第九話 十年分の書き損じ
宮殿の廊下は、白い大理石だった。
長い。侍従の靴音が、先のほうまで響いている。壁には歴代の皇帝の肖像画。どの目も私を見下ろしていた。
旅の泥がついたままの靴で、こんな床を歩いていいのかしら。ふと思ったけれど、今さら遅い。
すれちがう侍女が壁際に寄って頭を下げる。下げたまま、目だけでこっちを追ってくる。南門のことは、もう宮殿じゅうに回っているらしい。
「あれが、辺境の……」
「砦から馬で来たんですって。礼儀も知らずに」
背中にひそひそが刺さった。
侍従が足を止めずに言った。
「陛下が広場でお名前を最後まで呼ばれた方です。口を慎みなさい」
ぴたりとやんだ。
右手の留め金は、ずっと握ったままだった。鷲の紋の小さな銀。アレクの肩にあったときは軽そうに見えたのに、握ってみると掌にずしりとくる。
「こちらでございます」
黒檀の扉の前で、侍従が止まった。
この向こうに、帝国でいちばん会いたくない人がいる。
(顔のある罠のほうが分かりやすい、なんて言ったのは私だけど)
息を吸って、背筋を伸ばした。
◇
皇太后エレオノーラの部屋は暗かった。
灯りは窓際の燭台が二本だけ。黒い装いの人が刺繍台の前に座っていて、姿勢がやけにまっすぐだった。銀の混じった髪をきっちり結い上げている。針を持つ手は止まらない。
壁に肖像画が一枚。若い男の人で、アレクに少し似ていた。
「辺境伯の娘ですか」
こちらを見ないまま言う。
「そこに立ちなさい。座れとは言いません」
針の先が、ひょいと私の右手を向いた。
「握っているのは何です」
「預かり物でございます」
「……鷲の留め金ですね」
声が少し低くなった。
「あの子があれを人に預けるのを見るのは、初めてです」
「はい」
「南門で書記局の紙を暴いたそうですね。ずいぶんな騒ぎでした」
「騒がせるつもりはございませんでした」
「つもりがなくて、あれですか」
針が布を抜ける。
「帝国へは何をしに来たのです」
「自分の目で見に参りました」
「何を」
「この国を。あの方がこの国で、どんな顔をして暮らしているのかを」
針が止まった。
「皇后になる気はありますか」
「まだ決めておりません」
皇太后がはじめて顔を上げた。
目がひどく疲れていた。冷たいふりを長くやりすぎた人の目だった。
「……あの子に、求婚されているのでしょう」
「はい。毎朝『まだか』と聞かれております」
「毎朝」
「毎朝です」
口の端が少し動いた。すぐ消えた。
侍女が銀の盆で、杯を二つ運んできた。
湯気から甘い匂いはしない。茶葉の匂いだけ。
それでも私は手を出さなかった。
「皇太后陛下。辺境の砦には、客人をもてなすときの作法がございます」
「聞いています。杯を取り替えるのでしょう」
目を見張ってしまった。
「宿場の噂は早馬より先に宮殿へ届きます。ザレスクの代官の屋敷で、あなたが杯を取り替えさせたことも」
もうそこまで届いているのか。
皇太后は自分の杯を、すいと私の前に滑らせた。私の杯は自分のほうへ。
「作法とは、そういうものでしょう」
私は留め金を左手に移した。何も言えないまま、皇太后の杯を取る。
二人同時に飲み干した。
渋い。舌が縮むほど渋い。
敵だと思っていた人が、辺境の作法を受けた。
「……渋いお茶でございますわね」
「ええ。わたくしの茶は昔から渋いのです」
空の杯を置いて、皇太后は言った。
「何も隠していない、という印でしたね。ではわたくしも、ひとつ見せなくては」
立ち上がって、飾り棚の奥から小さな黒い漆の箱を出してきた。蓋に薄く埃が積もっている。ずっと同じ場所にあったのだろう。
「開けなさい」
◇
箱の中は紙だった。十枚。二つ折りで、角が擦り切れている。
かすかに、暖炉の灰の匂いがした。
一枚取って、字を見た瞬間、はっとした。
アレクの字。でも、いつものまっすぐな大人の字じゃない。丸くて、ばらばらで、背伸びしている。
十四の子の字だった。
『シャル。迎えに行く。いつになるか分からないけど、必ず』
その上から太い線が何本も引いてある。何度も何度も、紙が破れそうなほど。
線の下に別の一行。
『シャル。誕生日おめでとう。元気か。』
顔を上げた。
「……これは」
「毎年、あの子があなたの誕生日の前の晩に書いたものです」
静かな声だった。
「夜通し机に向かって、一晩に何十枚も書き損じる。朝になると暖炉のそばに丸めた紙が散らばっている。あの子の部屋を掃く侍女は、わたくしの手の者です。捨てる前に持ってこさせました」
「どうして」
「分かりません」
皇太后は窓の外を見た。
「憎むべき子です。わたくしの息子の敵でした。あの肖像の子は、あの子の兄です。あの内乱で、あの子の敵として死にました」
肖像画が蝋燭の光で揺れた。
「けれど年にたった一晩、あの子がただの子どもに戻るのを、わたくしは紙の上で十年見てしまった。だから拾ってしまったのです。いちばん長く書いてあった一枚を、毎年」
手が震えた。
次の紙を開く。その次も。
『帝都の庭に、お前の好きだった木を植えた。見に来い』
『背比べの木は、まだあるか』
七枚目で手が止まった。
『婚約したと聞いた。おめでとうとは、書けない』
黒い塗りつぶし。その下に同じ一行。
『シャル。誕生日おめでとう。元気か。』
どれも消されている。どれも、最後は同じ一行に戻っている。
そのとき気づいた。
「気」の最後の曲がり。
墨が濃い。毎年、毎枚、そこだけ。筆が止まったあとだった。
毎年届いたあの手紙。濃いのは墨のせいだと思っていた。
私の字と同じ場所だった。
どれだけ書いても「元気か」の先が書けなくて、止まっている。
「……っ」
涙が紙に落ちそうで、あわてて顔を上げた。
「最後の一枚を、ご覧なさい」
十枚目は箱のいちばん上。今年のものだ。
最初に『会いたい』。三回書いて、三回とも黒く塗りつぶしてあった。紙の端が擦れて毛羽立っている。
その下に、塗られていない一行が残っていた。
『お前の返事を、一度でいい。一行でなく、読みたい』
その下に、いつもの一行。
『シャル。誕生日おめでとう。元気か。』
私に届いたのは、この最後の一行だけ。
それなのに私は、書かれなかった願いに応えていた。『今年は、あなたに会いたい』と書いた、あの夜に。
一晩遅れで。
箱の縁に手をついたまま、声を出さずに泣いた。
◇
「あの子には」
皇太后が私の横で言った。
「わたくしが拾ったとは、言わないでください」
「……どうして」
「あの子は、わたくしの手が触れたものを、きっと燃やします。それでいいのです。……よくはないけれど、いいのです」
箱の蓋がそっと閉じられた。
「けれど、あなたには見せておきたかった。あの子の隣に立つ人には」
「……はい」
「約束なさい」
「お約束いたします」
涙を拭いて、まっすぐ答えた。皇太后が小さくうなずく。
それから、元の冷たい顔に戻った。
「もうひとつ。国境の通達に、わたくしの名が使われたそうですね」
「はい。『皇太后陛下の御意』と」
「命じたことは、一度もありません」
乾いた声だった。
「わたくしの印は十年、金庫から出していません。印のないまま、わたくしの名を使う紙が先月から三枚、書記局から出ていると聞きました」
「……三枚」
「あの子はわたくしの言葉を信じないでしょう。それを分かった上で使っている者がいる。わたくしをあの子の敵に見せるために」
杯を飲み干した相手に、隠しごとはしない。それが砦の作法だった。
「その紙を書いた手の持ち主は」
思わず口が動いた。
「『陛下』の字を書くときだけ、必ず筆が止まりますの。書いてはいけないと分かっている人です」
「そうですか」
皇太后は長いこと何も言わなかった。
「そういう者は、いつか必ず、自分で紙を破りますよ」
それだけだった。
「明日の朝、白百合の食堂に皇后候補のご令嬢が十二人そろいます。出なければ逃げたことになるし、出れば潰しに来る者がいるでしょう」
「承知いたしました」
「その十二人の中に、書記局の者と口をきく娘が少なくとも二人います。誰かはわたくしも知りません」
息をのんだ。
「罠の見分けは、お得意なのでしょう」
皇太后の目がほんの少し光った。
「……来年の箱は、わたくしに拾わせないでください」
返事のかわりに、深く頭を下げた。
◇
扉を開けたら、廊下の壁際に人影があった。
座っている。床に。外套にくるまって、膝に剣をのせて。
「……アレク」
「扉の前は、私の場所だ」
顔を上げた灰色の目が、私の目を見て、ぎくりと動いた。
「泣いたのか」
「いいえ」
「目が赤い」
「お茶が渋かったのです」
アレクは黙った。
「……皇太后の茶は、昔から渋い」
「ご存じでしたの」
「子どものころ一度だけ飲まされた。それ以来この廊下には近づいていない。……今夜は別だ」
真顔だった。廊下の端でラドミル騎士長が気配を消して、肩を震わせていた。
「何を言われた」
「お茶をご馳走になりました」
「それだけか」
「それだけです」
嘘じゃない。約束をひとつ、していただけで。
アレクはしばらく私の顔を見ていた。それから何も聞かずに立ち上がった。
「……自分の足で戻ったな」
「はい」
「留め金は」
「お預かりしたままにさせてください。明日の朝まで」
「明日の朝」
「白百合の食堂に、ご令嬢が十二人集まるのだそうですわ」
アレクの顔がすっと冷えた。
「行かなくていい」
「行きます。逃げたことになりますもの」
「なら私も」
「皇帝陛下は、ご令嬢だけの朝食にはお呼びではありません」
「……皇帝も朝食は取る」
「ええ。別の席で」
アレクはさんざん黙ってから、小さく息をついた。
「……なら、食堂の扉の前にいる」
「そういたしましょう」
笑った。笑ったのに、目の奥がまた熱い。
十枚の書き損じ。「元気か」の最後の曲がり。
この人は、皇太后が拾ったと知ったら、箱ごと燃やすだろう。だからこの約束は、ずっと胸にしまっておく。
「……おやすみなさいませ、アレク」
「ああ」
アレクは少し迷ってから言った。
「今夜は、『まだか』は聞かない」
「あら。どうして」
「泣いたあとの人に、聞くことではない」
言葉に詰まった。目が赤いと分かっていて、それでも問いたださずにいてくれる。
氷の皇帝は、たまに、ずるいくらい優しい。
窓の外に帝都の灯がぽつぽつと広がっていた。
明朝。白百合の食堂。十二人のご令嬢。
その中に、紙を動かす手があるかもしれない。
読んでいただき、ありがとうございます!
敵だと思っていた皇太后の箱の中に、十年分の「書き損じ」がありました。
アレクがどうしても書けなかった言葉は、いつも「元気か」の先にありました。書いていて、いちばん胸が痛かった場面です。
次回、白百合の食堂。十二人のご令嬢と、シャルロットの朝食です。
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