マジック&トリック【戯々譚々3】
12 影
では、失礼します、といって道塚は一方的に電話を切った。吉月の顔を見ると、彼はそれでいいという顔を道塚に向けた。更科万理華との電話の最中、道塚がスマホの送話口を塞ぎながら、何か管理人さんのことをいい出したんですけど、というと吉月は、死んだことだけ教えてやれ、といったのだった。
カケヤマシンゴのマンションで管理人業務をしていた建石正智が管理人室で死亡しているのが発見されたのは七月五日火曜日午後二時過ぎ、つまり今日の昼下がりのことだった。マンション内に設置されている自動販売機の横のゴミ箱がいっぱいになっておりゴミ袋を替えてもらおうと思って一人の住人が管理人室に連絡を入れたが一向に繋がらなかったので、その人物は管理会社に直接連絡をしたらしい。ところが、管理会社も管理人の建石に連絡がつかなかったのでその社員がマンションに様子を見にきたところ、管理人室で死亡している建石が見つかったのだった。
「自殺か……」
道塚は、建石が顔を突っ伏して死んでいたテーブルを、改めてリビング入り口から眺めた。死亡していた男がカケヤマシンゴの住んでいたマンションの管理人だったことが分かるや否やカケヤマシンゴの事件との関係が真っ先に疑われたため、カケヤマシンゴの事件を担当している道塚と吉月を含む何名かの刑事たちにも現場に向かうようにと初動捜査から数時間が経った頃に命令が出たのだった。
「自殺とはなあ」吉月は室内をゆっくりと歩きながら唸った。「管理人の爺さんのそばにあったコップの水からは洗剤が検出されたって話だもんな」
「どう見たって自殺ですよね、これは。ただ、このタイミングで自殺ってことは、カケヤマシンゴさんの事件と無関係ってことはなさそうですよね」
「そうだな。ただ、どういう関係なんだ。管理人の爺さんがカケヤマシンゴを殺した犯人だったっていうのか。あの爺さんがか」
「まだ五十七歳ですから、爺さんっていう年齢じゃないですよ」
「白髪で禿げてるし、見た感じは爺さんだろ。ただ、殺人を犯してしまったことを悔いての自殺と考えるにしたって、何でカケヤマシンゴを殺した場所が駐車場だったんだろうな。何でカケヤマシンゴは駐車場で管理人の爺さんと揉めなきゃならなかったんだ」
「そうですよねえ」
この点は、現場に向かうまでの車の中でも既に話題に上っていた。マンションの管理人をしている建石がカケヤマシンゴを殺害した犯人だったとしたら、なぜ殺害現場が駐車場だったのだろうか。
「ただ、一方でですね」道塚がいった。「事件当日の夜に初めて建石さんに会った時、建石さんは狼狽えたり、そうかと思ったら憔悴しきってたりといった様子で、まともに話なんてできる状態じゃありませんでした。もし建石さんがカケヤマシンゴ殺しの犯人なんだとしたら、あの時の建石さんの様子は納得できますね」
「殺害現場がマンションの駐車場で、殺害に使われた凶器は手に届くところにある花壇のブロックレンガって状況からしても、計画的な犯行ではないだろうな。犯人側に殺すつもりはなく突発的に起こってしまった殺人なら、犯人が狼狽えるのも無理はない。あの夜は、管理人の爺さんは既に退勤してたってことでわざわざ来てもらったが、犯人だったのだとしたら、カケヤマシンゴを殺した後怖くなって現場から離れたが、ふらふらしてるうちに電話がかかってきて知らないふりをして戻ってきたってところか」
「それに、カケヤマシンゴさんの死亡推定時刻は午後六時から午後八時の間ですから、退勤前後の午後六時頃に犯行が起こってたとなれば、死亡推定時刻とも合致しますね」
「確かにな。あと、後日もう一度爺さんに話を訊いた時、不審な人物はいなかったと思うといっていたこととも辻褄が合う。自分が犯人なんだから、不審な人物が来てたわけはないんだからな。ただ――」吉月は大きくため息を吐いた。「管理人の爺さんがプロギャンブラーをしている若者を殺す理由って、一体何なんだ」
電話を終えた道塚から報告を聞いた吉月は、なるほどねえ、と苦々しく呟くと椅子にもたれ掛かってそのまま黙り込んだ。道塚は、人を殺す動機としては弱すぎますよね、とため息をついた。
今から五時間ほど前、マンションの管理人をしていた建石が死んでいるという連絡を受けて駆けつけていた初動の刑事たちは、道塚たちが来る前に管理人室内にあるものを参考資料として箱に詰めて持ち帰ったり、マンションの住人に聞き込みをしたりして初動捜査に取りかかっていた。在室していた住人への一通りの聞き込みでは、管理人の建石は穏やかで人当たりがよく、管理人としてマンションの清掃や管理業務をしっかりとこなしていた真面目な人物で、人を殺すなんてありえない、という内容で一致していたし、あるシングルマザーの母親は、管理人の建石がカケヤマシンゴを殺害した可能性はないのかといったことを遠回しに刑事に訊かれると、何いってるんですか、そんなことあるはずないに決まってるじゃないですか、と激高したらしい。彼女のあまりの剣幕に刑事が驚きつつ謝ると、彼女は管理人が自分たち母娘にしてくれたありがたい援助の話を刑事に聞かせたのだった。彼女の小学生の一人娘は週一でバイオリン教室に通っていたが、月謝の値上がりが原因でバイオリン教室を辞めたことがあったという。ある時管理人が学校帰りのその娘に、最近はバイオリンを持って出かけてないね、もうバイオリン教室には行ってないのかい、と声をかけると女の子は言葉を濁していたという。そこで管理人が優しくさらに訊くと、女の子はようやく、実は、と話し出したらしい。今になって考えるとその数日後に当たる日、管理人に呼び出されて彼女が管理人室に行くと管理人は、いつか返せるようになってから返してくれればいいですから、といって、バイオリン教室の月謝を自分に負担させてくれないかと申し出てきたというのだった。
そういった報告を警部補の立場として吉月は聞いていたが、ふと道塚に顔を向けて、そういえば更科さんは何で管理人のことをいい出したんだ、ちょっと訊いてみろ、と指示を出したのだった。
「数千万するイタリアの高級スポーツカーか。確かに二十七歳の若者が乗るには不相応だし、マンションの屋外駐車場に放置しといていいような車じゃないな」
「乗る車が生意気だって理由で、人を殺すバカはいませんよね」
「そりゃそうだ」
吉月はタバコを取り出して一本口にくわえると、さっとライターで火を点けた。他の捜査員はおらず、部屋には吉月と道塚しかいない。
「穿った見方かもしれんが、別のシナリオも考えられるな」
「別のシナリオ?」
ぽつりと発した吉月の言葉に、道塚が訊いた。吉月はふうーっと煙を吐き出した。
「爺さんは、真犯人を知ってた可能性がある」
「え?」道塚はきょとんとなった。「カケヤマシンゴを殺した人間を見たってことですか」
「当たり前だ。それ以外にないだろ」
道塚は一瞬なるほどと思ったが、すぐにおかしいと思った。「でも、それだったらあの日に警察にそう話してくれたはずじゃないですか。でも、そんなこと一言もいってなかったと思いますけど」
「話せなかったんだよ」
「話せなかった?」
「爺さん、真犯人に口封じをされてたんじゃないか」
「まさか……」
「確かに、普通に考えたらいろいろと引っかかるところもある」
吉月は道塚の心中を見抜いたかのように頷いた。吉月は続けた。
「俺の想像はこうだ。あの日カケヤマシンゴは偶然なのか、それとも約束していたのかは知らないが、とにかく午後六時前後に真犯人となる人物と自宅マンションの駐車場で会っていた。で、揉め事が起こって、真犯人はカケヤマシンゴを殺してしまった。偶然それを退勤時に管理人の爺さんは見てしまい、真犯人にどこかに連れていかれ、そこで見たことに関して一切口外しないように口封じをされた。その後、爺さんの元に警察から連絡があって、真犯人は爺さんがいないのでは不自然だと判断して爺さんをマンションに向かわせた。もちろん、絶対に口外しないように十分に脅してから行かせただろう。それで爺さんはここに到着した後もずっと恐怖に苛まれてたから、いかにも憔悴しきってるような雰囲気だったんだ。ただ、時間が経つにつれ、優しい爺さんのことだから、今度は良心の呵責に苛まれて本当のことを警察にいおうと考えるようになっていった。それを何らかの方法で察知した真犯人は、自殺に見せかけて爺さんを殺害した」
「なるほど」吉月の話を吟味しながら聞いていた道塚は静かに呟いた。「ただ、真犯人は管理人に罪を着せる気だったんなら、どうして遺書を用意しなかったんでしょう? 遺書があった方がそれっぽく見せられるし、パソコンで書いたものを置いとけば済む話じゃないですか」
「確かにそれも小細工としてはアリだな。ただ、小細工というものは犯人がするものだから、下手をしたらただ証拠になるものを増やすだけにもなる。マンションに住んでいたギャンブラーが数日前に殺害された、その数日後にマンションの管理人が死んだ、その死体のそばには強アルカリ性の洗剤を溶かした水がコップに入れて置かれていた、その洗剤は管理人室の洗面所にあったもので、その成分は死体からも検出された。これだけの状況証拠があれば、後は警察側で察してくれとしといた方が、犯人としてはリスクを一つ減らした上で十分に誘導はできてると考えたんだとしても不思議ではない」
「いわれてみれば、そうですね」
「それに、パソコンで遺書を書いてプリントアウトすれば確かに筆跡鑑定からは逃げられるが、それでもリスクになりうるのは書く内容だな。下手なことを書いて、それが警察の捜査で明らかになったことと矛盾したら元も子もない。死人に口なし、だ。罪を着せた人間が何かいうわけでもないなら、動機は警察側で見つけてくださいって丸投げにしといた方が安全だろう」
「ナメた野郎ですね」道塚は握った拳に力を込めた。「どんな理由があったにせよ、人を二人も殺すなんて尋常じゃない。どういう神経してやがるんだ」
「真犯人は別にいて、管理人の爺さんも殺されたっていうのは、あくまで俺の想像だ」吉月はタバコの火を消した。「だからこのシナリオには、説明が難しい点もある。もし服毒自殺に見せかけての毒殺だったんだとしたら、管理人の爺さんと一緒にこの部屋にいる間に、犯人は一体どうやってリビングから離れた場所にある洗面所から洗剤を持ち出したんだろうな」
「確かにそうですね」
道塚は先ほど鑑識課から共有された資料を思い出した。強アルカリ性の洗剤が入っていた容器は五〇〇ミリリットルのペットボトルとほぼ同じ大きさで、スプレー式のものだった。あんなサイズのものを、例えばポケットに入れるなどして隠し持ってくるというのは、普通に考えて無理だ。
「まあ、やっぱり自殺か」吉月がいった。「人の心ってのは、分からんからな」
13 開封の儀は月光のもとで
「ん?」
帰宅した岩戸はリビングのテーブルに置かれている小さな二つの封筒を見つけた。どちらもクサガメヤヨイの宅急便からで、そういえば、クサガメヤヨイの宅急便から荷物のお届け完了メールを昼過ぎに受け取っていたのだった。岩戸はカッターのボタンを片手で外しながら、すっとその封筒を手に取った。
「何買ったの?」
ぎくっとして岩戸が振り向くと、リビングの入り口にはいつの間にかすみれが立っていた。
「別に。本だよ、本」
「ふうん」すみれはじっと封筒を見つめている。「本にしては、形おかしくない?」
「あ、いや……本じゃなかった……かな。あれ、何だったっけな」
「えー、怪しい」
すみれはニヤニヤし出した。こいつ、もしかして張ってたのか、と岩戸は思ったが、そもそもこんなところに俺宛ての荷物を置いとくなよ、と母親に怒りを覚えた。何でこんなとこに置いとくんだよと一言いってやりたいところだが、物音からして、どうやら母親は入浴中のようだ。岩戸は高校生の頃、当時ハマっていた魔法使い系の漫画に出てくる美少女マジシャンのフィギュアを雑誌でたまたま目にし、無性に欲しくなったことがあった。そこで岩戸はそれをこっそり注文したが、それが届いたのは運悪く家族が揃っていた日曜日でやむなく家族にバレてしまい、赤っ恥をかいたのだった。それ以来、すみれは面白がって岩戸がネットで買ったものを訊いてくるようになったのだ。岩戸も普段はマジックの小道具をネット通販で買っているので、その時は正々堂々とすみれの前で開封の儀を行っているが、今日届いたものは、一方は別にいいとしても、もう一方は説明が面倒になるに決まっている。別に片方は見せてもいいが、片方見せて、もう一方は見せないというのでは、すみれは確実に怪しむ。それこそエロ本だと思われて、あーあ、お兄ちゃんは、とくすくす笑われるのも癪だ。
「お前、これっていくら兄妹でもプライバシーの侵害だぞ」
苦し紛れに、岩戸は毅然とした態度を装っていい放った。
「いつも見せてくれるじゃん」
すみれは悪びれた様子もなく、無邪気に即答した。おのれ。いつも見せていることがまさか裏目に出るとは。
「分かったよ」岩戸はため息を吐いた。「今度見せてやる」
「今見せてよ。何々?」
「マジックの小道具なんだ。ただ、今見ちゃったら、マジックを見た時に驚きが半減する。だから今は見ない方がいい」
「とかいって、ほんとはヤラシいコスプレした美少女キャラのアクスタとかなんじゃないの?」
「バカか」警戒していた展開なだけに、平静を装って答える。「マジックの小道具だっつうの」
「後で見せられてもねえ」
すみれはニヤニヤして岩戸を見た。
「今まで見せたことない新作のマジックなんだ。だからそれに合わせて買った小道具だし、明らかにこのマジックでしか使わないものだから、今日買ったものだって後で見たって分かる」
「ふうん。じゃあ分かった。ちゃんとマジック見せてよ」
すみれはひとしきり兄をからかって満足したのか、リビングのソファにどかっと座った。
封筒の中身がマジックに使う小道具であることは嘘ではない。ザ・スペードがアンコールで披露した、ランダムなシャッフル後にAを揃えてみせるマジックのトリックを岩戸なりに思いついて構築したのは日曜日のことだった。しかし彼自身、それをまだ本当にできるものかどうかは確かめていない。というのも、あくまで理論上可能であるというだけのトリックだし、そのトリックを試してみるのに必要な小道具を岩戸は持っていなかったからだ。自宅の中を探してみたが、それらしいものは見つからなかったので、岩戸はいつも通りネット通販で入手することにしたのだった。
母親が作っておいてくれた豚の生姜焼きをレンジでチンしてから、岩戸は食卓についた。すみれはニュース番組を見ていたが、ニュースの時間は終わったのか、バラエティコーナーになっている。番組にも出ている女子アナが全国津々浦々の小学校や中学校を訪れ、「すごい!」をテーマに一風変わった才能を持つ少年少女を紹介しているコーナーだ。マジシャンになりたいといってマジックを披露してみせる少年が出てきたこともあったし、動物の鳴き声を完璧に模倣して動物と会話ができるという少女が出てきたりしたこともあった。
「君の特技は?」
女子アナがマイクを向けると、少年はへへへと頭を掻いた。
「英語とかドイツ語、かな」
「すごいっ!」女子アナの顔にぱっと驚きが広がった。「君、バイリンガルなんだ」
「バイリンガル?」少年は首を傾げる。「バイリンガルって何ですか?」
「二ヶ国語を喋れる人のことよ。君、英語とドイツ語が喋れるんでしょ」
「全然」
「え?」
「僕はね――」少年はにやっと笑った。「アルファベットで書いてある文章を見たら、そこに何個のアルファベットが書いてあるのかがすぐに分かるんだ」
「え? 何それ?」
目を丸くしている女子アナの前で、少年は同級生から渡されたプリントを受け取った。彼は速読しているかのように目を走らせていく。
「672文字」
「え? そうなの?」
二十秒もしないうちに少年が答え、女子アナはキョドっている。教員が出てきてプリントのアルファベットを数えていくと、確かに672文字だった。女子アナは「え? え? 何で何で? どうして?」などと驚いていたが、少し落ち着いてから「じゃあ、お姉さんが用意した英文でもやってみてくれる?」と訊いた。少年は頷く。先方が用意したプリントでは、ないとは思うが、イカサマの可能性が残るからだろう。少年は今度はタブレットに表示されている英文に目を走らせていく。
「1023文字かな」
先ほど同様、二十秒足らずで少年は答えた。女子アナが文字カウントをコンピュータに指示すると、『文字数 1023』と表示された。
「へー、すげーな」
テレビの画面を見ながら岩戸は呟いた。
「こういうのって、鍛えてどうとかなるもんじゃないよね」
すみれがいった。
「だろうな。先天的なものだろ。西暦何年何月何日は何曜日ですかって訊かれて即答できるのと同じだろうな」
「どうなってるんだろうね」
「まだ明らかになってないんじゃないのか。ニューロン同士の接続が一般の人とは違ってるような気はするけど」
岩戸はスマホを手に取って、大脳のはたらきで検索をかけてみた。生物学は詳しくないが、大脳皮質、ウェルニッケ野、側頭連合野など、聞いたことがあるような単語が並んでおり、それぞれが分業している機能も簡単に書かれている。
「まあ、研究が進んでいったら、そのうち分かるんだろうな」
岩戸はスマホをテーブルに置くと、豚の生姜焼きを口に放り込んだ。
夕食を終えて岩戸が歯を磨いていると、テレビをつけたまま、すみれはソファでスマホを見ていた。
「何の動画だ?」
すみれの見ているスマホの画面を覗き込んで岩戸が訊いた。
「カケヤマシンゴの動画」
スマホの画面を見たまま、すみれは答えた。
「誰それ? カケヤマシンゴのお父さん?」
「違う違う。何か、カケヤマシンゴの住んでるマンションの管理人さんなんだって」
「へー。管理人さんとギャンブルでもしてるのか」
「違うって」すみれは体を捻って岩戸の方に顔を向けると、ソファの背に肘を乗せた。「管理人のおじさん、カケヤマシンゴがプロギャンブラーで有名なユーチューバーだってこと、前まで知らなかったんだって」
「まあ、自分からいう奴じゃない限り、普通そんなこと知らないだろうな」
「でね、前にこんな若者がこんな高級車乗ってるなんて、ろくな仕事じゃないんだろうなって思ったらしいけど、立派な仕事してるって知って、ごめんごめんだってさ」
「ギャンブラーって、立派な仕事なのか」
「何いってるの? 立派な仕事じゃん。管理人のおじさんだって、こうやってプロのギャンブラーの動画を配信して、子どもたちに新しい世界や職業を見せてやってるなんて君は立派だなあってベタ褒めしてるよ」
「すげえ時代になったよなあ。俺が小学生の頃、こうやって大人になったらギャンブラーで生計立ててく奴が出てくるとか、動画配信で生計立ててく奴が出てくるなんて、考えたことなかったもんな」
「マジシャンだって同じじゃん」
「そうだな。だから、マジシャンなんて諦めたんだな」
岩戸の脳裏に、昨晩のザ・スペードとの会話が蘇った。
――マジシャンを目指して渡米? 首にタトゥー?
そんなかっこいい生き方を想像できる人間だったら、俺もマジシャンになれたのかな、と思った。途端に虚無感が胸に広がる。
歯磨きを終えて二階にある自室に入ると、岩戸は引き出しを開けていくつかのトランプの箱を机に出した。どの箱にも年季が入っており、角はぼろぼろになっている。どれも中学生や高校生の頃に使っていたトランプだ。岩戸はそのうちの一箱を手に取ると、中身を出した。彼は一デックのカードを手に窓辺にもたれかかった。月は満月で黄金色に光っている。岩戸が部屋の明かりを消すと、月光は部屋の中に差し込んだ。
「あの頃に戻れたらなあ」
そんな言葉が、無意識にカードをシャッフルしている岩戸の口をついた。たまにそんなことを思うことがある。
ユーチューブでアマチュアのマジックを見ていてもそんなことは思わないが、プロのマジシャンのパフォーマンスを見ると、そんなことを思うことがあるのだ。
今日は何でそんなことを思うんだろうな――岩戸は自問自答してみた。答えは明白だ。ザ・スペードの生き方を知ったからだ。カケヤマシンゴの存在を知ったからだ。
ギャンブラーにはなれなかっただろうが、マジシャンにはなれたかもしれない。もし彼に、夢を追って挑戦してみるという勇気があったならば。
岩戸の父は電機系のエンジニアで、母は専業主婦だ。父の趣味はテレビゲームと機械いじりで、母の趣味はビーズアクセサリー作りだ。そんな両親は優しく、常識もある。友人の親の中には売れない絵描きもいて母親が生活費を工面しているという家庭もあったし、お金がないから家族旅行になんて行ったこともないという家庭もあったから、岩戸の少年時代は恵まれていて、不自由のないものだったに違いない。しかし、不自由のないことは自由であることと同義ではない。大学に進学しないという選択肢は岩戸自身にもなかったが、大学卒業後、一年ぐらいバイトで食いつないでマジシャンを本気で目指してみようかなと思ったぐらいのことはある。ただ、そんなことを実際にしてみる勇気はなかったし、そんな計画をそれとなく両親に話してみる勇気すら岩戸にはなかった。大学生の頃に、ダメージジーンズにハマり、バイトで貯めた七十万円でダメージジーンズを買おうとしたが、その時の両親の猛反対ぶりは凄まじかった。そんな両親の価値観や人生観からして、息子が大学卒業後に就職しないなんていう選択肢ははなから無かったに決まっている。ただ、今思うと、あの時七十万円でダメージジーンズを買っていたら後悔していたような気はする。あの頃はあんなに好きだったのに、今はまったく興味はなく、ただの古着にしか思えないのだ。
――別にどんな親のもとに生まれたって、俺は俺の性格だったら、無難な人生を歩むんだろうな。
窓から満月を見上げながら、岩戸はいつもと同じ結論に達した。部屋に差し込む月の光はスポットライトのように、机に置かれた小さな二つの封筒を照らし出している。彼は月光のもとで封筒の一つを手に取ると、ミシン目になっている帯のつまみを引っ張った。
14 傾く天秤
朝から続く捜査の合間を縫ってコンビニで買ったサンドイッチを一口齧ると同時、助手席の吉月に肩を突かれた。吉月を見ると、彼はくいっと顎で、外を見ろと合図した。道塚が車の窓から外に目を遣ると、ところどころにメッシュを入れた無造作ヘアの若者がカフェの前で立っているのが見えた。
「来るの早えんだよ」
サンドイッチもまともに食えねえじゃねえか、と思いながら道塚は車を降りた。
「らしいですね。何ていうか、あまりにも突然で、信じられないです」
カケヤマシンゴさんのマンションの管理人さんが亡くなりました、と道塚が本題を切り出すと、滝坂は重い口調で答えた。
「らしいというと、誰かから既にお聞きしていたんですか」
事前の連絡では、ちょっとお聞きしたいことがあるのですが、といっただけで、建石が死んだということは話していなかった。
「はい。更科万理華さんから昨夜聞きました」
あの電話の後か、と道塚は思った。
「あの――」ためらいがちに滝坂がいった。
「はい」
「管理人の建石さんは、殺されたんですか」
そりゃ普通そう思うよな、まさか自殺だなんて考えないよな、と道塚は思った。
「そうだとしたら、何か心当たりでもあるんですか」
横から吉月が訊いた。滝坂は頭を振った。
「そういうわけではないんですが、カケヤマさんが殺されて、続いてマンションの管理人さんが亡くなったとなれば、もしかして犯人に殺されたのかな、と」
「なるほど」吉月は頷いた。「確かにそうとも考えられますね。ただ、建石さんは管理人室のテーブルに突っ伏して、座ったまま亡くなってたんです。しかも、そばに置いてあったコップの水からは、管理人室に置いてあった洗剤と同じ成分が検出されました」
「え?」滝坂の目が凍り付いた。「自殺……?」
「どうなんでしょうね。分かりません」今度は吉月が頭を振った。「仮に自殺だとしたら、建石さんが自殺する動機には心当たりはありますか」
滝坂は凍り付いた眼差しのまま、コップの水を口にした。
「ないです」滝坂は答えた。「建石さんとは、確かに面識はありましたけど、そこまであの人のことを知ってるってわけでもないですし」
「カケヤマシンゴさんの動画にも、一度だけ建石さん、出ていましたよね」
「え?」
吉月の言葉に、滝坂は顔をはっとさせた。
「ほら。一緒にブラックジャックやってる動画ですよ。覚えてませんか」
「ああ! ありましたね、そういえば」
そうなのだ。道塚がカケヤマシンゴの動画をチェックしていると管理人の建石が出ている回を見つけたので、参考までに動画の撮影と編集を担当していた滝坂からも話を聞いておこうという流れになったのだった。そこで今日、二人は滝坂と東京駅近くのカフェで待ち合わせをしたのだった。吉月は道塚にアイコンタクトを送った。
「自殺か他殺かは、我々警察が明らかにしていくことです」道塚がいった。「建石さんに関して、滝坂さんが知っていることを、何でもいいので話していただけませんか」
そうですねえ、と渋面を作ると、滝坂は再びコップの水を飲んだ。
「僕が建石さんと話したことがあるのは、あの動画を撮った日ぐらいだったと思います」
「そもそも、なぜ建石さんがカケヤマさんの動画に出ることになったんですか」
滝坂は数秒ほど考え込んでから口を開いた。「あの日はたまたま、自販機の横で空き缶入れのゴミ袋を取り替えていた管理人さんと、マンションのエントランスで鉢合わせたんです。僕たちはこんにちはといって挨拶してエレベータに乗ろうとしたんですけど、管理人さんの方から、君、カケヤマシンゴだよね、って声をかけてきたんです。で、カケヤマさんがそうですって答えたら、管理人さんは目を輝かせてカケヤマさんにいろいろ話し出したんです。立ち話もなんですからってことで、僕たちは管理人さんに管理人室に通されてお茶をよばれました。管理人さんがマンションの住人と話してる姿は何度か見かけたことがあったんですけど、どうやらマンションの住人の誰かから、ユーチューバーでプロのギャンブラーをしてる若者がこのマンションに住んでるってことを聞いたみたいで、それでカケヤマさんのことを知ったということでした。その時に管理人さんが僕たちに話してくれたことに僕たちは感銘を受けて、今話してくれたことを動画に撮って上げさせてもらってもいいですか、と訊いたら喜んで引き受けてくれたんです。それで、あの回の動画ができたんです」
「そういうことだったんですか」
問題の動画は十五分ほどで、他の動画とは趣きが違っていた。滝坂がディーラーを務め、建石とカケヤマシンゴがブラックジャックで勝負をするというものだった。増やしたチップで勝敗を決めるという変則ルールだったが、勝負は当然のようにカケヤマシンゴの勝利に終わった。ゲーム後は建石がカケヤマシンゴに抱いた尊敬の念やどんな職業も夢を与えうる立派なものだということを熱く語るという構成になっており、全然面白くないというのが道塚の正直な感想だ。ただ、再生回数を見てみると、他の動画と比べても少々少ないというぐらいで、それなりには見られているようだった。カケヤマシンゴのファンなら、こういう動画を見ても楽しめるのかもしれない。
「動画の中で建石さん、カケヤマさんのことを絶賛してましたよね。建石さんも、ギャンブルは好きだったんですか」
「そういうわけではなかったと思います。『casino de magician』とか、近場のカジノを紹介したんですけど、管理人さんは社交辞令的な反応で、大して興味を持ってるふうではなかったですから。管理人さんとしては、ユーチューブの動画を通して、カケヤマさんが知らない世界を皆に見せてるっていうのが、とにかくすごかったんでしょうね」
確かに動画内で、建石は熱い口調でそんなことを話していた。
「親が子どもにできることは――」吉月がいった。「せいぜい機会を与えてあげることぐらい、そのためにはお金が必要。そんなことを建石さんは動画で話してましたよね。確かにそうだと思います。プロギャンブラーに限らず、動画を通してこんな職業があるんだって子どもが知ることは今の時代多いでしょう。それがきっかけで子どもが何かに興味を持ってそれを習いたいっていい出しても、そこに通わせるだけの経済的余裕が親になかったら、子どもには機会すら与えられませんもんね。それに、その逆も然りで、たとえお金があっても、子どもが何か夢中になれるものに出会えていなかったら、親としても機会のあげようがない。動画を通して世界に自分のしていることを発信することも素晴らしいことですし、親にしっかりした経済力があることも素晴らしいことです」
道塚の隣でそう語る吉月の顔は、いつもより穏やかに見える。奥さんが妊娠したという話は聞かないが、吉月は結婚して以降、時々子どもの教育観について話し出すことがある。
「そうですね」滝坂は虚空を眺めて息を吐いた。「管理人さんのそういう考え方は、管理人さん自身の人生が影響してるんじゃないかと思います」
「え?」道塚が反応した。「どういうことですか」
「今思い出したんですが、そういえばあの動画を撮った後、管理人さんとカケヤマさんがえらく意気投合して、僕も含めて飲みに行ったんでした。その時に、管理人さんがご自分の話をしてくれたんです。管理人さん、あのマンションの管理人になった頃に、奥さんと離婚してたんですよ」
「そういう話ですね」道塚が答えた。「実は今日の昼過ぎに、管理人さんの元奥さんと娘さんとには会ってきたんです」
「そうでしたか」
道塚たち捜査員は、昨日建石が死亡して以降、彼の身辺調査をし、彼の元妻、娘には聞き込みをしていたのだった。
「じゃあ、娘さんとはお話をされたんですね」滝坂が訊いた。
「はい。我々からの連絡で初めてお父さんが亡くなったことを知ったので、聞いた時にはさすがに呆然とされていました。ただ、しばらく間を置いてから我々が警察の人間として聞き込みを申し出ると、終始寂しげな様子ではありましたが、気を持ち直して話してはくれました。まあ、大したことは聞けませんでしたがね。いいお父さんでした、とかいってるぐらいで――」
「え?」滝坂がぱっと目を見開いた。
「どうかしましたか」
「娘さん、管理人さんのことをいいお父さんだといってたんですか」
「はい。そういってました」
道塚が同意を求めて吉月を見ると、彼もこくりと頷いた。
「そうだったんですか。管理人さん自身は、娘は私のことを恨んでるでしょうねっていってたんですけどね」
「そんなことをいってたんですか」
「あの時には、寂しげにそんなことをいってました。娘さんって、女子プロレスラーなんですよね。ええっと、何ていったかな」
「アンドレーナ・優姫じゃありませんか」
「あっ! そうそう!」思い出した様子で滝坂が手を叩いた。「アンドレーナ・優姫だ」
道塚自身、アンドレーナ・優姫という名の女子プロレスラーのことは今日の今日まで知らなかった。しかし、ネットで検索をかけてみると、彼女に関する情報は驚くほど存在していた。どうやら、つよカッコかわいい、ということで、従来の女子プロレスファンはもちろんのこと、それまで女子プロレスには興味のなかった人たちをも女子プロレスの虜にし、女子プロレスへの世間的な関心を高めることに一役買った人物らしい。確かにアイドル顔負けのかわいい顔をしており、道塚もネットでアンドレーナ・優姫の顔を見た瞬間、かわいいと思ったのは事実だった。
「管理人さんがいうには、奥さんが娘さんの意思をちゃんと尊重してやったからこそ、娘さんは女子プロレスラーになれたのであって、もし奥さんがいなかったら、女子プロレスラーになる未来は娘さんにはなかったということでした。管理人さん、女子プロレスラーになりたいっていう娘さんの夢が原因で、娘さんとは絶縁状態になってしまったんだそうです」
「そうなんですか」
初耳だった。そんな話はアンドレーナ・優姫からはまったく聞いていない。
「どうやら、娘さんはそこまでは話してなかったみたいですね」
道塚と吉月の顔を見て、滝坂がいった。彼は続けた。
「娘さんは小さい頃から格闘モノのゲームや映画が好きだったみたいで、いつの間にかテレビでプロレスも見るようになってたんだそうです。それで彼女が小学校高学年の頃、ある日夕食の席でお父さんに話があるといって、女子プロレスラーになりたいからジムに通わせてほしいといってきたんだそうです。管理人さんとしてはそんな話は青天の霹靂で、娘さんのことは目に入れても痛くないほどに可愛がっていたし、だからこそかわいい女の子、女性らしい女性になってほしくって、娘さんが保育園に入る前からピアノ教室に通わせたりしてたのに、そんなプロレスなんか始めたら、かわいい顔が台無しになってしまう、そんなバカなことはあり得ないとしか思えず、聞いた直後に即却下したんだそうです。その日以降娘さんは度々ジムに通わせてほしいと根気強くお願いしてきたんだそうですが、やがて娘さんも限界に達して、お父さんの人生じゃなくてあたしの人生じゃない、と怒鳴ったんだそうです。その時は管理人さんも、お前はまだ子どもだろ、そんなものやって一生残るような傷ができたら一生後悔するのはお前だぞ、俺はお前の為を思っていってるんだ、何で分からないんだ、と怒鳴り返してしまったといってました。その日以降、父娘の関係は冷戦状態になってしまったらしいですが、管理人さんが驚いたのはその数ヶ月後で、何と娘さんがジムに通っていることを突然知ったんだそうです。管理人さんが慌てて奥さんに訊くと、奥さんが許可して奥さんがお金を出したという話でした。それを知ったら今度は奥さんにも腹が立ったそうで、その金は誰が稼いできた金だ、俺が稼いできた金だろう、といって奥さんを責めたら奥さんはすぐにパートを始めて、奥さんとの関係も一転してしまったということでした」
「なるほど……」道塚はため息を吐いた。「ありそうな話ではありますけど、実際にそんなことが自分が当事者の立場で起こったら、遣る瀬無いですね」
「ですよね」滝坂の目にも哀れみの色が浮かんだ。「聞いた時は、僕もそう思いました。管理人さんとしては、プロレスなんかやって一生残るような傷を作るリスクを冒すなんて馬鹿げてるとしか思えなかったそうですけど、今になって思うと、リスクを避けるんじゃなくて、やりたいことにリスクが伴うんならそのリスクに対してどう対策するかを考える方がよっぽど大事だという奥さんの考え方の方が娘の為になってたんだといってました。ただ、そう思うようになったのはここ最近のことらしくて、結局奥さんとの関係も修復できずに離婚、娘さんとも気まずくてその話はできずに絶縁状態になってしまったそうです。だから管理人さんとしては、娘から見たら、自分の父親はいつまで経っても自分のことを認めてはいないし、自分の職業を良く思ってもいない、そんな人間にしか見えてないんだろうってことでした」
「辛すぎますねえ」
道塚が返す言葉に困っていると、隣で吉月がいった。道塚は黙ったまま頷いた。
滝坂の話を聞くと、昨夜マンションの住人から聞いた建石の人柄とも一致するし、何より、ただ自分が管理人をしているマンションの住人であるというだけで見ず知らずのシングルマザーの娘の習い事の費用を建石が自ら買って出ていたという話に納得がいった。昨夜この話を聞いた時にはただのお人好しだと思ったが、これは建石なりの罪滅ぼしだったに違いない。
「ところで――」吉月がいった。「建石さんはマンションの管理人を始める前、システムエンジニアをされてたみたいですけど、どうしてマンションの管理人に転職されたんですかね」
「それですか」滝坂の顔に、ふっと笑みが浮かんだ。「実はそれ、僕も建石さんにあの夜訊いたんですよ。話の中で僕が昼間はSEの仕事をしてるって知ったら、建石さんが実は私も以前はSEだったんですよと教えてくれたんです。それで僕がなぜマンションの管理人にと訊いたら、人を知りたかったからだといってました。僕もそうなんですけど、SEやってる人って、人とのコミュニケーションが苦手な人って多いし、何かと効率性を重視しがちなんです。建石さんがいうには自分自身まさにそんな人だったらしく、それで妻や娘ともあんなことになってしまったんだと。もしもっと人の心や気持ちに気遣える人間だったら、あんなことにはならなかったんじゃないかと思ったそうで、人と関われる仕事ということで、マンションの管理人になったんだといってました」
「そういうことでしたか」道塚は胸が詰まる思いがした。「でも、そうだとしたら、転職した価値は十分にあったんじゃないですかね」
「そうだと思います」
滝坂は道塚の言葉に寂しげに頷いた。
滝坂と別れてから、二人の刑事はコインパーキングにとめていた車に乗り込んだ。食べさしのままダッシュボードに置いておいたサンドイッチを見ると、齧ったところが変色している。道塚はサンドイッチを他のゴミと一緒にコンビニのビニル袋に入れ、その口をしばった。
その時だった。吉月のスマホが着信を告げた。吉月は電話に出ると、えっ! そうなんですか、はい、分かりました、などと相槌を打ちながら話していたが、すぐに用件は済んだらしい。吉月は電話を切った。
「誰からですか」
「本部長からだ。鑑識から報告が上がってきて、カケヤマシンゴの事件の時に採取した指紋と、建石さんの事件で昨日採取した指紋の中に、一致するものがあったらしい」
「それじゃあ……」
「つまり、そういうことだろうな」吉月は道塚の目を見た。「最悪のシナリオの方に傾いた。建石さんは自殺したんじゃない。殺されたんだ」
15 待ち合わせはあのカジノで
万理華がザ・クラブのテーブルを見つけると、そこには既にすみれの姿があった。万理華が近づいていくと、ザ・クラブが彼女に気づいて微笑んだ。つづいて、すみれも振り返った。
「万理華さん」すみれがいった。「すみません。いきなり誘っちゃって」
「いいのよ全然。わたし、元々来る予定だったし」
「あれ?」
すみれが万理華の連れてきた男性を見て小さく声を上げた。男性の方も同じようにすみれを見て、あなたは確か、といった。
「え? 卜部くん、すみれさんのこと知ってるの?」
万理華は卜部を見た。
「知ってるというか、こないだここでブラックジャックをしてた時に同じテーブルだったんだ」
「そうなの?」
万理華は今度はすみれの方を見た。すみれは頷いた。
「何だ。万理華さんのお友達だったんですね。だからブラックジャック、強かったんだ」
「そんなことないですよ」椅子に腰かけながら卜部が答えた。
「卜部くんね、シンゴの動画はほとんど見てたらしいの」横から万理華がいった。「だから強いのかも」
「それはあるかもね。千葉の奴、プレイだけじゃなくて解説もうまかったからなあ」
「この人――」チップに両替しながら万理華がザ・クラブにいった。「わたしの中学の時の同級生なんです」
「ああ、それで『千葉』呼びなんですね」ザ・クラブは卜部を見た。「ということは、カケヤマさんとも同級生ってことですよね」
「ええ、そうです」
卜部は一万円札をザ・クラブに差し出した。
すみれから、明日『casino de magician』に行きませんか、と誘われたのは昨夜のことだった。行くこと自体には問題なかったが、偶然万理華は卜部からも、よかったら気晴らしにカジノゲームしに行かないか、と誘われており明日行くことにしていたので、そのことをすみれに伝え他の日を提案すると、万理華さんのお友達なら大丈夫ですよ、という返事が返ってきたのだった。
第一ディールのチップがベッティングスペースに出揃い、ザ・クラブがカードをすみれ、万理華、卜部の順に配り始めた時、すみれが少しテーブルに身を乗り出して「卜部さん」といって彼を見た。
「何ですか」
「卜部さんもここにはよく来るんですか」
「いや、全然ですよ。というか、こないだ来た時が初めてだったんです。いいカジノですよね」
「ありがとうございます」ザ・クラブがすかさずいった。
「でも、他のカジノには行ってるんですよね」
「え。そうですけど、何でそんなこと……」
断定的にいうすみれに卜部は少し驚いたような顔をした。すみれはスタンドの意思を示しながら笑った。
「分かりますよ、それくらい。だって、プレイに慣れてるっていうだけじゃなくって、カジノ慣れしてるって感じでしたもん」
「じゃあ、何でここに来ようって思ったわけ?」
二人の会話を間で聞いていた万理華は、ヒットで追加されたカードを見ながらいった。
「何でっていわれても困るけど――」卜部は思案げに顔を傾げた。「ここって、千葉がよく使ってたカジノでしょ。だから一度行ってみたいなって前々から思ってはいたんだよね」
「カケヤマシンゴさんとは面識あったんですか」すみれが訊いた。
「中学の時は友達だったけど、まあ、大人になってからはたまに連絡するぐらいの仲だったかな」
それを聞いて万理華が笑った。
「どうかした?」
「中学の時はともかくさ、大人になってからシンゴと卜部くんが連絡してるって想像できないんだよね」
「どうして? だって、僕も千葉もブラックジャックとかポーカーは好きなんだから、連絡ぐらいしてたって別におかしくはなくない?」
「それはそうだけどさ」
「それに、千葉の話を聞くのは楽しかったんだ」
「え? 電話もしてたの?」
「それこそほんとにたまにだけどね」
「あーあ。あたしだけ負けか」
万理華が話に気を取られているうちに第一ディールの勝敗は決し、負けたすみれが一人でぼやいた。カードを見ると、卜部と万理華は勝っていた。ザ・クラブのハンドはアップカードだったクラブの5、そしてダイヤの4とスペードの9で十八であり、他方で卜部のハンドはダイヤの8、スペードの4、スペードの8で二十だった。ベーシックストラテジー通りの順当なプレイといえる。
「シンゴの話っていったって、ゲームの話ならユーチューブのチャンネルで話してることと変わらなくない?」
万理華はチップをベッティングスペースに置きながらいった。
「まあ、そうはそうなんだけど、やっぱり動画で綺麗にまとめられたのを見るのと、電話で直接話すのとじゃあ全然違うよ。何ていうか、千葉のしてる仕事の楽しさっていうのかな、そういうのが全然違う。千葉の動画を見てると、ブラックジャックとかポーカーって楽しそう、やってみたいなって思わせるけど、仕事としてのギャンブラーになりたいとはそんな思わないんだよね。でも、何かあいつと話してると、なれるもんならギャンブラーになってみたいなって思うんだよね」
「ああ、それは分かるかも。シンゴ、すごいいつも楽しそうに話すからね」
「卜部さんは、何の仕事をされてるんですか」
二人の会話にすみれが入ってきた。卜部は彼女の方を見た。
「僕は介護関係の仕事です」
「その言い方は語弊があるんじゃない」
「語弊?」
ハンドを睨みながら呟くすみれの横で、万理華は卜部を見た。彼は、そうかな、といって薄笑いを浮かべた。万理華はすみれの方に顔を向けた。
「卜部くん。結構やり手の社長さんなのよ」
「えっ、社長さんなんですか!」
咄嗟にすみれは卜部の方を見た。
「まあね」卜部は照れたようにすみれの視線から顔をそらせた。「でも、大したものじゃないですよ。まだ操業したばっかりですし、従業員だってそんなに多くはないんですから」
「そんなことないですよ。起業するっていうだけで、十分すごいです」
「そうですよ、お兄さん」ザ・クラブもいった。「私なんかは、絶対にそんなことは考えないですからね」
「ザ・クラブさんはいいじゃないですか。こんな特技があるんですから。こんなふうにカードを華麗にさばくなんて、誰もができるってものじゃないじゃないですか」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
二人の男性が話している間にすみれはスタンドし、ターンは万理華に移った。彼女のハンドはクラブの7と8で十五だ。ザ・クラブのアップカードがスペードの3なので、彼女はスタンドした。
「そうなんだよね」頬杖をついて万理華がいった。「シンゴを見てると、何かちょっと羨ましいなって思うこと、あるんだよね」
「そうだったの?」
卜部は自分のターンにもかかわらず、万理華の方を見た。万理華はこくりと頷いた。
「昔、シンゴにそういったことあったんだよね、『何か、シンゴが羨ましい』って。そしたらシンゴ、不思議そうな顔してさ、『僕からしたら、万理華の方が羨ましい』っていうんだよね。わたしは学生時代結構勉強できた方だったけど、シンゴは真面目なんだけど不器用で、あんまり勉強はできなかったんだよね。勉強が苦手なことはたまに自分でもいってたけど、何かそれがわりとシンゴの中ではコンプレックスになってたみたいで、『僕は勉強ができなかったから得意なことを磨くしかなかったんだよ』ってその時真顔でいってたんだ。わたしからしたら、何の特技もなくて勉強しかできなかったからこうやって生きてるってだけの話なのに、シンゴにはそう見えなかったんだろうね」
「更科さんも……そんなこと思ってたの?」
目を丸くして卜部がいった。その表情を見て、「え?」という言葉が万理華の口をついた。
「『隣の芝生は青く見える』とは、よくいったものですね。お兄さん、どうします?」
ザ・クラブの言葉に、卜部ははっとして手元を見た。卜部は手元のハンドを見てヒットした。ザ・クラブが一枚のカードを卜部に差し出した。そのカードはハートの9だった。
「あ」
卜部がぽつりといった。彼の元々のハンドはダイヤの4とクラブのJで十四だった。卜部はバーストした。
16 マジック&トリック
「ちょっと一服してくる。それから行こう」
「分かりました」
午前中の捜査会議の後、吉月はタバコを吸いに外に出ていった。
この後、道塚と吉月はカジノを回ることになっている。滝坂の話では建石がカジノに行っていた可能性は低そうだが、念のための確認というわけだ。吉月を待つ間、道塚は自分のデスクでコーヒーを飲みつつ、鑑識課から提出された最新の報告書を手に取った。先ほどの捜査会議で配られた資料だ。
カケヤマシンゴの事件の時に採取された指紋はいくつかあったし、建石の件で採取された指紋もいくつかあった。その中から被害者自身の指紋を除いても、一つだけ両件に共通する人物不明の指紋が見つかったのだった。報告書によればその指紋は、カケヤマシンゴの事件の時には彼の乗っていた黒のスポーツカーの右ヘッドライト付近のボンネットから検出され、建石の件の時には管理人室内のリビング入り口となっているドア枠の、床から高さ百七十五センチ前後のところから検出された、となっている。自殺か他殺かが不明の建石の件は、殺人事件であることが確定的なカケヤマシンゴの事件と共通する指紋が出てきたことで一気に他殺の可能性が増したわけだが、分からないことは依然として多い。管理人室内から問題の指紋は検出されたので、犯人は建石が気軽に管理人室内に入れてしまうような人物とも考えられるが、どこか別の場所で建石を殺害してから、彼の持っていたマスターキーで管理人室内に入ったという可能性も否定できない。マンション内に防犯カメラはあるが、それに映らないように通ろうと思えば通れてしまうので、あまり参考にはならなさそうだ。
「よし。行こか」
タバコから戻ってきた吉月が道塚に声をかけた。いつの間にか考え事に耽っていた道塚は急に我に返って、はい、と返事をした。
「どのみち分からんことが多いなあ」
車が走り出して数分もしないうちに、助手席で吉月がため息を漏らした。ちょうど同じことを考えていたので道塚は、そうですねえ、と応じた。
「爺さんの件が他殺なら、二人を殺した人物は十中八九同一人物だろ。だとしたら、やっぱり管理人の爺さんはカケヤマシンゴが真犯人に殺される現場を見てて、口封じをされてたんだろうな。カケヤマシンゴを殺した犯人が時間差を入れて管理人の爺さんを殺すとしたら、そうとしか考えられん」
「こないだ吉月さんがいってたことですよね。口封じに失敗してたんだとしたら、その場で建石さんも殺されてたはずだし、そもそも見られていないんなら、カケヤマシンゴを殺した犯人が建石さんを殺す理由がないですもんね」
「そういうことだ。ただ、カケヤマシンゴが殺された七月一日金曜日から、管理人の爺さんが殺された七月五日火曜日までの管理人の爺さんの同行はだいたい明らかになってるが、ちゃんと出勤してちゃんと帰宅してっていういつも通りのルーティーンだったみたいだ。一体何があったんだ」
「建石さんを殺さないといけない理由が、犯人側に生じたってことですよね」
「だろうな。おそらくそれは口封じが効かなくなったってことだろうが、ただ、第二の殺人を冒すのはあまりにもリスクがありすぎる。実際、第二の殺人を冒したことによって、こうやって警察側に犯人候補の人物の指紋が上がってきたわけなんだからな」
「犯人が同じ人物なら、建石さんの件は毒殺ってことになりますから、やっぱり洗剤の動きは解決しなきゃいけないですね」
「そうだなあ」吉月は渋面を浮かべて腕を組んだ。「まあ、顔でも洗ってくるっていやあ洗面所に行くことはできるけど、そもそもあんなボトル容器の洗剤をどうやって隠し持ってリビングに持って行ったのかがさっぱり分からん」
「それに、仮に持っていけたとしても、今度はどうやってコップの飲み水に入れるんだって話ですよね。まさか、目の前でプシュッてスプレーするわけにもいかないし」
今朝の捜査会議と報告書では、強アルカリ性の洗剤についても言及された。建石の遺体のそばにあったコップの水から検出された洗剤の成分が、遺体の体内からも検出され、その洗剤が勤務時間中に建石が滞在していた管理人室の洗面所に置かれているものであったことは事件当日の夕方には明らかになっていた。しかしその後、その洗剤の入っていたスプレー式のボトル容器を詳細に調べてみると、スプレーのレバーには指紋を拭き取った痕もあったが、その上からははっきりとした建石の指紋が検出されたのだった。普通に使っていてもスプレーのレバーを拭くことはあるので指紋の拭き取り痕があるからといって犯人による証拠隠滅とは即断できないし、他方で、指紋を拭き取った後のレバーに死んだ建石の指を触れさせて偽装工作が行われた可能性もあるので、レバーから検出される最新の指紋が建石のものだからといって、やっぱり自殺だったともいえないのだ。
道塚は今回の捜査で、この数日のうちに数回カジノには足を運んでいるが、朝の時間帯にカジノに来たのは今日が初めてだ。夜に来ると照度の低い室内と独特の電飾、スロットマシーンが放つ光によっていかにも大人の遊び場といった雰囲気だが、午前中のカジノには妙な清涼感が漂っており、リゾート地のホテルに来たような錯覚を道塚は覚えた。
「おはようございます」
道塚と吉月が『casino de magician』に足を踏み入れるなり、ピットボスの桂木が二人を出迎えた。来ることだけは伝えてあったので、待っていたのだろう。
「おはようございます」二人の刑事は挨拶を返した。
「今日も何かおありでしょうか」
「実はですね――」
道塚は桂木に、カケヤマシンゴの住んでいたマンションの管理人が死亡したことを掻い摘んで話した。話を聞いている間、桂木は終始険しい表情をしていた。
「この人物なんですがね、このカジノで見たことはありませんか」
道塚は建石正智の写真を桂木に見せた。桂木は数秒ほど写真を凝視した。
「見覚えはないですねえ。ただ、もし当店をご利用されたことがあったのでしたら、プレイヤーズカードはお作りになられてるはずです。ちょっと調べてみましょう」
「どうもありがとうございます」
桂木に連れられて、二人はカジノの奥にあるカウンターに案内された。カウンターにいた和装の女性に、桂木は事情を説明しだした。女性は事情を理解すると刑事に、その方のお名前をフルネームで教えていただいてもよろしいですか、と訊いた。道塚は彼女に建石正智の名前を告げた。彼女は手元のコンピュータにその名前を打ち込んだ。
「登録はございませんね」
和装の女性はコンピュータの画面に目を走らせながらいった。
「やっぱり来てなかったか」
吉月が道塚の後ろでぼそっと呟いた。
「ただ――」彼女がいった。「ご自身はプレイされなくても、お知り合いの方に付き添って来られる方もいらっしゃいます。そういう方でしたらプレイヤーズカードは持ってませんので、こちらでは把握できません」
道塚が、どうします、という顔を向けると、吉月は一歩前に出た。
「防犯カメラの方、見せていただいてもいいですかね」
カウンターの女性には答えようがなかったのだろう。彼女は桂木の方を見た。
「大丈夫だとは思いますが、少々お待ちください。確認して参ります」
「ここの防犯カメラなんて見て、どうするんです?」桂木が立ち去ったところで、道塚は女性スタッフには聞こえないように吉月に話しかけた。「このカジノに目星がついたんならともかく、そういうわけでもないですよね」
「まあな」吉月も苦々しく表情を歪めて潜めた声で答えた。「ただ、二人の被害者の共通点は今のところ、マンションとカジノぐらいだろ。で、マンションの方の捜査は結構進んでるが何も出てこない。じゃあ次に探るとしたら、カジノってことになる。時間の無駄に終わる可能性も高いが、まあ、次の予定までの時間潰しだな」
二人は今日の午後七時にはアンドレーナ・優姫と会うことになっていた。彼女とは昨日も会っていたが、昨夜滝坂から聞いた話もあるので、もう一度アンドレーナ・優姫には話を聞いておいた方が良さそうだということになったのである。そこで道塚が彼女に今朝連絡を入れると、彼女は今日は夕方以降しか時間が取れないとのことだった。また、アンドレーナ・優姫からも、大したことではないが話したいことがあるとのことだったので、今日中に話を聞けるようにしたのだった。
桂木が確認を取った結果、二人はすぐに防犯カメラをチェックさせてもらえることになった。道塚と吉月は従業員に案内されて、モニターの敷き詰められた部屋に入った。
「いつのを見ますか」
カジノのシステム関係を担当しているという専門の従業員が二人に訊いた。
「いつのを見ましょう?」道塚は吉月を見た。
「難しいところだな」吉月は顎髭をさすった。「いつまで遡って見られるんですか」
「すぐに見られるものでしたら、直近の一ヶ月分です」
一ヶ月なら丁度いいかもしれないなと道塚は思った。あまりにあり過ぎても見切ることができないし、一ヶ月分なら夕方までに確認できそうだ。
「じゃあ、とりあえず爺さんが死んだ前日の七月四日から順に遡ってみていくか」
道塚と吉月が手分けして防犯カメラに記録された映像を見ていると、しばらくして吉月が「おっ!」という何やら陽気な声を上げた。
「どうしました?」
「ほら。あのディーラーだ」
吉月が指さした映像を道塚は覗き込んだ。そこにはザ・クラブが映っており、何人かの女性客を相手にカードを扇状に広げている。道塚はまさかと思ってザ・クラブの手元を見ていると、さっとスナップを効かせたように見えた。その後、彼と向かい合っている女性客たちは驚いたように沸き立った。
「このディーラー、このマジック誰にでもやってんだな」吉月はニヤニヤと笑った。
「ああ、ザ・クラブさんですね」女性従業員が映像を覗き込んでいった。「このディーラーさん、ゲームの途中にたまにマジック挟んだりしてて、人気なんですよ」
そんな二人の横で、ある発想が道塚の頭に浮かんだ。
「もしかして、あれってフェイクだったか……」
「何?」吉月が鋭い目で道塚を見た。
「すみません。ちょっと確認したいことがあるんで電話してきます。すぐ戻ります」
おい待てよ、という吉月の言葉を後に、道塚はモニタールームから駆け出した。
17 星に願いを
昼食を買いに来たスーパーで二メートルほどの笹に短冊が吊るされているのを見て、岩戸は今日が七夕だったことを思い出した。笹の横にはテーブルが置かれ、その上にはいろいろな色のサインペンと短冊があり、「短冊に願い事を書いて、笹の葉にお掛けください」と書かれている。短冊を見ると、子どもが書いたと思われる、野球がうまくなりますように、という無邪気な願い事もあれば大人が書いたと思われる、プロポーズが成功しますように、という切実な願い事まであり、神様も大変である。
岩戸は気まぐれを起こして一枚の短冊を手に取り、トレイからサインペンも取った。サインペンのキャップを外した瞬間、「あ」と思った。適当に取ったサインペンは黒色で、短冊は赤色だった。赤い紙に黒の文字で書いても読みにくいので、彼は数色ある短冊の中から薄緑色のものを改めて取り出した。
その時だった。岩戸の頭の中で、ザ・スペードがマジックを披露したあの夜の彼女の振る舞いと、科捜研の同僚が話していたことがパズルのピースのように繋がるような感覚が生じた。岩戸の中で時が止まり、彼は頭の中で本当にこの二つのピースは嵌まり合うのだろうかと考えた。
「嵌まる……」
思わず彼の口から洩れた声は震えていた。気づけば手も震えており、サインペンが微かに揺れている。
激しい興奮は岩戸の全身に徐々に広がっていき、彼はサインペンをトレイに戻すと、その手をポケットに突っ込んだ。すると、彼のスマホも震えていた。震える手でスマホを取り出して画面を見ると、相手は道塚だった。
「もしもし。どうした?」
「岩戸か!」という道塚の勢い込んだ声が聞こえてきた。岩戸は驚いて、「何だよ、どうしたんだよ」と答えた。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけどさ――」
「何だ?」
「こないだそっちで、洗剤を調べてもらったんだよ」
「ああ、強アルカリ性の洗剤だよな。知ってるよ。あれ、調べたの俺だからさ」
「え? そうだったのか」
「そうそう」
二日前にマンションの管理人をしていた男性が死亡した件で強アルカリ性の洗剤に関する成分分析の依頼を、科捜研は受けていた。物質の成分分析に関することだったので、担当したのは化学専門の岩戸だった。
「じゃあ話は早い」道塚がいった。「実はあの件、他殺の可能性があるんだよ」
「そうか」
「何だよ。驚かないのか」道塚の声が白けたようにすぼんだ。
「驚かないってわけじゃないけど、なるほど、やっぱりか、てのが正直なところかな」
「どういうことだよ?」
「断言はできないけど、洗剤での服毒自殺にしては何か不自然だなあとは思ってたんだ」
「そうだったのかよ!」道塚の声が再び勢いづいた。「じゃあいってくれよ」
「いや、変に先入観を与えるようなこといったらまずいだろ。それに、俺も確信があるってわけじゃないし」
「まあな。で、岩戸としてはどんな点で不自然だなあって思ったんだ」
「そうだなあ」
岩戸の頭は今もなおマジックのことで半ば興奮状態になっているので、成分分析した液体のことを想起するために少し頭を整理してから続けた。
「まず、自殺する時に洗剤を使う場合、原液のまま飲むのが一番確実な死に方だ。ただ、原液のままじゃ飲めたものじゃなくて反射的に吐き出す可能性はあるから水で薄めたんだとしても、あの洗剤自体、もともと拡散係数がそんなに高くなくて水と混ざりにくいし、実際試料を分析したところ、ちゃんと混ざった形跡がなかったんだ。原液で飲まずにわざわざ水で薄めようとしたんなら、普通はちゃんと混ぜるだろう。では、なぜちゃんと混ざっていなかったのか――」
「混ぜることができなかったから――か」
「そうだ」道塚の察したようなつぶやきに岩戸は同意した。「犯人がいて、例えばスポイトなんかに予め洗剤を入れといて、瞬時に被害者の隙を突いてスポイトの洗剤をピュッと入れたんだとしたら、混ぜることができずにああいう状態になるんじゃないかなと思うんだ」
「なるほど」
岩戸の推理に、道塚はいかにも腑に落ちたといった声で相槌を打った。
「他殺で考えてるってことは、犯人の目星もついてるのか」
「いや、それはまだだ」
「何だよ。じゃあ、まだまだじゃないか。容疑者でも上がってきてるんなら家宅捜索でもして調べるものが出てくるからあれだけど、それもないなら、ちょっと詰めようがなくないか」
「まあな。ただ、参考になった。また何かあったら聞くからよろしくな」
そういって道塚は一方的に電話を切った。
てかあいつ、カケヤマシンゴの方の事件担当なんじゃなかったっけ、とスマホを見つめながら岩戸は思った。
18 ラストゲームはブラックジャックで
「まだ電話はしてないってことでしたけど、どうするつもりなんですか」
万理華の運転する真紅のスポーツカーの助手席ですみれがいった。
「それは、話してから決めようかなって思ってる」
万理華はルームミラーですみれを見た。彼女は横目に、通り過ぎていく都会の風景を眺めているようだった。
「あたしが万理華さんと初めて会った時、万理華さん、『どんなことがあったら、人は人を殺すんだろう』っていってましたよね。覚えてます?」
「もちろん」万理華は口元に笑みを滲ませた。「昨日の夜、すみれさんから電話をもらった後、わたしもまたそんなことを考えてたのよ」
「あたしはあの時、この問いの答えができてなかったんですけど、今はできてます。『どんなことがあったら、人は人を殺すんだろう』っていう問いに対するあたしの答えは、『地位や名誉とかプライドが傷つけられて、自分のアイデンティティや幸せが脅かされた時、やむを得ず人は人を殺す』です」
「そうかもね」
すみれの答えを聞いているうちに、万理華の顔から柔らかな笑みは消えていった。万理華がそれ以上何もいわずにいると、すみれもそれ以上は何も話さず、万理華は黙って目的地へと愛車を走らせた。
IR施設の駐車場に愛車をとめると、二人はIR施設内にあるホテルに向かって歩き出した。その途中で、万理華の足が止まった。
「どうしたんですか?」
すみれが訊いた。万理華は、あれ、と指さした。
「ああ、自販機」
それはトランプのデックを売っている自販機だった。カジノ用からマジック用までいくつかのメーカーのカードの箱がサンプルとしてショウウインドウに並んでいる。万理華は千円札を入れた。
「えっ? 買うんですか?」
「何か、何となく欲しいなって思っちゃった」
不思議そうに見るすみれに、万理華はてへっと愛らしく笑顔を作った。
二人はホテルに到着すると、三階のフロントを通り過ぎて円テーブルが互いに数メートルの距離をおいて置かれているロビーに向かった。万理華はロビー内を見渡したが、卜部の姿はまだないようだ。
「まだ来てないみたいですね」すみれがいった。「隅っこのあそこのテーブル、ちょうど空いてますよ。あそこにしましょうよ」
「そうね」
二人がロビーの隅にあるテーブル席でコーヒーを飲んでいると、数分もしないうちに卜部が現れた。
「お待たせしちゃったみたいで、すみません」
卜部は二人の顔を見ながらそういうと、円テーブルに設けられている四つの椅子のうち、万理華の真向かいの席に腰を下ろした。
「こっちこそごめんね。忙しいのに、仕事帰りに呼んじゃってさ」
「いやいや。却ってありがたいぐらいだよ」パリっとアイロンのきいたカッターシャツ姿の卜部はにこっと笑った。「立場上残業って概念がないからさ、誰かとの予定でも入ってない限り、無限に仕事しちゃうんだよね。で、話って何だい?」
卜部には何の心当たりもないのか、彼は人のよさそうな笑みを浮かべたまま、話を切り出した。万理華としては、本当は少し雑談をしてから本題に入りたいところだった。
「ちょっと話にくいことなんだ」万理華はいった。「だからさ、いったんゲームしない?」
「え?」
卜部とすみれの声が重なった。二人は万理華の顔を唖然とした面持ちで見ている。
「何かこんな話、卜部くんにしていいのか、実は自分でも分かんなくてさ――」万理華は力なく笑った。「ゲームしながら考えたいなって、思ったんだ」
万理華はバッグから先ほど自販機で買ったカードの箱を取り出した。そっか、本当はやっぱりわたし、こんな話したくないんだ、と万理華は思った。十分ほど前の自分は無意識にその時間を先延ばしにする口実を探していて、それで直感的にカードを買ったに違いない。
「じゃあ、ブラックジャックでもしようか」卜部がいった。「一デックでやるブラックジャックも、何か面白そうだしな」
「じゃあ、あたしがディーラーしますね」
そういったすみれに、卜部がさっと左手を出して制した。
「岩戸さんには悪いですけど、このゲームは僕と更科さんの二人だけでやらせてほしいんです」卜部は万理華を見た。「ディーラー無しで、互いのハンドの比べ合いだけで勝敗を決めるシンプルなブラックジャックだ。二十一を超えない範囲で互いのハンドの強弱だけを競おう。ヒットかスタンドかだけで、スプリットとかそういうのも無しにしよう」
すみれは万理華の方を見た。彼女は何かを感じ取ったのか、そうですね、といって万理華に微笑みかけた。
「賭け代なんだけど」箱のシュリンクを剥きながら卜部がいった。「こうしない?」
卜部の言葉に、万理華は思わず彼の顔を見た。卜部は楽しげに笑みを浮かべている。
「更科さんが勝ったら、更科さんの話っていうのを話すか話さないかは更科さんが自由に決めてくれていい。で、僕が勝ったら更科さんの話っていうのを聞かせてほしい。やっぱり僕としては、昨日帰るなり更科さんからラインが来て、話したいことがある、なんていわれたからには気になって仕方がないからね」
「それでいいの?」万理華がいった。「何か、不公平な気がするんだけど」
「どうして? 全然不公平なんかじゃないでしょ。勝ったら勝った側が好きにできるんだからさ」
「じゃあこうしようよ。わたしが勝ったら、卜部くんはわたしの質問に答える。これでどう?」
「分かった。それでいこう」
卜部は相変わらず優しげな笑みを浮かべて頷いた。
その後、万理華は卜部とディールの勝利条件を確認し合った。その結果、ゲームスタート時の先攻と後攻はじゃんけんで決め、それ以降は先のディールの敗者が先攻となり、デックが尽きた時点で勝ったディール数の多い方がゲームの勝者となる、ということに決まった。
「そうだ」デックをシャッフルしながら卜部がいった。「ハンドは公開する?」
「そうねえ」万理華は顎に手を添えてテーブルに肘をついた。「一デックでハンド公開にしたらカウンティングし放題になるけど、一対一のゲームならカウンティングで読み合いがスリリングになるから、ゲームとしてはより面白くなるわね。ハンドはオープンでいかない?」
「それも一理あるね。でも、公開するハンドはアップカードの要領で互いに一枚だけにしても面白くないかな? どうせショウダウンで全部のカードが公開されるわけだし、それならショウダウン前には互いに一枚だけ相手のハンドが分かってるっていう状況の方が面白そうじゃない?」
「確かにそれもそうね」卜部から差し出されたデックを受け取って、シャッフルしながら万理華は頷いた。「じゃあ、そうしようか」
「よし。決まりだな」
万理華はシャッフルしたデックを、円テーブルの中央に置いた。
じゃんけんの結果、万理華が先攻になった。万理華、卜部の順にデックからカードを引き、それぞれのテーブルの上に表向きにして置いた。万理華のアップカードはダイヤの3、卜部のアップカードはハートの4だ。続いて、万理華、卜部の順に一枚ずつカードを引き、互いに相手には見えないようにして手に持った。万理華のもう一枚のハンドはスペードのJだった。
「スタンド」
万理華は即答した。それを聞いて卜部の口元に笑みが滲んだ。
「アップカードが4でスタンドか。てことは、ハンドは十二以上なのかな」
「もしベーシックストラテジー通りにわたしがプレイしてたら、ね」
万理華はドキッとした。自身のハンドが十三なので反射的にスタンドを選択したが、いつもと違って相手にはこちらのハンドは非公開情報になっている。ならば、ブラフを張るという観点から即断しない方が良かったのだ。
「じゃあ、僕もスタンド」
卜部は数秒考えてから宣言した。二人はハンドを公開した。
卜部のハンドはクラブのJだった。
しまった、と万理華はしでかした過ちを悔いた。
ブラックジャックにおいて最大値のカードは十一とも見なせるAである。そして、Aの次に強いカードは絵札と10である。互いにハンドが二枚の時、アップカードの数字が大きい方がほぼ勝ちになるのは少し考えれば当然だった。今の場合、万理華の3に対して、卜部のアップカードは4であり、卜部から見たら万理華のホールカードを最大値となるAと仮定しても万理華のハンドは十四であり、自身のホールカードが絵札か10ならば引き分けになり、Aならば勝ち確定なのだ。
「僕の勝ちだから、更科さん、先攻だよ」
卜部は手のひらで万理華にカードを引くように示した。万理華、卜部の順でデックからカードを引いた。第二ディールの万理華のアップカードはスペードのK、卜部のアップカードはクラブの7だった。万理華、卜部の順でホールカードとなるカードをそれぞれ引いた。万理華の引いたカードはスペードの4で、ハンドは十四になった。ベーシックストラテジー通りにプレイすればヒットとなるし、ランニングカウントは0なので複雑に考えることもない。万理華は大きく息を吸って、そして吐いた。
「教室じゃないけどさ――」万理華がいった。「カジノじゃないところでブラックジャックしてると、何か懐かしい気分にならない?」
「そう?」卜部はきょとんとした。
「わたしはなるなあ、何か」
そういいながら万理華は左手の人差し指でテーブルを突きながら、デックからカードを一枚引いた。見ると、クラブの5だった。万理華は手のひらを左右に揺らしてスタンドの意思を示した。それを見た卜部はヒットといって、カードを一枚ハンドに加えた。
「中学の時、クラスでこうやってブラックジャックとかしてたけどさ」ハンドを見つめている卜部の前で万理華がいった。「まさか大人になってもクラスメイトとあの頃と同じことやってるなんて、想像もしなかったよね」
「確かにそれはそうだ」卜部はハンドから顔を上げて万理華を見た。「ましてや、プロになって有名になる奴が出てくるなんて、本気では誰も思ってなかっただろうしね」
卜部はヒットといって、もう一枚カードを引いた。
「じゃあ、スタンドで」
二人は互いのハンドを公開した。卜部のハンドはクラブの7、ハートの3、ハートの7、スペードの2で十九だった。
「あちゃー、プッシュか」
勝てると思っていた万理華の口から、思わずそんな言葉が漏れた。卜部も苦笑いを浮かべている。
「てか、十七でよくヒットしたね」
「まあね」卜部はため息まじりに笑った。「カウント的には0だったし、さっき勝ってたから、賭けに出てみたんだ。2を引いた瞬間勝ったと思ったんだけど、まさか引き分けとはね」
「それはこっちのセリフ」
再び万理華の先攻となり、万理華、卜部の順でカードを引いた。万理華のアップカードはクラブの10、卜部のアップカードはクラブの2だった。それぞれもう一枚ずつ引き、カードを見た万理華は反射的に胸の内で高鳴った感情を押し殺した。万理華のホールカードはクラブのAで、ハンドはナチュラルブラックジャックとなった。
「昨日ブラックジャックしてた時に、シンゴが勉強できなかったこと、コンプレックスに思ってるって話したの、覚えてる?」
「覚えてるけど」
「わたしさ、シンゴから聞いてそれを知った時、『大人になったら、勉強できたこととか勉強できなかったことなんてどうでもよくない?』っていったんだけど、シンゴには気休めにしか聞こえなかったみたいなんだよね」
万理華はスタンドの意思を示した。
「まあ、勉強できた更科さんにいわれても、そうなるんじゃない?」
卜部は軽い調子で半ば笑いながら、人差し指でテーブルを突いてデックからカードを一枚引いた。
「でも、それっておかしくない?」
「え? おかしい?」
「だって、考えてもみてよ。大人になったシンゴはさ、プロギャンブラーになって何億ってレベルで稼いでたし、たまにはメディアにも出たりして、まさに富も名声も手に入れてたわけなんだよ。そんな状態なのに、たかが学生時代に勉強できなかったことなんかにコンプレックスを感じて気にするなんて、何かおかしくない?」
「それはそうかもしれないけど」卜部は再びヒットの動作をしてデックからカードを引いた。「千葉が実際にそう感じてたんなら仕方ないんじゃない。じゃあ、スタンド」
万理華と卜部は同時にハンドを公開した。
「え! ブラックジャック!」
万理華のハンドを見るや否や、卜部が声を上げた。すみれも横で、「うわあ、綺麗に決まったあ」と感嘆の言葉を漏らした。
「ランニングカウントがプラス3だったから、強気にヒットしてたんでしょ」
「すごいな」卜部は感心した様子で万理華を見た。「あんなに関係ないことしゃべってたのに、カウンティングしてたんだ」
「鍛えられてるからね」
それまでとは先攻後攻が逆転し、今度は卜部、万理華の順でデックからカードを引いた。卜部のアップカードはスペードの6、万理華のアップカードはダイヤの5だった。それぞれ一枚ずつカードを引くと、卜部は早速ヒットした。
「別にこんなこと、いつも考えてたってわけじゃないんだけど――」万理華はホールカードがハートの5だったのでヒットしながらいった。「つい昨日のことなんだけど、ふとその理由が分かったような気がしたんだ」
ヒットしたカードはハートのJだった。万理華は続けた。
「シンゴみたいに人の目に晒される立場の人って、わたしみたいな勤め人とは違って、公私の違いが否応なく意識にのぼる時っていうのがあったんじゃないのかな。シンゴのことをカケヤマシンゴとしてでしか知らない人といる時は、実力も富も名声もあるギャンブラーとしてでしか見られてないっていうのはシンゴにも分かるから自信をもってられるけど、昔の友達とか、例えば休日にわたしと過ごしてる時とかは千葉伸吾っていうシンゴのもう一つの面も知ってる人と会ってるわけでしょ。そういう人には、彼のギャンブラーじゃない面――昔勉強ができなかったこととか、話下手だったこととかが知られてるわけじゃない。そんな時にふと意識にのぼっちゃうんじゃないのかな、自分は勉強ができなかった、本当はちっぽけな人間なんだって」
万理華は、スタンド、と付け加えた。
二人はハンドを公開した。
「ふう。負けか」
卜部は苦笑いを浮かべたまま肩を落としてため息を漏らした。彼のハンドはスペードの6、スペードの7、ダイヤの10でバーストしていた。二人は何もいわず、次のハンドを揃えた。卜部のアップカードはスペードの3、万理華のアップカードはダイヤのQだった。
「何か――」デックからカードをヒットしながら卜部が口を開いた。「そういう話をされると、切なくなるな」
「どうして?」
卜部はもう一度ヒットした。「千葉のことが羨ましいなって、実は思ってたんだ」
卜部はそういうとスタンドの意思を示した。万理華は一枚ヒットした。万理華のハンドは、ダイヤのQ、クラブの3、ダイヤの4で十七になった。
「卜部くんなんて、勉強もできたし、今は社長さんじゃない。何でシンゴなんかが羨ましいのよ」
万理華はきょとんとした顔をつくってスタンドの動作をした。
互いのハンドが公開された。
「あ、負けた」
万理華がいった。卜部のハンドはスペードの3、ハートの2、ハートのA、ダイヤの2で十八だった。
「別に中学の時はそんなことはなかったんだ」ハンドをそれぞれ揃えていた時卜部がいった。「中学の時、千葉は僕にとってはただのいい友達だった。こういうゲームの話もできたし、何の話をしてたかなあ、まあ覚えてないけど、とにかく付き合ってて楽しい奴だった」
万理華は卜部の話を聞きながらスタンドの意思を示した。アップカードがクラブのKで、ホールカードがダイヤのJではスタンドするしかない。卜部はヒットした。
「スタンド」
卜部が宣言するや否や、二人は互いにハンドを公開した。
万理華は卜部のハンドを見て、「マジ!」と驚いた。卜部のハンドはダイヤの6、スペードの5、ハートのQで二十一だった。
「絶対勝てると思ったのに」
「何しろ、カウンティングがプラス8だからね」卜部は切なげな面持ちのまま口元で笑った。「一枚の数字がかなりでかくなってるな」
「今、何勝何敗だっけ?」
「万理華さんが二勝で、卜部さんが三勝です」
横からすみれが答えた。
「あー、そっか。さっき連続で勝ったから、リードしてるような気になってただけか」
万理華、卜部の順でカードを引き、二人はハンドを作った。
「だいぶカードが減ってきたね」卜部がいった。
「そうね。もうあと数ディールで終わりになりそうね。じゃあ、スタンド」
「僕もスタンドだ」
双方がハンドを公開すると、二度目のナチュラルブラックジャックで万理華の勝ちだった。
「ここからはまともなゲームに収束してきそうだな」ハンドのカードを使用済みの山札に重ねて卜部がいった。「今のディールで一気に大きいカードが消費されたからね」
卜部と万理華は交互にデックからカードを引き、ハンドを作った。卜部のアップカードはクラブの9で、万理華のアップカードはクラブの8だった。
「スタンド」
「スタンド」
二人はそれぞれのホールカードを相手に公開した。卜部のカードはハートの8で、万理華のカードはスペードの10だった。
「よしっ! リードした」
「多分、このディールで終わりかな」
すみれが横からデックを見ていった。確かにデックは、残っていて後十枚あるかどうかといった薄さになっている。
卜部、万理華の順でアップカードを公開すると、卜部のアップカードはクラブの6、万理華のアップカードはスペードの8だった。
賭けの内容からして、万理華はゲームに勝とうが負けようが、卜部に伝えたいことは伝えられそうだ。気乗りしないことを先延ばしにする口実として始めたブラックジャックだったが、やるからには勝ちたいな、と万理華は思った。話しながらとはいえ、卜部もきっちりカウンティングしており真剣勝負になっている。万理華は、勝ちたい、勝って聞きたい、と思った。
デックの残りからして、このディールに勝てば万理華は勝ちきれるだろうし、逆に卜部からしたら、このディールに勝って引き分けに持ち込みたいと考えていることだろう。卜部を見ると、彼は真剣な眼差しで自分のハンドを睨んでいる。万理華は手にしているホールカードをしげしげと眺めて、それをくるりと上下でひっくり返した。
「ヒット」
卜部はカードを一枚引いた。
「卜部くん」万理華がいった。「スペードのAは持ってる?」
「え?」卜部が唖然とした顔を万理華に向けた。
「持ってないみたいね」万理華の顔から思わず笑みが漏れた。「わたしの勝ちね」




