


 額の汗を拭う布を手にして、ヴァルター様の枕元に寄り添っている。白い頬に心配そうな影を落として、細い指が布を絞る仕草はたしかに献身的に見えた。部屋にいる使用人たちも、その姿を気遣わしげに見守っている。


「ヴァルター様、解熱薬をお持ちいたしました」


 声をかけると、ヴァルター様が薄く目を開けた。熱のせいで頬が赤く、額に脂汗が浮いている。視線が私を捉え——それから、隣のセレーネ嬢へ移った。


「……リーゼか」


「はい。先ほど調合した解熱薬です。セルピア草の根を主剤にした処方ですので、服用後一刻ほどで——」


「あの」


 セレーネ嬢が、小さな声で遮った。椅子から腰を浮かせ、薬瓶を覗き込むようにしてから、伏し目がちにヴァルター様を見上げる。


「その……ヴァルター様のお身体に、本当に合うのかしら。私、お薬のことはよくわからないのですけれど……」


 何を言っているのか、一瞬わからなかった。合うかどうかと聞かれれば、合う。十年間この人の体調を見てきた私が、この人の体質に合わせて調合した薬だ。合わないはずがない。


 けれどセレーネ嬢の不安そうな横顔を見たヴァルター様の目が、微妙に変わった。庇護欲の灯る目だ。この目を私は知っている。弱いものを守りたいという衝動に火がつく時の、あの目。


「リーゼ」


 ヴァルター様が身を起こし、薬瓶を見た。私の手の中にある、ラベルを丁寧に書き込んだガラスの小瓶を。


「この薬は、本当に安全なのか」


 使用人たちの視線がこちらに集まるのがわかった。三人とも、動きを止めている。


「安全です。いつもと同じ処方を——」


「毒かもしれないだろう」


 その一言が、調合室の二刻を踏み潰した。


 毒。あの蒸留の温度管理、あの配合比の微調整、かじかんだ指で一滴ずつ量った抽出液。それらのすべてを、この人は今、毒と呼んだ。使用人たちがいる前で。セレーネ嬢がいる前で。


 ヴァルター様は薬瓶に手を伸ばさなかった。代わりにセレーネ嬢のほうを向いて、弱々しく笑ってみせる。


「セレーネ、お前が何か持っていなかったか。前に取り寄せてくれた薬が——」


「はい、ございます。私が取り寄せた特別なお薬が……ヴァルター様にはきっとこちらのほうが」


 セレーネ嬢が懐から紙包みを取り出し、中の丸薬をヴァルター様の手に載せた。その紙包みが開いた瞬間、部屋の空気にかすかな匂いが混じるのを感じた。甘く、重い香り。私の知る薬草のどれとも違う、覚えのない匂いだった。


 ヴァルター様はそれを一粒、口に含んだ。水で流し込んで、目を閉じる。


「……ありがとう、セレーネ」


 その声は、私に薬を頼んだ時には聞いたことのない柔らかさだった。


 私の手の中に、突き返された薬瓶が残っている。ガラスの表面に私の体温が移って、ほんのり温かい。中身は毒ではない。十年間の経験と技術の全てを注いだ、正しい薬だ。それを知っているのは、もうこの部屋の中で私だけだった。


「……承知しました」


 それだけ言って、一礼した。声は震えなかった。唇も歪まなかった。十年の訓練は、こういう時にも役に立つ。


 背を向けて扉に向かう。使用人の一人が、何か言いたそうにこちらを見ていたが、目が合った途端に視線を逸らした。もう一人は、俯いたまま唇を引き結んでいる。





 廊下に出て、扉が閉まった。


 足が止まった。壁に手をつこうとして、薬瓶を持っている手だと気づき、持ち替える。ガラスの瓶を両手で包むようにして、胸の前で握りしめた。


 毒かもしれない。


 十年かけて磨いた腕を、たった一言で否定された。あの使用人たちの目に、私はどう映っただろう。毒を持ってきた女。婚約者に薬すら信用されない女。セレーネ嬢の取り寄せた得体の知れない丸薬より下に置かれた、この屋敷の薬師。


 涙は出なかった。出し方を忘れたのかもしれないし、もう出すほどのものが残っていないのかもしれない。あるのは、胸の芯がすうっと冷えていく感覚だけだ。怒りとも悲しみとも違う、もっと静かな何か。水を張った器から、底の栓を抜いたような。


 調合室に戻った。灯りはつけたまま、薬瓶を机の隅に伏せて置く。棚には今夜の調合で使った薬草の残りがまだ出ており、蒸留器もまだ温かかった。片付けなければならないが、手が動かない。椅子に座り、蒸留器の余熱が石の天板にじんわり移っていくのを、ただ見ていた。


 この屋敷で薬を作り続けてきた。風邪を引いた使用人に、怪我をした騎士に、お腹の弱い子どもたちに。領内の診療所に薬草を届け、流行り病の夜には眠らずに調合し、ヴァルター様の体調が崩れるたびに真っ先に薬を用意してきた。十年間、一度も、誰にも毒などと言われたことはなかった。


 一度も——今夜までは。





 ヴァルター・フォン・ブレンナーは、セレーネの丸薬を飲み下した後、少しだけ楽になった気がした。


 枕元で布を絞るセレーネの細い手首を見ながら、自分の判断は間違っていないと思う。彼女は身体が弱い。繊細で、すぐに不安がる。だから安心させてやらなければならない。リーゼの薬を退けたのは少しやりすぎたかもしれないが、セレーネがあんなに怯えた目をしていたのだから仕方がない。


 リーゼなら平気だ。あいつはいつだって平気な顔をしている。怒りもしない、泣きもしない、黙ってやるべきことをやる女だ。少し強く言ったところで、明日にはまた何食わぬ顔で薬草園にいるだろう。


 そう思って目を閉じた。セレーネの指が額の汗を拭ってくれる。その手の優しさに安心しながら、ヴァルターは眠りに落ちていく。


 廊下の向こうで、調合室の灯りがまだ点いていることを、この男は知らなかった。そこに座る女が、突き返された薬瓶をじっと見つめているということも。


 あの人は知らない。私が今夜、最後にこの屋敷で薬を作ったということを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ