魔法が存在する世界線【戯々譚々2】
4 小悪魔女子は数えない
「あーあ、遅くなっちまったなア」
カジノを出て岩戸が腕時計を見ると、時計の針は十時二十四分を指していた。約一時間ブラックジャックをプレイしていた計算になる。
「でもいいじゃん。楽しかったんだし」歩きながら、隣ですみれがいった。「たまにはカジノもいいでしょ」
「てかお前、あのディーラーといちゃいちゃしすぎだろ」
「かっこいいんだからしょうがないじゃん」
「あんな男と付き合うなよ」
「何でよ」
「何でよってお前、まさか付き合ってんのか?」
驚いて岩戸はすみれを見た。
「付き合ってないよ。そんな簡単に付き合えるわけないじゃん」
ムッとした顔で答えるすみれを見て、岩戸は少しほっとした。
「そうか。ただまあ、カジノで働いてる男なんだ。たぶん、お前以外の女にもああいう甘いこといってるに決まってる」
「いいことじゃん、それ」
「は? 何で?」
「だって、それって仕事ができるってことでしょ。カジノディーラーなんだから接客が上手いってことは大事じゃん。それにあのチップさばきとカードさばき。ディーラーってかっこいいよね~」
「ううん……まあ、確かにな」
確かに、ザ・クラブのカードさばきとチップさばきには純粋に見惚れてしまうものがある。ただ、岩戸の頭の中で華麗にカードを扱う人物はいつの間にかザ・スペードに変わっていた。アンニュイな表情が似合う端正な顔立ちに、艶やかな黒髪、そしてあのスタイルの良さ。
「まあ確かに、たまにはカジノもいいよな」
「今お兄ちゃんさあ――」すみれは目を細めて岩戸を見た。「あのマジシャンのこと考えてたでしょ」
「あ、アアあのマジシャンって……」思わず声が上ずる。
「ザ・スペードさんに決まってんじゃん。話す時に髪が乱れてないか気にしちゃってさ、思いっきり意識してるのがバレバレだよ。お兄ちゃんのタイプだもんね、ああいうミステリアスな感じの美人」
「何でお前に俺のタイプが分かるんだよ」バツの悪さを感じつつ、岩戸は髪に手をやった。
「分かんない方がどうかしてるって」すみれは悪戯っぽく笑った。「お兄ちゃんが高校ん時に付き合ってた御池さんもミステリアスな感じの和風美人だったし、大学ん時に付き合ってた須藤さんも中東系の顔立ちのエキゾチックな美人だったじゃん。ザ・スペードさんもそれ系だよね。おまけに、お兄ちゃんと同じでマジックが好きだし話合うじゃん」
「失礼なこというな。ザ・スペードさんはマジックが好きなんじゃなくて、マジックのプロだ。俺なんかとは格が違う」
「ううん……確かにそれだと大変だ。付き合ってる間ずっと嫉妬しちゃって、上手くいかなそう」
「余計な心配しなくていい。付き合うことはない」
「でもあの人、お兄ちゃんに気がありそうだったじゃん」
「え! マジ!?」岩戸は思わず言葉を発した。
「だって、ご飯食べてる時にわざわざ声かけてきたじゃん」
「それは観客だった俺たちがたまたまいたからだろ」
「たまたま自分のステージを見てくれた観客がいたって、普通わざわざ声なんかかけないって。それにあの、あざとい男の誘い方。あーあ、ざーとらし」
「何だよそれ」
「気づかなかったの? 鈍いなア」すみれは人を小ばかにしたような調子でため息を吐いた。「ブラックジャック、誰かと一緒にやると楽しいですよね、あたしも友達を誘って久しぶりにブラックジャックやろっかなあ、あ、でも皆忙しいか、って、思いっきり誘ってるじゃん」
「そう……なのか」
半信半疑を装って相槌を打ちながらも、実はあの時岩戸も一瞬そんな気はした。すみれがいなかったら、じゃあ一緒にしませんか、といっていたかもしれない。岩戸は思わず鼻の下を人差し指でさすった。鼻の下が伸びているような気がしてならない。
「確かめにまた行かなきゃね」
「別にそんなこと確かめる必要はない」
「え? 確かめなくていいの?」すみれが驚いた顔で岩戸を見た。「だって、気になって仕方ないっていってたじゃん、あの最後のマジック」
「そっちかよ!」岩戸はまんまとハメられて声を上げた。「そっちは気になってるわ」
「でしょ。だからまた行かなきゃだね」
「当たり前だ」
幸い『casino de magician』はすぐに行ける。岩戸の住んでいる場所から『casino de magician』までは乗車時間二十分かかるかどうかの電車一本で、家から最寄り駅までも徒歩五分、駅から『casino de magician』のあるIRまでも徒歩十分ちょっとなのだ。
「それにしても、全然損しなかったなあ」
ICカードの残高が数百円になっていたので、岩戸はチャージしようとして財布から現金を取り出しながら呟いた。
「まあ、ブラックジャックしかプレイしなかったからね」すみれがいった。「それに、ベーシックストラテジー見ながらプレイしてたじゃん。よっぽどのことがない限り、大損なんてしないよ」
「いつも勝ってんのか?」
「いつもってわけじゃないけど、累計したら利益出てると思う。ザ・クラブさんなんて、ホストクラブに行っても会えるかどうか分かんないレベルのイケメンなのに、行けば行くほどお金がちょっとずつ増えてくんだから、もうあたし幸せ♪」
この日岩戸とすみれは五千円をチップに換えて一時間ブラックジャックをプレイした結果、岩戸は四千四百円を、すみれは六千二百円を換金場所で受け取った。
週末の金曜日なので座席のシートはほとんど全て埋まっていたが、午後十時半過ぎという時間帯のせいか電車内は大して混んでおらず、二人は優先席横のスペースで立っていることにした。電車の窓から見える風景は真っ暗で、窓ガラスには吊革につかまる二人の姿が映っている。
「あの男だけどさ――」岩戸がいった。
「あの男?」すみれはきょとんとした顔を向けた。
「ほら、一緒にブラックジャックやってた男だよ」
「ああ、あの人。あの人がどうかしたの?」
「あいつ、カウンティングしてたんじゃねえのかな」
「当たり前じゃん」平然とした顔ですみれは答えた。「カウンティングしてたに決まってるじゃん、あんなの」
「何だ、お前気づいてたのか」
「でも、ありゃ大したカウンターじゃないね。カモフラージュそんなに上手くないし、ベットの仕方が露骨。そこら辺の学生カウンターの方が全然上手いよ」
「学生カウンター? 何だ、それ」
「大学生のカードカウンター。今日もそれっぽいの何人かいたじゃん」
「そうなのか?」
「まあ、今日が初めてじゃ分かんないか」
「大学生からカジノに足運んでんのかよ。どうしようもねえな」
「何で? 稼いでるんなら全然いいじゃん」
「稼いでんのか?」
「カウンターなんだから当たり前じゃん。頭のいい大学生の一部で流行ってて、結構稼いでる子たちもいるみたいだよ。ブラックジャックなんてプレイヤー側の期待収益率が一.五%ぐらいだから、カウンティングできる能力があるんならパチンコなんかでお小遣い増やすより断然確実性があるもんね」
「一.五%か」岩戸は頭の中で計算してみた。「ん? じゃあ、お前の今日の千二百円の儲けって、めっちゃすげえじゃん!」
「そうよ。あたし、すごいでしょ」
得意げにすみれはふふんと鼻を突きだした。
「まさか……お前もカウンティングしてたのか?」
妹のことが急に恐ろしくなって岩戸は訊いた。
「あたしはしてないよ。してるわけないじゃん。カウンティングなんかしてたらザ・クラブさんとおしゃべり楽しめないじゃん。それにカウンティングしてることがバレたら、出禁喰らっちゃうんだよ。そんなことしたら、ザ・クラブさんに会えなくなっちゃうじゃん」
「そうか」
昔からすみれは三つ年上の兄のことをからかって楽しむところがある。どこまで本当なのかたまによく分からないが、カウンティングをしない理由を聞く限り、どうやら本当にカウンティングはしていないと判断できそうだ。岩戸は何だかほっとした。あれだけディーラーといちゃいちゃおしゃべりをしながらカードカウンティングをしていたとなると、特上レベルのカモフラージュだ。すみれは男性が席を立って以降、岩戸も赤面するほどザ・クラブに言い寄るようなおしゃべりを続けていた。
「カウンティングしてないのにあんだけ儲けるって、今日はついてたんだな」
「本気でいってるの?」
「え?」
見ると、すみれはニヤニヤ笑っている。
「ゲームの必勝法が一つしかないなんて、あり得ないでしょ」
「何かしてたのか、お前?」
「ザ・スペードさんのことはあんなに見てたのに、あたしのことは全然見てないのね」
「そういういい方やめろ。だいたい、ザ・スペードさんを見てたんじゃない。彼女のマジシャンとしての手元を見てたんだ」
「はいはい」すみれはあしらうように手をはらった。「じゃあちょっと訊くけど、お兄ちゃんは何であの男の人がカードカウンターなんじゃないかって思ったの?」
「そりゃあ何ていうか、あの人がここぞって時に勝ってたから、かな」
「そう。つまりはそういうこと」すみれは顔の前で人差し指を突き立てた。「あたしがこの人もしかしてって最初に思ったのは、あの人がダブルダウンした時かな」
「ダブルダウンした時?」岩戸は早すぎないかと思った。「ダブルダウンぐらい、ブラックジャックやったことある人ならするだろ」
「まあね。でも、ちょっと思い出してみてよ。あの人、あたしたちの一ディール目が終わったところですぐに来たでしょ」
「ああ、そうだったな」
「カードカウンティングをするんだったら、デックの使い始めからカウントしないと意味ないでしょ。偶然を装ってたまたまあたしたちのテーブルが空いてたら来たみたいな雰囲気出してたけど、多分あの人、ちょっと離れたところから一ディール目のカードを全部見てて、且つ、デックが卸し立てなのも確信したから、あたしたちのテーブルについたんだと思う」
「そうか!」岩戸にもピンときた。「だからあの人、カジノの柱んところに突っ立って、ブラックジャックのテーブル見てたのか」
「やっぱりね」すみれも納得げに頷いた。「カウントがプラスに傾いてなくても、確かあの時のハンドは十だったから、無条件にダブルダウンしても何の問題もない。だけど、あの人がゲームに参加してきた時のことを思い出したら、もしかしてって思ったんだ」
「なるほどなあ」
「で、あたしがこの人絶対カウンティングしてるって確信したのは、あの人がスプリットした時。あの時、あの人一気に青いチップを山積みにしてベットしてたでしょ」
「あっ! そうそう! そうだった!」
岩戸も思い出して手を叩いた。一ディールに二万円も賭けていて、そんな大金でスプリットするなんて正気かと目を疑ったのだった。
「8、8だったかな? 8、8でスプリットするのは別に不思議じゃないけど、ベット額はハンドが配られる前に決めなきゃ駄目でしょ。自分のハンドが分かる前から大金を賭けれるなんて、カウンティングしてて自分に有利な状況が来るって分かってたからに決まってるじゃん。多分あの時、カウントが大きくプラスに傾いてたんだと思う」
「お前、めちゃめちゃ詳しいな」
今まで知らなかった妹の一面を知った気がして、岩戸は話の途中から半ば呆気に取られていた。
「半年もカジノでブラックジャックやってたら、誰だってこうなるよ」
「半年も通ってるのか」
「で――」すみれはニヤリと口角を上げた。「この人は信用できるなって思ったんだ。だからあたしは、この人がたくさんベットしてるなら自分もたくさんベットしようと思って、それ以降のディールであの人に合わせてチップを多くしたんだ」
「なるほどなあ」岩戸は合点がいって深くため息を吐いた。
「あの人、腕時計なんかチラッと見て、さも時間だからみたいな感じで席立ってたけど、本当はこれ以上やってるとカウンティングがバレると思って切り上げたんだろうね。日本のカジノはカードのカウントとプレイヤーのベット額をリアルタイムで解析してるみたいだから、あんまりカウンティングしてるとデータでマークされて、カードカウンターとして追い出されちゃうかもしれないからね。あーあ。でもいいカモだったから、もうちょっとやっててほしかったなあ」
こいつ、顔に似合わず怖えこと考えてるな、と岩戸は思った。確かにすみれは堅実なお嫁さんになるかもしれないが、人の行動からこんなに推理を働かせられる嫁ではちょっと他の女性にうつつを抜かしていたらすぐにバレてしまいそうだ。
カードカウンティング――それはブラックジャックの必勝法として確か大学の教授が構築した理論のことだ。岩戸も中学生の頃、放課後に教室でクラスメイトとブラックジャックをやっていて、その時にやたらブラックジャックが強い同級生から聞いたことがあった。ベーシックストラテジー、カードカウンティング……そんな懐かしいワードを、ブラックジャックのプレイ中に久しぶりに思い出したのだった。岩戸はスマホで『ブラックジャック ベーシックストラテジー』と検索をかけた。
ブラックジャックは個々のプレイヤー vs ディーラーの勝負で、ハンドの和が二十一を超えることなく、二十一により近づけた方が勝ちというシンプルなゲームだ。デックは当然シャッフルされるので、何のカードがハンドとして自分に回ってくるのかは完全に運だ。完全に運ということはそこに戦略はないのかというと、そうではない。そのことは、バカラで確実に稼ぐギャンブラーは少ないのに、ブラックジャックで確実に稼ぐギャンブラーは一定数おり、カジノでブラックジャックをプレイしていたら出禁を喰らったという話が存在することからも分かるだろう。
ブラックジャックでは、10、J、Q、Kの四種類のカードはどれも十として扱う。このルールから分かる事実は、十と見なすカードを引く確率は他の数字のカードを引く確率よりも高いということだ。したがって、確率論的に最も有利なプレイができれば勝率を上げられるということになる。この発想から、ベーシックストラテジーと呼ばれる最も基礎的なブラックジャック必勝法が生まれた。ザ・クラブがくれたベーシックストラテジーの紙にはヒットとスタンドのパターンしか記載されていなかったが、検索してみると、ダブルダウンとスプリットのパターンが記載されているバージョンも存在していた。
ベーシックストラテジーが有効なのは、今日のすみれのプレイを見ていても分かる。男性のカウンティングに気づき、一時は戦略的にプレイしていたようだが、男性が席を立って以降、すみれはザ・クラブといちゃいちゃおしゃべりしながらプレイしていたにもかかわらず、序盤で大きく稼いだ儲け分を最後まで失うことはなかったし、隣で見ている限り結構な回数を勝っていた。
ベーシックストラテジーだけに基づいてプレイしていても、岩戸自身の成績からも分かるように大きく損をすることはないだろうし、そこそこ勝ちを味わいながらブラックジャックを楽しむことはできるだろう。しかし、ベーシックストラテジーはあくまでカード五十二枚がきっちり揃った一デック当たりの数字の割合に基づく確率を参照しているため、ゲーム中刻々と消費されていくカードによるリアルなデック変化は考慮できない。そこで、ゲーム中のそのようなデック変化、例えば、やたら絵札ばかりが続いて出る状況下と絵札が全然出てこない状況下とではどのようにプレイを変えたら勝率を上げられるのかを追求したのがカードカウンティングというテクニックである。ベーシックストラテジーに基づくプレイに慣れてくると、直感的に、表ではヒットになってるけどスタンドした方がいいんじゃないのか、などと考えてしまう場面に出くわす。実際、岩戸も終盤ではそうだった。
ベーシックストラテジーに続く第二の秘儀・カードカウンティングのシステム自体はシンプルである。サイトを見る限り、何パターンか数え方はあるようだが、
2、3、4、5、6のカード……「プラス1」でカウント
10、J、Q、K、Aのカード……「マイナス1」でカウント
7、8、9……ノーカウント
で数えていくのがスタンダードらしい。例えば五十二枚の一デックでブラックジャックを始め、自分のハンドが2と7、友人のハンドがQと6、アップカードが2という状況なら、0からカウントを始めて、2でプラス1だからカウントはプラス1、7でノーカウントだからカウントはプラス1のまま、Qでマイナス1だからカウントは0、6でプラス1だからカウントはプラス1、2でプラス1だからカウントは現状でプラス2ということになる。
そして、
カウントが現状プラスの時は、デック内における10、J、Q、K、Aの割合が大きくなっている。
カウントが現状マイナスの時は、デック内における10、J、Q、K、Aの割合が小さくなっている。
ということが分かるため、リアルタイムでのデック状況に応じて、ベーシックストラテジーに基づく戦略に、ロジカルな裏付けのある修正を加えてプレイすることが可能になるというわけだ。
友人からこのカードカウンティングの話を聞いた中学生の時、友人はその場でカードカウンティングの技術を披露していた。
岩戸は胸ポケットからカジノの自販機で買ったトランプを取り出して、電車の窓にもたれ掛かった。そして、箱からカードを取り出した。
「どうしたの?」
目の前で、カードの山札からカードを一枚ずつ左から右に送っていく岩戸を見てすみれが訊いた。岩戸は答えない。
「0になった?」
岩戸が最後の一枚のカードを右手に送ったところですみれが再び訊いた。
「間違ったっぽい。マイナス2だわ」
「貸して」
手を差し出したすみれに、岩戸は山札を渡した。すみれも岩戸の隣にもたれ掛かった。そして、カードを左から右に一枚ずつ送り出し始めた。
「はい。0」
「すげえなお前」岩戸は苦笑いを浮かべてすみれを見た。「カウンターになれるじゃん。三十秒もかかってないぞ」
「あたしはやればできる子なの。ま、しないけど」
プラス1でカウントするカードは五種類、マイナス1でカウントするカードも五種類、ノーカウントのカードは三種類なので、十三種類×四スートからなる一デックを全てカウントすると最終カウントは0になる。岩戸も中学生の頃、カードカウントできるってかっこいいなあと思って少し練習していたが、三十秒以内に正確にカウントできるようにはなれず、マジックの方に夢中になっていたこともあって、いつの間にかカウントの練習はしなくなったのだった。
「バカなことしないでよ、お兄ちゃん」
「バカなこと?」
「カウンティングだよ」
「ああ、カウンティングね」
「今度ザ・スペードさんに会ったら、ブラックジャックに誘おっかなって思ってたんじゃないの」
「思ってねえよ、そんなこと」
思ってはいたが、思っていたとはいえない。
「ザ・スペードさんはマジシャンとはいってもカジノの人間なんだからね、カードカウントなんかしてブラックジャックをプレイする人間なんて嫌いだと思うよ」
「そういうもんなのかねえ」
「そんなことより、気になってるマジックの種明かしでもやってあげた方が、絶対胸キュンだって」
「それはハードル高けえなあ」岩戸は苦々しく笑った。
「いいじゃん。さりげなく通い詰める口実ができて」
「だからそういういい方はやめろ」
「何で? いいじゃん。あたしだってザ・クラブさん目当てで行ってるんだし、兄妹で仲良くカジノに通い詰めてさ、恋もギャンブルも楽しんじゃおうよ」
「お前なあ……」
自宅最寄り駅の改札を出ると、ふっと夜風がそよぎ、岩戸の前髪を吹き上げた。
「あ。思い出した」
「何?」
「ワックス切れたから、買わなきゃいけないんだったわ」
「そこのコンビニで買ってくれば」
「まあ、そうするか」
岩戸とすみれは駅に隣接しているコンビニに入った。普段コンビニにはあまり入らないのでワックスの場所を店員に訊かなければならないかと思ったが、意外にもいつも岩戸が使っているワックスはすぐに見つかった。
「やっぱコンビニだな。高けえわ」
棚の値札を見て、岩戸は苦笑いを浮かべた。
「高いっていっても、ちょっとでしょ」
「百四十円高い。缶コーヒー一本分かよ」
「便利代なんだから、そういうケチくさいこといわないの。男だったら、ケチるんじゃなくて稼ぐこと考えなよ」
「ちょっといっただけだろ」
レジが少し並んでいたので、すみれは外で待ってるといって先に店を出ていった。
岩戸が会計を済ませてコンビニから出てくると、すみれはスマホをいじっていた。
「何してんだ。行くぞ」
何かに夢中になっているのか、すみれは返事もせず、スマホの画面を凝視している。
「えっ! うそっ!」
「何だ! どうした!」
突然のすみれの大声に岩戸は振り返った。
「死んじゃった!」
「えっ?」
岩戸はすみれのスマホを覗き込んだ。彼女は口に手を当てて固まったまま、SNSに掲載されている文面を見つめている。岩戸はすみれの手ごと彼女のスマホを掴んでその画面を見た。SNSのアカウントはカケヤマシンゴとなっており、そこにはスタッフ一同という名義で、カケヤマシンゴの死亡を報告する文章が投稿されていた。
5 カジノが叶えた僕の夢
「ん?」
車の気配を感じて道塚が振り向くと、真紅のスポーツカーがマンションの駐車場に入ってくるのが見えた。窓越しに見える女性のハンドルさばきはかなりのものだ。瞬く間に駐車スペースに車をとめると、運転席のドアが開き、長身のすらりとした美女が姿を見せた。
「誰だ」
「おそらく、更科さんだと思います」
吉月に、道塚が答えた。すると、女性の方も二人を見つけたらしく、彼らのもとに駆け寄ってきた。
「あのっ!」彼女がいった。「警察の方ですよね」
「はい」道塚は警察手帳を見せた。
「わたしは、更科万理華です」
「こちらに来ると聞いておりました」道塚が答えた。「着いて早々申し訳ないのですが、今お話を聞かせてもらってもいいですか」
「はい。大丈夫です。そのつもりで来ましたので」
「では、こちらに」
道塚は万理華を、管理人室のエリアにある一室に案内した。
道塚たちが来ているマンションは、プロギャンブラーとしてユーチューバーをしていたカケヤマシンゴ、本名・千葉伸吾の住んでいたマンションだ。カケヤマシンゴと一緒にユーチューブの動画を作成していた滝坂が予定していた通りに午後八時頃にカケヤマシンゴの自宅マンションを訪れたところ、駐車場には既に警察関係者が集まっており、立入禁止のテープが貼られていたという。そこで滝坂は、カケヤマシンゴの死を知った。マンションの管理人は既に退勤していたが、管理会社を通して警察が連絡を入れると、管理人をしているという初老の男性はすぐに出てきた。緊急の用事があると電話では伝えていただけだったので、マンションに着いてから、住民が死んだという話を聞かされると、彼は理解が追いつかず、困惑している様子だった。管理人の男性にも道塚は話を聞いたが、予想通り大したことは聞けなかった。彼は警察に依頼された通りに管理人室のエリアを捜査のために開放すると、部屋の奥に引っ込んで悄然とした様子で座っていた。
「では、そちらに腰かけてください」
「はい」
万理華は道塚と向かい合う位置に座った。吉月もすぐに部屋に入ってきて、道塚の隣に腰かけた。
「滝坂くんから聞いたんですけど――」万理華がいった。「彼、駐車場で殺されたんですよね」
「駐車場で殺されたのかは現時点では分かりませんが」道塚が答えた。「通報を受けて駐車場に駆けつけた時には、既に亡くなっていたと聞いております」
「どういうこと――」
万理華がいった。ショートヘアの耳元からのぞくピアスは涙のようにキラリと光ったが、彼女の声は一切の感情をも感じさせないほどに無機質に聞こえた。
カケヤマシンゴの遺体は検死のために既に病院に運ばれており、万理華がその死に顔を見るのはしばらくしてからになりそうだ。ただ、その方が良かったような気はする。道塚が吉月から聞いた話では、カケヤマシンゴの死因は駐車場の花壇に放置されていたブロックレンガで頭部を強く殴られたことによる頭がい骨骨折と脳挫傷らしい。初動で現場に駆けつけていた刑事は、頭部は陥没していて血だらけで見れたものではなかった、といっていた。
「更科さんは、カケヤマシンゴさんとはどのようなご関係ですか」
他の刑事が滝坂から聞いた事前情報で分かってはいるが、道塚は訊いた。
「シンゴとは中学の時の同級生で、今は彼とは付き合ってました」
「そうですか」知らない情報も出てきて道塚は手帳に書き留めた。「中学の時の同級生なんですか」
「はい」
「お付き合いをされてるのは、いつからですか」
「中学を卒業してからです」
「ということは、結構長いこと交際されていますね」
「十二年です」
「カケヤマシンゴさんのお仕事はご存知ですよね」
「もちろんです。昔からずっとプロになりたいっていってましたし、わたしもずっと応援していましたから」
「いつからカケヤマシンゴさんはこういうお仕事をされてたんですか」
「こういうお仕事っていうのは、ギャンブルのお仕事ってことですか。それとも、ユーチューブのお仕事ってことですか」
「両方です。その辺りのこと、ご存知でしたら教えていただけますか」
万理華はこくっと頷いた。「簡単にいうと、シンゴは大学生の頃からブラックジャックやポーカーのトーナメントに出るようになって、それで徐々に知名度を上げていったんです。出たトーナメントでコンスタントに上位に入ったり優勝したりするうちにその界隈では結構知られた存在になっていって、大学を卒業して就職した後、それまではたまにアップしてただけだったユーチューブの動画がバズって、そこからうなぎ上りでチャンネル登録者数が増えていったんです。それでしばらくしてから会社を辞めて、プロギャンブラーの肩書を持つユーチューバーとして活動を始めたという感じだったと思います」
「カケヤマシンゴさんが就職してた会社っていうのは?」
「運送業です。クサガメヤヨイの宅急便でお馴染みの、クサガメ運輸です」
「私も少し動画を見たんですがね――」それまで道塚の横で黙っていた吉月がいった。「カケヤマシンゴさん、ラスベガスだとかチェジュだとかキプロスだとか、世界中を飛び回ってたみたいですね」
「はい。大きなトーナメントがあったら、彼、世界中どこでも行ってましたからね」
「トーナメントには、更科さんもついていってたんですか」道塚が訊いた。
「もちろんついていったこともありますけど、わたしがついていったのはせいぜい国内だけで、それでもそんなには一緒に行ってません。何しろシンゴ、一年の半分ぐらいはトーナメントで海外に行ってたと思うし、わたしもフルタイムで仕事してますから、トーナメントについていくってなると、どうしても土日しか休めない身としては行けるとこが限られてくるんです。でも、本当は毎回一緒に行きたかったんですけどね」
「更科さんのお仕事は何ですか」
「わたしですか? 弁護士です」
「ああ、弁護士ですか。それは忙しいですね」
「でも、わたしは企業内弁護士なので、法律事務所で働いてる弁護士さんほど忙しくはないんです。もしわたしも法律事務所で働いてたら、多分シンゴのトーナメントについていくなんて、国内でも無理だったと思います」
「更科さんも、ギャンブルがお好きなんですか」
「はい。でも――」万理華の顔にふと穏やかな笑みが差した。「ギャンブルが好きっていうか、ポーカーとかをプレイしてるシンゴを見てるのが好きでした。シンゴ、ポーカーも強いし、ブラックジャックも強いしで、そういうのを見てるのが幸せだったんです」
「プロのギャンブラーの世界なんて自分には全然想像できないですけど、ああいうのでプロになれるって、よっぽど運を引きつけられないと無理ですよね」
「プロのギャンブラーは、そんなスピリチュアルなものじゃないですよ」万理華はまた微笑んだ。「ポーカーもブラックジャックも、確かな技術と経験がないとプロにはなれません」
「そういうものなんですか。失礼しました」道塚は深呼吸を一つした。「そういったトーナメントで、何かトラブルが起こったりとか、そういうことってなかったんですか」
「トーナメントでそんなことはまず起きません。会場のカジノにはちゃんと警備員がいますし、トーナメントに出る人たちは、皆さん、とても人間ができていますから」
「じゃあ、トーナメントとかに関係なく、普段カジノに行ったりはしてたんですか」
「ええ、それはもちろん。よく二人でカジノには行ってました」
「そういう時に揉め事に巻き込まれたりとかはなかったですか」
「ううん」万理華は少し首を傾げた。「揉め事ってのとはちょっと違うんですけど、入店を拒否されたり、プレイしてる途中に出ていってくださいっていわれたりしたことはありました」
「何かあったんですか?」
「プロですからご遠慮願いますっていわれたこともありますし、後はカードカウンティングしてるだろってことって、もうブラックジャックはやめてくださいっていわれたりしたんです」
「カードカウンティング?」
「ブラックジャックって、ルールご存知ですか」
「ええ、まあ」
ブラックジャックは中高時代に学校で友人とプレイしたことがあったので、道塚は頷いた。
「ブラックジャックって、デックに後何枚Aとか十のカードが残ってるかを把握してけば、かなり勝てるんです。その方法がカードカウンティングって呼ばれてるんです。ただ、カードカウンティングでずっとブラックジャックをプレイされたら、カジノ側は大損害を被る可能性があるから、カジノ側はカウンティングして荒稼ぎしてるっぽい客とかがいると、追い出しにかかるんです」
「へええ。そんな必勝法があるんですね」
「誰でもできるってもんじゃないですけどね。カードの数字ごとにプラス1とかマイナス1とかを割り振って、それをカウントしてくんです。そもそもこれも慣れてないとできないし、カジノのディーラーってこっそりカウンティングしてる客の邪魔をするためにやたら話しかけてくるんですよ。その時に年齢を訊かれて答えても、ちゃんとカウントを続けられるぐらいには鍛えとかないと、まずカウンティングなんて実戦の場ではできないです」
「カケヤマシンゴさんも、カウンティングしてたんですか」
「トーナメントではしてましたよ。トーナメントでのブラックジャックはプレイヤー同士で誰が一番チップを稼げるかを競いますから、相手も皆カウンティングしてますからね。そういう技術とか駆け引きのセンスをひっくるめて、誰が一番かを競うのがカジノゲームのトーナメントです。でも、プライベートでギャンブルとしてブラックジャックをする時は、シンゴも純粋にブラックジャックを楽しんでたと思います。まあ、とはいっても職業が職業だから無意識にカウンティングしちゃってたりとか、勘がやっぱり鍛えられてるから、すごい勝っちゃう時もあったんです。で、たまに出禁とか追放を喰らっちゃうっていう」
「ちなみにですけど、参考までにプライベートで行ってたカジノの名前、教えてもらってもいいですか」
「はい」
いくつかあるのか、万理華は唇に人差し指を当てて、考えを巡らせるかのような仕草を見せた。その後彼女は、都内だったら、といって数個カジノの名前を挙げ、あと大阪なら、という調子で合計十三のカジノの名前を挙げた。道塚はそれらの名前を全て手帳に書き留めた。
「ユーチューブの動画ですけど――」道塚がいった。「見た感じ、かなり編集が凝ってますよね。あの辺も、カケヤマシンゴさんがご自分でやってたんですか」
「いえ、違います。動画撮影と編集はその道のプロをスタッフに入れてますから、その人がやってくれてました」
「カケヤマシンゴさんのスタッフって、全員で何人いるんですか」
「一人です」
「え? 一人?」
「はい、一人です」万理華は薄い笑みを見せた。「スタッフ一同、なんて書いてますけど、実際は一人です。刑事さんも既にお会いしてるみたいですが、滝坂さんがプログラミングとか動画編集とかをしてくれてます」
「でも、すごいですね。滝坂さんのお給料を出せるぐらいには収益を出せてるわけなんですよね」
「それなりに収益は出てたと思いますけど、滝坂さんはユーチューブの仕事はあくまで副業で、別に本業を持ってますから、シンゴがユーチューブで彼を養ってるってわけじゃなかったと思います。確か、IT関係の仕事をされてます」
「なるほど。そういう系の仕事の人って、副業をされてる方が多いと聞きますからね。ただ、副業とはいってもお給料は発生しますよね。滝坂さんとに限らず、カケヤマシンゴさんが金銭関係で誰かとトラブルになったこととか、悩んでたりとかってことはなかったですか」
「わたしが知る限りは、なかったと思います」
道塚は、そうですか、といって横の吉月に目を遣った。吉月は頭を振った。どうやら加えて訊くことはないらしい。
「今日はこんな時に捜査にご協力いただき、どうもありがとうございました」道塚は座ったまま小さく頭を下げた。「もし何かありましたら、些細なことでも結構ですのでこちらにご連絡ください」
道塚は仕事用のスマホの連絡先が書かれた名刺を万理華に差し出した。彼女は、分かりました、といってそれを受け取った。
「いつの間にか日本もカジノ大国だなあ」
万理華を見送ってから、管理人室横の部屋に戻ってくるなり吉月がいった。いかついゴリラ顔の髭もじゃ先輩刑事は、道塚がとった手帳のメモを見ている。
「都内だけで八軒もありますよ。こりゃカジノ巡りすることになりそうですね」
「今から行くか」
「えっ!」道塚は目を見開いて吉月を見た。「今からですか? もうすぐ十一時ですよ」
「カジノなんだぞ。二十四時間やってるだろ」
「そうじゃなくて……」
口ごもる道塚を尻目に、吉月はスマホを取り出した。
「今から行ったら、寝不足になって美容に良くないってか。お前、捜一の刑事だろ」
「そうですけど……」
「おっ!」道塚のメモを見ながら何やら検索している様子だった吉月が声を上げた。「このカジノなら、こっから車で二十分ぐらいだぞ」
よりによってそんな近くにあったのかよ、と忌々しく思いながら、道塚は何か断る理由はないかと考えを巡らせた。が、思いつかない。
「捜一の刑事なんて花形じゃねえか! よっ、かっこいいぞ道塚!」
吉月は道塚の背中をバンッと叩くと、行くぞ、といって部屋を出ていった。道塚は深くため息を吐いて、しぶしぶ彼に続いた。
日本国内でもカジノが合法化されて以降、各都道府県の警察本部では担当の部署の人間がカジノを巡回するようになった。ただ、実際に自らの足でカジノに来てみると、笑顔を浮かべているにもかかわらず時折ふと刑事のように目付きが鋭くなるスタッフがところどころに立っており、警察の人間がわざわざ見に行く必要なんてないんじゃないかと道塚は思った。
「さすがは華金だなあ。深夜だってのに、ずいぶん賑やかだ」
何やらニヤニヤ笑みを浮かべて、吉月はきょろきょろしている。確かにカジノ内のいたるテーブルでは、老若男女が楽しげに話をしながらがやがや盛り上がっている。
「吉月さん、カジノとか来るんですか」
「嫁に止められてんだよ。カジノなんて行ったら離婚するとかいってやがる」
「奥さんがですか?」道塚は意外に思った。「そんなこというんですね」
「真面目な女だからな」吉月はにやけた。「ただ、ブラックジャックなら必勝法があるって教えてやるか。そしたらいってもいいっていうかもな」
「でも、難しいって話じゃないですか」
「俺は無理かもしれないが、嫁なら期待できる。あいつは数学科出身だからな」
今年四十歳になる吉月は二年前に一回り年下の美女と結婚した。吉月は六本木でぶらぶらしていたらたまたま彼女と知り合ったといっていたが、後に道塚がその時に吉月と六本木をぶらぶらしていたという先輩刑事から聞いた話では、吉月がたまたまオープンしたばかりの高級クラブを見つけ、二人でそのキャバクラに入ったところ、未来の妻になる女性が出てきたということらしい。要は、吉月の妻はキャバクラのホステスだったというわけだ。
いかにも体育会系という雰囲気の吉月だが、捜査一課の刑事としての手腕には確かなものがある。カジノに着いて以降、道塚は吉月の後ろについて歩いているだけだったが、いつの間にか吉月はカジノの責任者らしき男性と話をつけていた。通されたスタッフルームで二人が待っていると、一人の男性スタッフが現れた。
「『casino de magician』でピットボスをしております、桂木と申します」
彼は一礼してから、二人の刑事に名乗った。警視庁の吉月です、警視庁の道塚です、とそれぞれ警察手帳を示した。三人はテーブルを挟んで椅子に腰かけた。吉月は形式的な挨拶を済ませると、道塚を横目で見た。
「カケヤマシンゴ、という方をご存知ですか」
「もちろんです」桂木は頷いた。「プロのギャンブラーの方ですよね。当店にも何度か来ていただいております。カケヤマシンゴさんがどうかされたのですか?」
きょとんとした顔を浮かべたところを見ると、どうやらニュースのことは知らないようだ。
「実は、自宅マンションの駐車場で亡くなっているのが発見されたんです」
「え……」
桂木の表情が一瞬で無になった。
「つい数時間前の話です。関係者の方から、カケヤマシンゴさんがこちらのカジノにも来ていたことがあるという話を聞いたので、お話を聞きたくてこうして参りました」
「そんな……一体何が……」
「そこを今調べてるんです」呆然とした表情を浮かべる桂木に道塚はいった。「カケヤマシンゴさん、こちらのカジノにはどれくらいの頻度で来られてたんですか」
「そんなに頻繁には来られてません。月に一回か二回来るかどうかといった感じだったと思います。ただ、私はブラックジャックのピットボスというポジションなので、他のピットだけで遊ばれていることがあったなら、実際はもっと来ていたのかもしれませんが」
「何ですか、ピットって?」
「ピットというのは、カジノ内でゲームごとに集まっているテーブルのまとまりのことです。ブラックジャックのテーブルはブラックジャックのテーブルだけで円形や四角形を描くように配置されてて、ポーカーはポーカーのテーブルだけで円形や四角形を描くように配置されています。カジノとしては、このピット単位でピットボスという人間を配置して、ディーラーやプレイヤーが不正行為をしていないかどうかとか、何か対応が必要なお客様がいらっしゃらないかどうかなどを常に見ているんです」
「なるほど」
そういう理由で、スロットマシーンが並んでいる空間を抜けたところから、テーブルは六個ほどを単位にして円形や四角形を描くように並べられ、桂木同様に仕立てのいいスーツに身を包んだスタッフたちが時折監視するように目を光らせていたというわけか。
「いろんなゲームができるみたいですけど、カケヤマシンゴさんはブラックジャックをしてることが多かったんですか」
「はい。あと、私が知る限りではポーカーもよくしてたと思います。実際、何度かお話をした時も、カジノのゲームの中ではブラックジャックとポーカーが好きだとおっしゃってました」
「さっきカジノの中を通ってきたんですけど、結構皆さんおしゃべりをしながらプレイしてますよね。カケヤマシンゴさん、プレイ中にどんなことを話してたかとかって分かりますか」
「そういうことでしたら、私よりもディーラーに訊いた方がいいでしょう」桂木は掛け時計を見上げた。「ちょうどいいですね。そろそろ上がりの時間だ。ちょっと待っててください」
そういって出ていこうとした桂木に、私もついていきます、といって吉月も桂木と一緒に出ていった。
道塚が十分ほど一人で待っていると、吉月と桂木は一筋の髪を左目の脇に垂らした男性を連れて戻ってきた。その男性はいかにもカジノディーラーといういで立ちで、真っ白なカッターの上には真っ黒なチョッキを着、首元には真っ黒の蝶ネクタイをしている。
「ディーラーのザ・クラブです」
チョッキ越しにも隆起した胸部や二の腕のカッターの張り具合から、細マッチョの体型であることは一目瞭然だ。おまけに、道塚も嫉妬するほどの超絶イケメンである。
四人は二人ずつで向かい合って座った。道塚はザ・クラブと名乗るディーラーに簡単に経緯を話した。
「確かにカケヤマシンゴさんがプライベートでお越しになられるのは、月に数回でした」ザ・クラブがいった。「私のテーブルでプレイするのは楽しいといってくださって、私がブラックジャックのテーブルを担当している時はブラックジャックを、ポーカーのテーブルを担当している時はポーカーをしていました。プライベートではお一人でお越しになられることもあれば、お付き合いされてる女性とお越しになられることもありました」
「その女性の名前はご存知ですか」
「確か、更科万理華さん、というお名前だったかと」
「ありがとうございます」道塚はこくりと頭を下げた。「では、カケヤマシンゴさんがプレイ中にどんなことを話していたかとかは覚えていますか」
「はっきりとは覚えてませんが、他愛もない話ばかりだったと思います。カジノでプレイ中に深刻な話をする人はいませんし、もしそんな話をしていたら記憶に残ります」
まあ、いわれてみればそれもそうか、と思いつつ、「他愛もないことでも構いませんから、例えばどんなことを話してましたか」と道塚は訊いてみた。ザ・クラブは記憶を辿るように視線をテーブルに落として顎に手を添えた。
「そうですねえ」ザ・クラブは道塚を見た。「髪型の話は何度かしました」
「髪型……ですか?」想定外の話に、道塚の声は調子外れになった。
「はい。髪型です。カケヤマシンゴさん、ユーチューブもされてたじゃないですか。で、コメント欄に視聴者の方から『髪型、もっとオシャレにキメたらいいのに』という旨のコメントがちょくちょく入ってきてたんだそうです。カケヤマさん的にはそういうコメントがだんだん気になるようになっていたみたいで、それで私に、どんな髪型なら自分に似合うと思いますかとか、自分もロングにしたらかっこいいですかねとか、美容室って床屋と同じような感じで行ってもいいんですかとか、いろいろと訊いてこられたことがありました」
「確かにいわれてみれば、なんていうか、そう、あんまりユーチューバーっぽくない髪型の時もあったし、そうかと思えば結構垢ぬけた感じの時もありましたね」
道塚の言葉に、ザ・クラブは思い出したように笑った。「カケヤマシンゴさんは、優等生っぽく見られる自分の容姿が昔からコンプレックスだったみたいです。大して勉強ができるわけでもないのに、どことなく真面目っぽく見られるのが嫌だったとか、実際そうだから仕方ないにしても陰キャっぽく見られるのか嫌だったとか、そんなようなことはいってましたね」
「なるほど。性格にもよるでしょうけど、中高生の頃だと、そういうのは気になるでしょうね」
「人間というのは、いろんな顔を持っているものです。ユーチューバーをやっているとか、プロのギャンブラーだとかって聞くと、陽キャのムードメイカーっぽい人なのかなって思ってしまいがちですけど、プライベートのその人は全然違ってたりします。カケヤマシンゴさんもそういう人で、ユーチューブで見てる感じでは、よく喋るし、明るくて陽キャな人なんだなっていう印象を受けると思いますが、プライベートの時は知ってる人としか話さないような人でした。ある時、私とカケヤマシンゴさんと二人だけで談笑しながらブラックジャックをプレイしてたら、そこに他のお客様が入ってこられたことがあったんです。入ってこられたお客様はザ・陽キャという感じの人たちで、ブラックジャックを楽しんでるというよりは話のあてにブラックジャックをしてるという感じでした。時折その話題が私やカケヤマシンゴさんに振られるなんてこともあったんですが、カケヤマシンゴさんはまあねえといって愛想笑いを浮かべるぐらいで、ほとんど喋らなくなってしまってたんですよね。あの時はフォローもできず、たいへん申し訳なかったです」
「根は内気な人だったんですかね」
「そうだと思います。ただ、話題にもよるのかなとは思います。恋愛話とか女性の話は苦手だったみたいですが、ブラックジャックやポーカーの話題なら、わりと初対面の人たちとも話していたような気はします。そういえば、連れの女性が、シンゴって昔からゲーム強いよね、といった時に小耳に挟んだのですが、中学の時に男子の間でブラックジャックやポーカーが流行ってて、それがきっかけで友達ができたみたいなこともいってました」
「そうだったんですか」道塚の脳裏に、自身の中学時代がふと蘇った。「中学生の男子なんて、どこでも似たようなものなんですね。私の中学でもブラックジャックが一時期流行ってて、休み時間は皆トランプ漬けでしたよ。で、カケヤマシンゴさんみたいな強い男子が何人かいて、急に彼らが輝いて見えたなんてことがあったんです」
「トランプって、かっこいいですからね」ザ・クラブはチョッキの胸ポケットからカードの束を取り出して裏向きのまま扇状に広げた。「お好きなカードを一枚どうぞ」
「え?」
ザ・クラブは、ほら、一枚引いてくださいよ、といわんばかりの表情で扇状に広げたカードの束をぐいっと道塚の方に突きだした。一応仕事中なんだけどなあ、と思いながら道塚は適当に一枚引いた。
「そのカードのスートと数字を覚えてください」
道塚の引いたカードはクラブのJだ。
「覚えましたか」
「はい」
「では、お借りします」
ザ・クラブは裏向きのまま道塚からカードを受け取ると、それをやはり裏向きのまま左手に持っている裏向きの山札の中に挿し込んだ。
「さて――」
ザ・クラブはニヤリと笑うと、目の前の二人の刑事を交互に見た。思わず道塚も吉月もザ・クラブの瞳を見返した。
「刑事さんの選んだカードは――おっと! 私の好きなカードだ!」
「えっ!」
「すげえ!」
道塚と吉月の声が重なった。
ザ・クラブの手元では、再びカードが扇状に広げられており、裏向きになっているカードの中で一枚だけが表を向けていた。そのカードはクラブのJだ。
「どうして……」
「シンプルなトリックですよ」ザ・クラブはキザな笑みを浮かべた。「ただ、トリックというものはシンプルなほどいい」
ザ・クラブは扇状に広げていた山札から一番下のカードを取り出した。
「スペードのA……?」
「別にスペードのAに意味はないです。ただ、このカードも表向きでした。これがトリックです」
「そういうことかっ!」
横で吉月が大声を上げた。
「えっ! どういうことですか?」
「お前、捜一の刑事だろ。これぐらい見抜けなくてどうする」
「トランプのマジックなんて見抜けるわけないでしょ」
「ヒント出されてもからくりが分からないようじゃ、捜一の刑事としては半人前だな」
得意げにニヤニヤと笑みを浮かべている吉月を見て道塚は、そんなすげえことかよ、と心の中で毒づいた。
道塚と吉月がカジノを出た頃には、時刻は午前零時半を過ぎていた。ああ、もう……早く寝なきゃ、と思っている道塚の横で、吉月は、カジノのトランプってかっこいいなあ、箱がレトロなタバコみたいじゃんか、とかいいながら上機嫌にトランプの箱を眺めて歩いている。カジノ内でトランプの自動販売機を見つけ、吉月は一箱買っていたのだ。
「おっ!」
そんな吉月がふらっと進路を変えた。その先を見て、道塚はげんなりした。しかし、渋々ついて行く。
「ふう……」吉月は慣れた手つきでタバコに火をつけ、煙を吐き出した。「仕事終わりに吸うタバコって、何でこんなに美味いんだろな」
「家帰ってから吸ってくださいよ」
もう慣れはしたが、愛煙家の吉月は喫煙スペースを見つけると吸い込まれるように入っていく。もはや習性である。
「お前も吸ったらいいのに」
「いいですよ僕は」
いつもは風上に立って副流煙を吸わないようにして雑談に付き合っているが、今日はもう日付が変わっている。道塚はちらっと腕時計に目を遣った。
「やっぱり男はルックスじゃないんだなあ」
「何の話ですか、急に?」
道塚がちらっと腕時計に目を遣ったことになど、呑気な口調で話しだした吉月は微塵も気にかけていないようだ。
「カケヤマシンゴだよ。野暮ったい感じの男だけど、カジノのゲームが強くって、それであんな美女と付き合えてたんだろ」
「まあ、それはそうかもしれませんね」
道塚もユーチューブで見たカケヤマシンゴの顔を思い浮かべた。二十七歳ならそれなりに外見にも生意気感や気取った感じが出てくるものだが、カケヤマシンゴは髪を切るなら床屋に行き、髪につけるものならシャンプーとリンスしか知らない中学生のような髪型と服装をしていた。そんな男の彼女が長身のすらりとした美女ならば、やはりそのギャンブラーとしての姿にハートを射貫かれたのだろう。まして中学卒業から付き合っていたのならなお更だ。中学生の頃は、多少ルックスの冴えない男子でもスポーツができればモテるものだ。それと同じである。
「帰ったら嫁を驚かせてやろ」
いつの間にか吉月はトランプの箱を開封しており、ニヤニヤしながらカードの束をいじっている。
「さっきのマジックって、そんな簡単なんですか」
「簡単も簡単。まあ、特別に今回は俺が教えてやるから、気になる女にでも披露してやんな。お前、そんだけん容姿に気を遣ってて彼女できないなんて、何か力になってやりたくなるんだよな」
「余計なお世話です」
はははははは、と笑ながら吉月はカードの束をぴったりと揃えた。
「こうやって山札を裏向きで揃えるんだけど、予め山札の一番下のカードだけは表向きにしとくんだ。で、扇状に広げて相手に一枚選ばせる時は、最後の一枚だけが表になってることを相手に気づかれないようにすればいい」
吉月は山札の一番下のカードだけを表向きにしてから、山札を扇状に広げた。そしてそこから一枚カードを裏向きのまま抜き取ってひっくり返した。
「ダイヤのJか。で、こいつを裏向きで山札に戻す前にさり気なく山札をひっくり返す」
吉月は右手に持っていた山札を、手首をひねってひっくり返した。
「そういうことか!」
「そういうことだ」
ようやくトリックが分かった道塚に、吉月はタバコをくわえたままニヤリと口角を上げた。ひっくり返された山札は、相変わらず裏向きで重なっているカードの束のように見える。しかし、実際はそうではない。実際は、山札の一番上のカードのみが裏向きになっており、それ以降のカードは全て表向きなのだ。
「で、このカードを裏向きで山札の中に挿し込む」
吉月はダイヤのJを裏向きにして、一番上のカードのみが裏向きになっている山札の中に挿し込んだ。
「で、最後にもう一回ひっくり返す、と」
吉月が山札を扇状に広げると、裏向きになっているカードが連続する中で、途中の一枚は表を向いていた。ダイヤのJだ。もちろん、扇の末端のカードも表向きになっている。
「たった一枚ひっくり返しただけで、こんなマジックができるんだ。面白いな」
「だよな」吉月はタバコの火を消し、吸い殻をくず入れに捨てた。「うちの嫁もさすがに驚くだろうな」
人生で初めてカードマジックのトリックに触れて道塚はちょっとした興奮を覚えながらも、誰かにやってやりたいと思った。こういうものは、知ると誰かに見せびらかしたくなるものだ。ただ、ひっくり返せばいいだけということは、裏を返せば、ひっくり返せばトリックがばれてしまうということであり、しかも、山札のどっちもが一番上は裏面を向けているため、慣れておかないと自分でも分からなくなってしまいそうである。
そんなことを考えて道塚が立ち尽くしていると吉月は、おい、帰るぞ、といって彼を急かした。
6 あの頃語り
「ええっ! マジでっ!」
ザ・クラブの「ショウダウン」という声で、カケヤマシンゴがハンドを素早く公開するや否や、プレイヤーの誰かからそんな声が上がった。
彼のハンドは、ハートのA、ハートのK、ハートのQ、ハートのJ、ハートの10だった。
「ロイヤルフラッシュじゃねえかよ、おいっ!」
「ここでロイヤルフラッシュって神かよ!」
そんな声が続いた。ロイヤルフラッシュを決めたカケヤマシンゴ本人も興奮しており、カメラに向かって、うぇぇぇい! などと叫んでいる。
実際、この回はカケヤマシンゴのユーチューブの中でも神回といわれており、ヤラセじゃないのか、などのコメントも入ったが、正真正銘奇跡が起こったゲームだった。この回で爆発的にチャンネル登録者数が増え、カケヤマシンゴの名前はプロのギャンブラーや一部のカジノゲームファンだけが知っているものではなくなった。この収録の時には万理華も同席しており、音量を上げて耳をすませば、万理華自身の声も入っているのが分かる。シンゴがロイヤルフラッシュを公開した瞬間、万理華も絶叫していたのだ。世界トーナメント優勝経験者という責任感からか、普段はマナーのいいプレイで好感を持たれているシンゴなだけに、仲間内の無礼講でプレイされたこの動画では彼の違った一面を見ることができる。それはシンゴに限ったことではなく、いつもはひたすらクールなザ・クラブでさえ、この時ばかりはさすがに心底驚いたという顔をしており、コメント欄には、『どーでもいーけど、ディーラーさんイケメンすぎんかwww』『イケメンディーラーさん、マジで驚いてて草』という書き込みも溢れかえっていた。ザ・クラブが頬を掻きながら後に話してくれたことによると、この動画で『casino de magician』に来る女性客は増えたという。
スマホの小さな画面の中で、こうして娯楽としてポーカーを男子中学生のようなノリで楽しんでいるシンゴを見ていると彼が身近に感じられ、実際にはもうこの世にはいないのだという事実が信じられない気持ちになる。電話をしたらいつものように出るんじゃないのかと思ってしまい、実は二回も電話をかけてみたが、いつまでも呼び出し音が鳴り続けるだけだった。
シンゴの自宅マンションで警視庁の刑事と話をした後、万理華は真っ直ぐ家に帰ってきた。そして、風呂も入らずだらだらしていると、いつの間にか時計の針は午前三時を過ぎていた。万理華はスマホを置いてソファから立ち上がると、窓辺に行ってカーテンを開けた。夏は夜が短いとはいえ、午前三時ではさすがに外は真っ暗だ。真っ暗な景色を見ていると、何だか思考が朧げになっていき、現実から切り離されていくような浮遊感を覚えた。そのせいでか、シンゴの身に起こったことが現実だったという意識がまたしても薄れていき、もしかしてわたし、悪い夢でも見てたんじゃ、とふと思った。
そう思った時だった。万理華の背後でスマホが振動を始めた。彼女がスマホの画面を見ると、電話の主は卜部だった。
「もしもし」
「やあ。僕だけど」卜部がいった。「大丈夫かい?」
「大丈夫って、何が?」
「あ、いや――」卜部の声にためらいが滲んだ。「千葉のことだよ」
「卜部くん、知ってるの?」
「知ってる。ついさっき知った」
卜部がこんなことをいうということは、やっぱ現実か、と万理華は思った。
「てか、よくこんな時間に起きてたね」
「いろいろやっておきたいことがあって、根詰めてやってたんだ。で――」卜部の声のトーンが再び下がった。「気分転換にスマホを見てたらニュースで知った」
「そうなんだ」
卜部と万理華、そしてシンゴは同じ中学の同級生である。卜部と万理華は中学卒業以降は時々連絡し合うぐらいの仲だったが、それも時が経つごとになくなっていった。それが十数年ぶりに再び連絡を取り合う仲に戻ったのは、半年ほど前の同窓会で再会したからだった。
「更科さんも、ニュースで知ったのかい?」卜部がいった。
「ううん。わたしはシンゴと一緒にユーチューブやってる人から聞いて知った。今日、ていうかもう昨日か、シンゴはその人と一緒に動画を作る予定だったんだけど、その人がシンゴのマンションに行ったら警察の人たちが集まってて、その人が警察の人に話を聞いたら、シンゴが駐車場で血を流して倒れてたんだって」
「じゃあ、誰かが駐車場で倒れてた千葉を見つけて、警察に通報したってことか」
「そう。そのマンションの住民が最初に見つけて通報したって刑事さんから聞いた」
「更科さんも警察の人と話をしたのかい?」
「うん。シンゴの仕事仲間から連絡をもらって、わたしはすぐに搬送されたっていう病院に向かったんだけど、シンゴには会わせてもらえなかったの。で、その後、シンゴの仕事仲間の人と会おうと思って電話したら、その人は彼のマンションで刑事さんたちと一緒にいるっていうからわたしもシンゴのマンションに向かって、そこで刑事さんと話をしたの」
「あのさ……自殺とかじゃないんだよな?」
「違うと思う――」万理華は大きく息を吸って、そして吐いた。「殺されたんだと思う」
「……ひでえ話だな……」
そういって卜部は黙り込んだ。万理華も発する言葉が見つからず、黙ったままスマホを耳に押し当てていた。
「ごめん」
「え?」
「いや――」微かに自嘲を感じさせる声で卜部が一拍置いた。「こんな時に電話かけちゃってさ。僕だったら、自分の殻に閉じこもってたいと思って、他人と話す気になんかなれなかったかなって思って」
「ううん。そんなことないって」答える万理華の声は幾分か明るくなった。「むしろ、電話してくれてありがとうだよ。一人で考えてたってしょうがないし、それにほんというと、わたしも卜部くんから電話もらうまでぼーっとしてたんだからさ」
「そうだったのか。まあ、でもそりゃそうか。で、更科さんは大丈夫なのかい?」
「大丈夫かっていわれると、何ともいえない。何か、悲しいはずなのにいまいち現実味がなくてさ」
「こういう時って、案外そういうものなのかもしれないな」
「どうなんだろうね。もっと彼氏依存の人だったら違ってたのかもしれないけど、わたしの場合、普段からそんなに連絡もしなかったし、シンゴだって年に半分以上トーナメントで海外に行ってたから、会いたいからってすぐに会えるってわけじゃなかったんだよね。だから、シンゴのいない世界っていうのがまだ実感しにくいのかもしれない」
「中学を卒業してからだっけ? てことは、もう十二年か。すごいな」
「え?」万理華は思わず言葉を失った。「何でそんなこと知ってるの?」
「千葉から聞いたんだよ、昔」
「そうだったの!」
「何だ。知らないと思ってたのかい?」今度は卜部の声が明るくなった。
「だって、わたしは卜部くんにシンゴと付き合ってることなんて高校生の頃に話した記憶ないし、まさかシンゴが話してたなんて……」
万理華としては、シンゴと付き合いだしたのは中学を卒業してからだったし、このことは仲の良かった数人の女子にしか当時話していなかったので、シンゴと付き合っていることが卜部を含めた中学時代の同級生の耳に入ったのは、基本的に同窓会の時になってはじめてのことだと思っていた。ましてやその時でさえ、付き合い始めたのが中学卒業直後だったことまで話したのは根掘り葉掘り聞いてきた一部の女子友達だけだったのだ。
「ていうか――」万理華がいった。「卜部くんって、シンゴとそんなに仲良かったっけ?」
「失礼だなあ」電話越しに卜部が笑った。「千葉とは結構話す仲だったよ。いつの頃のだったかな。教室でブラックジャックとかポーカーとかやりまくってた時期があったじゃん。あの頃に、『へー、千葉ってゲームめっちゃ強いんだ』って思って、そっからかな、千葉とよく話すようになったのは」
「シンゴと卜部くんって、全然タイプ違ったじゃん。何話してたの?」
「何話してたのって訊かれても困るけど――」
あの頃の記憶を辿っていたのか、卜部は十数秒ほど唸ってから続けた。
「人ってさ、共通の趣味とか話題があって仲良くなることもあるけど、そういうのがなくても何となく波長が合うから仲良くなることってあるじゃん。千葉とはゲームの話もよくしたけど、どっちかっていうと、そういう感じだったような気がする」
「なるほどねえ」卜部の答えが妙に腑に落ちて、万理華は一人で首肯した。「そういうところ、全然昔と変わってないね」
「え? そういうところって?」
「そういうところだよ」きょとんとした声で訊いてきた卜部に万理華が繰り返した。「何でとか、どうしてとか訊かれても困るような時に、何かしっくりくるようなことをいうの、中学の時から上手かったじゃん」
「ああ、そういうことね。まあ確かにそうだったかも」
卜部にも心当たりがあるのだろう。電話越しにも、卜部の声が幾分か弾んで聞こえた。中学生の時、学級委員や部活の部長をしていた卜部は意見がまとまらない時にその事態を収束させるのが上手かったのだ。
「そういう才能があるから、卜部くん、社長として会社を上手くやってけてるんだろうね」
「上手くやってけてるとはいっても、まだまだ創業したてだから、所詮はビギナーズラックだ。どうなるかなんて、分かったもんじゃないよ」
「でも、秋を目処に新しい店舗を開くんでしょ」
万理華は同窓会の時に卜部から聞いた近況話を持ち出した。彼は大学を卒業後、一部上場企業で数年働いてから介護事業で起業していた。現在は都内に三店舗を構えているらしい。
「まあね。役職メンバーの中には反対してきたのもいたけど、いろいろ検討していったら、ここでもう一店舗増やした方が会社としては成長が見込めるっていうシミュレーションができたからね」
「人生ってどうなるか分からないっていうけど、何かそういう話を聞いてると、卜部くんの人生はいい意味で皆の予想通りって感じだね。ほら、卒業アルバムに将来社長になりそうな奴で一位だったじゃん」
「ああ、あれね。もしかしたら、潜在意識にあれがあったから、起業しようなんて気になったのかもしれないな」
万理華の話に、卜部は冗談まじりに答えた。
「でも――」卜部が続けた。「それをいったら、千葉だってそうじゃないか。あいつはプロになったらいいじゃんって中学の時皆にいわれてたけど、実際プロのギャンブラーになって、WSOPにも出てたし、トップ9にも入ってたよね。いや、ほんとすごいわ」
「え? シンゴのこと、そこまで知ってるの?」
WSOPとは、一九七〇年から開催されているポーカーの世界的トーナメント、World Series of Pokerの略称であり、普通の人の口からさらっと出てくるような単語ではない。万理華の驚きを察したのか、卜部は照れ笑いを誤魔化すような口調で話し始めた。
「中学の時に千葉のおかげでポーカーが好きになってさ、ポーカーの動画もその頃から見るようになったんだ。で、偶然カケヤマシンゴっていうユーチューバーのチャンネルを見つけたわけだけど、顔見たら『千葉じゃん!』ってなって、あの時はほんと驚いた。ユーチューバー始めたんなら教えてくれれば良かったのにってこっちから連絡したら、始めたはいいけど、すぐぽしゃるかもしれないからさ、なんて笑ってたな。ここまで実力あったんだから、ほんとは最初から自信あったんじゃないのかな、あいつ」
「そうだったんだ」
相槌を打ちながら、万理華にも思い当たる節があった。ユーチューブを始めてしばらくした頃シンゴが、中学の時の友達から連絡をもらった、と嬉しそうに話していたことがあったのだ。その時の話では、シンゴに連絡を寄こしてきた友人は何人かいたみたいだが、その中の一人が卜部だったのだろう。
「そういうわけで、千葉のユーチューブは実は全部見てるんだ。千葉は大学生の頃からトーナメントに出てたみたいだけど、僕も実は大学ではカードゲーム研究会に入ってトーナメントとかにはちょくちょく出てたんだ。まあ、全然だったけど。だから大学時代はサークル棟に入り浸りになってて、授業なんてろくに出なかった」
「卜部くんが? 意外」
「実は自分でもそう思ってるんだ。性格的に几帳面だからさ、やることはきっちりこなさないと気が済まない質なんだよね。高校に入ってからもポーカーは遊びでやってたけど授業は真面目に取り組んでたし、数学とか英語で解けなかった問題があると自分が納得できるところまでいかないと気持ち悪くてしょうがなかったのに、何か大学生になったら悪い友達ができたわけでもないのに、気づいたらカードを触ってたりポーカーの動画ばっかり見てたりしてたんだよね。そんなんだったから、大学の講義を聞いてても意味分かんないことが出てくるわけだけど、高校の時みたいに分かるまで考えないと気持ち悪いって感じなくなってて、気づいた頃には、単位さえ取れればいいかみたいに思ってたんだ。まあ、学期末の試験とレポートさえこなせば単位は取れるようなヒマ経で周りの学生にもそんな奴がいたからっていうのもあったのかもしれないけど、自分の中での優先順位がポーカーに変わってってたのは事実だろうね」
卜部の話を聞いて、万理華はくすっと笑った。
「よくいえば、卜部くんも丸くなったのかもね」
「そうなのかな」
「だって中学の頃、卜部くんちょっと几帳面すぎたんじゃない? テニス部の男子がいってたの聞いたことあるよ、部室の本棚にあるテニスの雑誌をブックエンドを使わずに本棚に寝かせて置いとくと卜部が機嫌悪くなるからなって」
「ああ、それね」卜部は苦々しげに笑った。「それなら、今も治ってない」
「え?」
「さすがに口ではいわないけど、オフィスに行った時に共用スペースの雑誌とかが斜めになってたり寝かせて置いとかれたりするのを見ると、何のためにブックエンドがあるんだよって内心思いながら直しちゃうんだよね。何か、本とかみたいに方向性がある物がその方向性を無視して置いとかれる状態っていうのがどうも耐えられない」
「まあ、悪いことじゃないからいいんじゃない」
万理華はちらりと時計に目を遣った。時刻を見ると、もう三十分近くも卜部と話していた。
「こんな時間に、ありがとね」
「ああ、いやいや。こっちこそ、こんな時にどうでもいい話をしちゃって申し訳ない」
卜部も察したのか、時間を気にするような口ぶりでいった。
「またね」
「何かあったら力を貸すよ。それじゃ」
電話を切ると、万理華はカーテンの開けられた窓辺から再び夜空を見上げた。相変わらずその景色は暗いが、三十分前とは全然気持ちが違っていることに彼女はふと気がついた。
――シンゴと卜部くんって、仲良かったんだ。意外。
そう呟いて、万理華はカーテンを閉じた。
7 息抜きにはカードゲームを
「何だお前、金ないのか」
右肩を叩かれたと思ったら、右隣の席にどかっとカッターシャツ姿の男が座った。
「お前こそ何だよ」岩戸は驚きつつ、カッターシャツ姿の道塚に目を向けた。「何でいきなりこんなところに? てかお前、ハンバーガーとか食わねえだろ」
「前を通りかかったら、お前の姿が見えたからさ」道塚は通りに面した、ガラス張りになっている店の壁を指さした。「てか、何で俺はハンバーガー食わねえんだよ」
「健康とか美容に、人一倍気ィ遣ってるだろ」
道塚は、ははは、と笑った。「健康には気ィ遣ってるけど、たまにはこういうのも食ってるよ。たまに食うと美味いんだよな、こういうファストフードって。てかお前、いい歳してこんなところでトランプ出してると、変態だと思われるぞ」
「思われねえよ」
「何してんだ、一人で?」
道塚は、岩戸が手元に広げているカードに目を遣った。
「カウンティングだよ」
「カウンティング!」道塚は目の色を変えた。「ブラックジャックか?」
「何だ、知ってるのか」
「先週末、ギャンブラーが殺されてな――」
「えっ!」今度は岩戸が目の色を変えた。「お前、あの事件の担当してるのか」
「そうだけど……何だ? どうかしたのか?」
岩戸の雰囲気に、道塚は少したじろいだ様子を見せた。
「妹がさ――」
「ああ、すみれちゃんか」
「そう。すみれがさ、カケヤマシンゴのファンだったみたいで、ちょっと落ち込んでるんだよな」
「何ですみれちゃんがカケヤマシンゴのファンなんだ?」
「あいつ、カジノにハマってて――」
「えっ! すみれちゃんが!」
「そう」
「ハマってるって、通ってるってことか?」
「まあ、月に数回らしいけど」
「おいおい、月に数回も通ってるのかよ。大丈夫か、散財してるんじゃないのか」
「そこは心配ない」岩戸は力なく笑った。「あいつ、ギャンブルは強いみたいなんだ。ちゃんと儲けを出してるっぽい」
「じゃあいいのか……って、いやっ! それはそれで何か心配だな」
道塚は眉間に皺を寄せた。以前すみれと会った時に実は惚れたらしく、道塚と話をすると彼はさり気なくすみれのことを訊いてくることがある。
「とまあ、そういうわけであいつ、カケヤマシンゴのチャンネルはすごいお気に入りだったらしいんだ」
「ふうん。そうなのか」道塚は神妙な表情を崩した。「で、何でお前、こんなところでカウンティングしてるんだよ」
「いやまあ、別に」
実際にするしないは別として、ブラックジャックをプレイするならカウンティングはできた方がかっこいいよなと思い、岩戸は土日と一人ブラックジャックをしていたのだった。ザ・スペードの、また来てくださいね、という声が脳裏で響いた。何だか胸がわくわくしてくる。
「カウンティングって難しいんだろ」
道塚がいった。
「何だ? やったことないのか」
「ない」
「カウンティングってのはな――」
岩戸はカードカウンティングの基礎を道塚に説明し始めた。道塚もそれぐらいは知っていたらしいが、実際にやってみたことはないというので、岩戸の持っていたカードを使って実際にカードカウンティングをし始めた。
「確かにムズいわ」手にしていた山札を全てカウントし終えて道塚がいった。「ゼロになんねえわ」
「ああ、すまん。ゼロにはならないと思う。それ、二デック分のカードから適当に取った束だから」
「え? 何でそんなことしてんだ?」
「カジノのブラックジャックって四デックとか六デックとかでプレイするから、それに合わせてたんだよ」
「へええ、そうなのか。四デックとか六デックだと、何か変わるのか」
「端的にいうと、カウンティングした数値を補正しないといけなくなる」
「どういうことだ?」
「例えばこういうことだ」岩戸は山札から何枚かカードを取り出すと、それらをトレイの前に並べた。「いくつになる?」
「ええっと……」
道塚は横一列に並べられたカードに目を落とした。
横一列に並んでいるカードの数字は、Q、6、3、6、A、2、4、5だ。
「プラス4」
「そう。プラス4だな。ブラックジャックの基本はベーシックストラテジーに尽きるけど、カウンティングの数値がプラス3以上の時と、マイナス3以下の時にはベーシックストラテジーとはちょっと違うプレイをした方が期待収益は上がるんだよ」
「確かに、プラスの値が大きければ大きいほどデックに占める十と見なせるカードとAのカードの割合が高くなるってわけだから、それに応じてプレイも変えた方が良さそうだもんな」
「そう。割合なんだよ。割合ってことは全体、つまり全カードの枚数分のAや十のカードの枚数ってことだろ。てことは、何デックでやってるのか、残りは何デック分なのかっていうのはものすごく大事な情報になる。単純にカウンティングしていったカウントをランニングカウントっていって、このランニングカウントを残りのデック数で割って単位デック当たりの数値に補正したカウントをトゥルーカウントっていうんだ」
「そりゃ確かに大変だわ」道塚は呆れ顔を見せた。「そのトゥルーカウントの値に応じてプレイを調整しなきゃいけないわけだけど、その肝心のトゥルーカウントを把握するためには、目視で残りのカードが何デック分なのかを見積もらなきゃいけないってことだろ。めちゃめちゃ疲れる話だな」
「だからカウンティングがブラックジャック攻略の鍵だって知ってても、たいていの人はカウンティングなんてできなくて、直感でヒットかスタンドかを決めて、当たった外れたって一喜一憂することになるんだよ。まあ、せいぜいできてベーシックストラテジーに沿ってプレイするってぐらいだな」
「そんなことをカケヤマシンゴはしてたのか。プロギャンブラーって途方もないな」
「事件、どこまで分かってるんだ?」
「そっか」道塚は納得げな顔で岩戸を見た。「今回の事件、今の段階じゃお前んとこには全然話が行かなそうだもんな。今朝の捜査会議でも、カケヤマシンゴの周辺人物に関する報告事項がほとんどで、物品関係はなかったと思う」
「周辺人物の方は結構つかめてるのか?」
「つかめてるというか何というか――」道塚は苦笑いを浮かべた。「ユーチューバーだから、動画に映ってる人はもちろん、動画の撮られた場所だとか、動画から捜査の糸口になる情報はいろいろと得られるんだ。だから、ユーチューブの動画で確認できる人物に片っ端から聞き込み捜査をしてる状況で、やたら周辺人物に関する報告は多くなってるな」
「その口ぶりだと、捜査の足しになる情報は得られてないってわけか」
「そういうことだ。昨日の捜査会議なんか、ほとんど仕事帰りに飲みに行った時の話みたいになってて、ギャンブラーの世界って異次元だなって話で盛り上がってたよ。お前知ってるか、ポーカーのトーナメントって参加費いくらすると思う?」
「何?」岩戸はカップを手に取ってストローですすった。「数十万とか?」
「ばーか。数百万とか、もっといったら一千万とかだ」
がはっと音を立てて、岩戸はすすっていたソフトドリンクでむせた。
「エグいよな」道塚は笑う。「しかも、カケヤマシンゴの動画見てたら、確かに優勝して何千万ってもらってる時もあったけど、そんなのは数百回トーナメントに参加してようやく一回あるかどうかって感じらしい。まあ、トータルで見たら数億円は稼いでるみたいだからプロとして成り立ってるんだろうけど、スリリングすぎて俺なら生きてけねえわ」
「自宅マンションの駐車場で死んでたんだろ。てことは、犯人と接触があったのは駐車場ってことになる。駐車場に防犯カメラはなかったのか?」
「駐車場の出入り口にだけ防犯カメラはあった。駐車場は屋外で、車の出入りはそこからしかできないつくりになってる。映ってる車に関してはナンバープレートも全部読み取れて、事件当日に出入りがあった車の人物には全員聞き取りができてるけど、あそこの駐車場の出入り口は徒歩や自転車でも出入りできるつくりになってるから、徒歩や自転車で出入りしてた人物が犯人って可能性もある」
「確かに、徒歩や自転車の人物まで特定するってのは難しいよな。マンションのエントランスの方にある防犯カメラはどうだったんだ」
「そっちも見たけど、特に何もなかった。管理人にも後日改めて話は聞いたが、不審な人物は見なかったといってる」
「死亡推定時刻は?」
「七月一日金曜日、午後六時から午後八時の間だ。警察が駆け付けた時点ではまだ死後硬直が始まってなかったから、死亡推定時刻はわりとすぐに分かった」
「そうなのか」
岩戸は、俺がすみれとカジノに向かってた頃か、と思った。確かに道塚の話を聞く限り、現時点で岩戸が力になれそうなことはない。岩戸は腕時計を見た。
「昼、ここで食ってくのか?」
道塚の険しい表情から、さっと緊張の色が抜けた。
「ああ、そうするわ。たまにはハンバーガー食いたいしな」
「じゃあ、俺は戻るわ」
「お疲れさん。すみれちゃんによろしく」
「はいはい」
岩戸は帰ろうとして、トレイの横に置いていたカードの束に手を遣った。
「あっ、そうだ!」
「どうした?」
「ちょっとトランプ貸してくれよ」
岩戸からカードの束を受け取ると、道塚はそれを扇状に広げて岩戸に示した。
「一枚引いてくれないか」
岩戸はいわれた通りに、扇の半ばから一枚カードを引いた。
「そのカードのスートと数字を覚えたら――」
「おっと」
岩戸は、カードの山札を持つ道塚の右手首を握った。道塚は唖然として岩戸の顔を見た。その顔を見て、岩戸はニヤリと口角を上げた。
「このカードの山札、何でどっちも裏面なんだ?」
「えっ……」
「相手が悪かったな。俺にそんなマジックは通じない」
「何だ、知ってたのか」
道塚はがっかりしたように肩を落とした。
「マジックは好きだからな。裏向きのカードの中から相手に一枚引かせて、その後山札をさり気なくひっくり返したなら、もはやあのマジックしかない」
「その調子じゃ、すみれちゃんも鍛えられてそうだな」道塚は苦笑いを浮かべた。
「やってみたらどうだ」岩戸はカードを箱に仕舞った。「多分その程度じゃ、あいつの気は引けないと思うけど。あいつは今、カジノのディーラーにぞっこんだからな」
「何だよ、それ……カジノハマってるだけじゃねえのかよ」
「じゃ」
岩戸は、がっくりした様子の道塚を残して、ファストフード店を出た。しばらく歩いていると、やっぱあれしか思いつかないよなあ、と独り言が口をついた。
8 あなたの知らない世界の見かた
三日前に来た時には気づかなったが、マジックのステージの入場ゲート近くに設置されている掲示板には、マジックのショーの案内が貼ってあった。ただ、見てみると開催する曜日と時刻が書かれているだけでマジシャンが誰なのかは書かれていない。勝手に毎日やっているものだと思っていたが、マジックのショーは火曜日から日曜日に開催され、月曜日だけが休みとなっている。
「マジかよ」岩戸のテンションは一気に下がった。「今日だけ休みなのかよ」
「お客様」カウンターにいた女性が岩戸に声をかけた。「初めてのご利用ですか」
「あ、いえ」岩戸は不意を突かれた。
「プレイヤーズカードをお持ちでしたら、そちらのカードリーダーにカードを通していただければゲートは開きますよ」
「ええ、ありがとうございます」
岩戸はひとまず入場ゲートから離れた。ザ・スペードに会えると思ってきたのに、マジックのショーが休みではザ・スペードに会えるはずもない。ただ、せっかく来たんだしブラックジャックでもしていくかと思ったが、それなら先に晩飯を食べようと思った。カジノの中にもフードコートはあり、ハンバーガーやピザ以外にも、うどんや釜めしも食べられるがテイストがファストフードなので、昼にハンバーガーを食べた身としては、晩飯にはもう少しマシなものを食べたい気分だった。岩戸はIR施設内のレストラン街に向かった。
地上十三階のレストラン街には、そば屋、寿司屋、焼き鳥屋、オムライス屋などが並んでおり、月曜日にもかかわらず小学生ぐらいの子どもを連れた家族連れの姿も多い。そんな中を、きょろきょろしながら岩戸は歩いていた。視界に斜め前のピザ屋が目に入ったが、ピザじゃないんだよな、と思った瞬間岩戸の視線が止まった。
白のカッターによく映える、黒のチョッキと黒の蝶ネクタイ。そして、赤い口元とふんわりとしたボリューミーな黒髪。
岩戸が人ごみの中に見えるその姿を凝視していたのは数秒だったが、その数秒のうちに相手の視線も岩戸を捉えた。彼女の顔にも、小さな驚きの色がぱっと広がった。
「ザ・スペードさんじゃないですか」
駆け寄って岩戸がいった。思わず声が弾む。
「お兄さん」
やはり低いザ・スペードの声も、気のせいか弾んで聞こえる。
「どうしたんですか、この格好?」
「どうしてって、お仕事ですから」
ザ・スペードは特に不思議に思った様子もなく答えた。
「だって、それってディーラーさんの制服なんじゃないですか?」
「ああ」ザ・スペードが笑みを見せた。「わたし、ディーラーもしてるんです。マジシャンだけじゃ、勤務時間もちませんよ」
その笑みは、ステージで見せたミステリアスな笑みでも、ステージ後に岩戸兄妹に声をかけてきた時に見せた気障っぽい笑みでもなく、つくり気のない、女性が自然に見せるようなナチュラルな笑みだった。その笑顔を見て岩戸は、へええ、ザ・スペードさんもこんなふうに笑うんだ、と思った。
「こんなところで何してるんですか」今度はザ・スペードが訊いた。
「いやあ」岩戸はなぜか照れくさくなって頬を掻いた。「ちょっと何か食べようと思って」
「あら、そうなんですね」ザ・スペードは穏やかに答えた。「わたしも実はそうなんです。この後八時からまた仕事なので、途中休憩で晩御飯を食べに出てきたんです」
「そうなんですか」
岩戸も穏やかに答えたが、内心は穏やかでなくなった。
――え……これって、誘っていいのかな。
岩戸が誘おうかどうか迷っている目の前で、ザ・スペードは黙って立っている。家族連れやカップルが歩いていったり楽しそうに話したりしている中で、二人だけがその場で立ち止まって黙っている。すみれから、あの人、お兄ちゃんに気がありそうじゃん、誘ってる感じだったし、といわれた時にはすみれがいなかったら誘ってたのにと思ったが、いざその状況が訪れてみると、なかなかそんな簡単な一言がいえない自分に岩戸は気づいた。
「このピザ屋さん――」ザ・スペードがくるりと首を曲げた。「美味しそうですよね。ここ、前々から気になってたんですけど、まだ入ったことないんです」
岩戸もそのピザ屋を見た。「確かに美味しそうですね」
――一緒に入りませんか。
いや、やっぱりいえない。再び沈黙が訪れた。
「お二人様ですか?」
「え?」
岩戸とザ・スペードのきょとんとした声が重なった。声をかけた女性店員も二人の反応を見てきょとんとしている。
「あっ、すみません」女性店員は照れたようにはにかんだ。「二人分のお席が空いてるのか、見てらっしゃるのかと思って」
「実はそうなんです」
――え?
岩戸は驚いてザ・スペードを見た。彼女はちらっと岩戸に目配せした。
「二人分の席、空いてますか」
「はい」女性店員はにこっと微笑んだ。「奥の小さいテーブルでしたら、向かい合って座る形になりますが、空いております」
「いいですよね、そこで?」
ザ・スペードは優雅な雰囲気で岩戸の方に顔を向けた。岩戸も彼女の方に顔を向けたが、なぜか真っ直ぐ顔を見れない。
「え、ええ。もちろん、それで」
顔を少し反らせたまま、岩戸は上ずった声で答えた。心臓のバクバクが止まらない。
「ここ、眺めいいですね」
「あ、ほんとですね」
ピザを注文して座っていると、ザ・スペードがガラス張りの窓一面から見える都会の風景を見ていった。岩戸もそれにつられて都会の景色に目を遣った。もうすぐ日没で、オレンジ色に染まった空を背景に、ビルが立ち並んでいる。
「ごめんなさい」ザ・スペードがいった。
「え?」岩戸は彼女を見た。
「何ていったらいいか分からなくって、つい……」
「ああ、いや……」思わず恥ずかしくなって岩戸は手で口を覆った。「俺も、何て誘ったらいいか分からなくって……」
「え?」ザ・スペードの顔がきょとんとなった。「誘う?」
「え?」岩戸もきょとんとなって彼女を見た。
「お兄さん、わたしのこと、誘ってくださるおつもりだったんですか?」
「え……いや、だって……」
戸惑う岩戸を見て、ザ・スペードはぱっと笑顔になった。「嬉しいです、ありがとうございます。わたしもお兄さんとはお話したかったんです」
「え? 俺と? ですか?」
「ええ」ザ・スペードはこくりと頷いた。「お兄さんとは、楽しくマジックのお話ができそうだったので」
「ああ、そういうことですか」
岩戸は少しだけがっかりした。何だ、マジックの話ができる男として見られてるだけか。
「こないだ来ていただいた時、妹さんにわたしが披露したマジックの種明かしをされてましたよね。あんなふうにすぐに見抜かれてしまうなんて、わたしももっと腕を磨かないといけません」
「僕が見抜けたのは数個だけですよ」
「お兄さん、あの時もそんなことおっしゃってましたよね。そういえば、アンコールで披露したマジック、気になっていらっしゃるようでしたけど、謎は解けましたか」
「いや、まあ」
「あら! 解けたんですか?」ザ・スペードはぱっと驚いた顔を見せた。
「解けた自信は、はっきりいってないです」岩戸は力ない笑みを浮かべた。「あの時の状況を思い返した時に、ああいうマジックをするならこうするしかないよなあと思って思いついたトリックはあるんですけど、ザ・スペードさんが使ったトリックとは多分違うなとも思うんです」
「あの時の状況っておっしゃいますと?」
ザ・スペードは興味ありげな目を岩戸に向けた。
「まあ例えば――」岩戸はあの晩のステージを今一度思い浮かべた。「ザ・スペードさんの身なり、あなたが使っていたカードとかです」
「じゃあ、あの時のわたしでないとあのマジックはできないってことですか?」
「別にそういうわけではないです。道具さえあれば、マジックである以上、再現はできると思います」
ザ・スペードはミステリアスに微笑んだ。「さすがはお兄さんもマジシャンですね。意味深な言葉選びにいい方、聞いているうちにどんなトリックなんだろうって興味が湧いてきます。再現性があるのでしたら、お兄さんの考えたトリックがたとえ私の使ったトリックとは違ってても、お兄さんにもあのマジックができるってことですよね。見せてくださいません? お兄さんのトリックで、あのマジックを」
「今ですか?」
「カードならありますよ」
ザ・スペードは椅子の背の右側に掛けていた小さなショルダーバッグを、体をよじって取り膝の上に乗せた。
「わたし、いつもカードを持ち歩いてるんです」ザ・スペードはトランプの箱をテーブルに置いた。「どうかなさいました?」
「肩に、何か付いてません?」
「え?」
ザ・スペードが右に体をよじっていた時、彼女の左のうなじに何か黒いものが着いているように岩戸には見えたのだった。ザ・スペードはボリューミーな黒髪をやや左に寄せて中分けしているせいで髪の左側はややボリュームが減り、その髪を肩の後ろに流しているため、左のうなじは見えやすくなっている。
ザ・スペードは赤く塗った口元に薄い笑みを浮かべた。「これじゃないかしら」
彼女はテーブルに軽く左肘をついて、左手で左のうなじを覆う髪をのかした。
「スペード?」
「はい。スペードです」ザ・スペードは姿勢を正して岩戸と向き合った。
「タトゥー……ですか?」
「そう。タトゥーです。驚きました?」
「いえ……別に」岩戸の声は最初ぎこちなく震えたが、突然明るい調子が混ざった。「いいじゃないですか」
「え?」
「何か羨ましいです、俺」
岩戸は笑みを滲ませたままザ・スペードを真っ直ぐに見た。彼女は不思議そうに岩戸を見つめ返している。岩戸は続けた。
「俺もほんとはピアスとかタトゥーとかしてみたいんですけどね、そんな勇気なくって、そうやってさりげなくタトゥーしてるザ・スペードさんのことが何か羨ましいです」
「お兄さん、いい人ですね」ザ・スペードの顔にじわりと笑みが広がった。「タトゥーしてるっていうと、日本だと距離を置いてくる人もいるのに、タトゥーしてるっていって、距離を縮めてきた人はお兄さんが初めてです」
「いつからしてるんですか」
「アメリカで働いてた頃からです」
「アメリカで働いてたんですか」
「はい。わたし、高校卒業後はマジシャンになりたくて、渡米したんです。海外だと、タトゥーしてても、それだけで距離置かれたりってことはないんですけどね」
「ますます羨ましいなあ」岩戸は頬を掻いた。「僕もマジシャンになりたかったんですけど、高校卒業後は無難に大学に進学しちゃいましたからね。海外に行くなんていう発想はなかった」
「お兄さんの顔立ちなら、ピアス、似合うと思いますよ。今からでもされたらどうですか」
「いや、ちょっとまずいかな。僕、こう見えて公務員なんですよ」
「公務員? 公務員ってことは、市役所で働いてるんですか?」
「実は――」岩戸は一息間を置いた。「科捜研で働いてるんです」
「え?」
これは意外だったらしく、髪に隠れていない方の彼女の左目はまん丸に見開かれた。
「警視庁の付属機関の科学捜査研究所で、化学分野の専門職員として働いてるんです」
「カガクって、ケミストリーってことですか」
「そうです、ケミストリーです」
「すごい」ザ・スペードの瞳がきらきらと輝いた。「化学なんてわたし、中高生の頃、全然できなかったのに、お兄さんはあんな難しいことが分かるんですね」
「難しいことまでは分かりませんよ」岩戸は照れくさくなって顔に笑みを滲ませた。「化学の実験って、いきなり色が変わったりとかするからマジックみたいで面白いなって思って勉強してただけですから」
「それで勉強できちゃうところがすごいです。そんな実験見ても、わたしならすごいって思って終わりだったのに」
岩戸はグラスの水を見て、ザ・スペードから顔を反らせた。「普段は科捜研で働いてるなんて、人にはいわないんですけどね」
「あら、どうしてですか?」
「まあ、警察の人って、警察で働いてることを伏せるものなんですよ。警察関係者だって知られると、仕事に支障を来たすこともありますから」
「じゃあ、どうして教えてくれたんですか?」
「まあ、何というか……」
岩戸はザ・スペードから目線を反らせたまま口ごもった。
――何ていったらいいんだ……。あなたにはいいたくなったからってか。いや、そんなこといえないよな……。
「わたしも普段は、嘘つくんですけどね」
「え?」
岩戸はさっと顔を上げた。ザ・スペードはニコニコと笑っている。
「タトゥーですよ。普段はタトゥーシールですって嘘をついてるんです。でもなぜだか、お兄さんにはほんとのこといっちゃいました」
「そうなんですか……」
何といったらいいのか分からず、岩戸が会話を続けられずにいると、ザ・スペードはテーブルに置かれたまま放置されているトランプの箱を岩戸に差し出した。
「お兄さんのトリックで、あのマジック見せてくださいよ」
「え? ああ……」
ザ・スペードは楽しげに微笑んでいる。
「ただですね――」岩戸は差し出されたトランプの箱を、ザ・スペードにそっとつき返した。「このカードだけあっても、僕の考えたトリックであのマジックはできないんですよ」
「他に何か必要なんですか」
「そうやって訊くところを見ると、やっぱりザ・スペードさんのトリックは僕の考えたトリックとは違うみたいですね。ザ・スペードさんのトリックは、このカードだけで、他には何も要らないんですか」
「さて、どうでしょう」ザ・スペードは思わせぶりに微笑んだ。「では、わたしもマジシャンらしく、情報を小出しにするとしましょう。わたしの方法であのマジックができるのは、トランプのカードがこういうものだからこそなんです」
「どういうことですか?」
意味が分からず、岩戸は眉をひそめた。
「トランプのカードって、スタンダードなものなら表面のデザインはどのメーカーのものも基本的に同じです。J、Q、Kは絵札になってて、それぞれに騎士、女王、王のイラストがついてますし、ダイヤとハートは赤色で、クラブとスペードは黒色です。もしトランプのカードがこうでなかったら、わたしはあのマジックを、あの方法ではできないと思います」
「それ、ヒントですか?」
ザ・スペードは一旦首を傾げると、続いてミステリアスに笑った。「そうですね、ヒントになってると思います」
「もういっこ訊いてもいいですか」
「ええ、いいですよ」
「マジックのトリック、特にトランプのカードマジックのトリックは、一般的に物理的なものか数学的なものかに分類できると思うんです」
「物理的? 数学的?」ふふっとザ・スペードは声に出して笑った。「お兄さん、いい方が独特ですね」
「そうですか」岩戸としてはそんな感覚はない。
「でも、確かにそういういい方もできるかもしれませんね」ザ・スペードはカードの山札を手に取った。「こうやってシャッフルすればカードの並びはぐちゃぐちゃになりますけど、こうやってカットするだけなら、知らない人にはシャッフル同様にカードの並びはぐちゃぐちゃになったように見えるのに、実際はカードの並び順は固定されたままですもんね。それで予め等差数列にカードを順番に並べておけば、次のカードが何なのかをいい当てることだってできますからね」
「ザ・スペードさんのトリックは、物理的なものですか、それとも、数学的なものですか」
ザ・スペードは、ううん、と唸った。しかし、その顔には薄い笑みが浮かんでおり、どこか楽しげで真剣に考えているようには見えない。
「お兄さん、魔法ってあると思いますか」
「え?」
脈絡のない唐突な質問に、岩戸は呆気に取られた。
「魔法ですよ、魔法」ザ・スペードは楽しそうに繰り返した。
「あるかないかっていったら、ないんじゃないですか。だって、魔法ですよね」
「全然理由になってないじゃないですか」ザ・スペードはおかしそうに笑った。「何か、もっと理詰めで魔法なんてないっていってくるかと思ったのに」
「どうしてそんな?」
「だって、科捜研でお仕事されてるんでしょ。それに、物理的とか数学的とか、難しそうなことおっしゃってたじゃないですか」
「何いってるんですか」岩戸も笑った。「ザ・スペードさんこそ、等差数列とかいってたじゃないですか」
「それくらいは知ってますよ。ないっておっしゃるんでしたら、お兄さんは魔法をどういうものだと考えてるんですか」
「ううん」
今度は岩戸が唸った。ただし、その顔は真剣だ。魔法がどんなものかなんて真面目に考えたことはなかった。魔法の定義って何だろう。
「ふふっ」目の前でザ・スペードがおかしそうに声を上げた。「お兄さんったら、すごい真剣! ちょっと興味本位で訊いただけなんですから、そんなに考え込んでくださらなくてもいいのに」
「いやあ……」岩戸は相好を崩した。
すると二人のテーブルに、お待たせしました、という声と同時に、ピザが置かれた。注文した時に、店内のナポリ式薪窯で焼き上げるので少々お時間を頂戴いたします、とはいわれたが、ザ・スペードと話していたので全く長くは感じなかった。
「ほんと美味しそう」
ザ・スペードはテーブルに置かれたピザを見て幸せそうに小さく手を叩いた。
「ゆずの香りがしますね」
「熱いうちにいただきましょう」
「そうですね」
二人は、いただきます、と手を合わせた。
しばらく二人はピザが美味しいという話をしながら食事をしていたが、ザ・スペードは飲んでいたノンアルコールワインのグラスを置くと、テーブルの脇にのけていたカードを手に取った。
「そういえばさっき、話が途中になっちゃいましたね」
「何の話でしたっけ?」
岩戸は口に運びかけていたピザを持つ手を止めた。
「魔法の話ですよ。お兄さんは魔法をどういうものだって考えてるんですかって話です」
「そんな話してましたね」岩戸はピザを皿に置いた。「強いていうなら、常識では説明できない現象ってところですかね」
「じゃあ、再現性があって説明がつくマジックは魔法ではない、と?」
「それはそうじゃないですか」岩戸は笑った。「魔法は確かに英語に訳すとマジックですけど、マジックにはトリック、いわゆるタネや仕掛けがあるじゃないですか。トリックはちゃんと順序だてて説明できるものだし、その手順通りにやっていけば誰でもそのマジックを再現できるわけですよね。それがエンタメとしてのマジックで、魔法はあくまでアニメとか漫画とかに出てくる超能力みたいなものじゃないですか」
「お兄さん、やっぱり頭いいですね」ザ・スペードは寂しげに瞬きをした。「そんなふうに話されたら、魔法なんて無いのかもって思っちゃいます」
「ザ・スペードさんは、魔法はあると思うんですか」
ザ・スペードは岩戸を見て、こくりと頷いた。「わたしはあると思ってます。魔法があった方が、何か人生楽しくなりそうじゃないですか」
「やっぱり何だか、ザ・スペードさんが羨ましいです」岩戸はジンジャエールを一口飲んだ。「そういう感覚、ずっと忘れてましたけど、思い出しました。小さい頃アニメが好きで、幼稚園の頃には好きなアニメのキャラになりきって、かめはめ波とか練習してましたもん。あの頃は大人になったら何にだってなれるんだって思ってて、大人になるのが楽しみで仕方なかったんですよね」
「わたしは今でもそうですよ。もしわたしもお兄さんみたいに頭が良かったらそんなふうには思えないのかもしれないですけど、わたしは今でも、これから先、自分の未来に何か起こるんだろう、どんなことができるんだろうって楽しみなんです」
「ザ・スペードさんと話してると、あの頃のワクワク感が蘇ってくるような気がします。何か今、ものすごい懐かしい感覚がします」
「でも、お兄さんだって、難しく考えなかったら、今でも魔法を信じられるんじゃないですか」
「そうですかねえ」
訝しげな顔をした岩戸に、ザ・スペードは澄ました顔を見せた。
「お兄さんは科学系のお仕事をされてるからロジカルに考える癖が身についてるんでしょうけど、わたしは、科学とは別の次元で、でも科学と同時に魔法は成立してるんだろうなって思ってます。だって、説明はできないけど、できることってあるじゃないですか」
「なるほど」岩戸も思いついた。「例えば、自転車に乗れるようになる、とかそういうのですね」
「そう! そういうのです!」ザ・スペードはぱっと顔をほころばせた。「あと、絶対音感とかもそういうものかなって思ってます。練習してるうちに、どうしてかは上手く説明できないけど、聞いてる音楽のドレミファソラシドが分かるって、できない人からしたら魔法じゃないですか。できない人もいるけど自分にはできる、でも、どうしてできるのかはよく分からない、そんなのが魔法なのかなってわたしは思ってます」
「いいですね、それ」岩戸は思わず息を呑んだ。「すごい斬新な考えだ。魔法って、そういうふうに説明できるのか。何だか新しいことを発見したような気分で、世界の見え方が変わりそうです」
「そういういい方をされるところ、やっぱり頭いいですね」
「そうでしょうか?」
「そうですよ」ザ・スペードはニヤリと口角を上げた。「でも、そんな賢いお兄さんのままじゃ、わたしの使ったトリックは非常識すぎて想像もできないでしょうね」
「え?」
岩戸は反射的に顔を上げた。
「もっと自由に考えないと、わたしの使ったトリックは見破れませんよ」
ザ・スペードの笑みは、いつの間にかミステリアスな色を帯びていた。
9 カモフラージュ・イン・ザ・ブラックジャック
腕時計を見ると、時刻は七時五十八分になっていた。会社帰りと思われる若い男女が流れるようにカジノに入っていく。道塚もその流れに身を任せてカジノに入っていった。
ブラックジャックのテーブルが並ぶピットに入ると、道塚は人々の様子に注意を向けた。さすがにプレイ中に話しかけるわけにはいかない。ゲームが一段落ついているテーブル、そんなテーブルはないかなと見回していると、アイロンを当てたロングの茶髪を肩に垂らした女性がディーラーと楽しげに話している後ろ姿が目に留まった。ディーラーには見覚えがある。確か、ザ・クラブといったはずだ。遠目にもはっきりと分かる、正真正銘のイケメンだ。道塚は歩を進めた。
「すみません」
道塚はそのテーブルに声をかけた。ザ・クラブは目にかかった一筋の髪越しに道塚を見、客の女性は振り向いた。
「あら」女性の顔がぱっと明るくなった。「道塚さん!」
「えっ!」道塚は驚いて声を上げた。「すみれさん!」
「おや。お知り合いですか」
「兄の職場仲間です。あ」
すみれの顔がフリーズした。
「貴継さんの職場仲間?」ザ・クラブは疑問調にいうと、視線を道塚に向けた。「刑事さん、ですよね?」
「はい。先日はどうも」
道塚はザ・クラブに答えながら、すみれに目を遣った。彼女はぎこちない動きでザ・クラブを見た。
「貴継さんって、会社の研究職だったんじゃないんですか?」
ザ・クラブがすみれに訊いた。そういうことか、と道塚は思った。
「バレちゃった」すみれはてへっと舌の先を見せて笑った。「お兄ちゃん、警察で働いてるの他人には隠してるから、化学系の仕事をしてるってあの時はいったんです」
「では、貴継さんも刑事さんなんですか」
「いえ、違います」すみれは頭を振ってザ・クラブの目を見た。「ザ・クラブさんは他人じゃないですもんね。ほんとのこといっちゃうと、兄は科捜研で研究職をしてるんです」
「あー、なるほど」ザ・クラブの顔に納得の色が浮かんだ。「確かに嘘ではないですね。私の早とちりだった。すみれさんから化学系のお仕事をされていると聞いたものですから、勝手に会社の研究員だと思ってました」
二人の会話を聞いていた道塚の脳裏に、嫌な予感がよぎる。加えてこの空気感。やっぱり嫌な予感しかしない。日中に岩戸がいっていた、すみれちゃんがぞっこんになっているディーラーって、こいつのことか。
「刑事さん」ザ・クラブがいった。「刑事さんも、今夜は遊びにいらしたんですか」
一瞬何をしに来ていたのかすっぽり頭から抜けていたが、道塚は我に返った。
「いやいや、仕事ですよ」
「そうなんですか。それはご苦労様です」
「ねえ。もしかして――」
すみれはそこまでいうと、椅子から腰を上げて道塚に顔を近づけた。道塚が、えっ! と戸惑うと同時、甘い香水の香りがふっと彼の鼻孔をくすぐった。すみれは左手を添えて、そんな道塚の耳元で囁いた。
「カケヤマシンゴさんのこと?」
「ええ……そうですけど……」
すみれは、そうなんだ、といいながら再び椅子に腰を下ろした。「分かったら教えてね」
「ああ……まあ」
ドキドキしながら立ち尽くしている道塚をよそに、すみれは「ベット」といってチップを差し出した。
「なるほど」ザ・クラブがいった。「カケヤマさんはうちのカジノにもしばしば来ていましたからね。うちのカジノに来ているお客様の誰かから、何か手がかりになるような話は聞けないかと思ってやってきた、といったところですかね」
図星だった。事件当日の深夜、桂木とザ・クラブからカケヤマシンゴが『casino de magician』を仕事でもプライベートでも使っていたことは聞いていた。その後の捜査会議で、カケヤマシンゴが利用していた日本全国のカジノで従業員のみならず、常連客も対象にして聞き込み捜査を実施することが決まったのだった。
「やった!」
嬉しそうにすみれが声を上げた。見ると、ザ・クラブのハンドは4、J、9でバーストしており、すみれのハンドは十四だ。
「こんなところでぼーっとしてると、そういう人だってバレちゃうよ」振り返ってすみれがいった。「ブラックジャックのテーブルなんて、仕事するには持ってこいじゃない」
「え?」意味が分からず、道塚はすみれを見た。
「そうですよ。お兄さん」ザ・クラブは左目の脇に垂らした前髪の前で三枚のカードを扇状に広げてみせた。「ブラックジャックはギャンブルであると同時に、社交の場でもあります。ほら。向こうのテーブル、すごい盛り上がってるでしょ」
ザ・クラブが手にしたカードで示した先を見ると、ディーラーは淡々とカードをさばきながらも、その前では客同士がアルコールを飲みながら会話を弾ませている。
「まあ、カモフラージュかもしれませんが」
「え? カモフラージュ?」
「あのバカ騒ぎもあのお酒も――」すみれがいった。「カモフラージュかもしれないってこと。すごい人になると、どんなにバカみたいにおしゃべりしてても、こっそりとカウンティングしてるんだよ」
「お兄さんもこっそり仕事したいんじゃないですか。じゃあやりましょうよ、ブラックジャック」
「そうと決まったら、ほら!」
「え?」
道塚が見ると、すみれは自分の右隣の席をバンバンと手で叩いていた。
「ほら。座ってよ、道塚さん」
「ううん……仕事中にさすがにこれはマズいよなあ」
そんなことをぼやきながらも、道塚はすみれに促されるがままに彼女の隣の席に腰かけた。とはいえ心の中で、ラッキー、と思っている自分がいるのも事実だった。道塚はとりあえず五千円をチップに替えた。
「では、ベットをお願いします」
すみれはチップをベッティングスペースに置いた。それを見て道塚もチップを置こうとしたが、一体どれぐらい賭けるもんなんだ、と思ってしまい、その手は数枚のチップを掴んだまま止まった。
「ミニマムベットは二百円ですよ」
そんな道塚に気づき、ザ・クラブが機転を利かせて彼に声をかけた。
「そうなんですか。じゃあ、とりあえずこれで」
ザ・クラブのフォロー通りに、道塚はグレイのチップ二枚をベッティングスペースに置いた。そして、ザ・クラブは二人の目の前でカードを配り始めた。顔に似合い過ぎるほどの、華麗すぎるカードさばきだ。おお、かっけえ、と感嘆の声が素直に道塚の口をついた。
一ディール目、道塚のハンドはダイヤの7とスペードの6で十三だ。
「十三か、不吉だな」
「何それ」
横ですみれが笑った。
「十三じゃ、縁起悪いじゃないですか」
道塚はヒットの動作を示した。
「そんな理由でヒットする人、初めて見た」
「いいんじゃないですか」ザ・クラブが微笑む。「ギャンブルに直感は大事です」
「おおっ!」道塚は足されたカードを指さした。「二十一だっ! 最強じゃん!」
追加されたカードはクラブの8だった。
「あーあ」すみれは苦笑いを道塚に向けた。「ただのビギナーズラックだって」
すみれはスペードのAとクラブの9でかなり強いハンドだったのでスタンドした。最後に、ザ・クラブがホールカードをひっくり返す。
「A!」
道塚とすみれの声が重なった。ザ・クラブのヒットしたカードはクラブの4だ。アップカードのダイヤの2と合わせて、彼のハンドはソフト・セブンティーンになった。
「ザ・クラブさんも二十一にならなくて良かったね」
「ヒットしないんですね?」
「ええ」ザ・クラブはトレイからチップを取った。「当カジノでは、ディーラーがソフトハンドの時、Aは十一として扱うんです」
道塚とすみれに、ベットした分と同額のチップが支払われた。
「よし!」
道塚は赤のチップ二枚をベッティングスペースに差し出した。
「へー。強気じゃん」
先ほどの五倍になる道塚のチップを見て、すみれがいった。
「さすがに二回連続は来ないでしょ、と思わせて来たりする。だからここは勝てそうな気がするんです」
「あっ、負けフラグ立ったな」
「お兄さんに、いいカードが行くことを祈ります」
道塚をからかったすみれの言葉に覆いかぶせるようにザ・クラブがいった。ザ・クラブは細くて美しい指でカードを配り始めた。そんなザ・クラブを道塚はさっと見上げた。
「ディーラーって、かっこいいですね」
「ありがとうございます」ザ・クラブはカードを配りながら道塚に答えた。「でも、お兄さんのお仕事もかっこいいですよ」
「そりゃどうも」道塚は苦笑いを浮かべた。「よくいわれるんですよ、先輩から。俺、こういう仕事してるくせに睡眠時間はちゃんととりたくて、遅くなった時にたまに嫌な顔しちゃうんです。そうすると先輩が『捜一は花形だ、かっこいいぞ』ってね」
「ザ・クラブさんは、何しててもかっこいいと思うけどね」
横から茶々を入れてきたすみれにザ・クラブはにこりと微笑むと、今度は道塚を見た。
「お兄さんは、どうしてそのお仕事を選ばれたんですか」
「俺ですか?」道塚はふと考え込んだ。考えながらヒットの動作をした。「そうですねえ、やっぱり、正義感のある仕事、誰かを守れる仕事に憧れたからですかねえ」
「では、天職ですね。でないと、そういうお仕事は続きませんもんね」
道塚は配られたカードを見てスタンドの意思を示した。
「でも、俺がよく一緒に行動してる先輩は違うんですよ。ほら。こないだ俺と一緒にいた、あの刑事です」
「ああ、あの方ですか」
ザ・クラブは云々と頷いた。
「半分冗談な気もしますけど、社会人になってからも柔道とか剣道を金もらいながら練習できるなんて最高だと思って警察官になったらしいです」
「それはそれで頼もしい」
視線をすみれの方に向けたまま、ザ・クラブはおかしそうに口元を緩めた。すみれはヒットの動作をした。
「先輩、あんな感じで見た目は髭もじゃのゴリラみたいな顔なんですけど、地味に頭はキレるし、飄々としてて仕事もできる。そういうのを近くで見てると、『ああ、憧れだけじゃ駄目なんだな』ってたまに落ち込むんですけどね」
「確かにあの刑事さん、私のマジックをすぐに理解してましたもんね。でも、そういうすごい人と一緒に仕事をさせてもらえてるってことは、お兄さんも期待されてるんですよ」
「あっ、勝った!」
ザ・クラブのハンドを見てすみれが声を上げた。それでふと、自分は今ゲームしていたんだということを思い出し道塚も自分のハンドを見た。
「あ」
「はい。負けフラグ通り」
では、といって爽やかな笑みを浮かべながら、ザ・クラブはテーブルのカードを回収し、道塚のチップを没収した。
そんな甘くねえか、と思いながら道塚は今度はグレイのチップ五枚をベッティングスペースに置いた。
「道塚さん」チップを差し出しながら、すみれが道塚に笑みを向けた。「その先輩のこと、前も話してたよね」
「え?」
「ほら。前に『先輩が仕事できすぎて、何か惨めだわ』ってぼやいてたじゃん」
「ああ、そうそう。その人です」
そういえば以前岩戸兄妹と出かけた時、昼食を食べながら吉月のことを話していたことを道塚は思い出した。
「道塚さん、自慢に思ってるんだ、その人のこと」
「え? 自慢に思ってる?」道塚はヒットの動作をしながらすみれの言葉を繰り返した。
「だってそうでしょ。自慢に思ってるから、そんなにその先輩のことばっかり話すんじゃない。それに、惨めだーとか、落ち込むーとかいいながら、何か楽しそうに話するじゃん」
「ううん。どうなんだろうなあ」道塚は唸りながら苦笑いを浮かべた。「そういうのとはちょっと違うかな。何ていうか、俺の場合は純粋に先輩に嫉妬してるんです」
「嫉妬?」今度はすみれが道塚の言葉を繰り返した。
「そう。ただ、どす黒い感じの嫉妬じゃなくて、じれったい感じの嫉妬なんですけどね」
「分かりますね」
ホールカードをひっくり返しながらザ・クラブが感慨深げにいった。道塚とすみれはさっと彼を見上げた。ザ・クラブは華麗な手さばきでディーラーの仕事をこなしながら続けた。
「確かにすみれさんがおっしゃる通り、男の人にはそういうところがあります。こんな人と一緒に仕事してるんだとか、こんな奴が友達にいるんだとかいって、さりげなく自分はすごいんだって自慢するっていうことがね。でも、その人が秀でてることが自分が極めたいと思ってることと被っている場合、ほろ苦い嫉妬心がそこに混じるものなんですよ」
「へー。そういうものなんですか」
「そういうものなんです。女の人には、理解しがたいかもしれませんけどね」
そういってザ・クラブは微笑むと、二人に手のひらを示した。我に返り、道塚はチップを摘まんだ。
その時だった。ザ・クラブが「あっ」といったように小さく口を開け、その表情が一瞬止まった。その視線の先にさっと道塚が顔を遣ると、一人の女性が立っていた。
「更科さん」
思わず道塚がいった。万理華の方も道塚に気づき、「あら。刑事さん」といって目を丸くした。
「もしかして、カケヤマシンゴさんのご関係の方?」
道塚と万理華の間で、二人の顔を見比べてすみれがいった。その言葉に、万理華は表情を緩めてすみれを見た。
「鋭いですね」
「何かその、カケヤマシンゴさんの動画でお声に聞き覚えがあったような気がしたんです」
「そっか。たまにわたしの声、入ってましたものね。ただ、わたしはどっちかっていうと、カケヤマシンゴっていうよりはシンゴのプライベートで関わっていた者なんですけどね。あの、このテーブル、入ってもいいですか」
「ええ。どうぞ」
ザ・クラブは笑顔で万理華に答えると、空いている席を手で示した。彼女はすみれの左隣の席に腰を下ろした。
「別に気が滅入ってるとかってわけじゃないんですけど、何か遊びに来ちゃいました。いつものチップで」万理華はザ・クラブに一万円札を差し出すと、今度はすみれの方に顔を向けた。「変に気なんて遣わなくていいですからね。わたし、シンゴとは付き合ってたんです」
「だと思ってました」
「あら、バレちゃってました?」
にこりと笑ったすみれにつられたように、万理華も彼女に無邪気な笑顔を見せた。
「プライベートで関わってた者、なんていわれて、しかも、それ以上詳しくは何もいわれなかったら、それって察してください、ってことじゃないですか。だったらそれって、そういうことですよね」
「それもそうね」万理華はふふっとおかしそうに笑みを滲ませた。「わたし、更科万理華っていいます。よろしくね」
「あたしは岩戸すみれです。あたしこそ、よろしくお願いします」
「すみれさんはよく私のテーブルに来てくれるんです」
ザ・クラブが万理華にチップを差し出しながらいった。それを聞いたすみれは「もう、ザ・クラブさんたら」といって恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「刑事さん。今日はこちらに聞き込みにでも来られたんですか」
三人のベッティングスペースにチップが置かれ、ザ・クラブがカードを配りだすと万理華は声をひそめて道塚を見た。
「まあ……そう……ですね」
答える道塚は歯切れ悪くなった。すると、横ですみれがくすっと笑った。
「もしかして、遊んでると思われたんじゃない?」
「まあ……そりゃそうでしょうね」
道塚はきまり悪さをひしひしと感じた。実際、事件のことなど考えずにブラックジャックに興じていただけだったので仕方がない。
「カジノで何もプレイもせずにいたら怪しいじゃないですか」すみれは万理華の方に顔を向けた。「だから道塚さん、プレイしながら聞き込み捜査してるんですよ」
「そうなんですね」にやにや笑いを浮かべているすみれにまたもやつられたように、万理華の顔にも似たような笑みが広がった。「こないだお話した時、あんまりこういうゲームには詳しそうには感じなかったんですけど、そんな高度なこと、できるんですね」
「やめてくださいよ」道塚は二人の女性の方を見た。思わず声が情けなくなる。「お二人とも、からかい方がきついです」
道塚の様子に、ザ・クラブを含めて三人がおかしそうに笑った。
しばらく四人は、和気あいあいとブラックジャックのテーブルを囲んでいた。万理華という被害者の関係者が突如来たせいで道塚は少し気まずさを覚えたが、他方ですみれはまったく気にならないのか、相変わらず軽口を叩きながらブラックジャックをプレイし、他愛もない話題で万理華とも話していた。そんな中でふと道塚がすみれと万理華のチップに目を遣ると、二人のチップは増えていっているが、自分のチップは明らかに減っていっていることに道塚は気がついた。どうやら、何の戦略もなしに勝てるものではないというのは本当らしい。
「そういえば皆さん、シンゴのことはご存知なんですよね」
せっかくすみれちゃんの隣でプレイしてるんだ、もう少し遊んでいくかと思い、道塚がチップを追加しようかなとポケットの財布に手を伸ばしかけた時、万理華がいった。道塚が万理華の方を見ると、頬杖をついていた彼女の表情にはいつの間にか翳りが差しており、その目はテーブルのカードを眺めていた。
「人って、どうしてあんなことしちゃうんでしょうね」
カードを見つめたままヒットの動作をしながら万理華がいった。あんなこと、というのは無論殺人のことだろう。
「ほんとそうですよね」道塚が応じた。「命に代えはない。そんな当たり前のことを、皆が分かっててくれればいいのにって、こういうことが起こるたびにいつも思います」
「そんなことぐらい、皆分かってるんじゃないですか」
万理華がスタンドの意思表示をしながらいった。予期せぬ鋭利な返答に、道塚は面食らった。
「そんなことは皆分かってる――」万理華は繰り返した。「でも、そうせずにはいられないってことがあるから、あんなことしちゃう人がいるんじゃないかなって思うんです」
「あ、大負けした」
二人の間ですみれがいった。道塚も負けており、勝ったのは万理華だけだった。ザ・クラブが手際よくチップの清算をするのを眺めながら、道塚は「まあ、そうですねえ」と曖昧に同感の意を示した。万理華のいっていることは尤もだが、自分の立場から被害者の恋人である彼女にそんなことをいうわけにはいかないと思い、道塚としては当たり障りのないことをいうに留めたのだった。
「あたしもそう思うな」チップをいじりながらすみれがいった。「道塚さんはどう思う? どんなことがあったら、人はそうせずにはいられないって思う?」
「え?」
気づくと、すみれと万理華は道塚の顔をじっと見ていた。ゲームしながらこんな話すんのかよと思いつつ道塚は考えてみた。
「やっぱり、衝動的にイラっときたり、知られたくないことを知られたりしたら、常識的な人でも自分を見失っちゃうのかもしれませんね」
「は?」
すみれの表情が一瞬のうちに白けた。
「どうしました?」
「刑事さんなんだから、もっとすごい回答が聞けると思って訊いたのに、真面目な顔して考えてそれ?」
「え? 俺、そんな薄っぺらいこといいました?」
すみれのあまりの白け顔に、道塚は急激に体が熱くなるのを感じた。
「薄いも薄い、超薄いよ。そんなんじゃ、いつまで経っても先輩の刑事さんには追いつけないんじゃない」
そんな、とかいいながら道塚が赤面していると、万理華が突然ぷふっと吹き出した。
「もしかしてお二人、付き合ってます? てか、付き合ってますよね」
「え?」
万理華の思わぬ発言に、道塚とすみれの声が重なった。
「だってそうじゃない」おかしそうに笑いながら万理華が続けた。「そんな息の合った合いの手を入れられるって、それってそういうことですよね」
すみれがすかさず「ないない! それは違う違う!」と否定している隣で、道塚はさらに顔が火照ってくるのを感じた。情けないことに動揺しており、チップを持つ手は震えていた。
10 魔法が存在する世界線
IR施設内のショッピングモールを歩いていると、化粧品会社の大きなポスターが岩戸の目を捉えた。そのポスターには有名な女優がアップで載っており、前に突き出したやや厚めの唇は真っ赤に塗られている。新製品の口紅の販促ポスターである。どれくらいの女性が日常的に口紅を使用しているのかは知らないが、ここまで真っ赤な口紅はかなり人目を引く。実際、今日ザ・スペードの顔を見た時も、その真っ赤な口元が真っ先に目についた。彼女のようにエンターテインメントの仕事をしているなら使い道もあるだろうが、公務員のようなかたい仕事をしている女性がこんな真っ赤な口紅を買ったところで、いつ使うんだろうと思ってしまう。
そんな無用の心配をしている自分からふと我に返ると、岩戸は駅に向かって再び歩き始めた。ザ・スペードのミステリアスな笑みと意味深な捨て台詞が脳裏をよぎる。あんなことをいわれては、とてもカジノどころではない。岩戸はザ・スペードとラッキーディナーをご一緒した後、カジノには戻らず帰宅することにしたのだった。
今岩戸がこの場でカードを一デック与えられて、通りすがりの何人かに好きなだけシャッフルさせた後、裏向きのカードの中から互いに異なるスートのAだけを取り出すマジックをやれといわれてもできないが、ちょっとした小道具を与えられさえすれば、そのマジックをしてみせることはできる。ただ、その方法はあの夜にザ・スペードがとったものとは違う。岩戸がこのマジックをするにはある細工が必要だが、記憶を辿る限り、ザ・スペードがそんな細工をしていたはずはないのだ。あの夜にザ・スペードのこのマジックを見た時、岩戸にはトリックの見当がつかなかった。しかし、そうであったとしても、もし彼女が岩戸の思いついたトリックであのマジックをしていたならば、そのトリックを仕掛ける動作がマジックに嗜みのある者にとっては本能的に引っかかるものであるため、思い返した時にあのマジックのトリックはこれに違いないと確信が持てるはずなのだ。だが、そんな確信は岩戸にはない。
――頭がいいと思いつかない。俺の想像を超えている。
ザ・スペードのいっていた、思わせぶりなワードが再び蘇る。あの話しぶりからして、ザ・スペードは、岩戸には彼女の使ったトリックは見破れないと踏んでいるとみて間違いない。マジシャンはマジックのトリックを明かすこともあるが、渾身のマジックのトリックを明かすようなことは普通しない。ならば、あの意味深な言葉には実際のところ意味はなく、ただ岩戸を煙に巻いただけだったのだろうか。
中学生だった頃、化学はマジックに似ていると岩戸は思ったが、大学生になってオリジナルのマジックを作るようになると、マジックは化学ではなく、物理学や数学なんだと考えを改めた。カードのマジックならば整数の性質を利用してトリックを作ることができるし、物体に他の物体をすり抜けさせるマジックならば道具の物理的な操作手順でトリックを作ることができるからだ。ただ、現在は昔のように、やっぱりマジックは化学だなと思っている。振り返って思えば、大学で学んだ化学の基礎は粒子を物体と見なして計算していく物理学に他ならなかったし、そんな物理学の計算は数学に基づいているからだ。突き詰めていけば化学的な現象は物理学で説明できるが、化学的な現象そのものは物理学ではない。つまり、マジック自体はビフォーアフターで状態が変化するという点で化学に似ているといえるし、マジックを成立させるトリックは物理学や数学に基づいているという点で、やはりマジックは化学なのだ。
だが、ザ・スペードによれば、物理学や数学とは無縁のトリックがあるらしい。当然この世界内での現象なので物理学や数学に矛盾することはないだろうが、物理学や数学とは無縁のトリックというのが岩戸には想像できない。ザ・スペードにいわせれば、それが魔法ということになるが、あんないい方だけでは見当もつかない。
岩戸は車内の壁に寄りかかって目を閉じた。脳内で、あの晩に見たザ・スペードのマジックを再びプレイバックしてみる。もう一度あのマジックを見てみる必要はあるが、ヒントは目にしたものの中にあるはずだ。
彼女が使っていたトランプのカードはどんなものだったか。何度もスクリーンに映し出されたので、それは覚えている。マジック向けの、裏面の縁が白く囲まれたものではなく、カジノ向けの、裏面全体に幾何学模様がデザインされたものだった。では、マジック向けのカードではなく、カジノ向けのカードを使っていたのは何か意味があったのか。岩戸自身が思いついたトリックは、カードがマジック向けだろうがカジノ向けだろうが、どちらでも支障なくできるし、どちらの方がやりやすいということもない。しばらく考えていると、ハッと思い当たり、岩戸は目を開けた。
そういえば先ほどザ・スペードは、トランプのカードがこうであるから、わたしはあの方法であのマジックができたといっていた。これはつまり、もしトランプのカードがこうでなかったら、ザ・スペードはあの晩彼女がとった方法ではあのマジックはできなかったということである。そして彼女が、例えばとして挙げていたカードの特徴は、ダイヤとハートは赤で、スペードとクラブは黒、J、Q、Kの絵札には騎士、女王、王のイラストが描かれているという一般的なものだった。岩戸はバッグの中に入れっぱなしになっていた、あの晩に自販機で購入したカードを取り出すと、表面を向けて一枚ずつ見ていった。
スペードのAは他のスートのAとは異なり、大きな♠がカードの真ん中に描かれている。ハートの3は一対の対角の位置に3と♡が上下に連なり、カードの中心線上には三つの♡が連なっている。ダイヤの5、クラブの8、スペードのJなどを見ても、普通の一般的なカードばかりで、特に閃くこともない(図20)。
「魔法か」
真顔で、岩戸はぽつりと呟いた。近くにいた大学生ふうのカップルがさっと岩戸を見たが、すぐに目を逸らした。いい歳した社会人がまあまあ大きな声で、魔法か、なんていきなりいい出したら、ヤバい奴確定だろう。岩戸も恥ずかしくなり、こほんと咳ばらいをして腕を組んだ。岩戸は窓の方に顔を向けた。
岩戸の降りる駅まではまだ五分ほどある。窓に映っているので、見る気はなくても、大学生ふうのカップルの姿は彼の視界に入ってくる。二人とも東京ディズニーランドのポリ袋を持っており、女性の持っているポリ袋からはぬいぐるみの一部が飛び出ている。ファッション重視なのかもしれないが、二人揃って黒のTシャツを着ているのは岩戸としては理解しがたい。今着ているということは昼間もその格好だったのだろうが、七月上旬ともなれば、日中の関東の気温は三〇度を優に超えてくるし、今日も昼間は暑かった。黒い服は熱を吸収するから暑くるなるのに、そんなことも知らないのか、まあ、知ってても気づかないのか、好きな人と一緒にいて気持ちも体も火照ってるだろうからな、などと、ついついうがった見方をしている自分に岩戸は気がついた。先日物理学専門の同僚がそんな実験をしていたからかなとも思ったが、魔法かという独り言を聞かれて恥ずかしい思いをさせられたからかと思い直した。我ながら大人げない話だ。
自宅最寄り駅に着き、岩戸が電車を降りると、大学生ふうのカップルも電車を降りた。改札に向かうまでの道のり、大学生ふうのカップルは岩戸の真ん前を歩いていた。二人は東京ディズニーランドの話に夢中になっており、随分と楽しげに喋っている。この様子では、魔法か、と呟いた怪しい乗客のことなどとっくの昔に忘れていることだろう。
――ザ・スペードさんも、ディズニーランドとか行くのかなあ。
ふと岩戸は思った。そして、何考えてんだ俺は、とすぐに思った。
――ただ、今日の雰囲気だと、もしかしたら……。
思わず顔がにやける。軽くウェーブのかかった黒髪を右目にかけて、セクシーな口紅をつけたザ・スペードのルックスは明らかに昼よりも夜の方が似合うが、昼に遊びに行く時、彼女は一体どんな格好をするのだろうか。意外と、あのまんまなのだろうか。それもいいなと岩戸は思った。おまけにうなじにはスペードのタトゥーまでしているし、あんな強い見た目の女性が彼女だったら、毎日が楽しくなりそうだ。
「魔法かあ」
そんな言葉が岩戸の口をついた。確かにザ・スペードのいう通りだ。たとえ実際には存在しなくても、魔法があったらなあと思ったら、何だかワクワクしてきている自分に彼は気がついた。
――もし魔法があって、彼女の気持ちが知れたならいいのにな。
「アリじゃん。魔法」
にんまりニヤニヤしながら改札を抜けて岩戸が顔を上げると、例の大学生ふうのカップルが振り返って彼を見ていた。二人の顔はイタイ人でも見てしまったかのように引きつっている。岩戸は顔を逸らせて、素早く二人の横を通り過ぎた。
11 追憶のセンチメンタル
「万理華さん、タフですね」滝坂はメッシュの入った無造作ヘアの頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。「僕なんか、全然仕事に集中できないってのに」
「わたしだって、落ち込んでないってわけじゃないのよ」
万理華はむっとして滝坂にいった。確かにいつも通りに振る舞えてはいるが、シンゴが死んだというのに、完全に立ち直っていると思われるのはそれはそれで癪だ。
「すみません。そうですよね」
滝坂は運ばれてきたばかりのアイスコーヒーをすすった。
シンゴの動画編集をしていた滝坂から、話があるんですが、と連絡をもらったのは昨晩のことだった。明日の昼なら会えるけど、という旨で万理華が返事をしたところ、二人は彼女の職場の近くのカフェで会うことにしたのだった。
「で、話っていうのは何?」
万理華は本題に入った。昼休憩中なので、のんびりとしてはいられない。滝坂は手にしていたグラスを置いた。
「カケヤマさんのユーチューブアカウントとかSNSのアカウントは警察の方で調べてると聞いたんですけど、昨日カケヤマさんのユーチューブアカウントに入って何気なく見てたら、何本かの動画が非公開に変わってたんです」
「へええ、そうなんだ」ユーチューバーがかつて公開していた動画を非公開設定にすること自体は別に珍しいことではないだろう。「それがどうかしたの?」
「やっぱこれはボツにしようとか、そういう話はいつもカケヤマさんと共有してたんですけど、何か一部、これ非公開にするなんて話あったかなっていうのがあるんですよね――」滝坂はスマホの画面を万理華に見せた。「この辺の動画なんです。非公開にする時っていつも何かしらの理由はあったんですけど、見たところ、どうも心当たりがなくて。万理華さん、何か、思い当たることってあります?」
万理華は滝坂から彼のスマホを受け取って画面を見た。画面には、シンゴのユーチューブ動画のサムネイルが並んでいる。途中で万理華が注文していたパスタと紅茶が運ばれてきたので、いただきます、と手を合わせてから彼女は紅茶を飲みながらスクロールしてサムネイルに一通り目を通していった。
「見てみないことには、何ともいえないわね」
万理華は滝坂にスマホを返した。
「まあ、そうですよね」滝坂は万理華からスマホを受け取った。
「その非公開に変わってる動画、わたしだけ見えるように設定できるわよね。そうしといてくれない? 帰ったら見てみるから」
「ありがとうございます」
「何いってるのよ」万理華は笑って滝坂を見た。「お礼をいわなきゃいけないのは、わたしの方じゃない。滝坂くんだって仕事忙しいのに、わざわざありがとう」
「いえいえ」滝坂は顔の前で手を振った。「僕は全然仕事に集中できないんで、いいんですよ。今日だって、有休取ってるぐらいなんで」
「あら、有休取ってたんだ」万理華は口に運びかけていたフォークを持つ手を止めた。「大丈夫?」
「え? 大丈夫って?」
「シンゴのことが気になって、仕事が手につかなくって有休取ってるってことでしょ。家なんかで閉じこもってたら、わたしなら塞ぎ込んじゃうんだけど」
「ああ」万理華のいわんとすることが分かったらしく、滝坂はぱっと表情を緩めた。「僕は大丈夫ですよ。家でもぼちぼち仕事してるんで。ただ、何か今はカケヤマさんのことも考えたいから、会社に行って仕事をする気にはなれないんです。家にいれば、気が向いた時には仕事もできるし、カケヤマさんのことを考えたくなったら、仕事から一旦すぐに離れられますからね」
「滝坂くんは器用ね」
パスタを食べながら笑った万理華に、滝坂はきょとんとした。
「わたしの場合は出社しないと仕事にならないってのもあるけど、少し気が乗らなくても無理やり会社に行ってた方がそういう時はいいんだよね。朝陽を浴びて歩いてるうちにだんだん気分も晴れてくるし、人と会って話してると、いつの間にかいつも通りの自分に戻れてるから。滝坂くんみたいに、自己解決型じゃないんだろうね」
万理華は残っているパスタを一気に口に入れた。よく噛んでから飲み込むと、残っていた紅茶も飲み干して、ご馳走様でした、と手を合わせた。
「滝坂くんは、警察の人から何か聞いてることとかある?」
「聞いてることですか?」滝坂はううんと唸った。「日曜日に警察の人が来ていろいろ訊かれて、その時に僕の方からもちょっと訊いてはみたんですけど、特にはないですね。動画に出てる人間とか、SNSで繋がってる人間を足掛かりにして捜査を進めてるみたいですけど、大して収穫はないみたいです」
「そうなんだ。てか、マンション内に防犯カメラってあったよね。あれとかも見たのかな」
「僕もそれは気になってたんで訊いてみたら、確認はしたけどねえ、みたいにいわれて、防犯カメラからは手がかりは掴めなかったって感じでした。まあ、捜査情報なんで、話せないってだけかもしれませんけど」
「事件現場は駐車場だったけど、犯人は車とも限らないわね。だとしたら、管理人さんからは何か情報が聞けてるかもしれないわ。あのマンション、駐車場の出入り口から入らずに駐車場に行こうと思ったら絶対に管理人室の前を通ることになるでしょ」
「確かにそうですね。もしかしたら、そっちのルートから案外捜査は進んでるのかもしれませんね」
二人の間にしばしの沈黙が訪れた。万理華は腕時計に目を遣った。
「そろそろ出よっか」
「僕は気分転換に、もうちょっとゆっくりしていきます」
「そう。じゃあ、わたしは失礼させてもらうわね。シンゴのこと、いろいろ考えてくれてありがとう」
「万理華さんには及びませんけど、僕だって、カケヤマさんのことは大好きなんです。一緒に仕事をさせてもらっていろんな経験ができたし、カケヤマさんがすごくいい人で、一緒に仕事をしてるのがすごく楽しかったんです。だから、僕なりに力になりたいってだけですよ」
万理華は胸が熱くなり、思わず涙ぐみそうになるのを何とか堪えた。彼女はハンドバッグを掴んで立ち上がると、もう一度「ありがとう」といって滝坂に微笑んだ。
カフェを出たとたん、一筋の涙が万理華の頬をつたった。
その日万理華が自宅に帰ってきたのは、午後七時過ぎのことだった。土曜日と日曜日は都心に行き、宛てもなく百貨店や繁華街を歩いていたが、大して気分は紛れなかった。シンゴの死を知って以降、悲しみともいいがたい、何ともいえない宙ぶらりんな気持ちが彼女の胸の内には燻ぶっていた。昨日出勤して仕事をしているうちに、少しずつそんな気持ちは薄らいでいったが、それでもまだどこか消化不良な気がして退勤後にふらりと『casino de magician』に行ってみると、帰る頃には心が軽くなっていることに彼女は気づいたのだった。今思い出してみても、昨夜は楽しいひと時だった。ザ・クラブはいつも通り紳士的で話していて心地良かったが、万理華の心から薄もやを取り払ってくれたのは彼のテーブルで出会った岩戸すみれだった。万理華は自分でも自覚しているが自分はかわいい系の女ではないと思っており、どちらかというと、かわいい系の女とは馬が合わないことが多い。すみれの第一印象はかわいい系の女だったが、彼女の見た目や軽い言動に騙されていたことに万理華はすぐに気がついた。ザ・クラブに対して好意を露わにしたり、道塚刑事をからかったりしながらも、ヒットかスタンドかの判断は的確でコツコツとチップを増やしていっていたし、時々ハッとさせるような物言いをしていた。こういうタイプの同性にはなぜか昔から万理華は好感を抱き、そして、すみれから連絡先の交換を申し出られた時には何の抵抗もなく快く応じていたのだった。万理華は夕食をテーブルに並べて席に着くと、テーブルに置きっぱなしになっているノートパソコンの電源を入れた。
カケヤマシンゴのチャンネルと開くと、何本かの動画が限定公開で視聴できるようになっていた。万理華はその一つを再生させた。シンゴがいなくなって四日経つが、ようやく万理華にもその喪失感が身に染みてきており、その声は妙に懐かしく彼女の耳に響いた。そして、涙が流れた。彼の死を知った四日前の金曜日の夜でさえ涙は流れなかった。ようやく心がシンゴの死という現実に追いつき、現実に起こった悲しい出来事として心が正常にこの事実に応答できるようになったのかもしれない。
一本目に万理華が再生した動画は、シンゴがサラリーマンを辞めて、プロギャンブラーのユーチューバーになったことを報告しているものだった。チャンネル登録者数が徐々に伸び始めていった頃だが、視聴者のためというより、自分自身の記録のために撮った動画という意味合いの方が強い。インタビュー形式でシンゴが話しているが、インタビュアーの役をしているのは滝坂だ。ユーチューブを始めた頃、動画はシンゴ一人で撮影・編集していたが、一年ほど経った頃から滝坂がその役目を担うようになったのだった。
滝坂はIT企業で働いているシステムエンジニアで、シンゴがユーチューブ内で、動画の編集をしてくれるスタッフを募集した際に応募してきたうちの一人だった。確か八人の応募があったが、職歴や資格を参考にして技術的な観点から五人に絞り、その五人と実際に会って話をしたところ、滝坂が最も一緒に仕事をしやすそうな人柄だったから彼を採用したのだった。
動画内でシンゴは滝坂とどういう話の流れなのか、ギャンブラーが結婚する時、という話を始めていた。滝坂が「トーナメントのエントリー費用が日本円で約三百万円。で、リエントリーしたらまた三百万円、そんなんじゃ数千万円単位で儲けたって、いつの間にか無くなっちゃいますよね。そんなんで結婚とかできるんですか」と訊くと、シンゴは「まあ、難しいところですよね」と苦笑いをしてから「でも、ほんとに好きな人とならやっぱり結婚したいから、もしかしたらギャンブラーって仕事を辞めちゃうかもしれません」と屈託なく笑った。それに対して滝坂も「それじゃカケヤマさんが結婚したら、このチャンネルも終わっちゃうじゃないですか。そこはプロなんですから、持ち前の腕で何とか結婚とギャンブラーを両立させてくださいよ」と笑った。滝坂の言葉にシンゴは「ギャンブルですから、プロとはいっても、負ける時はやっぱり負けますからね」といって「そうなったら、プロポーズの言葉は、『僕を養ってください』ってなるのか……。ちょっと情けないな」と笑って続けた。
そんな二人のやり取りを聞いているうちに、万理華の口元には笑みが滲んでいった。
「全然養ってあげるって」
万理華の口から自然にそんな言葉が漏れた。そういえば昔この動画を見た時も、そんなふうに思ったんだったなと彼女は思い出した。
万理華は夕食をとりながら、そのままシンゴの動画を見続けた。最初の頃は追憶に浸りながらセンチメンタルな気分で視聴していたが、やがて本来の目的を思い出して、動画を見る彼女の顔からは笑みが消えた。非公開設定にされた動画には何らかの共通点があり、それが何かを暗示しているかもしれないのだ。
万理華が二本目に見た動画は、シンゴが車を運転しながら数日後に参加するポーカーのトーナメントの話をしているものだった。滝坂はおそらく助手席に座っており、彼の顔や姿は一切映らないが、声だけが入っているのは他の動画と同じだ。見るからに、町並みは日本ではない。しばらく見ているうちに、イタリアだと分かった。シンゴはミラノで開催されるポーカーのトーナメントに参加するために、滝坂とともにイタリア入りしたということだろう。イタリアの町並み自体も美しいが、動画編集のセンスが光っており、イタリア人の朗らかさ、イタリアのマーケットの雰囲気が肌身に感じられ、会話内容に注意を払わなかったら、イタリアの魅力を伝えるユーチューバーの動画かと思うほどだ。
万理華が二人の会話に意識を戻すと、「何とか優勝したいですね」という滝坂に、シンゴは「そんな簡単なものじゃないから、あんまり期待はできないですけどね」と苦笑いで返している。それに対して滝坂は「でも、今回のトーナメントで優勝できたら激アツじゃないですか」というと、シンゴは「止めてくださいよ。変に意識しちゃうじゃないですか」と笑った。話を整理していくと、そのトーナメントで優勝できれば、その直後に限定発売される特別仕様のスポーツカーを買う資金に当てられるということらしい。結局、このポーカーのトーナメントでシンゴは入賞することすら叶わず、エントリー費用に八百万円近くを払っただけに終わった。動画の最後には、せっかくイタリアに来たのだからと、そのスポーツカーの現地店舗に赴き、発売予定のスポーツカーの試乗体験をしているシンゴの様子が収められていた。シンゴは買うかどうかを散々迷った挙句、「優勝のご褒美として自分にプレゼントしたかったんですよね。無理して買っても愛車にはならないな」と苦笑いしながら、カメラに向かって手を振っていた。
万理華は動画を見ていくうちに思い出していたが、当時シンゴは、このトーナメントで優勝したら絶対にあれ買うぞ、と張り切っていたのだった。現実的に考えれば、それまでの獲得賞金で数億は貯金ができていたのでその高級スポーツカーを購入することはできたわけだが、シンゴはそのトーナメントで優勝したら買うということにこだわっていた。実際、他の動画でしばしば登場するシンゴの運転する黒のスポーツカーも、大きな世界トーナメントで優勝した時に記念に買ったものだった。ギャンブラーとして生計を立てているのでトーナメントに出て賞金を獲得することはもちろんあるが、優勝というと、そう簡単にできるものではない。昔から運転が大好きで、トラックでも何でもいいから運転を仕事にしたいという理由から、シンゴはクサガメ運輸に就職したが、やはりスポーツカーは好きだった。念願の世界トーナメント優勝を果たしたのと同じぐらいに嬉しいとはしゃぎながら購入手続きをしていた黒のスポーツカーで、シンゴはよく万理華をドライブに連れて行ってくれた。万理華自身はスポーツカーには元々興味はなかったが、シンゴの愛車に乗っているうちに、いつの間にかスポーツカーが好きになり、自身もスポーツカーに乗り換えた。シンゴは、目立ちすぎる、といって避けていたが、スポーツカーといえばやっぱり赤でしょ、と思って彼女は真紅のカラーを選んだのだった。
スポーツカーのことを考えていると、そういえば、と万理華はシンゴのマンションの管理人のことを思い出した。シンゴのマンションの駐車場は誰でも入れる造りになっており、地下でもない。管理人もシンゴの車が高級車だとは知っていたようだが、ある時シンゴと万理華がドライブから帰ってくると駐車場の掃除をしていた管理人と鉢合わせ、その時に管理人はその高級車の持ち主がシンゴのような若者だと知った。その際、この車、君が乗ってたのか、しかしなあ、こんなうちみたいな駐車場に置いとくような車じゃないだろ、そんなに稼いどるのか、と小言のようなことをいってきたのだった。シンゴのマンションはオートロックだが管理人もおり、マンション内に入ると、どこの部屋に行くにも必ず最初に管理人室の前を通る構造になっている。いつもは愛想よく挨拶をしてくれる男性なだけに、この時の嫌味な態度は万理華の印象に残ったのだった。
万理華はテーブルの上に金曜日の夜から置かれたままになっている刑事からもらった名刺を手に取った。名刺には「警視庁刑事部捜査第一課 巡査部長 道塚葵」と書かれている。彼女はそこに記されている携帯電話の番号に発信した。
「もしもし。警察です」
三十秒ほどの呼び出し音の後、道塚の声が聞こえた。ただ、何やら取り込み中なのか、声はどこかせわしなさげだ。
「もしもし。更科です。更科万理華です」
「ああ……昨日はどうも」道塚は気まずそうに応じた。「何か、ありましたか」
「あったというか、ちょっと確認したいことがありまして」
「何でしょうか」
「シンゴの住んでたマンションの管理人さんなんですけど――」
「えっ!」
万理華が話している途中で、道塚は驚いたように声を上げた。万理華もそれに反応して、話を止めた。
「どうかしましたか」
万理華が訊いた。
「すみません、何でもありません。続けてください」
そうですか、といってから万理華は話を続けた。「警察の方で、管理人の男の人からも話は聞きましたか。あのマンション、駐車場の出入り口から駐車場に入らないんだとしたら、マンションの建物の中から駐車場に出ていくしかないと思うんです。その時、必ず管理人さんの前を通っていくことになるんです。だから――」
「実はですね――」
道塚が万理華の話を遮るようにいった。万理華が話を止めると、今度は道塚が話を続けた。
「あのマンションの管理人さんは、亡くなられました」




