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夏が終わる前に、君の名前を呼ぶ  作者: 磯辺


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黒瀬悠真の名前

 黒瀬リョウ先輩の家は、思っていたより普通だった。


 いや、普通という言い方もどうかと思う。


 僕の中で黒瀬先輩は、爽やかさの圧力で空気清浄機を不要にするタイプの人間だったので、家もたぶん白い壁と観葉植物と無駄にいい匂いのする玄関だと思っていた。


 実際は、三架町の住宅街にある二階建ての家だった。


 玄関には砂のついたサンダル。


 傘立てには曲がったビニール傘。


 郵便受けには町内会のお知らせ。


 安心するくらい、生活感があった。


「なんか意外」


 ミカが小声で言った。


「分かる。黒瀬先輩、家でも爽やかな風を発生させてそうだもんな」


「朝、窓開けたら先輩の笑顔で換気されそう」


「それは怖い」


「除湿もしてくれそう」


「家電扱いするな」


 玄関の前でそんなことを言っていると、黒瀬先輩が鍵を開けながら振り返った。


「聞こえてるよ」


「すみません」


 僕とミカは同時に頭を下げた。


 レンだけは、真顔で言った。


「僕は聞こえていません」


「君は嘘が下手だね、雨宮くん」


「嘘ではなく、会話品質が低すぎたので対象外にしました」


「対象って言い方、やめよう」


 ミカがレンの肩を軽く叩いた。


 レンも気づいたのか、少しだけ目を伏せた。


「……すみません」


「いいよ」


 ミカは笑った。


「今のは軽率だったけど、レンくんの口の悪さは生存確認みたいなものだから」


「生存確認に使わないでください」


「じゃあ不機嫌確認」


「もっと嫌です」


 黒瀬先輩は、少しだけ笑った。


 でもその笑いは、いつもの爽やかなものではなかった。


 薄くて、硬い。


 今から向き合うものが、彼にとってどれだけ重いかが分かる笑いだった。


「入って」


 僕たちは家の中へ入った。


     *


 黒瀬先輩の部屋は、二階の奥にあった。


 本棚には参考書と小説。


 机の上には花火大会の資料。


 壁には中学時代の賞状が数枚貼られている。


 そして、棚の一番上に、一枚の写真が飾られていた。


 二人の男の子が写っている。


 一人は今より幼い黒瀬リョウ先輩。


 もう一人は、少し年上の少年。


 背が高く、目元が黒瀬先輩によく似ている。


 笑い方も似ていた。


「兄です」


 黒瀬先輩が言った。


黒瀬悠真(くろせゆうま)


 名前を聞いた瞬間、部屋の空気が変わった。


 レンの指が、焦げたノートの角を強く握る。


 ミカは青いヘアピンに触れた。


 僕は、写真の中の悠真さんを見つめた。


 写真の中の彼は、普通に笑っていた。


 誰かを傷つける人間には見えなかった。


 誰かの声を止める人間にも見えなかった。


 でも、たぶんそれが怖いのだ。


 間違える人間は、最初から悪そうな顔をしてくれない。


「兄は今、大学院にいます」


 黒瀬先輩は言った。


「町から少し離れた大学の研究室で、防災情報システムを扱っている」


「防災……」


 レンが低く呟く。


「三年前の御堂さんの影響です。兄はあの人を尊敬していた。町を守るために、情報を整理する。混乱を防ぐ。正しい順番で、正しい言葉を出す。それが大事だって」


 黒瀬先輩は机の引き出しを開けた。


 そこから、古い手帳と封筒を取り出す。


「でも三年前、兄はその“正しさ”で、雨宮サキさんの声を止めた」


 レンの呼吸が一瞬止まった。


 黒瀬先輩は手帳を机に置く。


「昨日、僕はこれを出すと言った。でも、本当はまだ怖い」


 彼は自分の手元を見た。


「兄を、正しい人のままにしておきたかった。僕の兄は間違えていない。町のために動いた。仕方なかった。そう思いたかった」


「黒瀬先輩」


 ミカが静かに言った。


「それ、私にもやってましたよね」


 黒瀬先輩が顔を上げる。


「私のためって言いながら、私をミナトから遠ざけようとした。橋にも車道にも近づけないようにした。旧体育館の近くに誘導した。私の声を聞くより、自分の正しさを優先した」


 ミカの声は責めるだけではなかった。


 でも、逃がしもしなかった。


「先輩は、お兄さんと同じ間違いをしかけたんだと思います」


 黒瀬先輩は目を閉じた。


「うん」


 短く答えた。


「そうだと思う」


 部屋の中に、蝉の声だけが入り込んでくる。


 夏は、外で馬鹿みたいに鳴いていた。


 人間がどれだけ苦しんでいても、季節は遠慮しない。


「兄に連絡しました」


 黒瀬先輩はスマホを見た。


「来てもらうように言いました。もうすぐ着くはずです」


「本人が来るんですか」


 僕が聞くと、黒瀬先輩は頷いた。


「はい。兄も、三架町に戻ってきています。花火大会のシステム点検で」


「御堂と一緒に?」


 レンが言った。


「おそらく」


 黒瀬先輩の声が硬くなる。


「でも、今日ここに来るように言った。兄が来るかどうかは分からなかったけど」


 その時、階下でチャイムが鳴った。


 黒瀬先輩の肩が、はっきりと強張った。


 ミカが小さく言う。


「来たね」


 レンは焦げたノートを抱え直した。


 僕は、自分の喉が乾いていることに気づいた。


 黒瀬悠真。


 三年前、雨宮サキの放送を止めた人。


 その名前が、もうすぐ目の前に来る。


     *


 玄関へ降りると、黒瀬悠真さんは外に立っていた。


 写真より大人びている。


 大学院生と言われれば納得する落ち着きがある。


 黒いシャツに細い眼鏡。


 疲れた顔をしているが、目だけは妙に冷静だった。


 黒瀬先輩と似ている。


 でも、黒瀬先輩の爽やかさが人に近づくためのものだとしたら、悠真さんの落ち着きは人との距離を測るためのものに見えた。


「リョウ」


 悠真さんは弟の名前を呼んだ。


「急にどうした」


「話がある」


「花火大会のことなら、本部で聞く」


「三年前のこと」


 その瞬間、悠真さんの表情が止まった。


 ほんの一瞬。


 でも確かに、止まった。


「誰だ、その子たちは」


 悠真さんは僕たちを見る。


 黒瀬先輩が答えた。


「瀬名湊斗くん。朝倉ミカさん。雨宮レンくん」


 雨宮、という名前に、悠真さんの視線が動いた。


 レンを見る。


「雨宮……」


「雨宮サキの弟です」


 レンは言った。


 声は冷静だった。


 でも、手は震えていた。


「あなたが止めた声の、弟です」


 悠真さんは黙った。


 玄関の外で、蝉の声だけがやけに大きい。


「何を聞いた」


 悠真さんが言った。


「話すなら、中で」


 黒瀬先輩は言った。


「逃げないから」


 悠真さんはしばらく沈黙した。


 それから、ゆっくり靴を脱いだ。


 玄関に上がる動作が、やけに遅く見えた。


 逃げるためではなく、逃げられない場所へ自分から入ってくるみたいだった。


「……話せばいいんだな」


「うん」


 黒瀬先輩は短く答えた。


 僕たちはリビングへ移動した。


 テーブルの上には、すでに古い手帳が置かれていた。


 黒瀬先輩が二階から持ってきたものだ。


 悠真さんはそれを見た瞬間、ほんの少しだけ足を止めた。


「兄さんの手帳を見た」


 黒瀬先輩が言った。


「勝手に?」


「うん」


「それは、褒められたことじゃないな」


「そうだね」


 黒瀬先輩はまっすぐ兄を見た。


「でも、兄さんが三年前にしたことも、褒められたことじゃない」


 悠真さんの目が細くなる。


「お前には分からない」


「分からないから聞く」


 黒瀬先輩は言った。


「兄さんが何をしたのか、兄さんの口から聞かせてほしい」


「リョウ」


「お願いじゃない」


 黒瀬先輩の声が、少しだけ震えた。


「これは、記録に残すための確認だ」


 悠真さんはしばらく沈黙した。


 それから、リビングの椅子に腰を下ろした。


 背中を預けない座り方だった。


 すぐに立ち上がれる姿勢。


 逃げる準備にも、耐える準備にも見えた。


「……話せばいいんだな」


「はい」


 レンが言った。


「話してください。雨宮サキが、何を言おうとしていたのか。あなたが何を止めたのか」


 悠真さんはレンを見た。


 その目に、怒りはなかった。


 代わりに、疲れきった諦めのようなものがあった。


「三年前の八月二十四日」


 悠真さんは話し始めた。


「旧体育館で、クロノグラフの接続テストがあった」


 八月二十四日。


 その日付を聞いた瞬間、ハズレ棒の数字が頭に浮かんだ。


 サキさんは、そこにも印を残していた。


「当時、僕は高校生ボランティアとして、防災放送の補助をしていた。御堂さんの下でね。旧体育館は、災害時の臨時避難所として使えるかどうか検証する予定だった」


「でも、事故が起きた」


 白石先生の証言と同じだ。


 悠真さんは頷いた。


「局所時間差分記録装置(きろくそうち)、クロノグラフ。町の防災記録を整理するための試験機だった。避難経路、通報記録、放送履歴、人の移動履歴を照合して、災害時に最適な誘導を出す。そう説明されていた」


「実際は?」


 ミカが聞いた。


 悠真さんは少し口を閉ざした。


「実際は、もっと危険だった。記録の整合性を優先しすぎた。起きたこと、起きるべきこと、起きたことにされたもの。その境界が曖昧になった」


 レンが焦げたノートを抱きしめる。


「姉は、それに気づいていたんですね」


「ああ」


 悠真さんは目を伏せた。


「彼女は、僕よりずっと早く異常に気づいていた。装置が、記録の穴を誰かの死亡で閉じようとしていることにも」


 レンの顔が青ざめる。


「姉は、何をしようとしていたんですか」


「放送しようとしていた」


 悠真さんは答えた。


「旧体育館から、町内放送へ割り込んで。クロノグラフの異常と、避難記録の改竄(かいざん)を知らせようとした」


「それを、あなたが止めた」


「そうだ」


 短い肯定。


 その一言が、部屋の床に重く落ちた。


 レンの唇が震える。


「どうして」


 声がかすれていた。


「どうして止めたんですか」


 悠真さんは目を閉じた。


「町が混乱すると言われた」


「誰に」


「御堂さんに」


 やっぱり。


 ミカが小さく息を吐く。


「御堂さんは、サキの放送が流れれば、花火大会前の町に大混乱が起きると言った。旧体育館の事故も、未確認情報として扱われる。避難経路も防災システムも信用を失う。だから、正式な確認が取れるまで止めろ、と」


「正式な確認って何ですか」


 レンの声が鋭くなる。


「人が死んでからですか」


 悠真さんは答えない。


 レンは一歩前に出た。


「姉はその時、生きていたんですか」


 沈黙。


「答えてください」


 悠真さんは、ようやく口を開いた。


「生きていた」


 レンの顔が歪んだ。


「姉は、放送できれば助かったんですか」


「分からない」


「分からない?」


「本当に分からない。でも」


 悠真さんの声が初めて揺れた。


「少なくとも、声は届いたはずだ」


 レンが拳を握る。


「あなたは、姉の声を止めた」


「そうだ」


「町のために?」


「そう信じた」


「正しいと思って?」


「思った」


「その結果、姉は死んだ」


「……そうだ」


 レンが悠真さんに掴みかかりそうになった。


 僕は止めようとした。


 でも、その前にミカがレンの袖を掴んだ。


「レンくん」


「離してください」


「殴ったら、レンくん一人の話になる」


 ミカは静かに言った。


「私たちは、名前を残しに来たんでしょ」


 レンの肩が震える。


 涙が、ぽた、と床に落ちた。


「……姉は」


 レンは絞り出すように言った。


「姉は、ふざけたノートを残してた。ラムネ瓶とか、冷やし中華とか。馬鹿みたいな言葉で、ずっと僕たちにヒントを残してた」


 悠真さんはレンを見ていた。


「でも本当は、ちゃんと叫ぼうとしてたんですね」


 レンの声が崩れる。


「町に向かって、助けてって。危ないって。誰かを死なせるなって。ちゃんと言おうとしてたんですね」


「……ああ」


「それを止めたのが、あなたなんですね」


「そうだ」


 悠真さんは逃げなかった。


 でも、それで許されるわけではない。


 逃げないことは、償いの入口でしかない。


「記録します」


 レンはスマホを取り出した。


 録音画面を開くまでに、一度、指が滑った。


 画面が暗くなり、すぐにまた点く。


 レンは唇を噛んだまま、もう一度操作した。


 赤い録音ボタンが表示される。


「もう一度、言ってください」


 声は冷静だった。


 でも、スマホを持つ手は、少しずつ下がっていた。


 重さのせいじゃない。


 たぶん、聞きたくない言葉を、逃がさないために持っている手だった。


「僕の名前からでいいですか」


 悠真さんが言った。


「はい」


 レンは画面ではなく、悠真さんの口元を見ていた。


 録音ボタンを押す。


 小さな電子音が鳴った。


 その音だけで、レンの肩がわずかに震えた。


 悠真さんは深く息を吸った。


「黒瀬悠真。三年前、八月二十四日、旧体育館で行われたクロノグラフ接続テストに、防災放送補助の高校生ボランティアとして参加していました」


 レンの指が、スマホの端を白くなるほど握りしめる。


 画面の中で、音声の波形が小さく震えていた。


 レンはそれを見ない。


 見たら、ただのデータになるからだと思った。


「雨宮サキさんは、クロノグラフの異常と、記録処理の危険性を町内放送で知らせようとしていました。僕は、御堂さんの指示を受け、その放送回線を遮断しました」


 レンの呼吸が浅くなる。


 スマホを持つ手が下がりかける。


 ミカが、そっとその手首の下に手を添えた。


 支えるというより、落とさないために。


 レンは何も言わなかった。


 ただ、録音を止めなかった。


「その結果、雨宮サキさんの声は町に届かず、旧体育館の事故記録は未処理のまま残りました。瀬名湊斗くんの仮登録、雨宮サキさんの記録消失、そして現在の朝倉ミカさんへの死亡処理に、僕の行動が関係しています」


 悠真さんは一度、目を閉じた。


 そして、言った。


「僕は、間違えました」


 その言葉に、黒瀬先輩が小さく息を呑む。


 悠真さんは続ける。


「町を守るためだと思って、ひとりの声を止めました。混乱を避けるためだと思って、助けを求める声を後回しにしました。正しい手順だと思って、取り返しのつかないことをしました」


 レンの目が赤くなる。


 でも、スマホは下ろさない。


「黒瀬悠真は、雨宮サキの放送を止めました」


 悠真さんは、自分の名前をはっきりと言った。


「黒瀬悠真は、間違えました」


     *


 録音が終わると、誰もすぐには動けなかった。


 空気が重い。


 でも、それは閉じた重さではなかった。


 ずっと押し入れの奥に隠されていた箱を、ようやく開けた時の匂いに似ていた。


 古くて、苦くて、でも外に出さなければ腐っていくもの。


 レンは録音停止のボタンを押した。


 押したあとも、しばらく画面から指を離せなかった。


 黒瀬先輩は、兄を見ていた。


「兄さん」


「何だ」


「僕は、兄さんを守りたかった」


「ああ」


「正しい人のままにしておきたかった」


「分かってる」


「でも、それは違った」


 黒瀬先輩は、声を震わせながら言った。


「兄さんを正しい人にするために、雨宮サキさんを消したままにするのは違う。朝倉さんの意思を無視して、助けるふりをするのも違う」


 ミカが少しだけ目を細めた。


 黒瀬先輩は、彼女に向き直った。


「朝倉さん」


「はい」


「僕は君を助けようとした。でも、君の声を聞いていなかった」


「はい」


「君を安全な場所へ運べばいいと思っていた。君が何を怖がっているか、何を選びたいか、聞かなかった」


「はい」


「ごめん」


 ミカは少し黙った。


 それから、言った。


「謝罪は受け取ります」


 黒瀬先輩が顔を上げる。


「でも、まだ信用はしません」


「うん」


「だから、行動してください」


「分かった」


「私を助けたいなら、私の声を聞いてください」


「聞く」


「それと、ミナトを勝手に遠ざけないでください」


「分かった」


「レンくんを一人で壊れさせないでください」


「うん」


「白石先生に全部押しつけないでください」


「分かった」


「あと爽やかに支配しようとするの、禁止」


 黒瀬先輩は少し困ったように笑った。


「それは、かなり根深い癖かもしれない」


「じゃあ矯正」


「厳しいね」


「死にすぎたので」


「……うん」


 その言葉に、黒瀬先輩の笑みが消える。


 ミカは軽く言ったつもりだったのかもしれない。


 でも、それはこの場の全員に刺さった。


 ミカは何度も死んだ。


 そして今、生きたいと言っている。


 それを聞くことが、まず必要だった。


     *


 悠真さんは、花火大会本部の資料も出した。


 そこには、三年前の接続テストのログと、今年の二十五番スピーカーの制御権限の情報があった。


「二十五番スピーカーは、第三橋周辺だけじゃない」


 悠真さんが資料を広げる。


「商店街、神社前広場、旧体育館裏の避難路にも連動している。御堂さんが補正音声を流せば、人の流れをかなり強く誘導できる」


「二周目で、ミカが車道側に押し出されたやつですね」


 僕が言うと、悠真さんは怪訝そうに僕を見る。


「二周目?」


「あ、そこ説明すると長いです」


 ミカが手を挙げる。


「ざっくり言うと、私は死に慣れてます」


「ざっくりの方向性が最悪だろ」


 僕が突っ込む。


 悠真さんは理解できない顔をした。


 そりゃそうだ。


 普通は理解できない。


 でも黒瀬先輩が静かに言った。


「兄さん。彼らはループしている」


「……は?」


「八月三十一日に朝倉さんが死ぬと、八月二十五日に戻る。瀬名くん、朝倉さん、雨宮くんは記憶を保持している」


 悠真さんはしばらく無言だった。


 それから、眼鏡を外して眉間を押さえた。


「待て。情報量が多い」


「僕も最初はそう思った」


 黒瀬先輩が言う。


「僕は記憶を保持していない。でも、花火の夜の悪夢を見る。記録の揺らぎを感じる。だから信じるしかない」


 悠真さんは僕たちを順番に見た。


「朝倉さんは、何度死んだ」


 ミカは少しだけ目を伏せた。


 でも、逃げなかった。


「橋から落ちました。車にはねられました。煙で死にました。最後は、死亡処理されました」


 悠真さんの顔から血の気が引いた。


「御堂さんは、そこまで」


「はい」


 レンが言う。


「個別の事故を潰しても、クロノグラフは別の死因を選びます。四周目では物理的な事故を全部防ぎました。でも御堂が直接、朝倉先輩を死亡記録にしました」


「……記録の穴を、誰かの死亡で閉じる」


 悠真さんが呟く。


「三年前と同じだ」


「三年前?」


 僕が聞くと、悠真さんは頷いた。


「接続テストのログには、未処理記録が残っていた。旧体育館火災、避難失敗、放送遮断、対象者不明。装置はそれを整合させるために、死亡記録を要求していた」


「対象者不明」


 僕の胸がざわつく。


「それって」


「瀬名くんだと思う」


 悠真さんは僕を見た。


「君は三年前、旧体育館にいた。だが、サキさんが君を助けるため、一時的に町の記録から外した。結果、死亡記録の対象が不明になった」


「だから、仮登録」


「そうだ」


 悠真さんは資料を指差す。


「そして今、朝倉さんが候補になっている。理由は、おそらく君を強く認識しているからだ」


 ミカが静かに言った。


「私がミナトを見つけていたから」


「一人の認識に負荷が集中している。記録の穴を埋めるために、彼女が最も整合しやすい対象になっている」


 悠真さんの言葉は冷静だった。


 でも、顔は苦しそうだった。


「最低な理屈だ」


 黒瀬先輩が言う。


「そうだ」


 悠真さんは認めた。


「でも御堂さんは、それを“処理”と呼ぶ」


 処理。


 また、その言葉。


 ミカの手が震えた。


 僕はすぐにその手を取った。


 今度は、触れた。


 ちゃんと、触れた。


「ミカは処理対象じゃない」


 僕は言った。


「朝倉ミカです」


 悠真さんは僕を見た。


 そして、頷いた。


「ああ」


 短く。


 でも、はっきりと。


「朝倉ミカさんは、生きている」


 ミカの手が、少しだけ強く握り返してきた。


     *


 夕方、黒瀬家を出る頃には、空が少し赤くなっていた。


 悠真さんは、僕たちにUSBメモリと紙の資料を渡した。


「この中に、三年前のログ、放送遮断記録、二十五番スピーカーの権限表が入っている」


「いいんですか」


 僕が聞くと、悠真さんは頷いた。


「本来なら、もっと早く出すべきだった」


「それで許されるわけじゃありません」


 レンが言った。


 悠真さんは、まっすぐ彼を見る。


「ああ。許されるために出すんじゃない」


「じゃあ何のためですか」


「雨宮サキさんの名前を戻すため。朝倉ミカさんを死なせないため。そして、黒瀬悠真が間違えたことを、間違えたまま記録するため」


 レンはしばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「受け取ります」


 悠真さんは深く頭を下げた。


「雨宮サキさんの声を止めて、すみませんでした」


 レンは答えなかった。


 謝罪を受け取るには、まだ時間が必要だろう。


 それでいいと思った。


 名前を呼ぶことは、全部をすぐ許すことじゃない。


 間違いを、間違いとして残すことだ。


 黒瀬先輩は玄関先で、兄の横に立った。


「兄さん」


「何だ」


「僕も証言する」


「ああ」


「兄さんを守るためじゃない」


「分かってる」


「兄さんを責めるためだけでもない」


「……ああ」


「僕が、兄さんの間違いを隠そうとしたことも、ちゃんと言う」


 悠真さんは弟を見た。


「お前まで背負う必要はない」


「ある」


 黒瀬先輩は即答した。


「僕は、朝倉さんの声を聞かなかった。兄さんと同じ正しさに逃げた。だから、自分の名前で言う」


 黒瀬リョウ。


 爽やかで、優秀で、正しく見える先輩。


 その人が、初めて自分の間違いを、自分の言葉で持とうとしていた。


「黒瀬リョウは、間違えた」


 彼は言った。


「でも、今度は聞く」


 ミカが頷いた。


「聞いてください」


「うん」


「じゃあまず、私の要望」


「何かな」


「花火大会当日、私を勝手に安全ルートへ運ばない」


「分かった」


「ミナトと引き離さない」


「分かった」


「レンくんを旧体育館へ一人で行かせない」


「分かった」


「白石先生のアイスコーヒーを常温にしない」


「それは僕の管轄かな?」


「全員の責任です」


 僕が真面目に言うと、ミカが吹き出した。


「いや、そこはふざけていいところじゃない?」


「先生の飲料温度も、町の記録に関わるかもしれない」


「関わらないよ」


「時間が戻る世界だぞ。何でもありだ」


「雑なSF理解」


 レンが横から言った。


「白石先生のコーヒーは未処理記録ではありません」


「冷たかった頃の記憶はあるらしいぞ」


「それは先生の個人的な哀愁です」


 黒瀬先輩が、少しだけ笑った。


 その笑いは、朝より柔らかかった。


     *


 夜。


 僕たちは旧体育館近くの防災倉庫へ向かった。


 悠真さんの資料にあった、二十五番スピーカーの補助端末がそこにある。


 まだ使わない。


 今日は、確認だけだ。


 倉庫の壁には、古い防災マップが貼られていた。


 第三橋。


 神社前広場。


 商店街。


 旧体育館。


 二十五番スピーカー。


 そこに、レンが赤いペンで印をつけていく。


「ここが本部。ここが御堂の操作端末。ここが二十五番スピーカー。ここが旧体育館への迂回路」


「で、ここが神社前広場」


 ミカが青いペンで丸をつける。


「最終周の避難先。人を死に誘導するんじゃなく、生きてる名前を聞かせる場所」


「放送文も必要ですね」


 黒瀬先輩が言う。


「ただ“朝倉ミカは生きている”だけでは弱い。御堂さんに上書きされる」


「じゃあ、証言を重ねる」


 僕は資料を見ながら言った。


「白石先生の証言。黒瀬悠真の録音。レンのサキさんのノート。トメさんの預かり物。僕の仮登録」


「最後に、私の生存宣言」


 ミカが言った。


「朝倉ミカは生きたい」


 その言葉を、全員が聞いた。


 誰も茶化さなかった。


 ミカ自身も、もう笑ってごまかさなかった。


「言える?」


 黒瀬先輩が聞く。


 ミカは頷いた。


「怖いけど、言う」


「怖いなら、僕たちが横にいる」


 僕が言うと、ミカはこっちを見た。


「当然」


「当然なんだ」


「ここまで来て横にいなかったら、ミナトの存在確認を取り消す」


「権限が強い」


「継続認識者なので」


 ミカは胸を張った。


 でも、その言葉の意味はもう変わっている。


 ミカだけが僕を認識する状態は、彼女を危険にした。


 だから最終周では、僕の名前も町に戻す。


 ミカだけに背負わせない。


「瀬名湊斗はここにいる」


 僕は小さく呟いた。


 レンが端末を見ながら言う。


「それも放送文に入れます」


「恥ずかしいな」


「必要です」


「分かってるけど」


「恥ずかしがって死なれたら困ります」


「表現が鋭利」


 ミカが横で笑った。


「いいじゃん。ミナトも名前呼ばれなよ」


「呼ばれ慣れてないんだよ」


「じゃあ練習」


 ミカは僕を見て、はっきり言った。


「瀬名湊斗」


 胸の奥が、少し熱くなる。


「はい」


「瀬名湊斗」


「はい」


「瀬名湊斗」


「はい。何回呼ぶんだ」


「存在感の筋トレ」


「筋肉つくかな」


「そのうち顔認証にも勝てる」


「最終目標がスマホ」


 レンがぼそっと言う。


「顔認証に勝つ前に、御堂に勝ってください」


「正論が重い」


 黒瀬先輩も笑った。


 そこで、ふっと音が消えた。


 笑い声のあとに残るはずの、夜の虫の声がない。


 古い倉庫の壁を打つ風の音も、遠くの車の音も、全部が一枚の布で覆われたみたいに遠くなる。


 ミカが、僕の袖を掴んだ。


「……今、変じゃない?」


 レンが端末を見る。


 画面には何も出ていない。


 それなのに、背中の産毛だけが先に反応していた。


 倉庫の外で、スピーカーがざり、と鳴った。


 町内放送のチャイムではない。


 ノイズ。


 それから、低い男の声。


『勝手なことをしているね』


 御堂の声だった。


 ミカの顔が強張る。


 レンが端末を掴む。


 黒瀬先輩が立ち上がる。


 僕はミカの前に出ようとして、ミカに袖を掴まれた。


「前に出すぎ」


「でも」


「横」


 ミカは言った。


「守るなら、横にいて」


 僕は息を吸って、隣に立った。


 スピーカーから御堂の声が続く。


『黒瀬悠真の記録を持ち出したか。雨宮サキの名前も、瀬名湊斗の仮登録も、白石透の証言も。ずいぶん集めたものだ』


 御堂は、もう把握している。


 分かっていたことだけど、背中が冷える。


『だが、記録は感情では変わらない。名前を呼べば救われると思うのは、子どもの発想だ』


 レンが歯を食いしばる。


 ミカが静かに言った。


「子どもで悪いか」


 スピーカーに届くはずのない声。


 でも、僕には聞こえた。


『八月三十一日、朝倉ミカの死亡記録は閉じられる。未処理記録には、処理が必要だ』


 僕は拳を握る。


「処理じゃない」


 声が震えた。


 でも、言った。


「ミカは、処理じゃない」


『瀬名湊斗』


 御堂が僕の名前を呼んだ。


 気持ち悪いくらい、正確に。


『君の存在こそ、記録の歪みだ。君が仮登録のまま残っているから、朝倉ミカが候補になった。君がいなければ、彼女は死ななかったかもしれない』


 胸の奥を、冷たいものが貫いた。


 その通りかもしれない。


 僕が曖昧だから。


 僕が記録の穴だから。


 ミカが僕を見つけてくれたから。


 ミカは何度も死んだ。


「ミナト」


 ミカが僕の手を握った。


 強く。


「聞かなくていい」


「でも」


「違う」


 ミカはスピーカーを睨んだ。


「私は、ミナトを見つけたことを後悔してない」


 その声は、まっすぐだった。


「それを死亡理由にするな」


 スピーカーの向こうが少し黙った。


 それから、御堂が低く笑った。


『では、八月三十一日に証明するといい』


 ノイズが走る。


『名前で記録を変えられるかどうか』


 ぷつり、と音が切れた。


 倉庫の中に、沈黙が落ちた。


 ミカの手は、まだ僕の手を握っている。


 レンが端末を見つめながら言った。


「向こうも、最終周だと分かっている」


「うん」


 黒瀬先輩が頷く。


「なら、こっちも引けない」


 僕は深呼吸した。


 御堂の言葉は、刺さったままだ。


 でも、ミカの手がある。


 レンがいる。


 黒瀬先輩がいる。


 白石先生がいる。


 トメさんがいる。


 そして、サキさんの名前が戻りかけている。


「やろう」


 僕は言った。


「八月三十一日、町に流す」


「何を?」


 ミカが聞く。


 僕は答えた。


「全部の名前を」


     *


 その夜、黒瀬先輩は兄の録音データにタイトルをつけた。


 画面に表示された文字を、僕たちは黙って見た。


> 証言記録

> 黒瀬悠真

> 三年前、雨宮サキの放送を止めた


 黒瀬先輩は、少しだけ指を止めた。


 たぶん、最後の迷いだった。


 兄を、間違えた人として記録する。


 それは簡単なことじゃない。


 でも先輩は、保存ボタンを押した。


 小さな電子音。


 それだけだった。


 レンの腕の中で、焦げたノートのページがかすかに震えた。


 風はない。


 誰も触れていない。


 それでも、ページが一枚だけめくれる。


 最後のほうの、黒く焼けた端のページ。


 そこに、薄く残っていたサキさんの字が、少しだけ濃くなっていた。


 レンが息を止める。


「姉の字が……」


 ミカが覗き込む。


 黒瀬先輩は、泣きそうな顔で笑った。


「兄さんの名前を出したら、サキさんの字が戻るんだね」


 レンはノートを抱きしめた。


「はい」


 声が震えていた。


「間違えた人の名前も、必要だった」


 僕は画面の文字を見る。


 黒瀬悠真。


 雨宮サキ。


 正しい名前と、間違えた名前。


 助けようとした人と、止めた人。


 消された人と、隠した人。


 全部を呼ばなければ、ミカは救えない。


 それが、ようやく形になってきた。


 ミカが小さく言った。


「これで、一つ戻ったね」


「うん」


 僕は頷いた。


「次は、僕の名前だ」


 瀬名湊斗。


 仮登録のままの名前。


 僕自身が、向き合わなければいけない名前。


 夏はまだ終わらない。


 でも、八月三十一日へ向かう道の上に、確かに一つ、名前が戻った。


 黒瀬悠真。


 間違えた人として。


 記録された。

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