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夏が終わる前に、君の名前を呼ぶ  作者: 磯辺


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20/25

最後の八月二十五日

 顔認証に失敗しました。


 最後の八月二十五日


 白い画面に、黒い文字。


 朝の光。

 蝉の声。

 カーテンの隙間から差し込む、八月の馬鹿みたいに明るい日差し。


 僕は、スマホを握ったまま、しばらく呼吸を忘れていた。


 顔認証に失敗しました。


 もう一度、画面がそう言った。


「……やめろ」


 声が出た。

 自分の声なのに、知らない誰かの声みたいだった。


「やめろよ」


 八月二十五日。


 分かっていた。

 戻るかもしれないと、どこかでは思っていた。

 四周目も失敗したのだから、またこの朝に戻されるのだろうと、頭のどこかでは理解していた。


 でも、理解していたことと、耐えられることは別だった。


 ミカが消えた。


 橋から落ちたのでもなく。

 車にはねられたのでもなく。

 煙に巻かれたのでもなく。


 目の前にいたのに。

 生きていたのに。

 手を握っていたのに。


 町の記録(きろく)が、彼女を死んだことにした。


 朝倉ミカ。

 死亡記録:固定完了。

 死亡経路:記録処理。

 生存記録:削除。


「削除って、なんだよ」


 スマホを握る手に力が入る。


「人間だろ。ミカは、人間だろ……!」


 胸の奥が熱くなった。

 次の瞬間、僕はスマホを布団に叩きつけていた。


 画面は消えない。


 また、通知が出る。


> 8/25

> 再照合開始

> 対象:朝倉ミカ

> 状態:未固定


 未固定。


 まだ死んでいない。


 その文字に縋りつくように、僕はスマホを拾い上げた。


 手が震えて、暗証番号を打ち間違える。


「くそっ」


 もう一度。


 失敗。


「くそっ、くそっ、くそっ!」


 三回目で、ようやく開いた。


 ミカに電話する。


 呼び出し音が鳴る。


 一回。


 二回。


 三回。


 出ない。


「出ろよ」


 四回。


「ミカ」


 五回。


「頼むから」


 六回目で、通話がつながった。


『……ミナト』


 ミカの声だった。


 生きている声だった。


 でも、僕は安心できなかった。


 声を聞いた瞬間、逆に胸の中の何かが崩れた。


「ミカ」


『うん』


「いる?」


『いる』


「見えてる?」


『自分では見えてる』


「触れる?」


『布団には触れてる。スマホにも触れてる。たぶん、今はまだ生きてる』


 今はまだ。


 その言い方が、喉に刺さった。


「ごめん」


 僕は言った。


『何が』


「手、離した」


『離してない』


「最後、触れなくなった」


『あれはミナトのせいじゃない』


「でも」


『違う』


 ミカの声が強くなった。


『あれは、町が私を見なかった。御堂が私を処理した。ミナトが手を離したんじゃない』


 僕は唇を噛んだ。


 分かっている。


 それでも、手の中からミカの温度が消えていった感覚が残っている。


 空を握っていた指。

 床に落ちた青いヘアピン。

 触れなかった自分。


「ミカ」


『うん』


「全部、覚えてる?」


 電話の向こうで、ミカが息を呑んだ。


 少しの沈黙。


 それから、細い声。


『全部覚えてる』


 僕は目を閉じた。


『痛くはなかった』


 ミカは言った。


『橋より痛くなかった。車より痛くなかった。煙より苦しくなかった。でも、一番怖かった』


「うん」


『誰にも見えなくなるの、怖かった。自分の声が届かなくなるの、怖かった。私が私じゃないものにされていくの、すごく怖かった』


「うん」


『生きてるのに、死んだことにされるのって、あんなに寒いんだね』


 僕は何も言えなかった。


『ミナト』


「うん」


『私、まだ生きたい』


 その言葉は、泣き声だった。


 でも、前よりずっとはっきりしていた。


『橋から落ちたあとも、車のライトのあとも、煙のあとも、そう思った。でも昨日、消されて分かった。私は、誰かに覚えてもらいたいだけじゃない。かわいそうな死んだ子になりたくない。記録の穴埋めにもなりたくない』


「うん」


『私は、生きたい』


 僕はスマホを握りしめた。


「今度は、事故を止めるんじゃない」


『うん』


「記録そのものを変える」


『うん』


「ミカを隠さない。逃がすだけにしない。町に、朝倉ミカは生きてるって認めさせる」


『うん』


「そのために、全部呼ぶ」


『全部?』


「サキさんの名前。黒瀬悠真の罪。白石先生の証言。レンの記憶。僕の仮登録。ミカの生存」


 言葉にしていくたび、震えていた心が、少しずつ形を取り戻していく。


 でも、それは冷静になったというより、怒りに輪郭ができたみたいだった。


「誰か一人を犯人にして止めるんじゃない。誰か一人を守って終わりでもない。消されたものを全部、町に戻す」


『……できるかな』


「分からない」


 僕は正直に言った。


「でも、もうそれしかない」


 電話の向こうで、ミカが小さく笑った。


『ミナトって、たまにすごい雑に覚悟決めるよね』


「無料版だからな。細かい設定がない」


『その無料版、何回も私の名前呼んでくれたから、わりと高性能だよ』


「課金してくれ」


『生きて九月一日に考える』


「契約更新、頼む」


 ミカは少しだけ笑った。


 でもすぐ、声が震えた。


『今日、会いたい』


「会おう」


『レンくんも』


「呼ぶ」


『あの子、今度こそ壊れるかもしれない』


「壊さない」


『うん』


「一人で覚えさせない」


『うん』


『私も、一人で生きたいって言わない。ちゃんと言うけど、一人じゃなくていい』


「うん」


『ミナト』


「何」


『最後の八月二十五日にしよう』


 最後。


 その言葉に、胸が震えた。


 次があるからいい、じゃない。

 もう戻ればいい、じゃない。


 これ以上、ミカを死なせないための最後。


「する」


 僕は答えた。


「これで、夏を終わらせる」


     *


 階段を降りると、台所から母さんの声がした。


「ユウ、牛乳取って」


 いつもの呼び間違い。


 いつもの朝。


 でも、僕は立ち止まった。


 もう、流せなかった。


「湊斗」


 僕は言った。


 母さんが冷蔵庫の前で振り返る。


「あ、ごめん。寝ぼけてた」


「寝ぼけてても、呼んで」


 声が思ったより強く出た。


 母さんは目を丸くした。


「ミナト?」


「うん。瀬名湊斗」


 自分の名前を、自分で言う。


 それだけで、胸の奥に刺さっていたものが少し動いた。


 僕はずっと、名前を間違えられることに慣れていた。

 出席簿に名前がなくても、笑っていた。

 顔認証に失敗しても、スマホのせいにしていた。


 でも、それは小さな違和感じゃなかった。


 三年前から続いている、記録の穴だった。


 僕が曖昧なままだから、ミカだけが僕を強く見つけていた。

 ミカだけが僕を見つけるから、ミカに負荷がかかっていた。


 ミカを救うためには、僕も自分の名前を取り戻さなきゃいけない。


「母さん」


「何?」


「僕の名前、今日ちゃんと呼んで」


 母さんは、何かを察したように表情を変えた。


「瀬名湊斗」


 はっきりと、母さんは言った。


「うん」


「ミナト」


「うん」


「朝ごはん、冷やし中華だけど」


 食卓を見る。


 麺。

 きゅうり。

 錦糸卵。

 ハム。

 トマト。

 唐揚げ二つ。


 何度も戻ってきた朝。


 時間の炊飯器。

 炊き直された夏。


「……食べる」


「顔、真っ青だよ」


「でも食べる」


「無理しないで」


「無理はする。でも、黙って抱えない」


 母さんは少しだけ笑った。


「それなら、まだいい」


 僕は椅子に座った。


 冷やし中華を一口食べる。


 酸っぱいタレが喉に刺さる。


 煙の記憶で痛む喉には、あまりにも攻撃力が高い。


「朝からこれは暴力」


「夏だから」


「夏への信頼が厚すぎる」


「トマト増やす?」


「それは処理です」


「何の?」


「未処理野菜の」


 母さんは笑った。


 僕も少しだけ笑った。


 笑えることが、こんなに苦しいなんて知らなかった。


     *


 トメさんの駄菓子屋に着いた時、ミカはもう店先にいた。


 青いヘアピンをつけている。


 ラムネ瓶を一本、両手で握っている。


 僕を見つけると、ミカは立ち上がった。


 いつもなら軽口が飛んでくる。


 でも今日は違った。


 ミカは何も言わず、僕の胸元を軽く掴んだ。


 そして、額を僕の肩に押しつけた。


「いる」


 ミカが言った。


「いる」


 僕も言った。


「見えてる?」


「見えてる」


「触れる?」


「触れる」


 僕はミカの背中に手を回そうとして、止めた。


「抱きしめていい?」


「いい」


 許可をもらってから、僕はミカを抱きしめた。


 生きている温度。


 呼吸。

 心臓。

 髪に留まる青いヘアピン。


 全部、ここにある。


「朝倉ミカ」


「生存確認、継続中」


 ミカが答えた。


「瀬名湊斗」


「存在確認、継続中」


 ミカは少しだけ笑った。


「よし。今日も最低な朝だけど、開始」


「怖い同盟?」


「活動内容、夏を終わらせる」


「年会費は?」


「九月一日のラムネ」


「高いな」


「命がけだからね」


 その時、店の奥からトメさんが出てきた。


「若い子が店先で抱き合うと、駄菓子屋の平均年齢が急にバグるね」


 ミカが慌てて離れる。


「バグって言わないでください」


「じゃあ青春の不正アクセス」


「もっと悪いです」


 トメさんはうちわで顔を扇ぎながら、僕たちを見た。


「戻ったね」


「はい」


「今度は、どんな死に方だった?」


 ミカの顔が強張る。


 でも、逃げなかった。


「死に方じゃなくて、死んだことにされました」


 トメさんのうちわが止まった。


「……処理かい」


「はい」


 僕が答える。


「体は生きていたのに、町の記録上で死亡になった。周りの人がミカを認識できなくなって、連絡先も写真も消えて、最後には僕たち以外、誰も見えなくなった」


「そうかい」


 トメさんは深く息を吐いた。


「そこまで行ったか」


「知ってたんですか」


 僕が聞くと、トメさんはすぐには答えなかった。


 店の奥へ引っ込み、古い木箱を持って戻ってくる。


 箱の中には、ラムネ瓶の王冠、アイスのハズレ棒、古い写真、折りたたまれた紙が入っていた。


「サキから預かったものだよ」


 レンがまだ来ていないことに気づいて、僕はスマホを見る。


 ミカが言った。


「レンくん、来るかな」


「来る」


 僕は答えた。


「来なかったら迎えに行く」


「うん」


 その数分後、レンが現れた。


 黒いTシャツ。

 目の下の濃い影。

 手には赤いヨーヨー。


 そして、焦げたノートを抱えていた。


 この周回には存在しないはずのノート。


 でも、ループ記憶と一緒に、レンの手元に残っている。


 いや、残っているように見える。


 レン自身が、そう認識しているから。


「おはようございます」


 声は平坦だった。


 でも、今にも折れそうだった。


 ミカがすぐに言った。


「レンくん」


「はい」


「私は生きてる」


「はい」


「レンくんも生きてる」


「はい」


「サキさんも、消えたままにしない」


 レンの目が揺れた。


「……僕は」


「一人で謝るの禁止」


 ミカが言う。


「一人で覚えるのも禁止」


 レンは唇を噛んだ。


「でも、僕は姉の記録を追った。三周目で、あなたを煙に」


「うん。怒ってる」


 ミカは即答した。


 レンがびくっとする。


「怒ってるけど、レンくん一人を原因にしたら、私はまた死ぬ」


 ミカは真っ直ぐにレンを見た。


「橋でも死んだ。車でも死んだ。煙でも死んだ。記録でも死んだ。つまり、犯人は一人じゃない」


「……はい」


「だから、レンくんだけが罪悪感を独占するの、禁止」


 レンは目を伏せた。


「罪悪感の独占」


 僕が呟くと、ミカがこっちを見た。


「今ちょっと上手いこと言った感ある?」


「ある」


「レンくんの前で言うことじゃなかった」


「そこは反省しよう」


「反省する。生きて反省する」


 レンの口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑ったのかもしれない。


 あるいは、泣くのをこらえただけかもしれない。


「僕は」


 レンは焦げたノートを抱きしめた。


「サキを一人で覚えるのを、やめます」


 その言葉に、トメさんが目を細めた。


「言えたね」


「姉の名前を、僕だけのものにしない」


 レンは続ける。


「姉の死を、僕だけの罰にしない。姉の記録を、僕だけの目的にしない」


 声が震えていた。


 でも、はっきりしていた。


「雨宮サキは、ここにいた。そう町に言わせます」


 僕は頷いた。


「それが、ミカを救うことにつながる」


「はい」


「サキさんを戻すことは、過去を飾ることじゃない」


 ミカが言う。


「間違えた人の名前も、一緒に出すこと」


 レンは頷いた。


「黒瀬悠真」


 僕がその名を言うと、空気が少し重くなった。


「黒瀬先輩の兄。三年前、御堂に従ってサキさんの放送を止めた人」


「彼の名前を出さなければ、姉の記録は戻らない」


 レンが言った。


「白石先生の証言も必要です」


「先生は、三年前に見ていた」


 僕は続ける。


「でも黙っていた。悪意じゃなくても、沈黙には名前がいる」


 ミカが僕を見た。


「ミナトの名前も」


「うん」


 僕は自分の胸に手を当てた。


「瀬名湊斗。仮登録のまま残ってる。三年前、サキさんが僕を助けるために一時的に町の記録から外した。そのせいで、僕は存在が薄くなった」


「そして、私がミナトを強く見つけすぎてた」


 ミカが言う。


「それが私への負荷になってた」


「だから、僕の名前も町に戻す」


 僕は深呼吸した。


「ミカだけに僕を見つけさせない。僕も、僕の周りの人も、僕をちゃんと認識する」


 トメさんは木箱の中から、青いガラス玉の入った小瓶を取り出した。


「サキはね、こう言ってた」


 小瓶の中で、ビー玉が小さく鳴る。


「誰か一人が見つけると、その人に全部乗る。だから名前は、みんなで呼ばなきゃいけない」


 トメさんは小瓶をミカに渡した。


「これは、最後のラムネ瓶だよ」


 ミカが受け取る。


 瓶の底に、小さな紙が沈んでいた。


 水に濡れないよう、透明な袋に包まれている。


 レンが慎重に取り出す。


 紙には、丸い字で書かれていた。


> 時間の炊飯器メモ・最終版

>

> ごはんは炊き直せる。

> でも、消えた具は勝手に戻らない。

> 入れ忘れたものを、名前で入れ直すこと。

>

> サキ。

> ユーマ。

> シライシ。

> ミナト。

> ミカ。

>

> あと、トマトは入れすぎるな。

> 冷やし中華が泣く。


 ミカが紙を見て、涙ぐみながら笑った。


「最後でトマトの話する?」


「姉はそういう人です」


 レンの声も少しだけ震えていた。


「ふざけたことに、本気を隠す人でした」


 僕は紙に並ぶ名前を見た。


 サキ。

 ユーマ。

 シライシ。

 ミナト。

 ミカ。


 全部、必要な名前。


 誰か一人でも抜けたら、記録はまた歪む。


「最終周の目的」


 僕は言った。


「八月三十一日までに、この五つの名前を町の記録に戻す」


「どうやって?」


 ミカが聞く。


「放送する」


 僕は答えた。


「二十五番スピーカーを使う。町内放送、防災アプリ、花火大会本部、全部に流す」


 レンがすぐに反応した。


「御堂が止めます」


「だから、その前に証言を集める」


 僕は指を折る。


「白石先生には、三年前に見たことを話してもらう。黒瀬先輩には、黒瀬悠真の記録を出してもらう。レンはサキさんのノートを公開する。トメさんは預かった小物を出す。僕は、自分が仮登録だったことを認める」


「私は?」


 ミカが聞く。


 僕は彼女を見る。


「ミカは、自分で言う」


「何を?」


「朝倉ミカは生きたいって」


 ミカは息を止めた。


 少しの沈黙。


 それから、ゆっくり頷いた。


「言う」


 声が震えていた。


 でも、逃げなかった。


「今度は、死ぬ前じゃなくて、生きてる時に言う」


     *


 その日の午後、僕たちは白石先生に会った。


 理科準備室。


 先生は、机の上に置いたアイスコーヒーを一口も飲んでいなかった。


「四周目も失敗したか」


 先生は僕たちの顔を見るなり言った。


「はい」


 僕は答えた。


「今度は、ミカが記録上で死亡処理されました」


 白石先生の表情が固まる。


「物理的な事故ではなく?」


「はい」


「体は?」


「生きていました」


 ミカが自分で言った。


「でも、誰にも見えなくなりました。先生からも、黒瀬先輩からも、トメさんからも。最後は、ミナトとレンくんしか私を認識できなかった」


 先生は目を閉じた。


「御堂か」


「はい」


 レンが端末を机に置く。


「御堂は、未処理記録を誰かの死亡で閉じようとしています。朝倉先輩は、その補填対象にされている」


「補填」


 先生の声が低くなる。


「人間を、穴埋めに使うな」


「だから、先生に証言してほしいんです」


 僕は言った。


「三年前、旧体育館で何を見たのか。サキさんがいたこと。僕がいたこと。クロノグラフの異常。御堂の関与。全部」


 白石先生は黙った。


 長い沈黙だった。


 それから、先生は机の引き出しを開けた。


 中から、古いUSBメモリを取り出す。


「ある」


「え?」


「三年前のデータだ。俺が隠していた」


 ミカが目を見開く。


「先生」


「言い訳はしない」


 白石先生はUSBメモリを見つめた。


「怖かった。自分が証言すれば、学校も町も巻き込む。雨宮サキの死を、正式な事故として扱わなかった大人たちの責任が出る。俺自身も問われる」


「だから黙ってたんですか」


 レンの声が低くなる。


「そうだ」


 白石先生は逃げなかった。


「最低だろ」


「最低です」


 レンは即答した。


 ミカが少しだけ慌てた顔をしたが、白石先生は頷いた。


「その通りだ」


 先生は僕たちを見た。


「だが、もう黙らない」


 USBメモリを机の上に置く。


「白石透。三年前の旧体育館事故の目撃者として証言する。俺が見たこと、見なかったふりをしたこと、黙っていたこと。全部、名前をつけて話す」


 僕は深く頷いた。


「ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない」


 先生は乾いた声で言った。


「遅すぎる提出物だ」


「先生の宿題ですね」


 ミカが言う。


「教師のくせに未提出だった」


「じゃあ提出してください」


「ああ」


 白石先生は頷いた。


「今度こそ出す」


     *


 黒瀬リョウは、校舎裏の自転車置き場にいた。


 相変わらず爽やかな顔をしている。


 でも、その爽やかさは少し疲れていた。


「四周目、僕は忘れたんだね」


 黒瀬先輩は言った。


「はい」


 僕は答える。


「ミカのことを忘れかけていました」


「そうか」


 黒瀬先輩はミカを見る。


「ごめん」


「黒瀬先輩が謝るところ、だいぶ多いですね」


「うん。多すぎて、謝罪の渋滞が起きてる」


「交通整理してください」


「分かった」


 黒瀬先輩は少しだけ笑った。


 でもすぐ、表情を引き締める。


「兄のことだね」


「はい」


 レンが言う。


「黒瀬悠真の記録が必要です」


 黒瀬先輩は目を伏せた。


「兄は、正しい人じゃなかった」


 その言葉は、彼自身に向けた刃みたいだった。


「ずっと、正しい人にしたかった。優秀で、町に頼られて、僕の目標だった兄にしたかった。でも三年前、兄は御堂さんに従った。雨宮サキさんの放送を止めた」


 レンの拳が震える。


 でも、彼は黙って聞いていた。


「その結果、サキさんの声は町に届かなかった。旧体育館の異常も、瀬名くんの仮登録も、全部隠された」


 黒瀬先輩は、鞄から古いファイルを出した。


「兄の手帳だ。花火大会本部の記録と、三年前の通話メモが残ってる」


「それを出すんですか」


 僕が聞くと、黒瀬先輩は頷いた。


「出す」


「兄を守らなくていいんですか」


 ミカが静かに聞いた。


 黒瀬先輩は、少しだけ苦しそうに笑った。


「守り方を間違えていたんだと思う」


 彼はファイルを握りしめた。


「間違えた人を、正しい人として隠すことは、守ることじゃない。兄を本当に記録するなら、間違えた人として名前を残さなきゃいけない」


 レンが小さく息を吐いた。


「黒瀬悠真」


 彼は言った。


「雨宮サキの放送を止めた人」


 黒瀬先輩は頷いた。


「黒瀬悠真。僕の兄。間違えた人」


 その言葉で、空気が少しだけ変わった。


 隠されていた名前に、輪郭が戻る。


     *


 夕方。


 僕たちは旧体育館の前に立っていた。


 入らない。


 今日は入らない。


 でも、逃げるためではない。


 外から、名前を呼ぶために来た。


 錆びたフェンス。

 伸び放題の雑草。

 閉ざされた扉。


 ここで三年前、雨宮サキが死んだ。

 ここで三年前、僕は助けられた。

 ここで三年前、町は記録を歪めた。


 レンがフェンスの前に立つ。


 焦げたノートを胸に抱えている。


「雨宮サキ」


 レンが言った。


 声は震えていた。


「僕の姉です」


 僕とミカは隣に立つ。


 白石先生も、黒瀬先輩も、トメさんも後ろにいる。


 レンは続けた。


「三年前、ここにいました。旧体育館で、クロノグラフの異常に巻き込まれました。瀬名湊斗先輩を助けました。町の記録から名前を消されました」


 風が吹く。


 古い体育館の扉が、ぎい、と小さく鳴った。


「僕は、姉を一人で覚えようとしました」


 レンの声が涙で揺れる。


「姉の記録を、僕だけのものにしようとしました。でも、それでは駄目でした。姉が救おうとしたものまで、僕は見失いかけた」


 ミカが静かに言った。


「レンくん」


 レンは頷く。


「雨宮サキ」


 もう一度、名前を呼ぶ。


「あなたは、ここにいた。僕だけじゃなく、みんなで覚える」


 その瞬間、焦げたノートのページが、風もないのに開いた。


 最後のページ。


 そこには、ふざけた字で書かれていた。


> レンへ。

>

> 一人で持つな。

> 重いものは分けろ。

> ラムネ瓶のビー玉だって、一人で鳴るより、誰かが聞いたほうがいい音になる。

>

> あと、泣いてもいいけど鼻水は拭け。

> 姉より。


 レンは泣いた。


 今度は、声を殺さなかった。


 トメさんがそっとハンカチを渡した。


「鼻水、拭きな」


「……はい」


 ミカが小さく笑った。


 僕も笑った。


 でも、その笑いは軽くなかった。


 サキさんの名前が、少しだけ戻ってきた気がした。


     *


 夜。


 僕たちは神社の石段に座っていた。


 八月二十五日の夜。

 まだ花火大会まで六日ある。


 でも、もう時間は多くない。


 やるべきことは決まった。


 白石先生の証言。

 黒瀬悠真の記録。

 雨宮サキのノート。

 トメさんの小物。

 瀬名湊斗の仮登録。

 朝倉ミカの生存宣言。


 それらを、八月三十一日に町へ流す。


 二十五番スピーカーを使って。

 防災アプリを使って。

 花火大会の人混みを、今度は死へ誘導するためではなく、生きている名前を広げるために使う。


「大掛かりになってきたね」


 ミカが言った。


「夏休みの宿題どころじゃない」


「宿題もやってないのに、町の記録を変えようとしてる」


「順番がおかしい」


「ミナトの人生、大体そう」


「否定できない」


 ミカは夜空を見上げた。


「怖い」


「うん」


「また死ぬかもしれない」


「死なせない」


「うん。でも怖い」


「怖いままでいい」


 僕は言った。


「怖くなくなる必要はない」


 ミカは僕を見る。


「ミナトは?」


「怖い」


「うん」


「でも、怒ってる」


「誰に?」


「御堂に。町に。記録に。白石先生の沈黙に。黒瀬先輩の支配に。レンの孤独に。僕の曖昧さに」


 僕は少し息を吸った。


「それと、ミカを何度も死なせた僕に」


 ミカは黙った。


 それから、僕の額を軽く指で弾いた。


「痛い」


「今の分は怒った」


「はい」


「でも、一人で背負うの禁止」


「ミカが言うと説得力ある」


「死にすぎて説得力が熟成された」


「言い方が嫌すぎる」


 ミカは少し笑って、すぐ真顔になった。


「私も、自分で言う」


「うん」


「守られるだけじゃない。隠されるだけじゃない。運ばれるだけじゃない」


「うん」


「朝倉ミカは生きたいって、町に言う」


 その声は、もう震えていなかった。


 怖さはある。


 でも、その奥に、確かな意志があった。


 僕は頷いた。


「僕も言う」


「何を?」


「瀬名湊斗はここにいる」


 ミカは笑った。


「それ、いいね」


「無料版にしては?」


「かなりいい。広告少なめ」


「評価の基準がアプリ」


 レンが少し離れた場所から言った。


「二人とも、真面目な場面で会話の品質を下げないでください」


 ミカが振り返る。


「レンくんも言うんだよ」


「何をですか」


「雨宮サキはここにいた」


 レンは少し黙った。


 そして、頷いた。


「言います」


 石段の下から、白石先生の声がした。


「俺も言う」


 先生が、アイスコーヒー片手に立っていた。


「私は見ていた、と」


 黒瀬先輩も隣にいる。


「僕も言う。黒瀬悠真は間違えた、と」


 トメさんが、うちわを扇ぎながら続けた。


「私は預かっていた、と」


 それぞれが、自分の言葉を持っている。


 誰か一人の英雄じゃない。

 誰か一人の犯人でもない。

 誰か一人の犠牲でもない。


 みんなが、見なかったものに名前をつける。


 それが、ミカを救う道になる。


     *


 家に帰る前、僕はミカと並んで商店街を歩いた。


 店はもうほとんど閉まっている。


 シャッターに貼られた花火大会のポスター。


 三架町納涼花火大会

 八月三十一日 午後七時より


 日付の文字が、少しだけ二重に見える。


 でも、前ほど怖くなかった。


 そこに、僕たちが向かう意味が変わったからだ。


「ミナト」


「何」


「もし、これが本当に最後の八月二十五日ならさ」


「うん」


「九月一日に、何する?」


 僕は少し考えた。


「宿題」


「現実的すぎて泣ける」


「だって未提出だし」


「九月一日まで生きた感動のあと、読書感想文書くの?」


「たぶん泣きながら書く」


「題名は?」


「『夏が終わる前に、宿題をやれ』」


「売れない」


「厳しい」


 ミカは笑った。


 夜の商店街に、その笑い声が響く。


 生きている声。


 消されていない声。


 僕は、その声をちゃんと聞いた。


「ミカは?」


「私は」


 ミカは少し考える。


「九月一日の朝に、生きてるってメッセージ送る」


「それだけ?」


「それだけじゃないよ」


 ミカは青いヘアピンに触れた。


「学校行って、補習でも何でもいいから、普通に席に座る。ラムネ飲む。ミナトに宿題見せろって言う。レンくんに、ちゃんと寝たか聞く。黒瀬先輩にはちょっと説教する。白石先生には、アイスコーヒーをちゃんと冷たいうちに飲めって言う」


「忙しいな」


「生きるって、たぶん忙しいんだよ」


 僕は頷いた。


「じゃあ、忙しくしよう」


「うん」


 ミカは立ち止まった。


 そして、僕を見た。


「朝倉ミカ」


 自分で、自分の名前を呼んだ。


「生存確認、継続中」


 僕も答えるように言う。


「瀬名湊斗」


「存在確認、継続中」


 二人で、夜の道を歩き出す。


 八月二十五日。


 最後の八月二十五日。


 そう決めたからといって、世界が優しくなるわけじゃない。


 御堂は止めに来る。

 クロノグラフは記録を閉じようとする。

 町は、また誰かを忘れようとするかもしれない。


 でも、もう僕たちは逃げるだけじゃない。


 事故を避けるだけじゃない。


 名前を呼ぶ。


 消された名前を全部。


 夏が終わる前に。


 君の名前を、呼ぶ。

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