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夏が終わる前に、君の名前を呼ぶ  作者: 磯辺


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22/25

瀬名湊斗の不在証明

 八月二十九日の朝、僕はスマホに拒絶された。


 顔認証に失敗しました。


 画面には、いつもの文字が出ている。


「……お前、ここまで来てもまだ僕を疑うのか」


 スマホに話しかける高校二年生。

 かなり終わっている。

 でも、こっちは何度も夏に殺されかけているので、端末に文句を言う権利くらいはあると思う。


 もう一度、顔を近づけた。


 顔認証に失敗しました。


「二連敗。安定感がすごいな」


 暗証番号を入れようとして、指が止まった。


 昨日、黒瀬悠真さんが言っていた。


 僕は三年前、旧体育館にいた。

 雨宮サキさんが僕を助けるために、一時的に町の記録(きろく)から外した。

 その結果、僕は「仮登録(かりとうろく)」のまま残った。


 顔認証に失敗する。

 母さんに名前を間違えられる。

 出席簿に名前がない。

 写真の端で切れる。

 誰かの記憶から、少しだけ滑り落ちる。


 それは、僕がそういう人間だからじゃなかった。


 誰かが、僕を生かすためにそうした。


 そして、その歪みが今、ミカを殺そうとしている。


「……最悪だ」


 声が漏れた。


 自分が消えそうで怖い、という話ではない。


 僕が曖昧なままだったせいで、ミカが何度も死んだ。

 ミカだけが僕を強く見つけてくれたせいで、ミカに負荷(ふか)が集まった。

 ミカの青いヘアピンが、僕を見つけるための目印みたいになっていた。


 僕はベッドに座ったまま、スマホを握りしめた。


 画面には、八月二十九日。


 まだ、八月三十一日ではない。

 まだ、間に合う。


 でも、どうしても思ってしまう。


 僕がいなければ。


 その時、部屋のドアが開いた。


「ユウ、朝ごは――」


 母さんの声が途中で止まった。


 僕は顔を上げた。


 母さんは、廊下からこちらを見ていた。

 エプロン姿で、片手には菜箸。

 いつもなら「ごめんごめん」と笑って流すところだ。


 でも今日は、笑わなかった。


「……違う」


 母さんは、小さく言った。


「ごめん。違うね」


「母さん?」


 母さんは、ゆっくり息を吸った。


湊斗(みなと)


 その名前が、部屋の中に落ちた。


 たった二文字。

 でも、胸の奥に、ちゃんと届いた。


「瀬名湊斗」


 母さんはもう一度言った。


「朝ごはん、できてるよ」


 僕は、しばらく何も言えなかった。


 母さんは少し困ったように笑う。


「何その顔。朝から幽霊でも見た?」


「いや」


 僕は目元をこすった。


「たぶん、幽霊扱いされてたのは僕のほう」


「何それ。寝ぼけてる?」


「かなり」


「じゃあ顔洗ってきなさい。瀬名湊斗くん」


 また、名前。


 母さんの口から、僕の名前が出る。


 それだけで、足元に床が戻ってくる感じがした。


 僕は立ち上がった。


「今日の朝ごはん、何?」


「冷やし中華」


「また?」


「夏だから」


「夏への信頼、まだ厚いのか」


「今日は唐揚げないよ」


「思想が少し進歩した」


「でもトーストもある」


「急に西洋が侵攻してきた」


 母さんは笑った。


 普通の朝みたいだった。


 でも、普通じゃなかった。


 僕は台所へ向かう前に、スマホを見た。


 ミカからメッセージが来ている。


> 起きた?

> 今日、逃げたら顔認証より先に私が拒絶する。


 僕は少し笑って、返信した。


> 起きた。

> 母さんが名前を呼んだ。


 すぐに返ってきた。


> よし。

> まず一人目。


 画面の文字が、少しだけ滲んだ。


     *


 トメさんの駄菓子屋は、朝から開いていた。


 というより、トメさんは店を閉めるという概念にあまり信頼を置いていないらしい。


「営業時間、どうなってるんですか」


 僕が聞くと、トメさんは店先でうちわを扇ぎながら言った。


「気分」


「商売として危険すぎる」


「人生もだいたい気分で開店してるからね」


「名言っぽいけど雑です」


 ミカが横で笑う。


「トメさん、今日もいい感じに人生を煙に巻いてますね」


「煙は嫌だねえ」


 トメさんは、ちらりとレンを見た。


 レンは少しだけ目を伏せる。


 三周目の八月三十一日。

 旧体育館の煙。

 ミカが倒れていく記憶。


 僕たちは忘れていない。

 忘れられない。


 でも今日は、そこに行くために来たんじゃない。


「トメさん」


 レンが言った。


「サキから、まだ預かっているものがありますよね」


 トメさんは、うちわを止めた。


「あるよ」


「ください」


「今の君たちになら、渡せる」


 トメさんは立ち上がり、店の奥へ入った。


 棚の裏。

 古い菓子箱。

 さらにその下にある、錆びた缶。


 トメさんはそこから、小さなラムネ瓶を取り出した。


 中にはビー玉が入っている。

 でも、普通のラムネ瓶と違って、瓶の底に紙が沈んでいた。


「サキちゃんが言ってた」


 トメさんは瓶を僕に渡した。


「“ミナトくんが自分のことを犯人だと思い始めたら、これを渡して”って」


 胸が詰まった。


 サキさんは、そこまで分かっていたのか。


 会った記憶も曖昧な僕が、いつか自分を責めることまで。


 ミカが僕の横腹を肘でつつく。


「ほら。先回りされてる」


「サキさん、未来予知の精度が高すぎる」


「ふざけたノート書く人ほど、こういうところ鋭いんだよ」


 レンは黙ってラムネ瓶を見ていた。


 トメさんが、店のカウンターに古い栓抜きのような器具を置く。


「割らずに開けな。ビー玉は音を残すものだから」


「割らないで開けるって、地味に難易度高いですね」


「人生もそうだよ。だいたい割らずに開けるのが難しい」


「今日、名言多くないですか」


「仕入れた」


「どこで?」


「年寄り市場」


「絶対ない」


 ミカが器用に瓶の口を外した。

 こういう作業は妙に上手い。


 瓶の中から、小さく丸められた紙を取り出す。


 紙は少しだけ湿っていたが、文字は読めた。


> 瀬名湊斗くんへ。

> たぶん君は、自分のせいで朝倉ミカちゃんが死ぬと思う。

> 先に言っておく。

> それは半分正解で、半分大間違い。

>

> 正解のほう。

> 君は三年前、町の記録から外れた。

> 私が外した。

> 理由は、君を死なせないため。

>

> 大間違いのほう。

> 君が生きていることは、罪じゃない。

> 誰かが誰かを見つけることも、罪じゃない。

> 問題は、見つける役目を一人に押しつけたこと。

>

> だから、君を戻すには、たくさんの人に呼ばれなさい。

> 恥ずかしがるな。名前は筋トレ。

> さあ、存在感腹筋だ。


 最後の一文で、僕の感情が迷子になった。


「存在感腹筋って何?」


 ミカが吹き出す。


「知らない。僕が聞きたい」


 レンが真顔で言った。


「姉はたまに比喩の交通事故を起こします」


「身内の評価が冷静すぎる」


 紙には、まだ続きがあった。


> 手順。

> 一、家族に呼ばれる。

> 二、先生に呼ばれる。

> 三、同級生に呼ばれる。

> 四、間違えた人にも呼ばれる。

> 五、君自身が言う。

>

> 瀬名湊斗はここにいる。

>

> これで、ミカちゃん一人にかかった認識負荷が分散する。

> つまり、ミカちゃんの死亡候補化を下げられる。

>

> 重要。

> これはミナトくんを救うためだけじゃない。

> ミカちゃんを救うため。

> 主人公が消える話にするな。

> ヒロインを生かせ。

>

> 追伸。

> 冷やし中華は戻ってくるものの象徴。

> ただし朝から食べるものではない。

> でも唐揚げがあるなら許す。


 僕は紙を握ったまま、しばらく黙った。


 サキさんは、本当に全部分かっていたみたいに書いている。


 主人公が消える話にするな。


 その一文が、胸の奥に刺さった。


 僕は自分の存在の薄さを、どこかで物語の中心に置こうとしていたのかもしれない。

 僕が消えそうだから。

 僕が仮登録だから。

 僕がミカを巻き込んだから。


 でも違う。


 この話の中心は、ミカを生かすことだ。


 僕が名前を取り戻すのは、そのためだ。


「ミナト」


 ミカが僕を見た。


 青いヘアピンが、朝の光を受けて少しだけ光る。


「私、まだ生きたいよ」


「うん」


「だから、ちゃんと戻ってきて」


 僕は頷いた。


「戻る」


 自分のためだけじゃない。


 ミカを、一人の認識者にしないために。


     *


 学校の補習教室に入ると、白石先生が黒板に大きな文字を書いていた。


 瀬名湊斗


 あまりにも堂々と書かれていたので、僕は入口で立ち止まった。


「先生」


「何だ、瀬名湊斗」


「黒板に僕の名前を書くの、公開処刑感がすごいです」


「安心しろ。処刑ではない。点呼だ」


「点呼にしては迫力がある」


 教室には、数人の補習仲間がいた。

 井上、木崎、あと普段ほとんど話したことのない女子二人。


 全員が黒板の僕の名前を見ている。


 ミカは後ろで笑いをこらえていた。


「ミナト、有名人じゃん」


「悪い方向に」


「公式グッズ出るかも」


「非公式生徒から急にグッズ展開するな」


 白石先生は、いつものアイスコーヒーを持っていた。


 ただし今日は、ちゃんと氷が残っている。


「先生、冷たいですね」


「今日は記録に残す日だからな。飲み物も現在形だ」


「そこも気合い入れるんだ」


 白石先生は出席簿を開いた。


「今日は、出席簿にない生徒を出席させる」


「矛盾してません?」


「矛盾を直すのが今日の仕事だ」


 先生は僕を見る。


 眠そうな目。

 でも、逃げない目だった。


「瀬名湊斗」


「はい」


「もう一度」


「え?」


「瀬名湊斗」


「はい」


「聞こえたか」


 先生は教室を見渡した。


 井上が少し戸惑いながら言う。


「聞こえました」


 木崎も手を上げた。


「瀬名、来てます」


「返事が人類の言語だ。成長したな木崎」


「先生、今それ言う場面ですか」


「大事だ。人類の言語で名前を残す」


 白石先生はチョークを置いた。


「みんな、少し付き合ってくれ」


 教室の空気が変わった。


「瀬名湊斗は、今までいろんな記録から漏れていた。出席簿、プリント、班分け、写真。理由は説明しきれないし、説明すると俺の教員人生がだいぶ不安定になる」


「そこは説明しないんですね」


 僕が言うと、先生は真顔で頷いた。


「科学で説明できないことは嫌いだが、職員会議で説明できないことはもっと嫌いだ」


「教師としてのリアルな恐怖」


「だが、今日必要なのは一つだけだ」


 白石先生は、はっきり言った。


「瀬名湊斗は、ここにいる」


 その言葉が、教室に響いた。


 井上が僕を見る。


「瀬名、ここにいる」


 木崎が続く。


「瀬名湊斗、いる」


「フルネームで言え」


 先生が言う。


「瀬名湊斗、いる」


 女子の一人が、小さく言った。


「瀬名湊斗くん、います」


 もう一人も頷く。


「います」


 僕は、うまく息ができなくなった。


 今まで、呼ばれないことに慣れていた。

 気づかれないことに、笑っていた。

 数えられないことを、自虐に変えていた。


 でも、呼ばれると。


 こんなに重い。


 こんなに、痛いくらい嬉しい。


 ミカが隣で、そっと笑った。


「ほら。存在感腹筋、効いてる?」


「かなり。筋肉痛になりそう」


「鍛えろ、省エネ男子」


「急にスポ根」


 白石先生は僕の前に、一枚の紙を置いた。


 仮の出席表だった。


 そこには、手書きで名前が追加されている。


> 瀬名湊斗


「先生」


「記録と記憶は別だ」


 白石先生は言った。


「でも、記録しない記憶は、いずれ誰かに押しつけられる。俺は三年前、それをした」


 先生の声が少しだけ低くなる。


「雨宮サキのことも、旧体育館のことも、俺は見ていたのに言わなかった。だから、今度は書く」


 白石先生は出席表を指で叩いた。


「瀬名湊斗は、ここにいる」


 僕は小さく頷いた。


「はい」


「返事が小さい」


「はい」


「まだ小さい」


「はい!」


 教室の何人かが笑った。


 ミカも笑った。


 その笑い声が、少しだけ教室の天井を押し上げた気がした。


     *


 昼過ぎ、僕たちは黒瀬先輩と合流した。


 場所は神社前広場。


 八月三十一日の花火大会では、人が集まる場所だ。

 二十五番スピーカーの音も届く。

 最終周では、ここが「名前の放送」の中心になる。


 黒瀬先輩は資料を持ってきていた。


「本部の名簿に、瀬名くんの名前を追加した」


「本部の名簿?」


「花火大会ボランティア名簿。君は当日、放送補助として動くことになる」


「僕、そんな立派な役職に耐えられますかね」


「耐えてもらう」


「強制だった」


 ミカが僕の肩を叩く。


「よかったじゃん、公式生徒から公式ボランティアへ昇格」


「公式グッズ化が近い」


「瀬名湊斗アクリルスタンド」


「存在感薄いから透明アクリルになりそう」


「普通のアクスタじゃん」


 レンが無表情で言った。


「くだらないですが、透明アクリルは象徴としては適切です」


「分析しないで」


 黒瀬先輩は、少し笑ったあと、真剣な顔に戻った。


「瀬名くん」


「はい」


「僕は前に、君を朝倉さんから遠ざけようとした」


「はい」


「君が消えやすいから、朝倉さんが危ないと思った。だから、二人を離せばいいと考えた」


 ミカが黙って聞いている。


「でも、それは間違いだった。朝倉さんの声を聞かず、君の名前も呼ばず、ただ配置を変えようとした」


 黒瀬先輩は、まっすぐ僕を見た。


「瀬名湊斗」


 名前を呼ばれる。


 黒瀬先輩の声で。


「君は、朝倉さんから離されるべき危険物じゃない」


「……危険物扱いされてたんですね、僕」


「ごめん」


「いえ。僕も自分でちょっと危険物っぽいなと思ってました」


「そこは否定していいと思うよ」


 黒瀬先輩は苦く笑う。


「瀬名湊斗は、ここにいる。僕はそう証言する」


 その言葉が、広場の空気に混ざる。


 僕は頷いた。


「ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない。もっと早く言うべきだった」


 黒瀬先輩はミカを見る。


「朝倉さん」


「はい」


「君を助けるために、君の声を聞く」


「はい」


「そして、瀬名くんを消さない」


 ミカは少しだけ笑った。


「お願いします」


 その時、神社の石段の上からレンが言った。


「次は自分で言ってください」


「僕?」


「はい」


 レンはノートを開いている。


 焦げたページの端に、薄い文字が浮かんでいた。


> 手順五。

> 君自身が言う。


 僕は息を吸った。


 神社前広場。

 夏の空。

 遠くで聞こえる海の音。

 蝉の声。


 ミカが隣にいる。

 レンが見ている。

 黒瀬先輩がいる。


 僕は、自分の名前を口にした。


「瀬名湊斗は、ここにいる」


 声は少し震えた。


 でも、消えなかった。


 もう一度。


「瀬名湊斗は、ここにいる」


 言った瞬間、ミカの青いヘアピンが、ふっと光ったように見えた。


 いや、本当に光ったわけじゃないのかもしれない。

 でも、ミカが少しだけ目を見開いた。


「……軽い」


「何が?」


「頭」


「僕の発言が?」


「違う。ヘアピン」


 ミカは青いヘアピンに触れた。


「ずっと、何か引っ張られてる感じがあった。ミナトを見つけなきゃって。私が見つけてないと、どこかに行くみたいな」


 胸が痛くなる。


「でも今、ちょっと軽くなった」


 レンがノートを見る。


「認識負荷が分散しています」


「理屈っぽく言うとそうなの?」


「はい」


 ミカは笑った。


「じゃあ、いい理屈」


 僕は、ミカの顔を見た。


 何度も死んだ記憶を抱えた顔。

 それでも笑おうとする顔。

 怖さをごまかすためじゃなく、生きるために笑う顔。


「ミカ」


「何?」


「絶対、一人にしない」


 ミカは僕を見た。


 それから、少し照れたように目を逸らす。


「……そういうの、急に真面目に言うな」


「真面目な場面だから」


「ミナトのくせに」


「僕のくせに」


「でも」


 ミカは小さく言った。


「助かる」


 その言葉を、今度は逃げずに受け取った。


     *


 夕方、僕たちは家に戻った。


 正確には、僕の家にみんなで来た。


 母さんに事情を説明するためだ。


 もちろん、全部は説明できない。

 ループしています。

 三年前の記録が歪んでいます。

 ミカが八月三十一日に死にます。

 クロノグラフという時間の炊飯器がありまして。


 そんな説明をしたら、母さんはたぶん冷やし中華に薬味を入れ忘れる。

 いや、それくらいならいい。

 病院に連れていかれる可能性がある。


 だから、最低限だけ話した。


 僕の名前を、ちゃんと呼んでほしいこと。

 ミカだけに、僕を見つける役目を背負わせたくないこと。

 八月三十一日に、僕とミカがどうしてもやらなければならないことがあること。


 母さんは黙って聞いていた。


 リビングのテーブルには、麦茶とお菓子。

 なぜか冷やし中華の皿もある。


「母さん、これは?」


「余ってたの」


「料理の思想がまた在庫処分に戻った」


「今日は唐揚げもあるよ」


「許した」


 ミカが小さく笑った。


「ミナトのお母さん、強いですね」


「雑なだけだよ」


「雑は強さだよ。夏は特にね」


 母さんは、トメさんみたいなことを言った。


 それから、僕を見る。


「湊斗」


「うん」


「お母さん、たぶん今までたくさん間違えたね」


 予想外の言葉だった。


 僕は何も言えなくなる。


「名前。呼び間違えた。笑って流してた。あんたも笑ってたから、大丈夫だと思ってた」


「……慣れてたから」


「慣れさせちゃったんだね」


 母さんは静かに言った。


「ごめん」


 ミカも、レンも、黒瀬先輩も黙っていた。


 僕は首を振った。


「母さんのせいだけじゃない」


「でも、お母さんの分はお母さんが持つ」


 その言い方が、白石先生や黒瀬先輩たちと同じだった。


 自分の分を、自分の名前で持つ。


 母さんは僕の前に座る。


「瀬名湊斗」


 はっきりと呼んだ。


「あんたは、ここにいる」


 喉が詰まった。


「うん」


「ごはんも食べる」


「うん」


「宿題もする」


「それは話が違う」


「違わない」


「世界が終わりそうなのに?」


「世界が終わらなかった時に困るでしょ」


 ミカが吹き出した。


「正論」


「ミカまで」


「宿題から逃げる人間に夏を救えるのか問題」


「急に壮大な教育番組みたいにするな」


 母さんは笑った。


 その笑いの中で、もう一度言う。


「瀬名湊斗」


「はい」


「ちゃんと帰ってきなさい」


 その言葉は、名前よりも重かった。


 僕は頷いた。


「帰ってくる」


     *


 夜。


 防災倉庫に、僕たちは集まった。


 白石先生。

 黒瀬リョウ先輩。

 雨宮レン。

 ミカ。

 そして僕。


 トメさんは店を閉めない主義のくせに、なぜか普通に倉庫にいた。

 手には駄菓子の袋。


「差し入れ」


「緊張感が駄菓子味になる」


「糖分は大事だよ」


 白石先生が袋の中を覗く。


「当たり付きアイスは?」


「溶けるから持ってこないよ」


「冷たかった頃の記憶だけでも」


「先生、飲み物以外にも過去形使うんですね」


 ミカが言うと、先生は真顔で答えた。


「夏は全部そうだ」


 その言葉は少し寂しかった。


 でも、今は終わらせるためにここにいる。


 レンがノートを開く。


 ページには、今日集めた名前が並んでいた。


> 瀬名湊斗

> 家族認識:確認

> 教師認識:確認

> 同級生認識:確認

> 黒瀬リョウ証言:確認

> 本人宣言:確認


 その下に、新しい文字が浮かび上がる。


> 仮登録状態:低下

> 継続認識負荷:分散

> 朝倉ミカ

> 死亡候補率:低下


 ミカが息を吐いた。


「下がった」


 レンは頷く。


「ただし、解除ではありません」


「分かってる」


 ミカは真剣な顔で言った。


「これで私が絶対死なないってわけじゃない」


「はい」


「でも、少し進んだ」


「はい」


 白石先生が腕を組む。


「つまり、事故を防ぐだけじゃなく、名前を増やすことが必要だったわけだ」


「はい」


 レンはノートを見ながら言った。


「三年前、姉は瀬名先輩を一時的に記録から外しました。でも戻す前に死んだ。そのせいで瀬名先輩は仮登録のまま残った」


「そして朝倉が、瀬名を強く認識し続けた」


 白石先生が続ける。


「はい。それが朝倉先輩への負荷になった」


 黒瀬先輩が言う。


「僕はそれを、二人を引き離せば解決すると考えた。でも本当は、認識者を増やすべきだった」


「爽やかな支配より、泥臭い点呼」


 ミカが言う。


 黒瀬先輩は苦笑した。


「その言い方、刺さるね」


「刺してます」


「うん、受け取る」


 トメさんがラムネ瓶を振った。


 からん、とビー玉が鳴る。


「誰かを見つける音だね」


 その音が、倉庫の中に小さく響いた。


 僕は自分のスマホを開いた。


 試しに、顔認証を起動する。


 みんなが無言で見守る。


 画面が僕の顔を読み取る。


 一秒。


 二秒。


 顔認証に失敗しました。


「失敗した」


「空気読め、スマホ」


 ミカが即座に言う。


「まあ、まだ途中ってことだろ」


 僕は苦笑した。


 でも、その下に、今まで見たことのない通知が出た。


> 三架町防災アプリ

> 瀬名湊斗

> 存在確認:進行中


 レンが画面を覗き込む。


「進行中……」


 白石先生が小さく息を吐いた。


「完全ではないが、動いた」


 黒瀬先輩が頷く。


「なら、八月三十一日の放送で確定させる」


 ミカが僕を見る。


「あと少しだね」


「ああ」


 あと少し。


 でも、その「少し」がいちばん危ない。


 御堂は必ず止めに来る。

 クロノグラフは、記録の整合性を理由にミカを死亡処理しようとする。


 でも今、僕たちには名前がある。


 雨宮サキ。

 黒瀬悠真。

 白石先生。

 瀬名湊斗。

 朝倉ミカ。


 消された名前。

 隠された名前。

 間違えた名前。

 仮登録の名前。

 生きたい名前。


 全部を呼ぶために、八月三十一日へ行く。


     *


 その帰り道、僕とミカは第三橋の近くを歩いていた。


 もちろん、橋には近づかない。

 白石先生に「今の段階で橋に近づいたら補習を三倍にする」と言われたので、物理的にも精神的にも距離を取っている。


 夜の川は黒い。

 街灯が水面に揺れている。


 ミカは少し黙っていた。


「ミカ?」


「んー」


「大丈夫?」


「大丈夫って言いたいけど、正直、怖い」


 ミカは青いヘアピンに触れた。


「橋も、車のライトも、煙も、消えていく感じも、全部覚えてる」


「うん」


「死ぬって、慣れないね」


 その言葉に、胸が痛む。


 当たり前だ。

 慣れていいわけがない。


「ミカ」


「何?」


「助ける」


「知ってる」


「でも、僕だけじゃない」


「うん」


「ミカ自身も、生きたいって言う。レンも、白石先生も、黒瀬先輩も、トメさんも、母さんも、みんなで名前を呼ぶ」


「うん」


「だから、ミカ一人に背負わせない」


 ミカは、少しだけ笑った。


「今日のミナト、ちゃんとしてるね」


「存在感腹筋の成果」


「腹筋すごい」


「割れるかな」


「存在感シックスパック」


「嫌すぎる」


 ミカは笑った。


 笑って、それから僕のほうを見た。


「瀬名湊斗」


 名前を呼ぶ。


 いつもみたいに。

 でも、少し違う重さで。


「はい」


「ここにいる?」


「いる」


「ちゃんと?」


「ちゃんと」


「八月三十一日も?」


「いる」


「九月一日も?」


 僕は息を吸った。


「いる」


 ミカは満足そうに頷いた。


「じゃあ、私もいる」


「うん」


「朝倉ミカも、ここにいる」


 その言葉が、夜の川に落ちる。


 水面が少し揺れた気がした。


 スマホが震える。


 三架町防災アプリからの通知。


> 朝倉ミカ

> 死亡記録:未固定

> 生存記録:保留


 未固定。


 まだ勝ってはいない。

 でも、固定されていない。


 ミカが画面を見て、静かに笑った。


「保留って、なんか腹立つね」


「役所っぽい」


「生きてるんだから、保留じゃなくて確定にしてほしい」


「八月三十一日に、確定させよう」


「うん」


 ミカは前を向いた。


 夏の夜風が、青いヘアピンを少し揺らす。


 僕はその横に並んだ。


 前ではなく、後ろでもなく。


 横に。


 瀬名湊斗はここにいる。


 それは、僕だけのための言葉じゃない。


 朝倉ミカを、九月一日へ連れていくための言葉だ。


 夏は、まだ終わらない。


 でも、終わらせる準備はできてきた。

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