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疫病の夜、誰の名を呼びましたか  作者: 九葉(くずは)


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第1話 誰でも作れる薬

 朝霧に濡れた薬草の葉を、指先でそっと裏返す。葉脈の走り方と表面の産毛の密度、それから茎のしなりを確かめれば、今年のセルピア草が昨年より苦味を増していることはすぐにわかった。夏の日照が長すぎたせいだろう、調合の配分を変えなければならない。


 薬草園の朝は、いつも私だけのものだった。屋敷の者が起き出す前に門を開け、露が乾く前に摘み取りを終える。春は花粉の飛散を避けて風上から回り、秋は根の養生のために踏み固めない順路を選ぶ。十年間、毎朝繰り返してきた手順であり、この手順を知っている人間は私とマルタの二人しかいない。


 革手袋を外して素手で土に触れると、指先にしみる冷たさが秋の深まりを教えてくれる。冬までに解熱薬を六十瓶、鎮痛薬を四十瓶、それから領内の診療所に卸す風邪薬の仕上げを済ませなければならない。昨冬は流行り病が長引いて二月の終わりに在庫が底をつき、三日眠らずに調合し続けたことがあった。あの時のことを、この屋敷で覚えている者がどれだけいるだろう。


 摘んだ薬草を籠に入れて調合室に戻ると、乾燥した薬草の青い匂いが石造りの小部屋を満たしていた。棚にはガラスの薬瓶が等間隔に並び、ラベルの文字はすべて私の手書きである。


 机の上で革装の帳面を開く。十年分の処方と分量、患者の症状、季節ごとの薬草の変化——私の調合録には、そのすべてが記されている。今日はセルピア草の配合比を修正する記録を書き加えなければならなかった。昨年の処方では苦味が出すぎる。根の乾燥時間を半日延ばして、抽出の温度を二度だけ下げれば——


 こつ、と扉が鳴った。


「お嬢様、朝食の支度が整いました」


 マルタの声だ。私の侍女であり、この薬草園を十年共に守ってきた人でもある。


「すぐ参ります」


 帳面を閉じて手を洗い、薬草の匂いが染みた作業着を脱ぐ。この格好で食堂に出れば、ヴァルター様はきっと眉をひそめる——いや、眉をひそめるほど、そもそもこちらを見てもいないだろうか。





 食堂に入ると、ヴァルター様はすでに着席していた。長いテーブルの上座にブレンナー公爵家の嫡男らしい姿勢で座り、給仕が注ぐ茶にどこか遠い目を落としている。切り揃えられた明るい髪と、整った横顔。婚約した十二の頃は、この人の隣に座れることが何より誇らしかった。


 今は、その横顔がこちらを向くのが月に何度あるだろうと数えてしまう自分がいる。


「おはようございます、ヴァルター様」


「ああ」


 視線はこちらに来ない。茶杯の縁を指でなぞりながら何か考えている様子で、私は自分の席に着いてパンを手に取った。


「リーゼ」


 名前を呼ばれて手が止まる。


「セレーネの具合が、まだ良くないんだ。熱は下がったが咳がひどくてな」


「……左様ですか」


「看病は俺がする。今日の夕方、屋敷の離れに見舞いに行くから薬を用意しておいてくれ」


「承知しました。咳止めの調合でしたら、午後には仕上がりますので——」


「ああ、それと」


 ヴァルター様が、やっとこちらを見た。


「薬は誰かに持たせて離れに届けさせてくれ。彼女のそばにいてやりたいから」


 パンの切り口が、指の中で潰れる。


 彼女、というのはセレーネ・ハイデルン嬢のことだ。身体が弱い男爵家の令嬢で、半年ほど前からこの屋敷に逗留している。ヴァルター様が庇護を申し出たのだが、婚約者である私に一言の相談もなかった。


「私がお持ちしましょうか。容態を直接見れば、調合を合わせることも——」


「いや、いい。彼女は繊細だから、人が多いと疲れるんだ。お前の薬だけ届けてくれれば十分だよ」


 ——お前の薬だけ。


 私ではなく、薬だけが必要なのだと、そう言っている自覚がこの人にはあるのだろうか。ヴァルター様はもう茶に視線を戻していて、答えを待ってすらいなかった。


「……かしこまりました」


 パンを口に運んだが、味がしなかった。麦の香りも、バターの甘みも、舌の上を素通りしていく。





 午後、調合室でセレーネ嬢のための咳止めを仕上げた。体格と症状に合わせて苦味を抑え、喉への刺激が少ない処方を選ぶ。瓶に詰めてラベルに分量と服用時間を書き込み、使用人に託して離れへ届けさせた。


 私の手からではなく。


 夕暮れの窓から、ヴァルター様が離れへ向かう姿が見えた。足取りが軽い。セレーネ嬢の元へ行くときだけ、あの人は少し急ぐ。


 その夜、ヴァルター様は離れから戻らなかった。調合室の灯りを消して寝室に向かう廊下で、離れの窓に灯る温かい明かりが目に入ったが、足を止めずに通り過ぎた。足を止めたところで、あの明かりの中に私の居場所はない。





 三日後、ブレンナー公爵家の秋の晩餐会が開かれ、近隣の貴族が屋敷に集まった。


 私はヴァルター様の隣に立ち、客人の挨拶を笑顔で受ける。これが婚約者としての務めだ。十年間こうして笑い、頭を下げ、名前を覚え、領地の話題を整えてきた。帰り際には手土産の薬包を渡す。風邪に効く薬湯の素、頭痛を和らげる香袋、冬場の霜焼け用の軟膏——どれも私の薬草園で育て、私の手で調合したものばかりだ。


 歓談の席で隣の領地の伯爵夫人が足を止め、にこやかに声をかけてくださった。


「ヴァルター様の婚約者殿は、お屋敷の薬草園を管理なさっているとか。先日いただいた軟膏、うちの使用人にも大変好評でしたのよ」


 お礼を述べようと口を開きかけた瞬間、ヴァルター様が先に笑った。


「ああ、庭仕事みたいなものですよ。薬草を育てて、すり潰して、瓶に詰めるだけですから」


 伯爵夫人が「まあ」と軽い調子で笑い、それにつられるようにヴァルター様も肩をすくめてみせる。


「誰でもできますよ、あんなことは」


 笑い声と燭台の灯りが、広間の天井にゆらゆらと揺れている。


 私は笑った。唇の端を上げて目元に柔らかな皺を寄せ、小さく頷いてみせた。完璧に笑えた——と思う。十年も練習してきたのだから、それくらいはできなければ。


 セルピア草の苦味調整に三晩かかったことを、この場で言う必要はない。風邪薬の処方ひとつに、季節ごとの薬草の変化を記録し続けた年月のことも。解熱薬の配合比をわずかでも間違えれば、熱は下がるどころか腎臓を痛めかねない。その境目を見極められるのは、少なくともこの屋敷では私だけだった。


 けれど言わなかった。言ったところで、この人の耳には届かない。


「お手洗いを失礼いたします」と席を離れ、広間を出た先の廊下で壁に手をつく。灯りの届かない石の壁はひんやりと冷たく、掌から体温を奪っていくその感触だけが、妙に確かだった。





 晩餐会の客人がすべて帰り、使用人が片付けに追われる深夜のこと。私は薬草園の調合室にいた。月明かりが窓から斜めに差し込む中、椅子に腰を下ろして革装の調合録を膝に乗せている。


 足音が近づいて、扉の前で止まった。


「お嬢様」


 マルタが肩掛けを手に立っていた。何も言わずに私の肩へかけてくれるその手は、四十を過ぎて節くれ立っているけれど、いつだって温かい。


「今日の晩餐でのあのお言葉は——」


「大丈夫です、マルタ」


「大丈夫ではございません」


 マルタは滅多に声を荒らげない人だ。けれど今は声の底に小さな棘のようなものが混じっていて、それが私に向けた怒りではなく、あの広間で笑っていた人に向けられたものだと知っている。


「あの方は、お嬢様のお薬の名前すらご存じないのでしょう。セルピア草とエーデル草の違いも、抽出の温度管理がどれほど繊細なものかも、おわかりにならないはず。それを——"誰にでもできる"などと」


「それでもあの方は次の公爵です。私はその婚約者ですから」


「だからといって」


「慣れていますから」


 そう言って笑おうとした。いつもの笑い方で、いつものように。


 けれどマルタは私の顔ではなく、膝の上を見ていた。


 つられて視線を落とすと、調合録を握る自分の指が白くなっていた。革の表紙に爪の跡がついている。力を入れている自覚すらなかったことに、自分で少し驚く。


 マルタはそれ以上何も言わず、ただ私の横に立って月明かりの薬草園を眺めていた。窓の向こうでは、丁寧に世話をした薬草が夜風にかすかに揺れている。調合室の棚に並ぶ薬瓶が月光を受けて青白く光り、ラベルに書かれた私の文字が一本一本、静かに浮かび上がっていた。解熱、鎮痛、咳止め、消毒、鎮静、滋養——どの瓶にも調合の記録があり、試行の歴史があり、眠れなかった夜がある。


 誰でもできる仕事——その言葉を、私は十年間、笑って飲み込んできた。


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