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ブラックジャック・ロマンス【戯々譚々1】

1 イッツ・ショータイム!


「『カジノでマジシャン』?」

「それじゃ日本語じゃない」

 岩戸(いわと)はすみれを見た。彼女はおかしそうにくすくすと笑っている。

「『カジノでマジシャン』以外にどう読むんだよ」

 岩戸は『casino de magician』と書かれた電光パネルを指さした。

「deはフランス語の前置詞だから、『ドゥ』でしょ」

「へええ。deってよく見かけるけど、フランス語なのか。どういう意味なんだ」

「『マジシャンのカジノ』って意味よ。お兄ちゃん、好きでしょ」

「カジノがか? いやいや、俺は来たことないって」

「違う違う。マジックだよ」

「え? マジックやってるのか?」岩戸は顔をすみれから店の方に変えた。「だってここ、カジノだろ」

「カジノだよ」すみれは岩戸の左腕をぎゅっと抱きしめた。「カジノの奥でね、マジシャンのマジックが見れるんだ。行こ!」

「え! ちょっと待てよ!」

 高いストゥールに腰かけてスロットに興じる会社員ふうの若い男女やルーレットで盛り上がるセクシーなドレスを着た女性たち、何ともいえぬ表情で手札を見つめてポーカーをプレイする紳士ふうの男性たちを横目に、岩戸はすみれに腕を引かれながらカジノの奥へ奥へと連れていかれた。

「お兄ちゃん、まずプレイヤーズカード作んなきゃ!」

「えっ? 俺、ギャンブルしないよ」

「ギャンブルしなくても、プレイヤーズカード作んないとマジック見れないの」

 すみれが指さす先を見ると、そこにはプレイヤーズカードを読み込ませて開くゲートが設けられている。カジノやバーが入っているエリアに立ち入る際に身分証の提示を求められ年齢は確認されたが、その中にあるマジックのスペースに入るには会員にならなければならないらしい。岩戸はすみれに連れられてカウンターに行くと、髪にかんざしを挿した和装美女にいわれるがままに手続きをしていった。


「すみれは見たことあんのか?」

「ううん、ない」

 彼女は口にしていたオレンジのカクテルを置いた。マジシャンのショーは午後八時からなので、二人はカジノエリア内にあるフードコートでつまめるものを買ってきていた。岩戸はフライドポテトを齧った。

「しかし、カジノん中でマジックとはなあ」

「いいじゃん、雰囲気あって」

「それにしてもカジノって、若い女の人も多いんだなあ」

「でしょ。だから全然心配することないっていったじゃん。後でブラックジャックとか一緒にやろ。楽しいよ」

「まあ、別にいいけど」

 妹のすみれが統合型リゾート施設、いわゆるIRでギャンブルをしているのは数ヶ月前に知った。知った時は驚いたし、ゲームっ子でもなかったすみれが何でカジノに、と思ったが、品のありそうな大人たちがこうして楽しんでいるのを目の当たりにすると、自分の心配は杞憂だったなと岩戸は思った。仕事でもカジノには来たことのなかった岩戸は、カジノを何かいかがわしい場所だと思っていた。しかし、この雰囲気ならば、よっぽど繁華街にあるパチンコ屋の方が治安は悪いだろう。

 カジノが日本でも合法化されてから数年が経つが、日本のカジノにはバカンスがてら外国人もよく訪れるという。欧米のカジノではカクテルウエイトレスはセクシー路線の衣装を纏っていることが多いと聞くが、見たところ、このカジノのカクテルウエイトレスは着物を着ている者も半分ぐらいいる。おそらく、こういうのが外国人にはうけるのだろう。

「結構埋まってきたね」

「そうだな」

 カジノの奥には小さなステージが設けられており、そのステージを一八〇度囲むように五つの円テーブルとそのそれぞれに四つずつ椅子が置かれている。二人がフードコートから戻ってきた時には数人しか腰かけていなかったが、いつの間にかどのテーブルにも客がついている状態になっている。

「どんなマジックなんだろうなあ」

「日によって違うみたい。シルクハットとかステッキ使ってやってる時もあるし、トランプ使ってやってるのを見たこともあるもん」

「へえ、そうなのか」岩戸の顔に笑みが滲む。「まあ、お手並み拝見といきますか」

「上から目線だなあ」

「いっとくけど、並大抵のマジックじゃあ、俺の目は騙せないぜ」

 岩戸は小学六年生の時にマジックに目覚めた。小さい頃からゲームやアニメが好きだったが、小学六年生の時に出会ったアニメに登場する魔法使いがあまりにもかっこよくて、本気で魔法使いになりたいと思った。そこから現実の魔法ということでマジックに夢中になった。学校から帰ればマジックの練習に明け暮れ、学校に行けば習得したてのマジックをクラスメイトに披露するという生活が小学校最後の一年の日課となった。それ以降の中高大と続く学生生活でも、マジックはいつも彼の生活の中にあったのだった。

 ふっと明かりが消えて辺りが暗くなると同時、ステージ上に置かれていた五十センチ四方ほどのスパイダーテーブルにスポットライトが当てられた。メランコリーな調べの音楽が流れ始めると、何人かの客が手を叩きだした。岩戸とすみれも倣って拍手をする。

 続いて、衝立の後ろに別のスポットライトが当てられると、そこには女性マジシャンが立っていた。ぴっちりした黒のジャケットはウエストできゅっと締まっているが、袖は裾にかけてゆったりと広がっており、女性らしいシルエットが一層引き立って見える。彼女は薄い笑みを浮かべて、ぐるりとオーディエンスを見渡した。ふんわりとしたボリューミーなロングヘアで右目は隠れており、その豊かな髪をリズミカルに揺らしながら、女性マジシャンはステージ上のスパイダーテーブルに近づいていく。スポットライトも彼女に合わせて動いていき、やがて二つのスポットライトは重なった。その明かりのもとで、全身に黒の衣装を纏った彼女はさながら黒魔女といった雰囲気だが、赤く塗られた唇と黒のジャケットの胸ポケットに挿してある赤いサインペンが妙に妖艶なアクセントをつけている。女性マジシャンはその赤い口元に笑みを滲ませて再びオーディエンスを見渡すと、左腕をくっと直角に曲げ、左足を半歩下げて深々と一礼した。

Good(グッド) evenin(イブニン)’, ladies(レディース) an(エン)gentlemen(ジェントルメン).」

一瞬男性なのかと疑うほどに、女性としては随分と声が低い。彼女はゆったりとした動作で左のうなじに手をやると、そこから一枚のカードを取り出してオーディエンスに見せた。そのカードはステージ背面に設置されているスクリーンにも映し出されている。カードはスペード(♠)の(エース)だ。

「今宵皆様を、マジックとイリュージョンの世界にご案内させていただきますのは、わたくし『ザ・スペード』でございます」

 改めて、オーディエンスから拍手と歓声が巻き起こった。その音が静まったところで、ザ・スペードは続けた。

「ただわたし、マジシャンとはいってもですね、いつまで経っても人前に立つのってものすごく緊張するんです。性格だから仕方ありませんけどね。それでですね――」

 そんなトークをしながらも、ザ・スペードの手は動いている。スパイダーテーブルに置かれていたカードの山札をカット したり、カードをドリブル したりして、カードたちは彼女の胸の前でコマ送りのように連続的に右手から左手へと空中を高速移動していく。もちろん岩戸はその華麗なカードさばきをすげえなあと思ってただ見ていただけではない。マジシャンにカードを触れさせれば、間違いなく何かが仕掛けられる。

「わたし、未だにタバコは紙派なんです」

ザ・スペードはバラララララッとリフル していたカードの山札をスパイダーテーブルに置くと、黒いジャケットの内側からタバコを一箱取り出してオーディンスに見せた。

「失礼。これからお見せするショーを成功させるコツは、落ち着きなんです。ちょっと一本吸わせてもらいますね」

ザ・スペードは再びジャケットの内側に手をやると、今度はライターを取り出した。そして、セクシャルな指使いで箱から取り出した一本のタバコを、艶やかに赤い唇に挿してライターで着火した。彼女はアンニュイな表情を浮かべてうまそうに煙を吐き出した。

「皆さんの中にも、紙派の方っていらっしゃいますか」

 ザ・スペードの問いかけにオーディエンスの何人かが手を挙げた。

「いいですよね、紙のタバコって。味もいいですけど、こうやって実際に燃えてるっていうのがいい。何かタバコの火って、燃え方がロマンチックで好きなんです」

 ザ・スペードはタバコの先の火を数秒見つめると、その視線をオーディエンスに向けた。

「カードって燃えると思いますか」

 ダウナーな雰囲気を漂わせて、ザ・スペードは目を細めた。彼女はくわえていたタバコは左手の人差し指と中指で挟み、右手でスペードのAのカードを持って掲げている。

「そら燃えるやろ、ねえちゃん」

 オーディエンスの一人が声を上げた。ザ・スペードはその男性に微笑みかけた。

「じゃあ、試してみましょうか。その前に――」

 ザ・スペードは左手の指で挟んでいたタバコを再び口にくわえると、答えてくれた男性のそばへと歩いていった。スポットライトも、やはり彼女に合わせて動いていく。

「普通こういうマジックって、お札でやるんです。お札には通し番号が振られてますから、燃やされたお札と後からマジシャンによって出されたお札とが同一かどうかの確認が簡単にできますからね。でも、わたしが持ってるこのカードは量産品ですから、例えばわたしがこのカードを燃やして後から実は燃えてませんでしたってカードを見せても、同じスート と同じナンバーの、同じブランドのカードを隠し持ってたんだろっていわれたら困っちゃいます。そ・こ・で――」

 妙にセクシーな声色に変えると、ザ・スペードは男性の就いている円テーブルに、手にしていたスペードのAを置いた。

「カードの同一性を保証するために、このカードに何か書いてくれませんか」

 ザ・スペードは少しかがんだ姿勢で男性の顔を見つめたまま、ジャケットの胸ポケットから一本のサインペンを男性に差し出した。

「なるほど。おもろいやないか」

 男性はサインペンを受け取ると、ささっと星のようなものをカードの中央の大きなスペードマークを囲むように描き、さらにその下に今日の日付である七月一日と書き添えた。ザ・スペードの着ているジャケットが黒いせいで見えなかったみたいだが、その胸ポケットにはどうやら赤と黒のサインペンが一本ずつ挿されていたらしい。

「ありがとうございます」

 ザ・スペードはカードと黒のサインペンを受け取るとステージに戻った。

 スパイダーテーブルの前に立ったザ・スペードはジャケットのポケットから灰皿を取り出して、そのスパイダーテーブルの天板に置いた。天板はガラスでできている。オーディエンスの男性がマーキングしたカードは彼女が男性から受け取って以降一度も彼女の手からは離れておらず、今も彼女の右手の人差し指と中指で挟まれており、同時に右手の親指と人差し指では黒のサインペンを挟んでいる。ザ・スペードはサインペンをジャケット左胸のポケットに戻すと、右腕を上げて人差し指と中指でカードを挟んだままオーディエンスにカードの表面を見せた。

「先ほどあちらのジェントルマンにサインしていただいたカードに間違いありませんね」

 オーディエンスは頷く。岩戸はスクリーンで拡大されているそのカードを凝視する。ザ・スペードが右手に挟んでいるのは、間違いなく、黒のサインペンでマーキングが施されたスペードのAだ。彼女は続けた。

「では、このカードが燃えるかどうか、試してみましょう」

 ザ・スペードはゆったりとした動作で右腕を胸の前まで下ろすと、手にしているカードの表面を自分の方に向けた。スクリーンには、白い線が次々と交差して無数の赤いひし形が細かく敷き詰められたデザインになっているカードの裏面が映っている。彼女はそのカードに、火の点いたライターを近づけた。

 カードは橙赤色の火を纏いながら、みるみるうちに燃えていく。ザ・スペードはカードが燃え始めたのを確認すると、それを灰皿に落とした。

 カードは十数秒のうちに燃え尽きて灰になった。

「カード、燃えましたね」

 ザ・スペードは灰の入った灰皿を掲げてオーディエンスに見せた。オーディエンスはめいめいに頷く。

「でも――」ザ・スペードの顔に、ミステリアスな笑みが滲む。「わたしはマジシャンです。わたしの力で、燃えたさっきのカードを蘇生させてみたいと思います」

 オーディエンスからどよめきが起こった。

 ザ・スペードは目を瞑ると、両手のひらを灰皿の左右でひらひらさせて、まじないをかけるかのような動作をし始めた。

 やがてザ・スペードはゆっくりと目を開いた。そして、再びミステリアスに口角を上げる。

「カード、生き返りましたよ」

 彼女はさっと右腕を上げた。その人差し指と中指にはカードが挟まれている。スペードのAだ。そのスートは周りをサインペンで書かれた星で囲まれており、下には七月一日と今日の日付が記されている。

 オーディエンスから拍手喝采が沸き立った。

――なるほどな。そういうトリックか。

 岩戸はステージに拍手を送りながらニヤリと口角を上げた。

「タバコの効果はすごいです」拍手の収まったところでザ・スペードがいった。「おかげさまでリラックスできましたので、最初のマジック、無事に成功しました。今日はどんなマジックをやっても、上手くいきそうな気がします」

 ザ・スペードは手にしているスペードのAを、表面が上になっている山札の一番上に、同じく表面を上にして置いた。そして山札を、表面を上に向けたまま数回シャッフル した。初め、山札の一番上にあったスペードのAは山札の中に消えていった。

「では、今度は皆さんにカードの面白い性質をお教えしましょう」

 ザ・スペードはシャッフルした山札をひっくり返して、裏面を上にした状態でスパイダーテーブルに置いた。

「あら! ハート(♡)のAですね!」

 ザ・スペードは山札からカードを一枚引くと、それを表にしてオーディエンスに示した。確かにそのカードはハートのAだ。彼女は引いたそのカードを山札の一番上に戻した。

「信じられないかもしれませんけど、カードにも気分があるんです。マジシャンをやってると、つくづくそう実感します。どういうことかといいますと、今わたしが引いたのはAのカードです。Aを引いたのは偶然なんですけど、今日、四枚のAたちの仲がいいなら、わたしがこれから引いていく四枚のカードは全てAで揃うはずです。信じられませんか? じゃあ、お見せしましょう。では、このハートのAは山札から除外しますね」

 ザ・スペードは山札の一番上に戻していたハートのAを裏側のまま山札から除外し、スパイダーテーブルの上の緑色のマットの上に置いた。

「実は今――」ザ・スペードの右目は元々髪で隠れているが、彼女は小さく頭を揺すり髪を動かして顔の右半分を隠した。「山札からハートのAを除外する前に、魔法をかけさせていただきました。ふふっ」

 彼女は、見破れなかったでしょ、だって、皆さんが見てたのはせいぜい除外されたハートのAのカードぐらいですもの、とでもいいたげに企みに満ちた表情を浮かべている。手元では内心の余裕を見せびらかすかのように、山札を適当なところで上下に分けては戻し分けては戻しを繰り返している。

 すると突然「では――」といって、ザ・スペードは再び山札からカードを一枚引いた。そして引いたカードをオーディエンスに掲げた。ダイヤ(♢)のAだ。オーディエンスから、どよめきが起こった。

「やっぱり、今日はA同士の結束力が他の数字よりも強いみたいですね。あら、山札が乱れてしまいましたね。もう一度魔法をかけましょう」

 ザ・スペードは右手にダイヤのAを持ったまま、その右手で山札を掴んでその側面をスパイダーテーブルの天板でトントンと叩いて整えた。必然的に山札の一番上に重なることになったダイヤのAを彼女は裏側のまま山札から除外して、先ほど除外したカードに四分の三ほど重ねて置いた。

「では、三枚目を引きます」

 再び彼女は左手に持った山札から引いたカードを右手で掲げてオーディエンスに見せた。オーディエンスの中には、一体どうなってんだ、と連れと苦笑いし合っている者もいる。

「クラブ(♣)のAですね」

 ザ・スペードは右手で掲げているカードを自身でも覗き込んだ。彼女は右手を下ろすと、クラブのAを持ったまま満足げに右手で山札を掴み、それを左手に持ち替えた。そして山札の一番上のカードを一枚除外すると、それを二枚目のカードに四分の三ほど重ねて置いた。

「では、最後の一枚です。まあ、引くまでもなく、このカードはスペードのAに決まってるんですけどね」

 ザ・スペードは左手に山札を持ったままオーディエンスに軽口を叩いた。そして彼女は、山札の一番上から一枚のカードを引いた。

「スペードのAです」

 引くや否や、彼女は右腕を上げてオーディエンスにカードを見せた。オーディエンスから声が上がる。しかし、オーディエンスはみな驚いているというよりは戸惑っているように見える。何かを察知したのか、ザ・スペードは手にしているカードを覗き込んだ。

「え?」

 ザ・スペードの凛とした表情が一瞬で凍った。

 彼女が四枚目として山札から引いたカードは、スペードの(ジャック)だった。

「え? 失敗?」

 岩戸の隣ですみれが声を発した。

「どうだろうな」岩戸がいった。「A以上に固い絆で結ばれてるカードがあったってことじゃないのか」

「そうなの?」

 すみれは怪訝そうに岩戸を見た。

「どうやら今宵は――」ふっと息をついてザ・スペードが口を開いた。「Jたちが結束の力を見せたがってるみたいですね。ということは――」

 ザ・スペードは緑色のマットの上で四分の三程度ずつ下のカードに重なりながら並べられている裏向きのカード三枚のうち、一番下になっている左端のカードの端を摘まんでひっくり返した(図1)。すると、上の二枚のカードはドミノの要領でつられて反転した。

 オーディエンスから驚きの声がスタンディングオベーションのように上がる。

 スクリーンに映し出されたスパイダーテーブル上の三枚のカードは、クラブ、ダイヤ、ハートのJだったのだ。

 その後も、ザ・スペードはカードを使ったマジックをテンポよく披露していった。

 彼女はスパイダーテーブル上に表面を上にしてカードを並べると、それらのカードの上に手のひらをかざしてゆっくり移動させていき、カードの数字はそのままでカードの色とスートだけを変えるというイリュージョン系のマジックをもやってみせた。

 また彼女は、マジックというよりはパフォーマンスのようなこともしてみせた。山札から二枚のカードを引くと、一枚は右手の人差し指と中指で挟んで持ち、もう一枚は空気抵抗を受けないように手裏剣の要領で上に放り投げた。放り投げられたカードは回転しながら落下してきたが、ザ・スペードはそれを右手の指で挟んだカードの側面で受け止めて、サッカーボールさながらにカードでリフティングをしてみせたのだ。

 一部のマジックは岩戸にはトリックの見当がついていたのでからくりが分かるという優越感を味わっていたが、中盤以降のマジックはトリックの見当すらつかず、純粋にマジックを見て楽しむオーディエンスの一人として彼もザ・スペードのショーに見入っていた。

 ショーが進めば進むほど、オーディエンスはザ・スペードの世界に吸い込まれていった。

「アンコール、ありがとうございます」

 その直前、ザ・スペードは「これが今宵、最後のマジックです。マジシャンといっても、無制限に魔法が使えるわけではないですからね」といって最後のマジックを披露していたが、オーディンスがアンコールを始めたのだ。岩戸もアンコールを叫んだ。

「では、最も魔力を使うマジックをお見せしましょう」

 ザ・スペードは山札のカードを両手のひらの中で順番に見ていき、四枚のカードをスパイダーテーブルの上に弾き出した。

「四枚のAカードです」

 ザ・スペードは山札から取り出した四枚のカードを右手で扇状に広げてオーディエンスに示した。

「今日のステージで、数字同士の結束力を見せてくれたのはJでしたね」ザ・スペードは四枚のAのカードを自分の胸の前に下ろした。「どうやらこの子たち、今日はツンデレみたいなので、わたしが少々無理やりに相席させるといたしましょう」

 ザ・スペードは再び四枚のAを扇状に広げてオーディエンスに見せると、左手のひらに裏面を上に向けて乗せていた山札の一番上に、それら四枚は表向きのまま重ねて乗せた(図2)。

「では、始めます」

 ザ・スペードは山札の上からカードを右手で掴むと、それをさっと扇状に広げた。

 彼女が掴んだカードは四枚だった。表向きで山札に乗せられていた四枚のAのカードが彼女の右手の中で広げられてスクリーンに映し出されている。

「今このAたちはこうして一緒にいますが、今日はツンデレ炸裂みたいなので、例えば四枚一グループで分かれなさいっていったら、それぞれ別のグループに入るでしょうね。でも、そんなことはわたしがさせません」

 ザ・スペードは、左手に山札を持ち、右手に四枚のAを持った。

「ではまず、スペードのAから」

 彼女は右手に持っている四枚の表向きのAのうち、一番上にあったスペードのAを右手親指の腹で送り出して左手で持っている山札の一番上に移動させると、山札のカードの向きと揃えるために、左手の親指の先でスペードのAカードの端を弾いて瞬時に裏返した。

「今、山札の一番上のカードはスペードのAで間違いないですよね」

 ザ・スペードに、オーディエンスは頷きかける。

「でも――」ザ・スペードの口元に妖艶な笑みが浮かんだ。「マジシャンにカードを触らせたら、何が起こるか分かりません。確認のために、そうですね、そちらのジェントルマン、山札の一番上のカードを一度捲ってもらえませんか」

 目が合った男性客はステージに上がって、彼女が差し出してきた左手のひらに乗っている山札の一番上から一枚カードを引いた。男性は引いたカードをオーディエンスに見せた。スペードのAだ。

「ありがとうございます」

 男性が席に戻ると、ザ・スペードは続いて右手親指の腹でハートのAを左手に持っている山札の一番上に送って、先ほどと同様に左手の親指でそれを弾いて瞬時に裏返した。

「では、今度はそちらのレディ、お願いしてもよろしいでしょうか」

 女性客がザ・スペードの左手に乗っている山札の一番上から一枚カードを捲ると、それはハートのAだった。

「どうもありがとうございます」

 女性客を見送ると、ザ・スペードはこれまでと同じように右手親指でクラブのAを左手に持っている山札の一番上に送った。

「では次は……あら! 目が合いましたね。お願いします」

 虚を突かれた岩戸が、俺? と自身を指さすと、ザ・スペードはこくりと微笑んだ。岩戸は席を立ってステージに向かった。

「一枚だけ引けばいいんですよね」

「はい。お願いします」

 岩戸は山札から一枚引いて、それをオーディエンスに示した。もちろん引いたカードはクラブのAだ。

 岩戸はカードをオーディエンスに見せながら、ちらりとザ・スペードの右手に目を遣った。よくは見えず確信は持てないが、岩戸には、ザ・スペードのとっておきのマジックのトリックに見当がついていたのだ。正直なところ、これまで披露されてきたマジックに比べると、拍子抜けするほどに初歩的なトリックである。

「では、最後の一枚のAを山札に戻します」

 ザ・スペードは右手に持っていたダイヤのAを、表向きのまま山札の一番上に乗せた。そして今回は、空いた右手でダイヤのAのカードを裏返した。

「最後、ではそちらのジェントルマン、お願いします」

 指名された初老の男性は、ステージ上で山札の一番上のカードを捲った。当然、ダイヤのAだ。初老の男性はステージから席に戻った。

「皆さん、どうもありがとうございます」左手のひらに、裏向きの山札を乗せてザ・スペードはいった。「皆さまにも確認していただいた通り、この山札の上から四枚はAです」

 ザ・スペードは山札の上から四枚を流麗な指使いで一気に引いた。彼女はそれらを右手の親指と人差し指でさっと扇状に開いてオーディエンスに掲げた。それを見たオーディエンスは、凍り付いたように言葉を失っている。

 ザ・スペードの手の中で広げられている四枚のカードは、山札の上から順に、ダイヤのA、クラブの5、クラブの2、スペードの9だったのだ。

「ほんと素直になれないツンデレですね」四枚のカードを見て彼女は苦笑いを見せた。「さっき間違いなく、皆さんに山札の上から四枚をAにしていただいたのに、どうやら山札の中で他のカードと入れ替わってもらったみたいです」

 ザ・スペードはため息を吐くと、掲げていた四枚のカードを元の順番のまま裏向きで山札の上に戻した。

「仕方ありません。最後の魔法です」

 ザ・スペードは山札を手にステージから下りると、一番近くの円テーブルの前で立ち止まった。

「最後の魔法は皆さんで一緒にかけましょう」彼女はオーディエンス全員を見渡した。「今からこの山札を回しますので、一人ずつお好きなだけシャッフルしていってください」

――え?

 岩戸は、どういうつもりだ、と思った。自分の思っていたマジックとは違うのだろうか。いや、彼女は最初に揃えることのできなかった四枚のAを揃えるといっていたはずだ。

 狐につままれたような気分のまま、岩戸も回ってきた山札をシャッフルした。

「あら! ジェントルマン!」岩戸を見て、少し離れたところからザ・スペードが声を上げた。「もしかして、カードを扱ったご経験がおありで?」

「ええ……まあ、遊びですけどね」

 プロのマジシャン相手に、岩戸は言葉を濁した。彼がいわゆるシャッフルであるヒンズーシャッフル ではなく、空中でリフルシャッフル をしたからだろう。岩戸は職場のデスクにもカードを置いており、考え事をする時に無意識にリフルシャッフルをしているため、つい凝ったシャッフルを披露してしまったのだ。彼は気恥ずかしくなって、山札の長辺を持って最後にヒンズーシャッフルも数回した。

「ジェントルマン。ありがとうございます」

 オーディエンスの全員に山札を切ってもらうと、ザ・スペードは山札を持ってステージに戻った。

「では、わたしもカードを切らせてもらいます」

 ザ・スペードはオーディエンスが注目する中、山札を切り始めた。ヒンズーシャッフル、リフルシャッフル、ヒンズーシャッフル、という具合に何度もシャッフルを繰り返している。

 何をするつもりなんだ、という岩戸の疑問は深まるばかりだ。

「さて」ザ・スペードはシャッフルを終えて山札を左の手のひらに乗せた。「少々お時間をいただきますが、四枚のAにだけこの山札の中から出てきてもらいます」

 そんなバカな、という声がオーディエンスの中から聞こえた。岩戸も同感だ。山札のカードはどれも裏向きになっているはずである。

 そんな声をよそに、ザ・スペードは目を瞑り、左手に持った山札を垂直にして顔の高さまで上げた。スクリーンにはオーディエンスの視点と同じく、山札の一番下のカードだけが映っている。スポットライトの明かりを堂々と浴びているそのカードはクラブの9だ。

 ザ・スペードは目を瞑ったまま左手親指の腹で彼女自身には裏面しか見えていない山札のカードを上から順番に一枚一枚右へとスライドさせ始めた。約五秒で六、七枚ほどが移動していくテンポだ。

 その途中で、カードをスライドさせていく彼女の手が一瞬止まり、はらりと流れるように一枚のカードがスパイダーテーブルの上に落ちた。と同時に、オーディエンスから歓声が上がる。

カードは落ちて裏向きになったが、落ちたカードがハートのAだったことはスクリーンでオーディエンス皆が目の当たりにしていたのだ。

「どうやらAだったみたいですね」

 目を瞑ったまま、カードを右へと送りながらザ・スペードは微笑む。その直後、彼女の手が再び止まった。彼女は左手の人差し指で妖艶な手つきで止めたカードの表面を撫でると、すぐにまたカードを右へと送り始めた。それは一秒あるかないかのことだったが、スクリーンには止められたカードが映っていたため、オーディエンスは皆固唾を呑んでいたことだろう。落とすのか、落とさないのか。実際、岩戸はそうだった。カードはクラブの5だった。

 山札のカードが三分の一ほど右に送られたところで、ザ・スペードは目の前に掲げていた山札をさらに八〇度ほど上に持ち上げた。スクリーンにはカードの底の短辺しか映らなくなり、オーディエンスにもカードの数字は見えなくなった。

 ザ・スペードは目線のほぼ真上でほとんど水平に山札を持ったまま、両目を閉じてカードを一枚一枚右へと送っていく。

 やがて、二枚目のカードがさっと山札から右手で摘まみ抜かれてスパイダーテーブルに裏向きで置かれた。

 そして、しばらくしてから三枚目が抜かれ、裏向きで置かれる。

 四枚目も抜かれ、やはり裏向きで置かれた。

 ザ・スペードは目を開けて山札をスパイダーテーブルに置くと、取り出した四枚を緑色のマットの上に移して、四分の三ずつ下のカードに重なるようにして並べた。

「それでは、ショーダウンといきましょう」

 四分の三ずつ下のカードに重なりながら裏を向けていたカードは、一番下になっていたカードがひっくり返されてドミノのように一気に表を向けた。

 その瞬間と寸分違わず、狂熱的な拍手喝采が空間内に溢れかえる。

 四枚のカードは、互いにスートの異なるAだった。

 

2 レッツ・プレイ・マジック!


「すごかったね! 最後のマジック!」

 ハンバーガーの載ったプレートをテーブルに置くなり、すみれが興奮した様子でいった。

「すごいなんてもんじゃない」

 対する岩戸の声は冷静だ。彼も興奮しているが、頭が整理できておらず、声は平坦になった。

「あれ、どんなトリックなの?」

「全然分からん」

「お兄ちゃんでも分かんないんだ」

「何でも見抜けるんだったら、今頃プロやってるよ」

 三十分弱のステージの間に、ザ・スペードは系統の異なるいくつものカードマジックをやってのけた。岩戸も様々な小道具を使ったマジックのレパートリーを持っているが、カードを使ったマジックが彼の十八番だ。ただ、プロには及ばないことぐらいは自分でも弁えており、何でも見抜けるとは思っていない。実際、ザ・スペードが披露したマジックのうち、彼が自信をもってトリックを見抜けたといえるのは、数個しかない。

「最初の方のは簡単なやつばっかだったから、正直カジノで見れるマジックだから所詮こんなもんかって思ってたんだけど、いや、それにしてもかなりレベル高かったわ」

「え? カード燃やしちゃったマジックとか、どうやったか分かったの?」

「ああ。あれはトリックとしてはシンプルだな」

「教えて教えて!」

「カードがない」

「そこで買えるよ」

 すみれが指さす先に目を遣ると、自販機があった。マジか、と思った。カジノでは、トランプが自販機で買えるとは知らなかった。


――カジノなだけに、売ってるのはこっちのタイプか。

 岩戸はそんなことを思いながら箱のシュリンクを外して新品のカードの束からスペードのAとスペードの2のカードの二枚を取り出すと、スペードの2を胸ポケットに入れた。

「あの時の状況はこうだったな」

 右手の人差し指と中指でスペードのAを挟み、それと同時に右手の親指と人差し指でボールペンを持った。

「で、あの時、ザ・スペードはこうやって持ってたペンを、ジャケットの胸ポケットに戻しただろ。この時にこうしたんだ」

 岩戸はボールペンは胸ポケットに入れて、カードだけを持った右手をすみれの前に差し出した。そして、カードを挟んでいる人差し指と中指を少しずらした。

「あっ!」すみれが声を上げた。

「なっ。めっちゃ簡単なトリックだろ」

 岩戸の人差し指と中指には、スペードのAとスペードの2の二枚のカードが挟まれている。

「胸ポケットにペンを入れると同時に、予めポケットに入れといた一枚のカードをスペードのAの下に重ねた状態にして取り出すんだ。で、表面を向けた状態で上になってるスペードのAだけをオーディエンスに見せれば、その下にもう一枚カードが重なってるとは誰も思わない」

 岩戸は言葉を切ると、すみれの目の前に差し出していた右手をゆっくりと上に上げ、そして、二枚のカードを裏返した。つまり、二枚のカードはすみれには裏面を向けており、岩戸には表面を向けている。岩戸ははらりと一枚カードを落とした。落とされたカードはスペードのAだ。スペードのAはテーブルの上にある。

「ザ・スペードってあのマジシャン、少し袖口の大きいジャケットを着てただろ。俺のジャケットは袖口が締まってるからできないけど、彼女はカードを自分の方に向けてから、さっとスペードのAだけを袖の中に落としたんだよ。で、手に持ったままになってるもう一枚のカードに火を点ける。そうすればカードは燃えるけど、後からスペードのAを袖からこっそりと取り出せば、あたかも生き返らせたかのように見せられる」

「ほんとだ」

 すみれはテーブルに落ちていたスペードのAを拾い、山札から取ったもう一枚の適当なカードと組み合わせて、岩戸が解説したマジックのプロセスを辿っていた。

「でも、やっぱり難しいね」すみれは笑って二枚のカードを右手の人差し指と中指に挟んでみせた。「ほら。カードが滑って、綺麗に重なんないもん」

「それは慣れだな。訓練あるのみ。プロのマジシャンなら容易いさ」

 岩戸はさっと二枚のカードを人差し指と中指で挟んで、揺すってみせた。二枚のカードはぴったりと重なったままだ。

「やっぱお兄ちゃんはすごいなあ。他にも見抜けたの、あるの?」

「後はそうだなあ」岩戸は頭の中で目にしたマジックを思い返した。「ああ、そうだ。このマジックの後に、四枚のJを揃えてただろ。あれも分かった」

「Aが揃ってくれなくって、代わりにJが揃ってたってやつだよね」

「Aはマジックを盛り上げるためのただのフェイクだ。ザ・スペードにも、Aを揃える気なんて初めっからなかったに決まってる」

「そうなの?」

「あれはこうやってたのさ」

 岩戸は山札から、三枚のAと四枚のJを取り出してテーブルに置いた。

「で、こうやって並び変えて山札に戻す」

 岩戸は表を向けた七枚のカードを、

J→A→J→A→J→A→J

の順番に並べると、表面を上に向けた山札の一番下に、それらも表面を上にした状態で仕込んだ(図3)。

「ちょっと待って」

「何だ?」

 すみれの声に、岩戸は顔を彼女に向けた。

「今の並べ替えって絶対に必要なの?」

「そりゃそうだろ」

「でも、あのマジシャン、そんなことしてた? カードも山札もずっと同じのを使ってたと思うし、タバコ吸いながらシャッフルだってしてたじゃん。さすがにマジシャンっていっても、誰にも気づかれずにステージ上で七枚もカードを並べ替えるなんて無理なんじゃないの?」

「そりゃ無理だろうな。てか、ザ・スペードはタバコ吸いながらシャッフルなんてしてなかったよ」

「え?」

「ただカットしてただけだ。カットすると、相手にはカードの並び順がばらばらになったかのような錯覚を与えるけど、実際には束ごとに上下がひっくり返るだけで、カードの並び順はそのままだからな」

「あれ、カットだったんだ。どう見てもシャッフルしてるように見えたけど」

「高速のドリブルも交えてカットしてたから、そういうふうに見えたんだろ」

 岩戸は山札を掴むと、高速のドリブルを交えてカットして見せた。

「ほんとだ。すごい!」すみれの目に、驚嘆の色が浮かぶ。

「だろ。てわけで、この並べ替えはショーの前に予め山札に仕込んであったんだ。で、ここにきてようやくほんとに山札を切るんだけど――」岩戸はすみれの目を見た。「ここがトリックなんだ」

「うんうん」すみれは楽しげに岩戸の手元を見ている。

「普通にシャッフルするんじゃなくて、ヒンズーフォールスシャッフル をするんだ」

「そっか!」すみれの目がぱっと明るくなった。「そうしたら、山札の一番下に忍び込ませた七枚の順番は変わらないもんね(図4)」

「そういうこと」

 岩戸は表面を上に向けたままの山札の中腹辺りからカードの束を抜き取って何度かシャッフルをすると、山札をひっくり返して左の手のひらに乗せた。つまり、山札は裏面を上に向けている。岩戸は山札の上からカードを引いた。

「このカード、何か分かる?」

「えっとぉ……」すみれは人差し指を唇に押し当てた。「分かった! Jだ!」

 岩戸は山札から引いたカードをひっくり返した。

「え……? 何で……? Aじゃん」

「甘いな、すみれ。ダブルリフト だ」

「ああ!」

 すみれは、してやられた、といわんばかりに顔をくしゃっとさせた。

「これを三回繰り返せば、相手は三回Aを見ることになる。そしたら、Aを揃えるマジックかって思わせられる。すみれ、この山札からダブルリフトで後二回カードを引いてみな」

「うん」

 すみれはいわれた通りに、ダブルリフトで二回山札からカードを引いた。テーブルには下にJを重ねた三枚のAのカードが置かれている。

「で、この状態から、どうやったら四枚のJを揃えられる?」

 一瞬考えてから、ハッとした顔ですみれは山札からカードを一枚引いた。スペードのJだ。

「はい。揃ったよ」

「んなわけねえだろ」

 今引いたスペードのJをテーブルに置いてから、それぞれJの上に重なっている三枚のAを払い除けたすみれに、岩戸は笑いながら即ツッコミを入れた。

「分かんないよ」すみれはぷくっと頬を膨らませた。

「だろうな」

 岩戸はいやらしく笑うと、最後に引かれたスペードのJ、ダブルリフトされた三ペア目、ダブルリフトされた二ペア目、ダブルリフトされた一ペア目の順で、裏向きになっている山札に全てのカードを戻した。そして、山札の一番上の一枚を裏向きのまま山札から除外した。

「このマジックを成功させるには、もう一つ小細工が必要なんだ」

 岩戸はトランプの入っていた空箱に目を遣った。その視線に気づき、すみれも空箱を見る。

「さて、小細工終わり」

「え?」

「今、俺何したと思う?」

「何って……この箱を見てただけでしょ」

「そう。それもしてた。後もう一個したんだけど」

 すみれが眉間に皺を寄せる。その顔を見ているうちに、岩戸はぷふっと吹き出した。

「ミスディレクション に引っかかるなんて、何年俺の妹やってんだよ」

「何かそんな気はしたよ」

 すみれはわざとらしく、ぷいっと顔を反らせた。

「このマジックをしてた時も、ザ・スペードはミスディレクションをかましてたんだぜ。それも、新たにカードを山札から引く直前に毎回してたんだ」

「えっ! そんなにしてたの?」

「そうしないと、このマジックは成立しない。いいか、俺の手元をよく見てろよ」

 岩戸は山札を左手に持つと、ザ・スペードがしていたと思われるトリックをしてみせた。

「分かった?」

「山札の上半分と下半分を一瞬分けて、またすぐに戻した?」

「それだけじゃない」

 岩戸はダブルリフトして、クラブのAをすみれに見せると、それを山札の一番上に戻して、その後山札の一番上のカード一枚を裏向きのままテーブルに置いた。

「もう一回するけど、今度はゆっくりやるぞ」

 すみれは岩戸の手元を凝視している。彼は先ほどと同じトリックをした。

「え? 何? もしかして、一番上のカードだけ残して抜いた?」

「そう。そういうこと。ザ・スペードもカジノ仕様のこのカード使ってたけど、このタイプだとカード同士の境目がかなり分かりにくいから、このトリックには向いてるな」

 マジックに使われるトランプには、裏面全体に模様がデザインされているタイプと、裏面の縁は白く囲まれその内側にだけ模様がデザインされているタイプとがある。前者はカジノでポーカーやブラックジャックなどのゲームに使われることが多く、後者はマジックに使われることが多い。マジックではキーカードだけこっそりと表裏を他のカードとは逆にしてトリックを仕掛けることがあるため、カードを少しずつずらして重ねて見せた時に、白い枠で裏面が囲まれている方が便利なこともあるのだ。

 岩戸は再びダブルリフトして、Aのカードをすみれに見せると、それを山札の一番上に戻して、その後山札の一番上のカード一枚を、既に裏向きのままテーブルに並べられている二枚のカードに並べた。

「まあ、こういうトリックだ」

 岩戸は左手で持った山札の一番上のカードに左手の親指を添えると、この一番上のカードだけを残して、上から二枚目以降のカードの束を右手でごっそりと抜き、残した一枚の一番上だったカードの上にその束を乗せた(図5)。

「ショーの時、ザ・スペードは『山札から一番上のカードを除外する前に魔法をかけさせていただきました』っていってたけど、あれはミスディレクションで、本当は違ったんだ。本当は山札から一番上のカードを除外した後に、今俺がやってみせたトリックっていう魔法をかけてたんだ。『除外する前に』っていっておけば、オーディエンスはトリックを見破ろうと思って山札からカードを除外する前までのマジシャンの手元に集中する。そうすると、マジシャンが山札からカードを除外した後は、集中力は散漫になる。そのタイミングを突いて、ザ・スペードはこのトリックをかましてたんだ。尤も、カードの裏面はこの通り境目が分かりにくいし、そもそもあのマジシャンのカードさばきはめちゃめちゃ華麗だから、確かに一回目は山札の上半分を掴んだりしてたけど一枚目を残してるようには見えなかったし、それ以降なんてよおく見てても、山札は手にしてるだけで何かしてるようには見えなかったんだけどな」

「お褒めいただき、ありがとうございます」

「え?」

 驚いて岩戸が振り向くと、座っている二人の後ろに、ロングの黒髪で片目を隠した女性が立っていた。

「もしかして……ザ・スペード……さんですか?」

 岩戸が戸惑いながらも口を開くと、彼女は二人と向かい合う位置の椅子に腰かけた。

「はい。そうです。ザ・スペードです」

 ザ・スペードは赤く艶やかな口元に笑みを浮かべた。ステージで近づいた時にはカードに注意が行っていて気づかなかったが、今真正面から間近で見ると、漆黒の黒のジャケットには唐草模様と龍の刺繍が入っており、やはり胸ポケットには同じ製品の黒と赤のサインペンがペアになって収められているのが分かった。岩戸ははっと気づいて前髪に手を遣った。ワックスが今朝きれてしまい、今日は前髪がキマッていなかったのだ。

「やっぱり、マジックを知ってらしたんですね」

「まあ……趣味でちょっと齧ってるだけですけどね」

 ザ・スペードはテーブルの上に裏返して置かれている四枚のカードを表にひっくり返していった。

「結構本格的にやってるんじゃないですか」四枚のJのカードを見てザ・スペードはニヤリと笑みを作る。「そうでないと、わたしのマジックをこんなふうに再現なんてできませんよ」

「兄の解説、当たってたんですか?」

 横からすみれが訊いた。ザ・スペードは彼女を見て、こくりと頷いた。

「すごいお兄さんですね」

「いやいや――」岩戸は体が急に熱くなるのを感じた。「ザ・スペードさんには敵いませんよ。僕が分かったのは、せいぜい最初の数個のマジックだけです。それに、あんなに上手くカードは扱えませんし」

「そうですか? 一連のカードさばきを見てましたけど、たいへん流暢なものでしたよ」

「そういってもらえると嬉しいです。ありがとうございます」

「ここに来られたのは、初めてですよね」

「兄は初めてです」横からすみれが答えた。「あたしはカジノの方にたまに来てて、今日もブラックジャックしに来たんです。で、兄がマジック好きだから、今日は兄にマジックを見せようと思って連れてきたんです」

「そういうことでしたか。ブラックジャックの方も、楽しんでいただけましたか」

「いえ、今日はこの後やろうかなと思ってて」

「じゃあ、今晩はご兄妹でプレイされるわけですね。その場で居合わせた人とプレイするのも楽しいですけど、友達や兄妹で一緒にプレイされても楽しいと思います。わたしも友人を誘って、今度久しぶりにブラックジャックやってみようかな。あ、でも皆忙しいかな」

 ザ・スペードは最後独り言のようにいうと、にこっと笑って二人を見た。「では、楽しい時間をお過ごしください」

 席を立とうとしたザ・スペードを見て、岩戸はふと思った。

「あの――」

「はい?」

「アンコールでやってもらった最後のマジックなんですけど、あれ、どういうことなんですか?」

「どういうこと、とおっしゃいますと?」

 ザ・スペードは不思議そうに岩戸を見た。

「まったく理解できなくって……」

 ザ・スペードは、ふふっと笑った。「マジックって、そういうものなんじゃないですか。だって、魔法なんですから。是非またマジックも見に来てください。お待ちしています」

 ザ・スペードはそういうと、二人に一礼して去っていった。


「あのマジック、そんなに気になるの?」

「ん? ああ、気になる」

 二人で冷めたハンバーガーを食べていると、すみれが唐突に訊いた。夕食の後はブラックジャックをしようと話していたので、彼女はブラックジャックの話をしていたはずだが、岩戸が心ここにあらずという感じだったのを察したのだろう。

「気になるというか、不思議でしょうがないんだよな」

 岩戸は残りのハンバーガーを一口に放り込むと、テーブルの上に置いたままになっていたカードの山札に手を伸ばした。

「あのマジック自体はザ・スペードさんのオリジナルじゃなくて、結構知られたマジックなんだ」

「まあ、カードを揃えるマジックって結構あるもんね」

「いや、そうじゃなくって、あのトリックが、って意味だ」

「何だ。トリック分かってるんだ。じゃあ何が不思議なの?」

「一言でいうなら、あれじゃトリックを仕掛けた意味がない」岩戸は山札から四枚のAを取り出した。「あのマジックのトリックはこうだ」

 岩戸はAだけを除外した山札を裏面を上にした状態で左手に持つと、右手でさっとリフルして左手の小指を上から三枚目と四枚目のカードの間に少し入れた。そして山札の上に、四枚のAを表面を上にした状態で重ねた。

「あのマジックの初めで、ザ・スペードさんはブレイク をしてたはずだ」

 岩戸は三枚目と四枚目のカードの間に小指を少し入れていることをすみれに示した。

「で、山札の上からカードを取り出す」

 岩戸はブレイクした場所を目印にして、山札の上からカードを右手で掴んだ。親指と人差し指を使ってカードを扇状に広げると、四枚のAと三枚の裏を向いた、合計七枚のカードが並んだ。

「でも、ザ・スペードさんも扇状にカードを広げてたけど、四枚だったじゃない」

「あの人は相当指先が器用なんだよ。四枚目のAの後ろには、裏向きになったカードが三枚重なってたに決まってる。ただ、プロでも普通あんなことはできない」

 岩戸は扇状に広げていた七枚のカードをさっと戻して重ねると、表になっているAが見える状態で右手に構えた。

「そんで、こうやって一番上のAを山札の一番上に送ってからひっくり返す」

 岩戸は右手の親指でAを左手に持っている山札に弾き飛ばすと、Aのカードを山札の上で裏返した(図6)。

「これを三枚目のAまで繰り返す」

 岩戸はクラブのAに続いて、ダイヤのA、ハートのAも山札に戻した。

「で、最後なんだけど、四枚目のAはこうやって山札に乗っけるんだ」

 岩戸はスペードのAを、その下に重なっている裏向きの三枚のカードと一緒に、左手に持っている山札の上に少し大げさな動作で乗せてみせた。

「ザ・スペードさんも、最後の一枚はこういうふうに山札に送るんじゃなくて乗せていた。これを見たから、このトリックを仕掛けたんだなって確信したんだ。で、スペードのAを裏返す(状態1とする)。この時、その下のカードは元々裏向きになってるから、オーディエンスは三枚目に山札に戻されたAだとしか思わない」

「そっかそっか! なるほど!」すみれがうんうんと頷きだした。「だからその後、上から四枚のカードを引いた時に、三枚はAじゃないカードだったんだ!」

「そういうこと。で、普通このトリックでカードを揃える場合って、こういう感じにカードを並べるんだ」

 岩戸は引いた四枚のカードを裏向きで山札に戻すと(状態1)、その山札から一枚ずつ引いていき、最終的に四枚のカードを裏向きのまま左から右に別々の場所に置いた(図7)。

「で、次は山札から三枚ずつ引いていって、裏向きのままそれぞれの場所に三枚ずつカードを配っていく(図8)」

「そうか」

 すみれにもトリックの仕組みが分かったらしく、岩戸が四ヶ所に三枚ずつカードを追加し終えると、彼女は一番左端のカードのグループに手を伸ばした。

「全部Aだ」

 一番左端の四枚のカードを全て表にしてすみれがいった。

 この手順でカードを四つのグループに四枚ずつ配っていくと、裏向きになっている山札(状態1)の上から四枚はAであると思っている相手は、四枚のAはそれぞれ別々のグループに配置されたと思うため、カードをひっくり返した時に、Aが一つのグループに集まっているのを目の当たりにして驚くというわけだ。

「というわけで――」岩戸がいった。「このトリックを仕掛けた場合、むやみにシャッフルなんてしたら、仕掛けたトリックが台無しになる。なのに、ザ・スペードさんは上から四枚のカードがAじゃなかったことを確認してから、オーディエンス全員にシャッフルさせた上で四枚のAを揃えていた。こんなこと、どう考えても普通じゃない」

「単純に、お兄ちゃんが考えてたのとは違うトリックを使ってたんじゃないの?」

「違うトリック?」岩戸は眉根をひそめた。

「例えば、ほら、四枚のAは何回かザ・スペードさんの手のうちで揃ってたわけなんだから、爪でカードに目印をつけるとかしたんじゃないの」

「いや、ないな」岩戸は即頭を振った。

「何でよ?」

「パフォーマーなら、自分のステージはかっこよく締めたいと思うに決まってる。まして、あのレベルのマジシャンなら尚更だ。だから、最後のとっておきのマジックでそんな子供だましをするはずがない」

「じゃあさ、そういう心理の裏をかいたって可能性もあるじゃない。あっ、そうだ!」すみれの表情がぱっと明るくなった。「そういえばさ、カードでリフティングしてたじゃん。あの時にカードの側面同士がぶつかって傷がついて、それを目印に利用したのかもしれないよ」

「ううん……」

 そんなチープなトリック、あのマジシャンがするわけない、と即座に思って否定はしたものの、岩戸自身も少し考えてみる。

 確かに初歩的なマジックとして、そのようなトリックは成立する。裏向きの山札の中から相手にカードを一枚任意で選んでもらい、そのカードのスートと数字を相手のみに確認してもらってからマジシャンが裏向きのまま受け取って山札に戻すのだが、相手が選んだカードに触れるこの一瞬のうちにこっそりと爪で傷をつけておけば相手が選んだカードを山札の中から当てることはできる。

「やっぱないな」

「え~、どうしてぇ~?」

 すみれは不服そうに声を曇らせた。

「カードの側面に傷つけてたんなら、シャッフルした時に違和感で分かる。俺はリフルシャッフルした後にヒンズーシャッフルもしたけど、そんな違和感はなかったからな」

 トリックの見当がつかないマジックなら全然いい。それなら純粋に驚いて楽しめる。ただ――トリックの見当はついていてトリックはこれしかないはずなのに、それが否定されるのは一番タチが悪くて気になってしまう。

 と同時に、マジックってそういうものなんじゃないですか、だって魔法なんですから、といって去っていったザ・スペードの横顔が岩戸の脳裏に浮かんだ。

 魔法? まさかな、と岩戸は思った。


3 ブラックジャック・ロマンス


「すみれさんじゃないですか。こんばんは」

「すみれさん!?」

 妹の名前を馴れ馴れしく呼んだ男性を、岩戸は驚いて見た。

「ちゃお♪」

「ちゃお!?」

 岩戸は続いてさっと妹に顔を向けた。すみれはその男性ににこにこと笑顔で小さく手を振っている。

「お兄さんのタカツグさんですね」

「え!?」

 凛とした佇まいで笑みを浮かべる男性に、岩戸の顔が戻る。

「はい。兄です」

 落ち着いた態度で答えるすみれの横で、岩戸は事態を呑み込めずきょろきょろと二人を見比べるしかない。

「はじめまして。こちらでカジノディーラーをしております、ザ・クラブと申します」

「あ、ああ……。ええっと、すみれの兄の、岩戸貴(たか)(つぐ)です」岩戸は口に手を添えてすみれの耳に顔を近づけた。「おい。何で俺の名前知ってんだ?」

「あたしが教えたからに決まってんじゃん」

「何で教えてんだよ」

「何で教えちゃいけないのよ」

「どうかされましたか」

「いえ、何でも」ザ・クラブに、笑顔ですみれが答える。「いいですか?」

「ええ、もちろんです。どうぞ」

 ザ・クラブは気品に満ちた所作で二人にテーブルを勧めた。

「お兄ちゃんも座りなよ」

 既に椅子を引いて腰を下ろしかけているすみれが岩戸を促した。何もこんなイケメンディーラーのテーブルでしなくても、と思い岩戸は辺りをきょろきょろと見た。しかし、他のテーブルはどれも既に数人がプレイしており、柱に手をついて立っているアラサーふうの男性も、空いているテーブルはないかと探しているような状態だ。岩戸は仕方なくすみれの隣の椅子を引いた。

「貴継さんは初めてお越しですよね」

 岩戸が腰を下ろしたのを見て、ザ・クラブがいった。

「ええ、今日が初めてです」

「ブラックジャックのご経験はおありで?」

「ルールは知ってますけど、こういうとこでやったことはないです」

「そうなんですか」ザ・クラブはニコッと笑って白い歯をのぞかせた。「では、今日がカジノデビューということになりますね。いいゲームになることを祈ってます」

「ありがとうございます」

「それにしても――」ザ・クラブは左目の横に垂らした一筋の前髪を軽く手で払い除けた。「すみれさんは、ナイスタイミングです。このテーブル、ちょうど空いたところなんです」

「ちょうど空いたのが、ザ・クラブさんのところで良かった」

 すみれは上機嫌な笑顔で、すっと黒いカードをテーブルに差し出した。

「貴継さんも、プレイヤーズカードはお持ちですよね」

「え? プレイヤーズカード?」

「ここ入る時に作ったじゃん。あれよ」

「ああ! あれか!」

「カジノで遊んでいただく際には、プレイヤーズカードのご提示が必要なんです。ご提示いただくとプレイしていただくごとにポイントが貯まっていきますし、この施設内のレストランやホテルを会員価格でご利用していただくことにも使っていただけます」

 そういえばそんな説明を受けたなと岩戸はプレイヤーズカードを差し出しながら思い出した。ザ・クラブは岩戸とすみれからプレイヤーズカードを受け取ると、それらをカードリーダーに差し込んだ。

「じゃあ、五千でいこっか」

「五千?」

「チップに両替する金額だよ」

「ああ、そっかそっか」

 先ほどハンバーガーを食べながら、賭け金は五千円にしようとすみれと話していたのを岩戸は思い出した。すみれは月に四、五回の頻度でカジノで遊んでいるそうだが、毎回賭け金は五千円と決めているらしい。

 すみれは千円札五枚をブラックジャックのテーブルに置いた。岩戸も財布から五千円札一枚を取り出してテーブルに置く。チップに両替する紙幣は、ディーラーに直接手渡しするのではなく、不正を防ぐためにテーブルに置いてやり取りをするものだということも先ほどすみれから聞いて知っていた。

「どう両替されますか」

「グレイ二十枚と赤六枚で。兄の分も同じでお願いします」

「かしこまりました」

 ザ・クラブは慣れた手つきで手元のチップトレイからグレイのチップを重ねて筒状にして取り出すと、五枚一列で並べ始めた。岩戸の口から、おお……! と思わず驚嘆の声が漏れる。

「ね! すごいでしょ」すみれが横から笑いかけてきた。「あたしも初めて見た時、びっくりしちゃったんだ」

 筒状に重ねて持ったチップから素早く正確に一枚ずつ並べていくザ・クラブの所作は芸術的なほどに華麗で、岩戸も思わず見惚れてしまった。

 ザ・クラブはグレイのチップ五枚一列を四列と赤のチップ三枚一列を二列作って、手で示した。それを見てすみれが頷くと、彼はまたもや素早く正確にそれらのチップを、今度は手の内で筒状に重ね始めた。もはやただのチップの枚数確認ではなく、これ自体がプロディーラーによるパフォーマンスである。

 重ねたチップの柱をすみれに差し出すと、ザ・クラブは今度岩戸のチップの枚数確認を始めた。岩戸はちらっとザ・クラブの顔に目を遣った。

――こんなイケメンがディーラーしてるんなら、そりゃ女性客も増えるわな。納得だわ。

 ザ・クラブはキリッとした顔立ちをしており、超絶イケメンである。おまけに、左目横に流れるように垂らした一筋の波打った前髪や後ろでぎゅっとしばった長いポニーテールのせいで独特の色気をも醸し出している。もしかしてすみれの奴、この男目当てでカジノに通ってるのか。

「二十枚と六枚ですね」

「ああ、はい」

 ザ・クラブの確認する声に、岩戸は我に返った。ザ・クラブは華麗な所作で並べたチップを素早く重ねると、岩戸の前に差し出した。

「ここに置いて」

 すみれは自分とベッティングスペースの間の空間をトントンと叩いた(図9)。岩戸もすみれに倣って、チップを自分のベッティングスペースの手前に置いた。

「すみれさん」ザ・クラブは分厚い山札をインシュランスラインの中央に置き、カットカードをすみれに差し出した。「カットをお願いします」

 すみれはカットカードを受け取り、山札の真ん中あたりに差し込んだ。ザ・クラブはその山札をカードシュー にセットした。

「では、ベットをお願いします」

 すみれは彼女のベッティングスペースにグレイのチップを二枚置いた。グレイのチップは一枚百円なので、賭け金は二百円ということになる。テーブルの最低賭け金が二百円なので、岩戸もグレイのチップを二枚摘まんで、それを自身のベッティングスペースに置いた。

「では、始めましょう」

 ザ・クラブはカードシューからカードを引き、表を向けた状態ですみれ、岩戸、ザ・クラブ、そして、すみれ、岩戸の順に時計回りで素早くカードを配ると、最後にゆったりとした動作で六枚目のカードを自身のハンド として裏向きで置いた。

「ハンドって、見えちゃってていいんですね」岩戸がいった。

「六デック なので、ハンドはオープンなんです。ハンドを伏せてやる、いわゆるハンドヘルドゲーム は二デック以下の時なんです」

「へええ、そうなんですか」

「アップカード はダイヤの9です」

 ザ・クラブは自身のハンドのうち、表になっている方のカードを手で示した。

 ブラックジャックは、簡単にいえば、ハンドの合計を二十一に最も近づけた者が勝ちという極めてシンプルなゲームだ。J、(クイーン)(キング)の絵札は全て10と見なし、Aは任意で1か11と見なす。この点さえ知っていれば誰でもプレイできる。ただし、プレイヤーには、ハンドが二十一を超えない限り何枚でもカードを追加できるし、逆にどんなにハンドの数字が小さくてもカードを追加しなくてもいいという自由がある一方で、ディーラーには、ハンドが十七未満の時は必ずカードを追加しなければならないし、逆にハンドが十七以上の時にはカードを追加できないという制約が課されている。

 すみれは肩に掛けていたショルダーバッグから手帳を取り出すと、それを開いてチップの柱の横に置いた。

「それ、もしかしてベーシックストラテジーってやつか?」

「そうだよ」

「それって、見ながらやっていいのか」

「大丈夫ですよ。貴継さんも使いますか」

「え?」

 困惑気味の岩戸の前に、ザ・クラブはサッとハガキサイズほどの紙切れを差し出した。その横ですみれは自分のベッティングスペースの手前を左手の人差し指でトントンと叩いた。ヒット、つまり、カードを一枚追加するという意思表示だ。彼女のハンドはハートの10とダイヤの5なので、ベーシックストラテジー通りである。(図10)

 ザ・クラブはカードシューから一枚カードを引き、すみれのハンドであるダイヤの5にずらして重ねた。追加されたカードはハートの5だ。

「やった! めっちゃ強い! 二十だよ、ほらほら!」

「二十一じゃなきゃ、勝てないじゃないですか」

 はしゃぐすみれに、ザ・クラブは、参ったなア、という顔をしてみせた。すみれは嬉々とした表情で、今度は手の甲を上にして左手をひらひらと水平に振った。スタンド、つまり、これ以上カードは追加しないという意思表示だ。

 ザ・クラブの視線は、すみれから岩戸に移った。

 岩戸は自身のハンドを見る。彼のハンドはスペードの8とスペードの2だ。その和は十。

手元のベーシックストラテジーの表を見ることなく、岩戸はヒットの動作をした。一枚のカードの最大値はAの11なので、十ならば何を引いてもバースト する心配はない。

 ザ・クラブの引いたカードが岩戸のスペードの2に半分ほど重ねて置かれた。カードはスペードのKだ。

「俺も二十だ」

 岩戸もハンドの上で左手をゆらゆらと左右に振った。

「お二人とも、お強い」

 ザ・クラブは苦々しく微笑みながら、アップカードの角を引っかけてホールカードをひっくり返した。ダイヤのJだ。

 岩戸兄妹から、やったあ! と声が上がった。岩戸も思わずガッツポーズをする。

「二十じゃあ、私に勝ち目なんてない」

 ザ・クラブはチップトレイからグレイのチップ四枚を取り出し、二枚ずつすみれと岩戸に差し出した。プレイヤーは勝つと、賭けていた金額と同額のチップが支払われる。

 ザ・クラブはテーブルの上をサササササッと素早く拭き取るかのように右手を動かして三人のハンドを一瞬のうちに回収すると、ディスカードトレイ にそれらを収めた。いちいち手際が芸術的なほどに洗練されており、一ディール目で勝ったことに相まって、岩戸は一気にワクワクしてきた。

「やばっ! ブラックジャックって面白いな、おい!」

「お兄ちゃん、やば」

 すみれは勝ち取った二枚のチップを、チップの柱に重ねながら笑った。

「楽しいのが一番です」イケメン炸裂のスマイルでザ・クラブがいった。「では、ベットをどうぞ」

 高ぶった気持ちで岩戸がベッティングスペースに再びグレイのチップを二枚置くと同時、彼の左隣に誰かが立った。

「ここ、いいですか?」

「ええ、どうぞ」

 ザ・クラブがニコッと微笑んで椅子を勧めると、一人の男性がほっとしたような笑みを見せて、岩戸の隣にぴしっと背筋を伸ばして座った。よく見たら、先ほどカジノ内の柱に左手をついてきょろきょろしていたアラサーふうの男性だ。パリッとした高級そうなカッターを着たこの男は一万円札を十枚出すと、ザ・クラブにチップの色とそれぞれの枚数を指示した。ザ・クラブは再び華麗なチップさばきで指示された通りにチップを男性の前に並べ、それらを重ねて彼に差し出した。

 三人がそれぞれベットし終えると、ザ・クラブはすみれ、岩戸、アラサーふうの男性、ザ・クラブの順にカードを配り始めた。第二ディールの始まりだ。

「6かあ」

 ザ・クラブのアップカードを見てすみれがいった。

 すみれのハンドはクラブの2とダイヤの5、岩戸のハンドはクラブのQとダイヤの8、男性のハンドはハートの2とダイヤの3だ(図11)。すみれはヒットの動作をした。ザ・クラブが一枚カードをすみれのハンドに加えた。

 ハートの3だ。すみれは再びヒットをする。

「えっ! どうしよう!」

 すみれはザ・クラブを見た。彼は、どうしましょうかね、と笑う。

 追加されたカードはクラブの8で、すみれのハンドは十八になっている。ベーシックストラテジー通りにプレイするなら、スタンドということになる。

「お兄ちゃんと同じかあ」

 すみれは岩戸のハンドを見た。

「仲のいいご兄妹ですね」ザ・クラブは二人のハンドを見て微笑んだ。「さっきのディールのハンドも同じでしたよね」

「ご兄妹なんですか」

 岩戸の横から男性が会話に入ってきた。岩戸は首を左に向けた。

「ええ。実は」

「へええ。ご兄妹でカジノに。羨ましい」

「羨ましいですよね。こんなにかわいらしい女性とブラックジャックができるなんて」

「えへへへへ」のろけたような顔で、すみれは左右の手を頬に当てた。「あたしはザ・クラブさんのテーブルでブラックジャックができて幸せ」

――おいおい、こいつ完全に気があるじゃねえかよ。

「傍から見たら、すみれさんも羨ましがられてますよ」ザ・クラブがいった。「こんな素敵なお兄さんなんですから」

 いつの間にかすみれはスタンドをしていたらしく、ザ・クラブは会話しながらも岩戸に意思表示を促してきた。岩戸もスタンドの意思を示した。

「ご職業は何をされてるんですか」

「えっ?」岩戸はザ・クラブを見上げた。

「化学屋さんだよね」すみれがいった。

「化学屋さん?」

 ザ・クラブの表情がきょとんとなった。きょとんとなっても、元が超絶イケメンのためか、間の抜けた感じは微塵もなく、むしろ爽やかな気さくさが加わった。

「お兄ちゃん、大学で化学を専攻してたから、化学関係の仕事をしてるんだよね」

「そういうことですか。すごいですね、化学ができるなんて。あ、十三かあ」

 ザ・クラブは笑顔で話しながらも、手元でホールカードをひっくり返していた。ホールカードはハートの7だった。彼はもう一枚ヒットした。

「やった!」すみれが嬉しそうに顔の前で小さく手を叩いた。

「兄妹揃ってお強い」

 三枚目のザ・クラブのカードはダイヤの4で、彼のハンドは十七になっていた。男性のハンドは2、3、6、5で十六だったので、ザ・クラブは男性のチップのみを没収し、岩戸とすみれにはチップを差し出した。

 岩戸はこれまで最低賭け金の二百円しか賭けていなかったが、どうせ勝つならもっと賭けておけば良かったなと思い、今度はグレイのチップを四枚重ねてベッティングスペースに置いた。

「化学っていうと、化学反応式がありますよね」ザ・クラブは三ディール目のハンドを配りながら話を続けた。「あれがどうしても馴染めなくて、化学は得意じゃなかったんです」

「そうなんですか」岩戸はほっとしていった。「むしろ私は、化学反応に惹かれて化学が好きになったんです」

「どういうことですか」

 ザ・クラブは岩戸に意思表示を促しながら応じた。ザ・クラブのアップカードはスペードの2で、岩戸のハンドはスペードの6とクラブの9だったので、彼は手のひらを左右に振った(図12)。

「小学生の時に、マジックにはまったんですよ。で、中学生の時に大学の先生の出前授業で銅板を一瞬で金色に変えるっていう実験を見せてもらったんです。その時に、え、これマジックじゃんって思って、それで、化学面白いなってなって化学が好きになったんです」

「なるほどねえ」ザ・クラブは云々と頷いた。「そういえば化学の起源は、ただの金属をどうやったら金に変えられるかっていう錬金術だっていいますからね。今まで気づかなかったですけど、マジックと化学には、相通じるものがあるんですね」

「うそっ、負けた!」

 ザ・クラブがヒットした三枚目のカードを見て岩戸は声を上げた。ハンドがダイヤの10とハートの4だったすみれも隣で、あーあ、と嘆いている。ザ・クラブのハンドは2、8、9で十九だった。

 こんなことなら最低賭け金にしとけば良かった、と岩戸が内心思っていると、ナイスプレイです、というザ・クラブの声が聞こえ、岩戸は顔を上げた。ザ・クラブの視線の先に目を遣ると、彼は男性に一枚二千五百円の緑のチップ四枚を支払っていた。

「いやあ、良かった良かった!」男性は上機嫌に笑みを浮かべながら差し出されたチップを重ねた。「ダブルダウン が決まると気持ちいいですね」

 ザ・クラブとの話に気を取られるあまり、岩戸は隣の男性がダブルダウンしていたことに気づかなかった。ダブルダウンとは、ハンドが配られた後、ヒットする前にベット額を最初の倍に増やして一枚だけヒットするという選択肢である。彼の最初のハンドはハートの3とクラブの7で、追加されたカードはスペードのJだった。

 そっか、最初のディールの時、俺もダブルダウンしけば良かったな、と岩戸は思った。考えてみれば、ハンドの和が十か十一の時というのはバーストする心配がないだけでなく、Aや絵札を引けば二十一という最大値に近づける可能性があったのだ。

 二度あることは三度あるというが、三度目は負けたし、今考えてもベットの最適化など分かるわけもなく、岩戸は無難にグレイのチップ二枚をベッティングスペースに置いた。

「マジックがお好きということは――」ザ・クラブは四ディール目のハンドを配りながらいった。「もしかしてさっきまで、ステージの方でマジックを見られてたんですか」

「はい。そうです」

「どうでしたか。楽しんでいただけましたか」

「楽しんだも何も、すごかったです。まさかあそこまでのマジックが見れるとは思ってなかったんで」

「でしょうね」ザ・クラブは手元で岩戸がヒットした一枚を彼を差し出した。「今日のステージは、ザ・スペードってマジシャンでしたよね」

 追加されたカードはダイヤの9。手元のハートの4とハートのAと合わせると、十四か二十四と読めるが、二十四と読むとバーストしてしまうので、こういう場合には自動的にAを1と見なして十四と読む。岩戸は少し迷ったが、アップカードがハートの3であることを確かめてスタンドした(図13)。

「名前似てますけど――」すみれは8と9のハンドの前で、ゆっくりと肘をついてザ・クラブの顔をじっと見た。「あの女性マジシャンと付き合ってたりなんかしてないですよね」

「ははは」ザ・クラブの表情が一瞬で緩んだ。「そんな心配はご無用です。ザ・スペードなんて、私には高嶺の花ですよ」

「そんなことないですって。てか、いい加減教えてくださいよ、ザ・クラブさんって、彼女いるんですか」

「さて、どうでしょう」

 妖しげに笑みを滲ませて、ザ・クラブはホールカードをひっくり返した。スペードの9だ。彼はもう一枚ヒットし、さらにもう一枚ヒットした。

「うおおお、良かったああ」

「え? 何いってんの? お兄ちゃん、負けだよ」

 うめくような声で良かったと叫んだ岩戸に、すかさずすみれがいった。

「いや、最低のベットにしといて良かったって意味だ」

「ああ、そういうこと」

 岩戸のケチ臭い発言に、すみれは納得げに笑った。

「それにしても十四なら、やっぱりヒットしとくべきだった」

「十四なら、あたしならヒットしてたかな」

 ザ・クラブのハンドは3、9、2,4で十八だった。すみれは十七で、岩戸同様に負けだった。アラサーふうの男性も4、3,Qの十七で負けており、ザ・クラブは三人のチップとカードを回収した。

「カジノっていいですね――」再び最低ベットを置いてから、今度は岩戸から話しだした。「日本に住んでると、マジックを見ようと思ったらネットで動画を見るか、わざわざどっかのライブに行かなきゃ見れないと思ってたけど、こうやってカジノに来れば生のマジックを見れるんですからね」

「おっしゃる通りです」ハンドが2、6の状態ですみれがヒットしたので、彼女にカードを差し出しながらザ・クラブは頷いた。「カジュアルに生でマジックを見られるというのは、考えてみれば贅沢なものです」

「日によって、マジシャンは違うんですか」

 ハンドは9とQなので、スタンドの意思表示をしながら岩戸が訊いた(図14)。

「ええ、違います」ザ・クラブは男性がヒットした分のカードを彼に差し出した。「ただまあ、あまり期待しすぎない方がいいかもしれません」

「マジシャンによって腕に差があるんですか」

「ありていにいえばそうです。おっと!」

 ザ・クラブのハンドは6、6で十二だった。そして、彼がヒットしたカードはクラブの5だった。

「良かった~」すみれはほっと胸を撫でおろして、ハンドの四枚目のスペードの2を指先で突いた。「ザ・クラブさんのアップカードが6で、あたしのハンドが十六だったから、もう一回ヒットしようかどうしようか迷ったんですよね。もう一回ヒットして良かった」

「でも、ベーシックストラテジー通りならスタンドだろ」

「アップカードが6とか7の時って、ちょっと迷うんだよね。それにさっき、ベーシックストラテジー通りにプレイして負けたから、今度はどうしよっかなって思ったんだ」

 岩戸の指摘に、すみれは手帳に貼り付けられているベーシックストラテジーの表を指さした(図15)。

「確かに、その通りにやっても勝てるとは限らないですからね。結局ブラックジャックで勝てるかどうかなんて、運なんですよ」

 岩戸の左隣から男性がいった。彼は4、8、3、3の十八のハンドで、ザ・クラブの十七にぎりぎり勝っていた。

 ベーシックストラテジーとは、ブラックジャックの必勝法の基礎を成す確率論的な戦略である。表の縦はプレイヤーのハンドの合計値を示し、表の横はディーラーのアップカードの数字を示している。その時々の列と行を辿っていって交差した地点が「S」ならスタンド、「H」ならヒットするのが確率論的に賢明であるという意味だ。岩戸はこの表を見ながらプレイしており、今のところ、三勝二敗だ。悪くない成績だが、欲を出してグレイのチップ四枚を賭けた時には勝ちたかった。というわけで、岩戸はグレイのチップ四枚を再びベッティングスペースに置いていた。

「ノー・ブラックジャック 」

 ハンドを配り終えた後、ザ・クラブはホールカードをちらっと一瞬捲っていった。ディーラーのアップカードが10、J、Q、Kのいずれかの時、ホールカードがAでブラックジャックになるならばディーラーの勝ちが確定するため、プレイしていた場合に発生する無駄な時間とカードを節約する目的で、ディーラーはハンドがブラックジャックかどうかを確認する。ザ・クラブのアップカードはハートの10だった(図16)。

「あっ!」ヒットしたすみれが声を上げた。「バーストしちゃったアアア」

 見ると、彼女のハンドは9、4、Kで二十三になっている。岩戸は自分のハンドに目を戻した。最低ベットの二倍を賭けているのだ。今回は負けたくない。

「そうそう――」

 Aと6という悩ましいハンドを岩戸が見つめていると、ザ・クラブがいった。岩戸は顔を上げた。

「さっきの話なんですけどね、私も以前、ここでマジックをやってたんですよ」

「ザ・クラブさん、たまにゲーム中にも見せてくれるんだよ」すみれは顔を岩戸からザ・クラブの方に向けた。「ザ・クラブさん、カードさばき、超うまいですもんね」

「いやいや」ザ・クラブはクールな顔を左右に振った。「ザ・スペードには及びませんよ」

「ザ・クラブさんから見ても、ザ・スペードさんって、やっぱりすごいんですか」

 ヒットの意思を示してから、興味があったので岩戸は訊いてみた。

「彼女は本物のマジシャンです」

「本物のマジシャン?」

「あの人は、マジシャンの中のマジシャンなんです」

 ヒットで彼のもとにやってきたカードはダイヤのQだった。二十七ではバーストなので、十七と見なすしかない。岩戸はスタンドの意思表示をした。

 ターンはアラサーふうの男性に移った。

――あの人のマジック、また見に来るか。

 そんなことを思いながら岩戸は何気なく隣の男性の手元を見て、ぎょっとした。ダイヤの8とハートの8がカード一枚分の空間を空けて置かれており、一枚千円の青のチップがそれぞれに二十枚ずつ置かれている。

――スプリット して二万円ずつ! ギャンブルすぎるだろ!

 男性はヒットの意思を示した。カードはハートの9。彼は間髪入れずにヒットの動作をした。岩戸は思わず手元のベーシックストラテジーに目を遣った。

――アップカードは10。十七ならスタンドじゃないのか!

 ヒットで追加されたカードはクラブの4だった。

――何っ!

「ブラックジャック!」

 覗き込んでいたすみれが声を上げた。驚く二人をよそに、男性は第二のハンドに対してヒットを示した。

 追加されたカードはスペードのQ。男性は第二のハンドを見て、ふう、と緊張から解放されたかのように吐息を漏らした。そして、左手を左右に振った。

「やれやれ」

 ザ・クラブは参ったなアとばかりに頭を振っている。

 Aと10、あるいはAと絵札の組合せから成る二十一ではないので、第一のハンドは正確にはブラックジャックではないが、二十一という最強のハンドであることには変わりない。そして、第二のハンドも十八となかなかに強い。

 ザ・クラブのホールカードが捲られる。岩戸は息を呑んだ。

 ハートの4だ。

 ザ・クラブはヒットした。

 そのカードはクラブの3だった。

「やった!」

 男性は拳をぐっと握って、ハハハ、と声高に笑いだした。他方で、岩戸は脱力した。彼のハンドも十七で、プッシュ、つまり引き分けだ。賭け金は回収されないが、増えもしない。

「お見事です」

 ザ・クラブは男性に青いチップ四十枚を差し出した。

「一気に四万なんてすごい! 初めて見た」

「偶然ですよ、偶然」男性は勝ち取った青いチップをしげしげと眺めている。「今日は運がいいなあ。それにしても、あー、ドキドキした」

「よく十七でヒットしましたね」岩戸がいった。「あんなん、普通に考えて自殺行為ですよ」

「ほんと運が良かったです」

 ベッティングスペースにそれぞれチップを置きながらプレイヤー同士でそんな話をしていると、やがてザ・クラブが第七ディールのハンドを配り終えた。すみれのハンドはQと7、岩戸のハンドは4と9、男性のハンドは6とA、アップカードはクラブのAだ(図17)。

「インシュランス ?」

 ザ・クラブは開いた右の手のひらを上にして、インシュランスラインに沿ってすみれ側からゆっくりと弧を描き始めた。

 その時、さっと手が伸びて、インシュランスラインに一枚二千五百円の緑のチップが四枚重ねて置かれた。

 手の主は岩戸の隣の男性だった。すると、すみれもインシュランスラインに一枚五百円の赤いチップ二枚を重ねて置いた。

 ザ・クラブの右手のひらはゆっくりと弧を描いて、やがてすみれ側のインシュランスライン末端に戻ると、その手のひらはゆっくりと握られた。

「インシュランス・クローズド」

 ザ・クラブはホールカードをひっくり返した。

「良かったア~」

 うそっと小さく声を発した岩戸の左右で、すみれと男性はほっと胸を撫でおろしている。

「嘘だろ、おい……ブラックジャックかよ」

 ディーラーのハンドはダイヤのJだった。

 インシュランスとは、その名の通り、ディーラーのハンドがブラックジャックである可能性に対する保険である。ただ、普通に考えてAと十のカードが揃う確率は一方がAと決まった後でも十三分の四と低い。こんなことなら俺もインシュランスしとけば良かった、と事故を起こしてから保険を掛けていなかったことを後悔している人間と同じことを岩戸は思った。

 男性のベッティングスペースにある緑のチップ八枚は没収され、インシュランスラインに置かれた四枚とその二倍である八枚が合わせて彼に払い戻された。したがって、プラマイゼロである。すみれも同様の原理でプラマイゼロであり、岩戸だけがベットしたチップを失った。岩戸としては、さっきのディールが引き分けだったので、ベットはそのままにしており、最低ベット額の二倍になっていたため、痛恨の負けだ。

「タイミング悪すぎるだろ」

 岩戸は嘆きながら次のベットを置いた。弱気になっており、再び最低ベットだ。

 続くディールのハンドは、すみれがAと9,岩戸が8と7、男性がAと9、アップカードはKだ(図18)。男性は自分から見て逆向きに置かれていたスペードのAの上下をひっくり返した。

 すみれが即座にスタンドの意思表示をしたのはそのハンドの強さを見れば明らかだが、岩戸は彼女の手元を見た瞬間ドキッとした。

「めっちゃ賭けてるじゃん」

「まあね。でも、さっきもだよ」

「あ、そっか」

 今まですみれはグレイのチップで最低ベット額ぐらいしか賭けていなかったが、今彼女のベッティングスペースには一枚五百円の赤いチップが四枚置かれている。いわれてみれば、先ほどのディールでもインシュランスに赤のチップを二枚出していたのだから、オリジナルベットは赤いチップ四枚だったというわけだ。

 ベット額はハンドが配られる前に決めなければならない。何か強気になれる根拠でもあったかと疑問に思いながら、岩戸はヒットの意思を示した。ザ・クラブが一枚カードを岩戸に送った。クラブの5だ。

「よし!」

「いいじゃん」

 岩戸のハンドを見てすみれがいった。だろ、といいながら岩戸は左手を左右に振った。続く男性はスタンドの意思を示した。二十のハンドだから当然だが、その手元には、先ほどと同様一枚二千五百円の緑のチップが八枚も賭けられている。何でこんなに賭けてるんだ、まさか、と岩戸は思った。

 その目の前で、ザ・クラブはホールカードをひっくり返した。

 ザ・クラブの顔から苦笑いが漏れ、三人のプレイヤーの顔にはぱっと笑みが広がった。

 ホールカードはスペードの8だった。

「くっそ! こんなことならもっと賭けとけば良かった」岩戸は舌打ちした。「最低ベットしか賭けてない時に限って勝てるんだよな」

「こらこら」すみれが岩戸の口を塞いだ。「舌打ちなんてしちゃダメ。マナー悪いよ」

 すみれが続けて男性に「兄がすみません」というと、彼は「いえいえ」とすみれに微笑んだ。

「『人事を尽くせば女神がほほ笑む』」

「何だって?」

 唐突にすみれがゆっくりといった言葉に、岩戸はすみれの方を見て訊き返した。彼女は澄ました顔をしてテーブルのカードを眺めている。

「カケヤマシンゴさんの言葉」

「カケヤマシンゴ?」

「えっ? カケヤマシンゴさん、知らないの? あんなに有名なのに」

 すみれは少し呆れた様子で岩戸を見ると、岩戸越しに男性を見て「カケヤマシンゴさんって、知ってますよね?」と訊いた。男性は「え? いや……」といって言葉を濁した。

「すみれさんはカケヤマシンゴさんのファンですもんね」ザ・クラブがいった。「カケヤマシンゴさんは確かにこの界隈じゃ有名ですけど、皆が皆知ってるっていうほどではないと思いますよ」

「そうなんだあ。あんなにすごいのに」

「カケヤマシンゴって誰ですか?」

「プロギャンブラーをしている、ユーチューバーです。たまにうちにも来られるんです」

 岩戸の質問に答える形でザ・クラブがカケヤマシンゴについて話し出すと、男性は腕時計を見てからすくっと立ち上がった。

「じゃ、私はここらへんで」

「ありがとうございました」

 ザ・クラブはカードを指に挟んだまま、さっと右腕を腰の辺りで曲げて深く一礼した。

 男性はチップを持って去っていった。

「じゃあゲーム再開」

「えっ! お前またそんなに賭けるのか!」

 意気揚々と再び赤のチップ四枚をベッティングスペースに置いたすみれに岩戸はいった。

「お兄ちゃんも賭けなよ、ほら」すみれは岩戸の赤いチップをトントンと指先で叩いた。「さっきからずっとグレイばっかじゃん。いつ賭けるのよ、今でしょ」

 ええ……と渋り乗り気ではなかったが、すみれが強く勧めるので岩戸は半ばやけくそになって赤いチップ四枚をベッティングスペースに乗せた。どうせ全チップ使ったところで五千円しか損しないんだ、五千円しか、五千円しか、五千円……五千円もかよ。

 迎えた第九ディール。すみれのハンドは3と6で、岩戸のハンドは10と5、アップカードはダイヤのQだ(図19)。

 すみれはヒットした。

「やった!」

 三枚目のカードはクラブのエースだった。

「もう絶対勝ちじゃん♪」

 ルンルン気分の様子ですみれはスタンドの意思を示した。岩戸はヒットの意思を示す。カード一枚が彼のハンドに重ねられた。

「おおお!!」

 岩戸は思わず声を上げた。カードはハートの5だ。

「やったやった! 絶対勝ったわ!」

 果たして、ホールカードは――。

 ザ・クラブはホールカードをひっくり返した。

 ハートの3だ。岩戸は息を呑んだ。ザ・クラブはカードを一枚ヒットした。

 ハートの2。岩戸はほっと息を吐く。ザ・クラブはもう一枚ヒットした。そのカードは――。

「いよぉぉぉ!」

 岩戸は渾身のガッツポーズ。四枚目のカードはクラブのKだった。

「すみれさんに感謝しなきゃですね、貴継さん」

 チップを手に取りながらザ・クラブが笑った。

「そうだよ、お兄ちゃん。あたしに、ありがと、は?」

「ありがとありがと! マジでありがと!」

 岩戸はザ・クラブから差し出された四枚の赤いチップを受け取りながら口走った。

 続く第十ディールでは、岩戸は赤いチップ二枚を賭けて勝ち、すみれはグレイのチップ四枚を賭けて負けた。

 第十一ディールでは、岩戸も警戒してグレイのチップに戻して賭けて負け、すみれはグレイのチップ四枚を賭けて勝った。

 第十二ディールでは、二人とも赤のチップ二枚を賭けて負けた。

「ギャンブルを楽しむコツは欲張らないこと」すみれはグレイのチップ二枚をベッティングスペースに置いた。「もうあたしたち、運は使っちゃったみたいね。こっからは地味に賭けてきましょ」

「すみれさんは堅実ですね」

 ザ・クラブが第十三ディールのハンドを配りながらいった。

「でしょ」キラキラと瞳を輝かせてすみれが反応した。「あたし、お金のやりくりは上手いんだ。いいお嫁さんになれるかな」

「すみれさんは魅力的ですからね。魅力的な女性がいいお嫁さんになれないなんて、聞いたことないですよ」

「やーん、どうしよう~」すみれは両手をふるふると胸の前で振って照れている。「ザ・クラブさんに口説かれちゃった」

――何だ、こいつら。両想いなのか。

 岩戸は多少の居心地の悪さを覚えながらも、スタンドの意思を示した。



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