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小悪魔女子の神推理【戯々譚々4】

19 チェックメイト


 万理華が公開したハンドを見るや否や、卜部は思わず苦笑いを漏らした。万理華のハンドはスペードの8とダイヤの7で、対する卜部のハンドはクラブの6とダイヤのK、そしてヒットしたダイヤの9だった。

「まんまと引っかかった」勝敗が決し、卜部は気が抜けて笑った。「更科さんがくるってカードの上下をひっくり返したのを見た時、スペードのAを持ってるのかと思ったのに」

「わたしはそんな几帳面じゃないよ」万理華も笑った。「あれで引っかかるのって、卜部くんぐらいなんじゃない」

 スペードのAは特別なカードである。たいていどのメーカーのカードでもスペードのAだけは中央のスペードが大きくなっており、飾りが施されているものである(図21)。万理華は卜部の几帳面な性格を知っていたし、互いにカウンティングしていたのでスペードのAがまだ出ていないことは万理華も分かっていただろう。そこで彼女は自分がスペードのAを持っていると卜部に思わせることで彼をヒットに誘導し、バーストを狙ってきたというわけだ。

「てか、卜部くんがヒットしてなかったら、わたしの負けだったんだ」

テーブルのカードを覗き込んで万理華がいった。

「そうなんだよ。ハンド十六でヒットなんてギャンブルでしかなかったんだけど――まあ、実際ギャンブルだからな」卜部は薄笑いを浮かべたまま椅子に深く座りなおした。「さて、更科さんの勝ちなわけだけど、更科さんが勝った場合、更科さんの質問に僕が答えるっていうことだったよね」

「そういえば……そうだったね」

 途端に万理華の表情が曇った。その顔を見て、卜部は自分の勘が外れてはいなかったことを悟った。彼女は分かっている――。

「卜部くん――」万理華は覚悟を決めたらしく、真っすぐに卜部の目を見つめてきた。「あなたなんでしょ? シンゴを殺したのって」

 卜部は一瞬息が詰まり、そして大きく息を吐いた。

 沈黙――それは言葉にせずとも相手の問いかけに肯定で答えることに他ならない。

 卜部は万理華と目を合わせているのが辛くなってすっと目を閉じた。

 中学生の時、卜部は千葉伸吾とはクラスで流行っていたポーカーやブラックジャックがきっかけで仲良くなった。それまでは、卜部は勉強もスポーツもできて活発だったし、千葉は勉強もスポーツも大してできず大人しかったので、二人が接することは皆無だった。それゆえ、卜部は千葉伸吾のことを友達としても、ましてやライバルとしても意識することはなかった。しかし、ゲームを通していざ話すようになってみると、千葉は異常なほどにポーカーやブラックジャックが強く、ゲーム中に見せる彼の楽しげな姿を見て卜部は好感を抱いた。休み時間や体育の時間にゲームの話を持ち掛けると、千葉はセオリーの話をしてくれたこともあり、大した奴だと純粋に尊敬もした。そして、こんな奴が友達であることを誇らしくも思った。そんな千葉に、お前、プロになれるよ、と何度かいったのも卜部だった。

高校、大学と進学し、月日が流れていくうちに、いつの間にか卜部は千葉とは疎遠になっていた。そして社会人になってしばらく経った頃、カケヤマシンゴという名のプロギャンブラーの存在を知った。その顔を見て卜部は驚いた。カケヤマシンゴが同級生の千葉伸吾に他ならなかったからだ。すぐに検索をかけてみると、千葉はユーチューバーもしており、そのチャンネルは登録者数も多く、カジノゲームでの獲得賞金総額は数億円に達しているらしいことも分かった。やはりすごい奴だったと胸が高鳴り、卜部は居てもたっても居られず数年ぶりに即電話し、その興奮を千葉に伝えた。お前すごいよ、すごすぎるよ、と電話越しに何度も繰り返した記憶がある。そして翌日には、会社で同僚に、こんなすごい奴がいるんだ、と自慢げに千葉のことを話したのだった。

いつの頃からなのかは卜部自身にも分からない。しかし気づけば、卜部は千葉に強烈な嫉妬心を抱いていた。千葉のチャンネルは興味深かったが、見ていると嫉妬で気が狂いそうになることもあるので見ないようにしていた。それでも、どうしても気になって時々見ていた結果、頻繁にオススメリストに出てくるようになり、いつの間にかすべての動画を見てしまっていた。その頃には卜部自身も起業していて社長と呼ばれるようになっていたが、そんな肩書には何の魅力も感じなかった。勉強もできた、スポーツもできた、偏差値の高い大学にも入った、一部上場企業にも就職した――千葉が何一つできなかったことを自分はしてきたのに、世間では千葉の方がもてはやされている――卜部は自分の人生が随分とちっぽけなものに感じた。

ただ、そんなことで千葉を殺害しようとは思わなかった。そんな卜部に悪魔の転機が訪れたのは、千葉が投稿したある動画を見てしまった時だった。千葉の動画にはちょくちょく卜部が乗っているのと同じぐらいのグレードの高級車が出ていたが、まあ、あれだけ稼いでたら買えるよな、ぐらいにしか思っていなかった。しかし、ある動画で千葉は、その高級車の購入経緯を語っており、それはポーカーの世界トーナメントで優勝した記念として買ったということだった。それを知った後、卜部は一日何も手に付かなかった。買える金があったから買ったに過ぎない自分に、ただ金を持っているだけの人間にはできない勝負師ならではのかっこよさを見せつけられたような気がしたのだ。

その数日後、卜部は何気ないふうを装って千葉に電話し、「こないだの動画、面白かったから知り合いに見せたら、金持ちぶってて不快だな、っていわれたよ、僕的には全然そんなことないのにさ」と話した。すると千葉は「そうなんだ……そんなつもり全然なかったのに」と申し訳なさそうにいったのだった。そしてその翌日には、その動画は視聴できなくなっていた。しかし、この動画で自覚した敗北感はいつまで経っても卜部の中から消え去ることはなく、ついに卜部は情けないと思いながらも、千葉に直接会ってユーチューブの活動はやめた方がいいんじゃないかと切り出したのだった。それがあの日だった。ろくな理由も話さず執拗にそんな提案をすすめてくる卜部に、千葉は初めて不快感を顕わにしたが、ふと千葉の顔から表情が消え、もしかして……僕の動画で不快感を抱いたっていうのは……卜部だったのか、といった。その言葉を聞いた瞬間、卜部の中で何かが弾けた。そして気づけば、血に染まったブロックレンガを片手に、血だまりに倒れている千葉を見つめていたのだった。

 あの時のことを思い出すと、今でも後悔の気持ちしかない。やってしまったことに立ち尽くしていると、少し離れたところで呆然と立ち尽くしているマンションの管理人と目があった。卜部の手には血に染まったブロックレンガが握られており、とても言い逃れできる状況ではなかった。卜部は千葉の動画で見た人物だとすぐに認識すると、気づけば交渉に出ていた。千葉との時々のラインの中で、この管理人が妻や娘との関係で後悔していることを卜部は聞いていた。卜部は彼に土下座をすると、自分はもう終わりだ、刑務所に入ってしまったらもう生きて両親に会うこともできないだろう、だからせめて最後に両親に会いにだけ行きたい、会って感謝の言葉を伝えたい、それが済んだら必ず出頭する、だから今だけは見逃してください、と懇願したのだった。もちろん管理人は困惑していた。だが、お願いします、と卜部が繰り返しているうちに根負けしたのか、管理人は卜部の話を聞き入れてくれたのだった。その後卜部は自分のしでかしてしまったことを受け入れられず、ただこの現実から逃れたいという思いに駆られていた。そして気づくと、千葉の動画で見ていたカジノに来ていたのだった。カジノの帰り道、千葉のマンションの管理人の顔が脳裏に浮かんだ。その優しさを無駄にしてはいけないと思い、卜部はそのまま実家に向かった。そんな機会をくれた管理人の男性は本当に優しい人物だった。それなのに自分は、あれからもう数日経つが本当に出頭する気はあるのか、と電話で責められた時にマンションの管理人室で話し合う約束を取りつけ、そこで持参した洗剤を使って彼を毒殺してしまったのだった。


「ねえ、卜部くん」

「え……」

 卜部は目を開けると万理華を見た。

「何泣いてるのよ……」

 目の前で万理華が悲しそうにいった。そういう彼女も今にも泣きだしそうな顔をしている。卜部はいつの間にか流れていた涙を手の甲で拭った。

「ごめん」卜部は静かにいった。「最後に、更科さんに話しておきたいことがある」

「何……」

「前に更科さん、『何でシンゴと仲良かったの』って、僕に訊いたことあったよね」

 万理華は涙ぐんだ目で頷いた。

「あの時僕は、何となく波長が合うからだっていったような気がするけど、ほんとは違ったみたいだ」

「違ったみたい?」

「そう」卜部は万理華の顔を見ていられなくなり俯いた。「嘘をついてたってわけじゃない。僕自身も、この感情の正体に今の今まで気づいてなかったんだ。僕が千葉と仲良くできてた理由、それは――」

 卜部は顔を上げた。そして、万理華の目を真っすぐに見据えた。

「千葉のことを、下に見てたからだ」

 その一言をいい終えると、卜部は大きく息を吐いた。万理華は何もいわずに、円テーブルの上に散らばったままになっているカードを見ているようだった。

「あれ? パトカー?」

 すみれの声で、卜部は窓の方に顔を向けた。確かに駐車場の方に数台のパトカーが来ているのが見えた。卜部は立ち上がった。

「最後に会えて良かった」万理華を見た瞬間、卜部の目から洪水のように涙が溢れだした。「会ってくれて……ありがとう……」

 卜部はその場で膝から崩れ落ちた。止めようと思っても涙は止まらず、ついには呼吸するのさえ苦しくなってきた。

「バカだよ、卜部くん……大バカだよ……」

 そんな卜部の背中に、万理華はしゃがみこんでそっと手のひらを乗せた。

 そうして二人がロビーの絨毯の上で泣きじゃくりながらうずくまっていると、数人の男たちが卜部たちの元にやってきた。

「道塚さんじゃん!」驚いたようにすみれがいった。「何で?」

「うちの課の方に、電話があったんです」

すみれを見て道塚が答えた。卜部は優しく万理華の腕をどかすと、おぼつかない様子で立ち上がった。

「電話したのは、私です」

 道塚を見て卜部がいった。そして彼はすみれの方に顔を向けた。

「何となく、こうなる予感がしてたんです。だから、ここに来る途中で警視庁の方に電話をしてたんです、ここに来るようにって」

「一体、どういうことですか?」

 道塚たちの先頭に立っている年配の男が眉をひそめて訊いた。

「すみません……警察の方に連れてってもらってもいいですか」

「え? どういうこと?」

 年配の男はさらに不思議そうに顔をしかめた。卜部は振り返って万理華を見た。

「さようなら」

 そういった卜部に、万理華は立ち上がって「卜部くん」といった。

「最後に話しておきたいことがあるの」万理華は涙をハンカチで拭いた。「わたし、何でシンゴのことが好きだったと思う?」

 万理華の唐突な問いかけに、卜部は一瞬思考が追い付かなかった。

「そんなの、分かるわけなくない?」

「わたしはね、シンゴがわたしに、わたしだけじゃ見れない世界を見せてくれるから、わたしはシンゴのことが好きだったんだよ。シンゴはわたしに、夢を見させてくれる存在だったんだよ。カジノのゲームなんて基本はギャンブルなんだから負ける時は負ける。でもいいんだよ、負けたって。わたしが稼いでこればいいんだもん。特別な人同士なら支え合ってやってくものでしょ。だからシンゴは人生をワクワクさせて、わたしに夢を見せてくれれば十分だった。だからわたしはシンゴに惚れてたんだよ」

「ごめん……」

「責めてるんじゃない」万理華は涙顔のまま頭を振った。「卜部くんにも、気づいてほしかった……人となんて比べなくていいから……人間誰だって得手不得手はあるんだから、他の人が抜きん出てることで妬んだって、どうしようもないじゃない。シンゴが輝いてたのは、自分の得意なことを極めてたからだよ。輝いてる人は、自分の得意なことを磨いて自分の人生を楽しくしたり、好きな人の心を射止めたりしてるんだよ。卜部くんだって、たくさんできることがあるじゃない……なのに……どうして……」

「ほんとに……」卜部の頬を大粒の涙が流れた。「僕は……どうしようもなくバカだった……」


 ♠道塚葵の視点で物語を楽しみたい人、最後まで自力で推理したい人は、このまま「20 大切なあなたへ」に進んでください。

 ♠更科万理華の視点で物語を楽しみたい人、推理を知りたい人は、119~121ページ「20 大切なあなたへ」を飛ばして、121ページから始まる「20 小悪魔女子の神推理」に進んでください。


20 大切なあなたへ


「てか、何ですみれさんたちもあそこにいたんですか?」

 卜部が課長クラスの刑事たちに連れていかれた後、道塚を含む何人かのヒラ刑事たちと一緒に歩いていたすみれに道塚が訊いた。

「ちょっとね」

 すみれはそれだけいうと、ふふふ、と笑った。道塚が不思議そうな顔をしていると、万理華が彼の横に並んだ。

「すみれさんって、刑事になったらキレ者になりそうですよね」

「え?」

 きょとんとした道塚の顔を見て、万理華もすみれのように笑った。

「実は昨日、すみれさんとわたしと卜部くんで、ここのカジノで遊んでたんです。その時にすみれさん、男心の機微から推理を組み立てていったんですよ」

「どういうことです?」

 道塚の頭の中に大量の?が発生した。

「道塚さんが前に先輩の刑事さんの話をしたら、ザ・クラブさん、『男の人は自慢に思ってる人を自慢に思うと同時に、その人のことを嫉妬してることもある』って話してたらしいじゃないですか。あれですよ」

「どういうことです? 全然分かんないんですけど」

 そんな道塚の様子に、万理華はまたおかしそうに笑った。

「それはそうと、すみれさんが推理を組み立てて、卜部くんが自首してなかったら、シンゴの事件、迷宮入りになっちゃってたかもしれませんね」

「そんなことはさせませんよ」道塚は固く結んだ口元に笑みを滲ませた。「詳しくは話せないですけど、捜査は着実に進んでます。まあ、こんなふうに今日にとはならなかったでしょうけどね」

 万理華にそうは答えたものの、確かにそうだったかもしれないな、と道塚は心の中で思った。カケヤマシンゴのスポーツカーから見つかった指紋と管理人室から見つかった一致する二つの指紋、ひっくり返すことそのものがトリックとなるザ・クラブのマジックを見て閃いた仮説――事実をひっくり返して考え、洗剤のボトルは本当は元々建石さんの管理人室にあったものではなかったのではないか――とそれを支持する岩戸の分析結果など、確かに捜査は進んでいるが、どれも決定打には欠けている。卜部の自供、一致した二つの指紋が卜部の指紋と同一であることが明らかになれば、事件は加速度的に解決に向かっていくだろう。

そんなことを考えながら道塚が駐車場に戻ってくると、パトカーのそばに停まっていた車から一人の女性が降りてきた。そして彼女は、道塚の方に駆け寄ってきた。

「アンドレーナ・優姫さん?」

 間違いなく、アンドレーナ・優姫だった。そういえば、急用が入ったので午後七時の聞き込みを延期したいと連絡を入れた時に、うっかり場所をいっていたのだった。

「わざわざ来ていただいたんですか」

 近くに来た彼女に道塚がいった。

「はい」アンドレーナ・優姫は風になびく髪を手で押さえた。「刑事さんに、どうしてもお話ししておきたいことがあったので」

「聞いてはいましたけど、そんなに重要なことだったんですか?」

「重要かどうかは分からないですけど、あの時はいえなくって……」

 そういってアンドレーナ・優姫が話してくれたことは、父親の建石正智とはずっとろくに話していなかったということだった。先日の聞き込みの際にはこのことを伏せて刑事に話していたため、大切な父親を殺害した犯人を捕まえるのに有効な捜査を実施する上で支障を来たしてしまうかもしれないと思ったという。

「優姫さんは優しいですね」話を聞いて道塚がいった。「お父さんが望んだ通りの女性になられたようで、きっとお父さんも天国で喜んでいると思いますよ」

「ほんと……どうして素直になれなかったんだろ……」感極まってしまったらしく、アンドレーナ・優姫はぼろぼろと涙をこぼした。「実はあたし、父に直接会いたかったんですけど、どうしても素直に会いに行けなくって……でも、どうしても父には会いたくって……カケヤマシンゴさんのユーチューブに父が出てるっていうのを知ってから、毎日その動画を見てたんです……」

「え?」

そう発した直後道塚は、そういうことだったのか! と思った。あの動画の再生回数がそれなりにあったのは、そういうことだったのだ。それと同時、道塚は何だか温かい気持ちにも包まれた。建石のあの動画への出演はカケヤマシンゴと滝坂からの依頼があったからだったとはいえ、その依頼を聞いた瞬間、建石は娘へのビデオレターにできるかもしれないと思いついたのかもしれない。娘が万が一この動画を見つけてくれたら、ということに賭けた建石なりのギャンブルだったというわけだ。

――建石さん、あなたの勝ちです。

 道塚はそんなことを思って夜の星空を見上げた。


 ♠ここまで読んだ人は、121~125ページ「20 小悪魔女子の神推理」を飛ばして、125ページから始まる「21 ショウダウン!」に進んでください。


20 小悪魔女子の神推理


 ロビーのエレベータの扉が閉まって、何人かの刑事たちとともに卜部の姿が見えなくなった後、万理華は無意識に手の甲で目を拭った。そっか、わたし泣いてたんだ、と今になってようやく自分が涙していたことに彼女は気がついた。

「あたしたちも、行こっか」

「え?」

 きょとんとした万理華に、すみれはにっと笑った。

「そうね」

 万理華も涙目のまま、にっと笑顔をつくった。

 刑事たちの一丸について歩いている間、万理華はすみれのうしろ姿をずっと見ていた。『casino de magician』で同卓した初対面の時からその小悪魔女子的な言動や見た目とは裏腹の、鋭い観察眼とクールなプレイに惹かれるものを感じて親しくはなったが、今思うと、すみれに自分が惹かれた本当の理由は、その明るさなんだなと思った。

ザ・クラブがディーラーを務めるテーブルでシンゴがおらずにブラックジャックをプレイしたのはあの夜が初めてだった。そのことに気づいた瞬間突如センチメンタルな感情に襲われ、「人って、どうしてあんなことしちゃうんでしょうね」といってしまったのだった。そのまま感情に流されて道塚とそんな話を始めたが、その流れを変えてくれたのはすみれだった。彼女は道塚をからかって深刻な話題を思わず噴き出してしまうような明るい展開にぱっと持っていってくれたのだ。そして彼女はついさっきも、涙顔の万理華に心配そうな顔で「大丈夫?」とも訊かず、笑顔で「行こっか」といってくれた。その天真爛漫さが万理華の心を温かく包んでくれたのだった。

「てか、何ですみれさんたちもあそこにいたんですか?」

 道塚がさっと振り返ってすみれに訊いた。

「ちょっとね」

 すみれはそれだけいって、ふふふ、と笑った。それを見て、らしいな、と思うと同時、万理華の口元に笑みが滲んだ。彼女はさっと道塚の横に駆け寄った。

「すみれさんって、刑事になったらキレ者になりそうですよね」

「え?」

 道塚はぽかんとした顔を万理華に向けた。

「実は昨日、すみれさんとわたしと卜部くんで、ここのカジノで遊んでたんです。その時にすみれさん、男心の機微から推理を組み立てていったんですよ」

「どういうことです?」

 道塚は今度は狐につままれたような顔をした。そんな顔を見て、万理華はますますこの刑事を煙に巻きたくなった。

「道塚さんが前に先輩の刑事さんの話をしたら、ザ・クラブさん、『男の人は自慢に思ってる人を自慢に思うと同時に、その人のことを嫉妬してることもある』って話してたらしいじゃないですか。あれですよ」

「どういうことです? 全然分からないんですけど」

 あまりに期待通りの道塚の反応に、万理華はおかしさのあまり声に出して笑ってしまった。

「それはそうと――」万理華はこみあげてくる笑いを押し殺した。「すみれさんが推理を組み立てて、卜部くんが自首してなかったら、シンゴの事件、迷宮入りになっちゃってたかもしれませんね」

「そんなことはさせませんよ」

 軽い調子でいった万理華の言葉に、道塚は途端に口元を引き締めた。その口元には、微かな笑みが滲んでいる。道塚は続けた。

「詳しくは話せないですけど、捜査は着実に進んでます。まあ、こんなふうに今日にとはならなかったでしょうけどね」

 そういったきり、道塚は薄い笑みを浮かべたまま口を閉ざした。

 万理華は、すみれと道塚も同卓でブラックジャックをプレイした二日前の夜のこと、そして、すみれと卜部も同卓でブラックジャックをプレイした昨日の夜のことを思い返した。二日前の夜、道塚は万理華が来る前の、ザ・クラブとすみれのやり取りを聞いていただろうが、昨夜の卜部のことは知らないので彼がすみれの組み立てた推理に到達することはできないだろう。万理華自身でさえ、すみれからその推理を聞いた時、万理華の立場だからこそ腑に落ちる点があったものの、そうでなかったら、そんなバカな、と今でも思っていたような気がするほどだ。

 昨夜すみれから電話があったのは、カジノから帰って一時間ほどしてからだった。今一人ですか、と訊いてからすみれが話した内容に、万理華は驚かされた。事件のことなんですけど、とすみれは話を切り出すと、カケヤマシンゴさんを殺したのは卜部さんだと思うんです、と彼女は続けたのだ。

「卜部さん、前に卜部さんと知らずに一緒にブラックジャックしてた時もそうだったんですけど、ブラックジャックをブラックジャックのストラテジー通りにプレイしてましたよね。それなのに、すごい初歩的なミスプレイしてたの、覚えてます? ハンドが4とJで十四なのにヒットしてバーストするっていう。確かに十四のハンドならアップカードによってはヒットする時もスタンドする時もありますけど、スタンドすべきアップカードでヒットしてたし、ストラテジー通りにプレイする人だから、あのミスプレイがすごい印象的だったんです。しかもその時、何か他ごとに気を取られてたふうだったんですけど、あの時卜部さん、万理華さんと話してたんですよね。で、どんな話だったかっていうと、万理華さんがカケヤマシンゴさんのことを羨ましく思うことがあるっていう話でした。あの時の卜部さんの様子、万理華さん的には何とも思いませんでしたか」

 電話越しにそんなことを訊かれた瞬間、万理華は心臓が掴まれるような衝撃を覚えた。目を丸くして「更科さんも……そんなこと思ってたの?」といった卜部の顔が万理華の脳裏に蘇った。卜部はシンゴに嫉妬していたのだ。そして、シンゴに対してそんな嫉妬を自分以外の人間も抱いていたことに卜部自身が衝撃を受けていたのだ。あのミスプレイは卜部のそんな動揺が表れたものだったのだ。

 そんな話を万理華がするとすみれは、やっぱり、と短く息を吐いた。

「きっと衝撃はあったと思います――」すみれは続けた。「ただ、あたしの推理通り卜部さんが犯人なら、別の衝撃もあったんじゃないかと思うんです」

「別の衝撃?」

「これに関してはただの想像なんですけど、カケヤマシンゴさんに対してこんな嫉妬を持ってしまったのは自分だけなんだ、だからあんなことをしてしまったんだ、だけど、もし他の人がカケヤマシンゴさんに対して自分と同じ感情を抱いてしまっていたら自分と同じことをしてたに決まってると思って、自分のしたことを正当化していた――としたら、万理華さんの話は卜部さんの自己正当化を決定的に崩すものってことになりますよね」

 またしても、万理華の脳裏にあの夜の卜部の顔が浮かんだ。あの時、その表情を見て万理華自身も驚き、何か直感的にただならぬものを感じて「え?」という言葉が漏れたのだった。

 万理華が放心状態で何も言葉を発せずにいると、すみれはさらに続けた。

「そんなことを考えてたら、ずっと忘れてたのに、そういえばって思い出したことがあったんです。卜部さんとは知らずに初めて会った夜、あたし、カケヤマシンゴさんのことを知ってますかって何気なく訊いてたんです。そしたら卜部さん、何か言葉を濁してて、その後すぐにテーブルを立ったんです。あの時はカウンティングしてたのを誤魔化すために席を立ったんだなって思ったんですけど、本当は触れたくない話題が不意に出てきちゃって動揺したんじゃないのかなって思うんです。時系列的に考えて、あの時だったら、カケヤマシンゴさんの知り合いだっていうのは躊躇われるし、かといって嘘をいったらどうなるだろうって考えると答えようがなくなっちゃいますからね。そういう時、人って話題を変えようとしたり、それが駄目そうならその場から離れることってあるじゃないですか」

「すごい……たったそれだけのことで、ここまで推理しちゃうなんて……」

 手に持ったスマートフォンが異常に重たく感じるほどの放心状態のままようやく万理華がつぶやくと、すみれは、たまたまです、といった。

「たまたま昨日、道塚さんとザ・クラブさんの話の中で『男の人は自慢に思ってる人を自慢に思うと同時に、その人のことを嫉妬してることもある』っていうのを聞いてたから閃いたんです。今日の卜部さん、カケヤマシンゴさんの話をしてる時に、何かそんな感じがしたんです。この人、カケヤマシンゴさんのことを自慢に思ってるっていうより、何か羨ましく思ってるんだろうなって。人って、誰かの妬んでることとか悔しいこととかを、ちょっとだけディスりながら誰かに話してスッキリすることってあるじゃないですか」

「卜部くん、シンゴのことディスってたっけ?」

「ディスってるようなもんじゃないですか、あんな遠回しで無理ないい方。『千葉の動画を見てると、ブラックジャックとかポーカーって楽しそう、やってみたいなって思うけど、仕事としてのギャンブラーになりたいとはそんな思わない。でも、あいつと話してると、なれるもんならギャンブラーになってみたいなって思う』って苦しくないですか。カケヤマシンゴさんがチャンネルで見せてたのは、ただのブラックジャックとかポーカーじゃなくって、トーナメントとかの話です。普段からそういうゲームをしてる人が、やってみたいなって思うっていうのはおかしいし、あたしもそうですけど、普段からそういうゲームをしてる人があんなワクワクするトーナメントの動画を見たら、なれるもんならプロになりたいって思うに決まってますよ」

 そんなことをさらりと話していたすみれとの会話を、万理華はいつの間にか思い出していた。その電話の最後にすみれは、警察には一応話といた方がいいんじゃないですか、といった。聞いた万理華もそれは妥当な提案だと思った。刑事たちは現時点で卜部のことを容疑者として考えてもいないだろうし、それどころか、卜部には接触すらしていない可能性が高いので、ここで卜部という人物を警察関係者に知ってもらう意味はあると思ったからだ。ただ同時に、万理華の中にそれを躊躇する気持ちもあった。すみれの推理に符号する点はいくつもあったが、まだ決定的な物証はなく、所詮は一般的な心理と所作から推理された可能性に過ぎず、否定されたとしても何ら不思議ではない。しかしそれ以上に、そんなこと信じたくない、という気持ちが彼女をためらわせていることに彼女自身が気づいていた。だからこそ万理華はそうはせず、代わりに卜部に電話し、彼にそんな妄想を笑い飛ばしてもらおうと考えたのだった。しかし、卜部は今日ここに来る前に自ら警察に電話をしていた。それを思うと、再び心が痛んだ。

やがて万理華は刑事たちと一緒に数台のパトカーが停まっている駐車場に着いた。すると、一人の女性がウェーブのかかった明るい茶髪を揺らしながらこちらに走ってくるのが見えた。

「アンドレーナ・優姫さん?」

 道塚がいった。

 その女性はどう見ても警察関係者には見えないが道塚とは顔見知りらしく、彼のそばに来ると二人は何やら捜査に関係があるようなことを話し始めた。聞かない方がいいかなと思い、万理華は二人からそっと離れた。

「きれいですね」

 ふとすみれの声が聞こえ、万理華が彼女を見ると、ほら、といってすみれは夜空を指さした。彼女の指先につられるように、万理華はすっかり暗くなった空を見上げた。空には、点々と散らばった星々がきらきらと光っている。万理華の顔に優しい笑みが浮かんだ。

――シンゴ、楽しかったね。


21 ショウダウン!


 そっか、今日は七夕だったもんな、と思って岩戸は立ち止まって夜空を見上げた。IR施設の明かりのせいで天の川は見えないが、織姫星とも呼ばれること座のベガ、彦星とも呼ばれるわし座のアルタイル、そして、はくちょう座のデネブは見える。これらの一等星を直線でつないでいくと、夏の大三角になる。昔の人々はこの夜空を見上げて、いくつもの神々の悪戯な話をしたのだろう。

 昼以降、道塚からの連絡はなく、岩戸は定時で退勤した。退勤後、彼は予定通りに都内のIR施設にやって来た。夜空を見上げていた岩戸だったが、駐車場の方にパトカーが見え、少し目を凝らすと道塚の姿も見えた。岩戸は声を掛けようかと思ったが、結局はやめにした。道塚は若い女性と話をしている様子だったからだ。また事件か、にしては道塚の奴、何か笑ってるように見えるけど、などと思いながら岩戸はその場を通り去った。

 『casino de magician』に入り、スロットマシーンのピット、ルーレットのピット、ポーカーのピットを通り抜けていくと、岩戸はマジシャンのショーが見られるエリアに入るためにプレイヤーズカードを財布から取り出した。

「お兄さん」

 その声に岩戸はドキッとし、足を止めて振り返った。もう聞き慣れた、女性にしては低めの声だ。

「ザ・スペードさん」

 岩戸が振り返った目の前には、ザ・スペードが立っていた。相変わらず右目はふんわりとしたボリューミーな髪で隠れており、その口元はドキッとするほどにビビットな赤だ。ただ、岩戸は、あれ? と思った。

「今出勤されたんですか」

「いえいえ」緑色のシャツに緑色のロングスカートをはいた、明らかに勤務中ではないザ・スペードは顔の前で小さく手を振った。「今退勤したところです」

「じゃあ、今日のマジックはザ・スペードさんじゃないんですか?」

「ええ。今夜は他のマジシャンが担当してます」

「そうなんですか」

 岩戸は自分のテンションが下がっていくのを感じた。約束していたわけでもない。ましてや、付き合っているわけでもない。それでも岩戸は今夜ザ・スペードのマジックをもう一度見、ショーの後に何とか彼女と会って、彼女にいろいろ話そうと思い、意気揚々とやってきたのだ。しかし、そんなものは彼が勝手に一人で考えて計画していただけに過ぎない。

「どうかされましたか?」

「あっ、いえ……」

 岩戸の顔を覗き込むように見たザ・スペードに、彼は取り繕って答えた。

「お兄さんとは、何だか波長が合いますね」

「え?」

 岩戸はザ・スペードの顔を見た。

「今夜は七夕です。織姫様と彦星様が年に一度だけ会える日なんですよ」ザ・スペードはふふっと微笑んだ。「さっきのお兄さんのいい方から察するに、お兄さんは今夜のマジックのマジシャンがわたしだと思って来てくださったみたいですけど、実際はわたしじゃなかった。で、普通に考えたらわたしは仕事が終わって帰るだけですから、そんなわたしとお兄さんが会える確率なんて低いはずなのに、こうしてお会いすることができました。それって、わたしとお兄さんの波長が合ってるからじゃないですか」

「そうかも……しれませんね」

 心なしか、今まで以上に真っ直ぐ岩戸を見てくるザ・スペードの視線に岩戸は胸が熱くなり、胸を詰まらせた。そして、結局は書かなかったが、スーパーの短冊に書こうと考えていた願い事のことを思い出した。

「そんなにあの夜のマジックが気になりますか」

 ザ・スペードがいった。

「そりゃもちろん」

 岩戸は気が少し動転しているあまり焦った口調で答えた。彼は続けて深呼吸をした。

「実は――」岩戸は口を開いた。「今夜、ザ・スペードさんに、僕流のトリックであのマジックを見せようと思ってたんです」

「あら、嬉しい!」ザ・スペードの顔に笑みが広がった。「こないだは、結局見せてくれませんでしたもんね」

「本当はあの時にお見せしたかったんですけどね」岩戸も笑った。「ただあの時は、そのトリックに必要な小道具もなかったし、ザ・スペードさんならまだしも、僕にはあのマジックを自然に見せるアイデアがなかったんで、見せようがなかったんです」

「また思わせぶりないい方をなさいますね。でしたら、今夜はその小道具もアイデアもお持ちということですか」

「ええ。持ってます」

「じゃあ、せっかくですから今夜こそ見せてくださいよ。マジックを見に来る予定だったんですから、この後はお時間が空いてるってことですよね。ではわたしの方では、マジックをするのにとっておきのお店をご案内します」

「とっておきのお店?」

 こっちです、というザ・スペードに、岩戸はついて行った。


 ザ・スペードが岩戸を連れて行ったのは、『casino de magician』から歩いて十分ほどのところにある、IR施設内のバーだった。立て看板によると、『I()N() THR()O()U()TH TH()E O()U()T() DO()O()R』という店名らしい。店内の壁面や床、天井はセピア色に色調を変更されたトランプのカードが舞ったりばら撒かれてたりしているデザインの壁紙で統一され、カウンターやテーブルには無造作に灰皿も置かれている。

「すごいアメリカンですね」

「そうなんです。だから好きなんです。このバーに来ると、アメリカにいた頃を思い出して、何だか懐かしくなるんです」

 それぞれのテーブルの真上には一つずつランタンが吊り下げられており、セピア調でまとめられた店内の雰囲気を一層引き立てている。良かった、ちょうどいい席が空いてた、といってザ・スペードは岩戸を隅っこのテーブルに誘った。

 店内にはブルースっぽい雰囲気のロックが流れており、それを聞くともなく聞いているうちに適当に注文したアルコールは運ばれてきた。

「早速見せてもらってもいいですか」

 アルコールを一口飲んでから、ザ・スペードは向かい合って座っている岩戸にいった。

「いいですよ」岩戸は口に運んでいたグラスをテーブルに置いた。「ただ、少しだけ準備したいんで、ちょっと、目を閉じててもらってもいいですか」

「分かりました」

 ザ・スペードはゆっくりとまぶたを閉じた。


「いいですよ。目を開けてください」

 岩戸にいわれて、ザ・スペードは閉じていたまぶたを開けた。岩戸は彼女が目を閉じていた一分弱のうちにトリックを準備した。ザ・スペードはちゃんと目を閉じていただろうとは思うが、岩戸は口を開けたバッグの中に手を突っ込んでトリックの準備をしながら、確かにこのマジックをするにはいいバーだな、と思った。

「では、私のとっておきのマジックをお見せします」

 岩戸の言葉に、ザ・スペードはわくわくした笑顔で拍手をした。マジシャンがマジシャンに見せる、一対一のショーの始まりだ。

「今日お姉さんにお見せするマジックは、どんなにシャッフルしても、Aだけが私の元に出てきてくれるというマジックです。どうです、信じられますか?」

「ううん」

 ザ・スペードは完全にオーディエンスになりきっており、無邪気な笑顔で頭を振った。おいおい、可愛すぎるだろ、とつい思ってしまう。岩戸はバッグからシュリンクに包まれたままのカードの箱を取り出した。

「こちらは正真正銘新品のカード五十二枚です」岩戸はシュリンクを破って中のカードを取り出した。「おっと!」

 岩戸の声に、ザ・スペードがぴくっと反応した。一瞬顔を伏せた岩戸は気恥ずかしい思いでいっぱいになっていたが、顔を上げてザ・スペードに微笑みかけた。

「お姉さんの笑顔が素敵すぎて、何か、汗が出てきちゃいました。汗がカードに着くとまずいんで、リストバンドをさせてもらいますね」

 岩戸の言葉に、ザ・スペードは恥ずかしそうにさっと口に両手を添えた。岩戸はバッグから赤いリストバンドを取り出すと、それを左右の手首に嵌めた。

「では、気を取り直して――」岩戸はジョーカーなどの余分なカードを抜いてから、カードを裏向きで横一列にサーッと広げた。「この五十二枚の裏向きのカードの中から、まずAだけをピックアップしましょう」

 岩戸はリストバンドで指先を拭うと、幾何学模様で統一されたカードの裏面を凝視した。カジノ向けのカードのためカードの端まで完全に幾何学模様が印刷されており、カード同士の境目は分かりづらく、パッと見には、白い線で幾何学模様がかたどられた赤い帯状に見える。岩戸は、Aはこれと……これと……これと……これです、といって裏向きのまま重なりながら横一列に並べられた赤い帯状に見える五十二枚のカードの中から、四枚のカードを人差し指の腹で押さえながら列から出した。

「お姉さん。今私が列から取り出したこの四枚のカードをひっくり返してください」

 ザ・スペードはいわれた通りに四枚のカードをひっくり返した。四枚のカードは全てAだった。

「驚かないんですか?」

 四枚のAをただ見つめているだけのザ・スペードに岩戸が訊いた。彼女はふっと悪戯っぽい笑みを滲ませた。

「だって、カードはどれも未開封の箱から取り出した新品だったんですよ。ということは、カードはスートごとにAからKの順に並んでますから、十二枚おきに列からカードを出していったら、四枚のAだけ裏向きのまま取り出せますよね」

「お姉さん」岩戸は苦笑いを作った。「鋭いですね」

「実はわたし、ちょっとマジックは齧ってるんです」

「手ごわいなあ」岩戸は頬を掻きながら、取り出した四枚のAを他のカードと一緒にし、裏向きの山札にして左手に持った。「では、ここからが本番です。この山札をよーくシャッフルします」

 岩戸はヒンズーシャッフルとリフルシャッフルで何度も山札のカードを混ぜてから、その山札をザ・スペードの前に差し出した。

「では、お姉さんもお好きなだけカードをシャッフルしてください」

 ザ・スペードは山札を手に取ると、岩戸同様にヒンズーシャッフルとリフルシャッフルで何度も山札のカードを切った。

「では、お預かりします」

 岩戸はザ・スペードから山札を受け取ると、あの日のザ・スペードがしたように、山札を裏向きのまま垂直にして顔の高さまで持ち上げた。岩戸にはカードの裏側が、ザ・スペードにはカードの表側が見えている状態になった。

「この山札は、私も何度もシャッフルしましたが、その後、お姉さんにも何度もシャッフルしてもらいました。そうですよね?」

 岩戸の確認に、ザ・スペードは頷いた。

「このように、私にはカードの裏側しか見えていませんが、ここで四枚のAだけにこの山札の中から出てきてもらうとしましょう」

 岩戸は左手で持った裏向きの山札に右手も添え、左手の親指の腹で裏面になっている山札のカードを上から順番に一枚一枚右へとスライドさせ始めた。岩戸は赤地に白い線で幾何学模様がかたどられたデザインのカードの裏側をじっと見つめながら、カードを一枚一枚見ていった。そのところどころで時々カードを右へと送るその手が止まり、ある時はそのままカードを右に送り、またある時はそのカードを裏向きのままテーブルに取り出した。

 やがて四枚のカードが裏向きのままテーブルに並べられ、岩戸は残りのカードを山札にしてテーブルに置いた。

「四枚のAが揃いました」岩戸はザ・スペードを見た。「ではお姉さん。この四枚が本当にAなのかを確認してください」

 ザ・スペードは彼女から見て一番左のカードを表にした。クラブのAだ。ザ・スペードの目が一回り大きくなった。

「すごい」

「他のカードもお願いします」

 岩戸に促されて、ザ・スペードは二枚目、三枚目、四枚目と捲っていった。ハートのA、スペードのA、ダイヤのAと続いた。

「すごい……」

 テーブルに並んだ四枚のAを見て、ザ・スペードが再び声を発した。どうやら演技ではなく本当に驚いているようで、彼女の顔は興奮しているように火照って見える。岩戸はふうっと息を漏らした。

「どうです? 楽しんでいただけましたか?」

「楽しいも何も驚きました」ザ・スペードは即答した。「どうやったんですか?」

「それ、訊きます?」岩戸はニヤッと笑みを作った。「僕なりにせっかく考えたトリックなんですよ。そう簡単には教えられません。でも、見当はついてるんじゃないですか」

「そうですねえ」ザ・スペードは軽く頬杖をついて遠い目をした。「このマジックをする前に、ちょっと準備をなさいましたよねえ」

「そうですね」

「カードに何らかの仕掛けをしたのかなと思ったんですけど、それはない。わたしの目の前でシュリンクを剥いてましたもんね」

「ええ。あの時にシュリンクを剥いて初めてカードを箱から取り出しました」

「となると、怪しいのはリストバンド、でしょうか」

 ザ・スペードはじっと射貫くように岩戸の目を見据えた。やはり鋭い。思わず目を逸らしたくなったが、岩戸は堪えて彼女の目を見つめ返した。二人の視線が空中でぶつかる。

 ザ・スペードはふっと表情を緩めた。「今お兄さんのマジックを見て確信しましたけど、お兄さんの考えたトリックは、やっぱりわたしのトリックとは違いますね」

「そうでしょうね」岩戸も表情を緩めた。「でも、ザ・スペードさんがあのマジックを僕に見せてくれたから、僕はこのトリックを考えつくことができました。このマジックを僕に見せてくれたのがもし他のマジシャンだったなら、僕は多分こんなトリックは思いつけなかった」

「じゃあ、わたしに関することがヒントなんですか?」

「そうです」

「何だろう……」

 ザ・スペードは真剣な眼差しで考え込んだ。プロのマジシャンなだけに、本能的に考えずにはいられないのだろう。

 岩戸としても、自分の考えたトリックがザ・スペードがあの晩に使ったトリックとは違うものであることはよく分かっている。あの晩のザ・スペードの動きは鮮明に覚えているが、岩戸の考えたトリックを仕掛ける動きがあの晩のザ・スペードにはなかったからだ。

「ザ・スペードさん」

 岩戸がいった。考え込んでいたザ・スペードは顔を上げた。岩戸は続けた。

「今、僕がどんなトリックを使ったんだろうって考えてましたよね。それは僕も同じでした。あなたがあの晩に使ったトリックが気になって仕方なくって、僕は翌日ずっと無意識に考えてましたからね。その時にあなたの顔がふっと浮かんで、その瞬間に瞬時に閃いたんです」

「もしかして……」

 見る見るうちにザ・スペードの表情が驚きの色に染まっていく。それと同時に、彼女は自分の唇にゆっくりと左手の人差し指を添えた。

「お兄さん」ザ・スペードがいった。「そのリストバンド、見させてもらっていいですか」

「どうぞ」

 岩戸は左右の手首からリストバンドを外して、ザ・スペードに渡した。彼女はそのリストバンドのある場所を親指で押さえてから親指の腹を見た。そしてそれが終わると、リストバンドの他の場所でも同じことを繰り返した。

「なるほどね」

 数回その動作を繰り返した後、ザ・スペードは納得した様子で左手の親指の腹を岩戸に見せた。

「そういうことです」

 岩戸はニヤリと笑みを作った。ザ・スペードの左手の親指の腹は赤くなっていた。

「お兄さんのいっていた準備っていうのは、赤いリストバンドに赤い口紅を塗っておくことだったんですね」

 そういうと、ザ・スペードはテーブルに置かれたままになっている四枚のAを手に取って、その裏面を凝視した。

「面白いトリックですね」ザ・スペードは手にしていた四枚のAを裏向きにして岩戸の前に並べた。「裏向きで並べた五十二枚のカードの中から四枚のAを指先で押し出す前に赤いリストバンドに塗った赤い口紅に触れておけば、カード自体に細工をしてないことを示すために新品未開封のカードを使いながらも、四枚のAにだけ目印をつけることができますものね。そうしてしまえば、後は誰がどんなにシャッフルしようとも、カードの赤い裏面にわずかについた赤い口紅を探すだけで四枚のAを抜き出すことができるというわけですか」

 テーブルに並べられた裏向きの四枚のAのカードは、よく見るとどれも裏面にごくわずかな赤い口紅がついている。岩戸が裏向きで一列に並べた五十二枚のカードの中から指先で四枚のAだけを押し出す時に指先を押し付けて付着させたものだ。カードの裏面のデザインは、赤い地の上でいくつもの白い平行線が交差して無数のひし形を作ったものになっている(図22)。赤いひし形の中心を狙って指先を押し付ければ長径でもせいぜい数ミリしかないひし形からは指先が必然的にはみ出るため、周囲の白い部分にわずかに赤色がつくというわけだ。

「僕は男だから、今回は赤いリストバンドをして赤い口紅を隠す必要がありましたけど、ザ・スペードさんは元々赤い口紅をしているから、カードに触れる前に自分の唇に触れるだけでこのトリックは完成します。でも、あの夜のあなたにそんな動きは見られなかったし、そもそもあなたは山札からAを取り出す時、目を瞑っていましたもんね。だから僕は、このトリックを思いついた後も、ずっと本当のトリックが何だったのかを考えていたんです。で――」岩戸はザ・スペードの目をじっと見据えた。「ようやく分かりました」

「え?」

 ザ・スペードははっとした顔で岩戸を見た。

「ザ・スペードさん。あなたが僕に話してくれた魔法の定義、あれはあなた自身のことだったんじゃないですか」

「どういうことですか」ザ・スペードはぱちぱちと瞬きをして訊き返した。

「あなたは魔法を、他人にはできないけど自分にはなぜかできること、ただし、それがどうして自分にできるのかはよく分からない、そういうものが魔法だって話してくれましたよね」

 ザ・スペードはこくりと頷いた。それを見て岩戸は続けた。

「それからあなたは、こんなこともいっていた――賢いお兄さんのままじゃ、わたしの使ったトリックは非常識すぎて想像もできない、と」

 岩戸はカードの山札を手に取ると、そこからカードを取り出し始めた。そして、取り出した十三枚のカードを二人の真ん中に横一列に並べた。スートは全てクラブで、AからKまでのカードが数字の順に並んでいる(図23)。

「トランプのカードって、スートは違っていても、数字ごとにAならこの配置、2ならこの配置、Jならこのイラスト、という具合にデザインが統一されてます。あとそれから――」

 岩戸は再び山札を手に取って、そこからダイヤのA、ハートのK、スペードの9を取り出してテーブルに並べた。

「このように、ダイヤとハートは赤で、スペードとクラブは黒です。確かにザ・スペードさんのトリックでこのマジックをしたら、こんなことをいいたくなりますね。ただ、果たしてこれがトリックといえるのかどうかは正直疑問ですし、もっといえば、そんなバカなこと、とも思ってしまうんですけどね」

 岩戸がカードを並べたりカードについて話したりしている間、ザ・スペードは黙って彼の話を聞いていた。彼女に話す気配がないので、岩戸は話を続けることにした。

「こうやってカードが表になっていれば、誰でも、このカードは赤色のハートで、このカードはクラブの8で、という具合に指摘できます。それは知りたい対象が目で見えているからです。でも、この山札のカードみたいにカードが裏向きになっていたらカードの表面は見えないですから、このカードが何色で、何のスートの、何の数字なのかを指摘することはできません。ですが、もし目で対象を見るという視覚以外の感覚情報によってカードの表面に関する知覚が成り立つんだとしたら、裏向きのカードのスートや数字をいい当てることができると思いませんか」

「やっぱりお兄さんの説明は難しく聞こえますね」ようやくザ・スペードは口を開き、その赤い口元に笑みを見せた。「でも、いわんとすることは分かります」

「ザ・スペードさん――あなたは物体の色を目で見なくても、物体の色が分かるんですよね」

 岩戸はザ・スペードの目を真っ直ぐ見つめていった。

 ザ・スペードは微動だにせず岩戸の指摘を聞いていたが、彼女は腕を伸ばしてテーブルに置かれていたカードの山札を手に取った。ザ・スペードは山札を、テーブルの真上に吊り下げられているランタンの明かりにかざすようにして掲げた。山札のカードは裏面をザ・スペードの方に向けており、ランタンの方に表面を向けている。ザ・スペードは左手に持った山札から一番上のカードを左手の親指の腹で右にスライドさせると、その表面を右手の指先でさすった。

 ううん、とザ・スペードは唸った。最初っから難しいカードですね、というと彼女は、苦笑いを浮かべてからゆっくりと目を瞑った。そして、裏向きで重ねられていた山札の一番上の一枚を右手で摘まみ、岩戸に見せた。カードは裏面をザ・スペードに向けているが、彼女はまだ目を瞑っているので、彼女自身にはそのカードのスートと数字は分からないはずである。しかし、彼女はいった。

「ダイヤのK、かしら」

「そうです」

 岩戸は体中の血液が沸き立つような興奮を覚えたが、つとめて落ち着いた口調で答えた。ザ・スペードが手にしている一枚のカードはダイヤのKだった。

「次のカードはスペードの8」

「正解です」

 この調子で、ザ・スペードは目を瞑ったまま三枚目、四枚目、五枚目のカードを一枚ずつ当てていった。

「正直、こうやって今目の当たりにしてても――」岩戸は苦笑い混じりにいった。「信じがたいですね。ただ、冷静になって考えてみると、超感覚とでも呼べるようなものの存在を仮定すれば、後は科学的にもまったくナンセンスな話というわけでもないので、今はまあ、ありうるんだろうなとは思ってます。でも、あなたの『わたしの使ったトリックは非常識すぎて想像もできない』という言葉を聞いていなかったら、多分僕はこのトリックを思いつけなかった。いや、仮に思いつけたとしても、瞬時に馬鹿げた妄想として一蹴してたと思います。先々週ぐらいだったかな、物理学専門の同僚がいろんな色のTシャツを用意して、炎天下で五分間放置した場合の温度変化を測定していたんですよ。その結果は、気温が三〇度でも、黒色のTシャツの表面温度は五〇度近くになっていたのに対し、白色のTシャツは気温とほぼ同じ表面温度だったというものでした。この結果の違いは、太陽から放射されるエネルギーの反射率で説明できます。全ての色は放射されるエネルギーの一部を反射して、残りを熱エネルギーとして吸収します。そして、色によってこの反射と吸収の割合は決まってて、白色はほとんど全ての波長の光を反射するから、物体に吸収される熱エネルギーの割合は小さくなる一方で、黒色はほとんど全ての波長の光を熱エネルギーとして吸収するから、物体の表面温度は上昇するというわけです。これが炎天下で黒い服を着ているとものすごく暑く感じる理由ですけど、ところで、赤はどうなのかなと思ってその同僚が書いた報告書を読んだんです。そしたら、赤色は白色と同様に反射率が高いということでした。つまり、赤色は熱エネルギーとしての吸収率が低く、温度がそんなに高くならないということです。多くの人間は黒いTシャツを炎天下で着ていたら暑いと感じますけど、カードの黒い部分が白い部分よりも温度が高いかどうかなんて感覚的には分かりません。でも、今いった理由で、黒色と白色とでは、その表面温度は確かに違います。世の中にはパッと文章を見ただけで、そこに何文字のアルファベットが書かれてるのかをいい当てられる人がいたりと、今の科学では説明のできない事象が存在します。でも、もっと研究が進んでいけば、なぜそういうことができる人がいるのかも分かってくるんじゃないかと思います。ザ・スペードさん、あなたの指先の温度を感じる感覚神経は、どういう理由かは分かりませんけど、普通の人よりずっと感度が高いんでしょうね」

「今日はお兄さんに、本当によく驚かされます」岩戸の話が一段落したところで、ザ・スペードがいった。「その通りです。こんなふうにわたしのマジックのトリックを見破った人は、お兄さんが初めてです」

 岩戸はふっと口元を緩めた。「確かにこのバーは、ザ・スペードさんがこのトリックでこのマジックをするにはぴったりですね。このトリックで色の温度からカードのスートと数字を把握するにはカードの表側を今みたいにランタンの明かりに当てる必要がありますし、あの時もステージではスポットライトの光にカードの表面をかざしてましたもんね。あと、あの時は特に何とも思いませんでしたけど、後になって思い返してみると、あなたは目で見ることなく、ジャケットの胸ポケットから意図した方の色のサインペンを取り出してもいましたよね。この辺りのことを思い返すと、突拍子もないように思えた仮説も辻褄が合って信じられたんです」

「すごい観察眼と推理力ですこと。ただ、わたしにできるのは相対的な温度の高低を把握することだけなので、具体的にどれくらい黒い部分の方が熱いのかまでは分かりません。でも、相対的な温度の違いさえ分かれば、トランプのカードは数字ごとにスートの配置場所は決まってますから、例えばカードの中心部が他より熱く感じられれば、Aか3か5か9かなって絞れます。後はその上下を指でさすって、上下も一ヶ所ずつ熱く感じたら3ですし、そうでなかったらAか5か9です。Aは中心以外にはスートが書かれてないですから、一番分かりやすいんです」

 ザ・スペードは、自分のマジックのトリックをさらりと話した。あの夜にザ・スペードの使っていたカードの裏面が赤い地で、ザ・スペードのしていた口紅が赤だったからこそ、岩戸は再現可能なものとして自力で物理的なトリックを考え出せたが、実際にザ・スペードが使ったトリックには、カードの裏面が赤い地であることも、彼女が赤い口紅をしていたこともまったく関係はなかったのだ。しかし、そのトリックは普通に考えて信じがたい。トリックというよりは魔法なのだから信じがたいのは当然だろうといわれればそれまでなのだが。

「あなたは――」岩戸はふっと笑った。「本物のマジシャンですね」

 それを聞いて、ザ・スペードも笑った。「それ、お褒めのお言葉ですか」

「もちろんです。あなたにしかできない、究極のトリックじゃないですか」

「でも、マジックのトリックっていうのは、お兄さんのお言葉では手順通りにやっていけば誰にでもできる再現性のあるものなんじゃないでしたっけ」

「そうでしたね」岩戸は苦笑いをザ・スペードに見せた。「でも、この世界には魔法ってものもあるじゃないですか。マジックのトリックが、その人にしか使えないような魔法だっていいと思いますし、その方が夢があってワクワクするんじゃないですか」

 ザ・スペードはおかしそうに、ふふふ、と声に出した。「お兄さん、科捜研で働いてらっしゃるのに、魔法とか信じちゃうんですか」

「信じるも何も、実際にあるんだから仕方ないですよ」

「それにしてもお兄さん、マジックのトリックを考える才能だけじゃなくって、話術にも長けてらっしゃるんですね」

「え?」

「リストバンドをする口実、なかなか自然で、トリックに必要な細工の一環だなんて、あれじゃ誰も気づきませんよ。ただ、わたしの笑顔が素敵すぎるかどうかははなはだ疑問ですけどね」

 岩戸は体が一気に熱くなるのを感じた。そういえば、そんなことをいったんだった。当初の予定では、ランタンの明かりの熱が暑いから汗が流れ落ちてくるのを防ぐためにリストバンドをさせてもらいますね、というつもりでいたが、ザ・スペードの無邪気な笑顔を見た瞬間、今は岩戸じゃない、マジシャンなんだと割り切ってキザな台詞に急遽変えたのだった。

 ただ――と岩戸は思った。果たして自分は岩戸という一人の男じゃなくてマジシャンという役を演じていたからそういったのだろうか。

 いや、違うな、と岩戸は思った。自分はマジシャンを演じていたからじゃなくって、岩戸という一人の男として彼女に恋してるからそういったんだ。

 目の前で、どうしたんですか、と今にも訊いてきそうな顔でザ・スペードが微笑んだ。岩戸は気恥ずかしくなって、思わず顔を逸らした。


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