第1話 空き家で冒険 4
【ゆら】
悲鳴を聞きながら一気に中央階段を下る。
うわ、怖い怖い! 後ろ向きで高速移動、凄く怖い!
こっちが悲鳴を上げたい。
わたしが使ったトリックのタネは、やはり犬だ。
頭から被ったシーツの下で、わたしは前後あべこべになった形で黒犬を出していた。
わたしの前側にお尻を向けて犬が立ち、犬の背中を跨いでわたしが立っている格好である。
で、声色を使って侵入者を脅した後、わたしは犬の上に伏せ、犬はわたしを背負って駆けた。これで「怪奇・高速で廃病院の廊下を真後ろに走っていく女」の誕生だ。
しかし、跳ねるようにして階段を降りる犬の背中に、手足だけでしがみついて運ばれるのはとんでもなく恐ろしかった‥‥。
すこし足を捻ってしまったらしい速太くんと合流して、割られたガラスの回転ドアを潜り、わたしたちは病院から脱出した。外は変わらず昼間のような満月。
速太くんの肩を支えて、大急ぎで建物を回り込んで姿を隠す。
藪にしゃがみ、様子を見ていると、三人の男女が転げるようにして玄関から飛び出してきた。先を争って車に乗り込む。
「早く出して、早くはやくー!」
「エンジンがかからない!」
とか座席で喚いているけど、わたしはなにもしてないからね。キーだって挿しっぱなしだし。
がちゃがちゃやった揚句、ようやくエンジンを回した車は、盛大にタイヤをスリップさせながら駐車場を走り抜けていった。
「はあ~っ」
わたしは溜息をつく。どうにか今夜のトラブルを切り抜けられたようだ。
「ゆらお姉ちゃん」
並んでしゃがんでいる速太くんが声を掛けてきた。横を見ると、瞳をきらきらさせてこちらを見ている。
「もう大丈夫よ、速太くん。安心してね?」
微笑んであげる。ヘアピンで髪を整えたままなので女の子風味になった彼はちょっと頬を赤らめ、
「うん。‥‥それでねお姉ちゃん。
そのおっきな黒い犬、どうしたの?」
‥‥あーやっぱりそうなるよねー。
♦ ♦ ♦ ♦
階段を駆け下る場面を目撃されたので、犬を中に戻して無かったふりをするのは今さら無理だろう。
埃っぽいシーツを脇に抱えているので、右脚の接合部分は隠されて速太くんには見えていないはずだけど。
「ええっと‥‥」
軽くびっこを引いている速太くんと一緒に森の中の農道を歩きながら、わたしは言い訳を考える。
「この犬、野犬なの。
しばらく前に見つけて。夜中に内緒で餌をあげたりしてたんだ」
「なんで病院にいたの?」
「速太くんが三階の廊下にいる間に、玄関から入ってきたの。もしかすると、わたしの手に食べ物の匂いがついてたのかもね」
あんまり突っ込んで訊いてこないでね? ね?
「ふーん」
唇を尖らせ、わたしを挟んで反対側にいる犬の姿を覗き込む速太くん。
「かっこいい犬だよね。頭よさそうだし、なついてるみたいだし、お姉ちゃんの家で飼ってあげられないの?」
「‥‥それはちょっと難しいかなあ」
懐いているんじゃなく生えているのよ。
「そっかあー」
「あのね。野良だから、この犬のことを他のひとに知られると、保健所に捕まってしまうかもしれないんだ。
速太くん、内緒にしておいてくれる?」
「うん、わかった。だれにもいわない」
素直に頷いてくれた速太くんだが、うつむいてもじもじすると、
「あの。‥‥ゆらお姉ちゃんは、家のひとにいう?
ぼくが、夜にひとりで外を出歩いていたこと」
ああ。
わたしは、向き直って速太くんと正対した。
小さいと思っていたお隣の男の子の背丈は、改めて向かい合ってみると自分と頭半分も違わない。その事実に地味に驚くわたし。
「こんなに凄いお月様が出ている夜だもの。
速太くんが少し冒険したくなっちゃっても、わたしはなにもおかしくないと思うな」
叱られると思っていたのだろう、潤みかけていた彼の瞳が意外そうに見開かれた。
「でもね、聞いて欲しいの。
わたしね、速太くんが病院の裏の木を登ったのを追いかけて、二階の窓に入った時、とても怖かったんだ」
実際はそうでもなかったんだけどね。昔はお転婆だったんですよわたし。
「もし誰もいない夜、もし木登りをしている間に手が滑って、落っこちて怪我をしちゃったらどうなるか。死ぬほどの怪我じゃなくても、だれも自分の居場所を知らない真夜中に、ひとりぼっちで動けなくなって、寒くて暗い中でじっとしているしかなかったら。
それは本当に、本当に恐ろしいんじゃないかな」
「‥‥‥‥‥‥」
速太くんの顔は蒼褪めていた。
彼の共感応力は高い。それだけじゃなく、さっき廃墟の中で突然の闖入者たちから隠れて、ひとり怯えていた記憶も蘇っているはずだ。
「速太くんには、速太くんを大切に思ってくれるお父さんやお母さん、家族がいるよね。
そのひとたちが知らない所に行って冒険するって、大変なことだよね」
この件について彼とどう話すか、わたしはかなり悩んだ。
年長者として、トラブルに巻き込まれかねない行動を制しておかねばという思いもある。だけど。
自分だって今宵は、大人でもないのに夜道を単身ふらついていた格好である。しかも、廃病院のガラスドアを破るような慮外者相手とはいえ、こっちも不法侵入した建物でお化けごっこの大騒ぎ。偉そうなことをいえる立場ではない。
そもそもわたしはなぜ、脚から生える黒犬の力を借りてまでして、三人組を追い払ったのか。この秘密をお墓に入るまで隠して地味に生きようと考えているわたしにとっては、リスキーすぎる行動だ。現に速太くんにはもう犬の姿を見られている。
どうしてなのか。考えてみれば、答は簡単だ。
わたしは速太くんに、この満月の一夜の出来事を、苦かったり、怖かったりしたものとして記憶してほしくないのだ。
同じ月の貌を見上げて春宵の森を歩いた同士には、たとえ片方がそれを知らなくても、同じ魔法にかかった絆がある、と思う。
そっと手を伸ばして、速太くんの指を握る。
「今日は、危なかったね。だけどちょっと楽しかったよね。
速太くんはこれからどんどん大きくなって、強くなって、もっと冒険できる。きっとどんな遠くへも行けるよ。
でもそれまでは、なにか危険なことをする時は気を付けて欲しいんだ。速太くんを大事にしているひとたちのこと、忘れないでね」
安心を与えるのはきっと、山戌さん家の優しいお母さんやお婆さん。用心を教えるのはきっと、頼りになるお父さんやお爺さん。
男の子に危ないことをするななんて、お隣のお姉さんはいわないのだ。
夜気のせいか緊張のせいか、冷えていた速太くんの指が温もりを取り戻していた。
「ゆらお姉ちゃん、も?」
上目遣いになって、わたしを見詰めてくる速太くん。わあ可愛い。
なんだろう? 大きな瞳の中に、ふうっと金色の輝きがよぎった気がする。月光の反射かな。
木立の中は暗い。犬は静かに周囲を窺っていて、わたしは自分の目だけで彼を見ているからはっきりとは分からない。
「わたしも楽しかったよ。
だから、今夜ふたりで一緒にしたことは、わたしたちと」
右手の人差し指を立てて空に向けた。
「───お月様だけの秘密。ね?」
微笑むと、男の子はどこか夢見るような面持ちでうん、と呟いた。
速太くんがきゅっと左手の指を握ってくるので、わたしたちは手を繋いだまま月の光が斑に差し込む木々の間をゆっくり歩いた。
枝の連なりの向こうに山戌家の建物が現れたところで、わたしは立ち止まる。
「じゃあね。明日になっても足が痛かったら、ちゃんとお父さんお母さんにいって手当てしなきゃ駄目だよ?」
「わかってる。あ、お姉ちゃん」
自宅の方に足を踏み出しかけて、速太くんが振り返った。
「その犬、名前はあるの? なかったらぼくがつけていい?」
おお? 意外な提案だ。
犬は犬だ。名前なんかいらない。
けれど名無しは確かに不自然だし、速太くんに付けてもらうのも、なにか違う気がする。だってこれは、わたしの脚から生えてくる犬なのだ。
わたしは右脚に添って立つ犬を見下ろす。犬は視線だけでわたしを見上げる。
お前なんかが自分に名前を付けるのか? といわれている気がする。
漆黒の毛に覆われた犬の全身の、額にだけ花弁のような五つの白い斑紋がある。
それは桜の花にも似ている。
「────サクラ。わたしは、サクラって呼んでる」
「そうなんだ。
じゃあねサクラ。また会おうね。バイバイ」
速太くんが手を振りながら去っていく。わたしも手を振って彼を見送った。
「‥‥なによ。文句でもあるの」
じろじろとわたしを眺めている犬に低く問いかけると、黒犬は、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
わーむかつくー!
最後にわたしが、「散歩中に前を通りかかった近所の者」として翌日、廃病院の玄関ドアが割られていることを警察に通報したことを添えておく。
問題を受けて、管理会社は遅ればせながら警備会社と契約を結んだらしい。
こうして、誕生するかもしれなかった心霊スポットは、どこにでもある近所の管理物件に落ち着くことになったのだった。




