第2話 毒かもしれない
真夜中に叩かれた扉の音で、目が覚めた。
「お嬢様、ヴァルター様が倒れられました」
マルタの声に寝台から跳ね起きる。詳しく聞けば、夕食後に急な高熱を出し、今は寝室で臥せっているという。侍医はこの時刻には呼べず、使用人たちが額を冷やしているが熱は上がる一方だと。
寝間着のまま調合室に走った。
石造りの小部屋は夜の冷気で冷えきっており、息が白く曇る。棚から薬草を三種取り出し、火を起こして蒸留の支度を始めた。セルピア草の根を砕き、エーデル草の花弁を計量し、アグノス樹皮の抽出液を一滴ずつ加えていく。解熱と消炎を兼ねた処方で、急な高熱にはこれが最も効く。ただし配合比を誤れば腎臓に負担がかかるため、蒸留温度を二段階に分けて慎重に抽出しなければならない。
手が勝手に動く。十年間繰り返してきた手順だ。この調合ができる人間は、少なくともこの屋敷には私しかいない。
——誰でもできる仕事、だったか。
晩餐会の夜の言葉が頭をよぎったが、振り払った。今は、そんなことを考えている場合ではない。
蒸留が終わり、冷ました液を薬瓶に詰める。ラベルに分量と服用間隔を書き込み、布で包んだ。調合を始めてから二刻ほどが経っていて、窓の外はまだ暗い。指先が冷たさでかじかんでいるのに、額には汗が浮いていた。
「お嬢様、お持ちしましょうか」
マルタが扉口に立っている。
「いいえ、私が持っていきます。容態を見て、服用量を調整しなければなりませんから」
薬瓶を手に、ヴァルター様の寝室へ向かった。
◇
寝室の扉を開けた瞬間、甘い香が鼻についた。
誰かが焚いた花の香だ。ヴァルター様の寝室にこんな匂いはなかったはずで、一瞬足が止まる。部屋の中には使用人が三人と、そして寝台の脇の椅子に、セレーネ嬢が座っていた。
額の汗を拭う布を手にして、ヴァルター様の枕元に寄り添っている。白い頬に心配そうな影を落として、細い指が布を絞る仕草はたしかに献身的に見えた。部屋にいる使用人たちも、その姿を気遣わしげに見守っている。
「ヴァルター様、解熱薬をお持ちいたしました」
声をかけると、ヴァルター様が薄く目を開けた。熱のせいで頬が赤く、額に脂汗が浮いている。視線が私を捉え——それから、隣のセレーネ嬢へ移った。
「……リーゼか」
「はい。先ほど調合した解熱薬です。セルピア草の根を主剤にした処方ですので、服用後一刻ほどで——」
「あの」
セレーネ嬢が、小さな声で遮った。椅子から腰を浮かせ、薬瓶を覗き込むようにしてから、伏し目がちにヴァルター様を見上げる。
「その……ヴァルター様のお身体に、本当に合うのかしら。私、お薬のことはよくわからないのですけれど……」
何を言っているのか、一瞬わからなかった。合うかどうかと聞かれれば、合う。十年間この人の体調を見てきた私が、この人の体質に合わせて調合した薬だ。合わないはずがない。
けれどセレーネ嬢の不安そうな横顔を見たヴァルター様の目が、微妙に変わった。庇護欲の灯る目だ。この目を私は知っている。弱いものを守りたいという衝動に火がつく時の、あの目。
「リーゼ」
ヴァルター様が身を起こし、薬瓶を見た。私の手の中にある、ラベルを丁寧に書き込んだガラスの小瓶を。
「この薬は、本当に安全なのか」
使用人たちの視線がこちらに集まるのがわかった。三人とも、動きを止めている。
「安全です。いつもと同じ処方を——」
「毒かもしれないだろう」
その一言が、調合室の二刻を踏み潰した。
毒。あの蒸留の温度管理、あの配合比の微調整、かじかんだ指で一滴ずつ量った抽出液。それらのすべてを、この人は今、毒と呼んだ。使用人たちがいる前で。セレーネ嬢がいる前で。
ヴァルター様は薬瓶に手を伸ばさなかった。代わりにセレーネ嬢のほうを向いて、弱々しく笑ってみせる。
「セレーネ、お前が何か持っていなかったか。前に取り寄せてくれた薬が——」
「はい、ございます。私が取り寄せた特別なお薬が……ヴァルター様にはきっとこちらのほうが」
セレーネ嬢が懐から紙包みを取り出し、中の丸薬をヴァルター様の手に載せた。その紙包みが開いた瞬間、部屋の空気にかすかな匂いが混じるのを感じた。甘く、重い香り。私の知る薬草のどれとも違う、覚えのない匂いだった。
ヴァルター様はそれを一粒、口に含んだ。水で流し込んで、目を閉じる。
「……ありがとう、セレーネ」
その声は、私に薬を頼んだ時には聞いたことのない柔らかさだった。
私の手の中に、突き返された薬瓶が残っている。ガラスの表面に私の体温が移って、ほんのり温かい。中身は毒ではない。十年間の経験と技術の全てを注いだ、正しい薬だ。それを知っているのは、もうこの部屋の中で私だけだった。
「……承知しました」
それだけ言って、一礼した。声は震えなかった。唇も歪まなかった。十年の訓練は、こういう時にも役に立つ。
背を向けて扉に向かう。使用人の一人が、何か言いたそうにこちらを見ていたが、目が合った途端に視線を逸らした。もう一人は、俯いたまま唇を引き結んでいる。
◇
廊下に出て、扉が閉まった。
足が止まった。壁に手をつこうとして、薬瓶を持っている手だと気づき、持ち替える。ガラスの瓶を両手で包むようにして、胸の前で握りしめた。
毒かもしれない。
十年かけて磨いた腕を、たった一言で否定された。あの使用人たちの目に、私はどう映っただろう。毒を持ってきた女。婚約者に薬すら信用されない女。セレーネ嬢の取り寄せた得体の知れない丸薬より下に置かれた、この屋敷の薬師。
涙は出なかった。出し方を忘れたのかもしれないし、もう出すほどのものが残っていないのかもしれない。あるのは、胸の芯がすうっと冷えていく感覚だけだ。怒りとも悲しみとも違う、もっと静かな何か。水を張った器から、底の栓を抜いたような。
調合室に戻った。灯りはつけたまま、薬瓶を机の隅に伏せて置く。棚には今夜の調合で使った薬草の残りがまだ出ており、蒸留器もまだ温かかった。片付けなければならないが、手が動かない。椅子に座り、蒸留器の余熱が石の天板にじんわり移っていくのを、ただ見ていた。
この屋敷で薬を作り続けてきた。風邪を引いた使用人に、怪我をした騎士に、お腹の弱い子どもたちに。領内の診療所に薬草を届け、流行り病の夜には眠らずに調合し、ヴァルター様の体調が崩れるたびに真っ先に薬を用意してきた。十年間、一度も、誰にも毒などと言われたことはなかった。
一度も——今夜までは。
◇
ヴァルター・フォン・ブレンナーは、セレーネの丸薬を飲み下した後、少しだけ楽になった気がした。
枕元で布を絞るセレーネの細い手首を見ながら、自分の判断は間違っていないと思う。彼女は身体が弱い。繊細で、すぐに不安がる。だから安心させてやらなければならない。リーゼの薬を退けたのは少しやりすぎたかもしれないが、セレーネがあんなに怯えた目をしていたのだから仕方がない。
リーゼなら平気だ。あいつはいつだって平気な顔をしている。怒りもしない、泣きもしない、黙ってやるべきことをやる女だ。少し強く言ったところで、明日にはまた何食わぬ顔で薬草園にいるだろう。
そう思って目を閉じた。セレーネの指が額の汗を拭ってくれる。その手の優しさに安心しながら、ヴァルターは眠りに落ちていく。
廊下の向こうで、調合室の灯りがまだ点いていることを、この男は知らなかった。そこに座る女が、突き返された薬瓶をじっと見つめているということも。
あの人は知らない。私が今夜、最後にこの屋敷で薬を作ったということを。




