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第十話 末席の特等席

 夜明けの宮殿は、思ったより寒かった。

 アンヌに髪を結ってもらいながら、私はほとんど口をきかなかった。昨夜の箱のことを考えていた。十枚の紙。黒い塗りつぶし。それから、約束。

「お嬢様、お顔が怖いです」

「そう?」

「戦に行く方の顔です」

「朝食に行くだけよ」

 鏡の中の自分にも言い聞かせた。朝食に行くだけ。ただし、十二人と。


 白百合の食堂の前の廊下に、人が座っていた。

 床に。外套にくるまって、膝に剣。昨夜と同じ格好で、違うのは目の下の影だった。

「……アレク。まさか一晩じゅう」

「着替えには戻った」

「寝てはいないのですね」

「椅子では寝た」

 それは寝たとは言わない。廊下の端でラドミル騎士長がまたあさってのほうを向いていた。肩が震えている。

 アレクは立ち上がって、いつもの顔で言った。

「おはよう、シャル。まだか」

「まだです」

「そうか」

 うなずいて、外套の内側を探る。布に包んだ手のひらほどの丸いものが出てきた。

「食え」

「これは」

「パンだ。厨房に作らせた。蜂蜜を塗ってある」

 布の端をめくると、甘い匂いがした。焼きたてでまだあたたかい。

「食堂でも、出ますでしょう」

「出る。だがお前の口に入るものは、私が知っているものがいい」

 真顔で言うことだろうか。真顔だから笑っていいのか分からない。

「北の山の蜂蜜だ。ミエルと同じ名前だ」

「……それはずるいですわ」

「事実を言った」

 昨日の広場と、同じ返事だった。

 アレクの目が私の右袖に向いた。昨夜からずっと留め金は袖口の内側に縫いとめてある。

「留め金は」

「もう少し、お預かりしてもよろしいですか」

「いつまで」

「夕方まで」

「長い」

「では、お昼まで」

「短くなった」

「交渉というのは、そういうものですわ」

 アレクはしばらく黙っていた。それからほとんど聞こえない声で言った。

「……返さなくていい。持っていてくれ」

「それは、求婚ですか」

「違う。……まだ」

 扉の向こうから、食器の触れ合う音がしていた。

「行ってまいります」

「扉の前にいる」

 蜂蜜のパンをポケットに入れて、白百合の食堂の扉を押した。


   ◇


 先に匂いが来た。白百合だ。窓際の花瓶に数えきれないほど挿してある。朝の光を浴びて目が痛いほど白かった。

 長い卓。両側に六人ずつ、十二人のご令嬢が座っている。後ろにはそれぞれ侍女が一人ずつ。私が入るとおしゃべりがぴたりとやんだ。

 十二の顔がこちらを向いた。次の瞬間、全員が同じ方向へ目を動かした。入口のすぐ脇へ。

 そこに席があった。

 席、と呼べるなら。

 入口の扉と、給仕用の小さな扉に挟まれた角。小さな丸い卓に、背もたれのない低い椅子。ワゴンが通るたびに膝がぶつかりそうな場所だった。

「シャルロット・フォンテーヌ様」

 年配の女官長が、固い声で言った。

「席次はこちらでお取り計らいいたしました。辺境のお方は長旅でお足元が汚れておいででしょうから。出入りのしやすい席のほうが、お気が楽かと」

 くすっ、と誰かが笑った。

 卓の中ほどにいる栗色の巻き毛の令嬢だった。扇の陰でわざと私に聞こえる声を出す。

「馬の匂いが移ってしまいますものね」

 カミラ・ノヴァーク伯爵令嬢。昨日、南門の列でくすくす笑っていた一人だ。

(なるほど。今朝は席の罠ですのね)

 昨日は紙の罠で、今朝は席。顔があって数がそろっていて、やることは子どもっぽい。分かりやすくて助かる。

 低い椅子に向かって一歩踏み出したとき、凛とした声がした。

「お待ちください」

 イリーナ・ヴェルスキー公爵令嬢が、席から立ち上がっていた。淡い金の髪が朝の光で白く見えた。

「お客様をそのようなお席に。女官長、あんまりではございませんか」

「イリーナ様、これはその」

「わたくしの席をお譲りいたします。上座で窓もございますわ。どうぞシャルロット様」

 十二人の視線が、今度はカミラに動いた。カミラの扇が止まった。

 きれいな申し出だった。誰も傷つけず誰より先に正しいことを言って、カミラだけが小さくなる。

 けれど、気づいてしまった。

(……早い)

 私が扉を開けてからまだ三十も数えていない。女官長が席のことを口にしてから息をつく間もなかった。イリーナ様は「あんまりではございませんか」まで一度もつっかえなかった。

 私がこの席を見たらどうなるのか、前から知っていたみたいに。

 それだけだ。気づくのが早かっただけかもしれない。親切な人は、たいてい早い。

「ありがとうございます、イリーナ様」

 私は丁寧に頭を下げた。

「でも、この席がいいのです」

「ご遠慮なさらなくても」

「遠慮ではありませんわ。砦ではいちばん端の席に座る者が見張りをします。入口も厨房もお皿の割れる音も、全部見えますもの。特等席です」

 誰かが小さく噴き出した。

「皆様のお顔もよく見えますし。たとえば、扇の陰でしか話せない方の」

 カミラの肩がびくりと跳ねた。扇がぱたんと閉じた。

 私は低い椅子に腰を下ろした。思ったより悪くなかった。膝がワゴンの縁に当たること以外は。


 朝食が始まった。

 給仕は六人。白い上着で足音がしない。パンと果物が先に出て、あたたかいスープが続く。私はほとんど手をつけず、ただ見ていた。

 すぐ脇の入口の扉は閉まりきっていなかった。指一本ぶんの隙間がある。ときどき灰色の目が覗いていた。見なかったことにした。

 見ているうちに、気づいたことがある。

 ほとんどの令嬢は、隣の席札を盗み見ては、誰がどこだと目配せし合っていた。こちら側の三番目と向こう側の五番目の二人だけは、一度も札を見ない。誰がどこに座るか、最初から知っているみたいに。

 その二人は、膝の布巾を広げるのがやけにゆっくりだった。布巾の下で何かを受け取る肘の動き。そのまま袖へ入れる。

 あの手つきは街道の宿場で見たことがある。馬の売り買いだ。値段を口に出さず、目と指で数を決める人たちの手つき。

 その二人のうしろを通る給仕は、いつも同じ男だった。

 四十がらみの痩せた男。右手でパンかごを持ち、左手でそっと布巾を直していく。足音を消している歩き方だった。

 男の右手の中指に、目が行った。

 第一関節のわきに、硬くて黄色い盛り上がりがある。

 筆だこだ。毎日、筆を握ってきた指。

(書記局の方は、給仕の上着をお召しになるのかしら)

 笑いそうになって、水を飲んでごまかした。


 そのとき扉の隙間から、低い声が一言だけ聞こえた。

「ラドミル、水を」

 アレクだった。それだけで、卓のあちこちで背筋が伸びた。

 パンかごを持っていた給仕の手が、止まった。

 半拍。ほんの半拍。すぐに動き出して、何事もなかったように次の令嬢のうしろへ歩いていった。

 あの止まり方を、知っていると思った。

 「陛」の最後の線だ。

 陛下、と書こうとして、一度ためらう。声を聞いただけで止まる指。

 まだこの男が書いた人だとは言えない。紙を運ぶだけの人に筆だこはいらない。書く人か、写す人だ。そのどちらかが給仕の上着を着ている。

 それでも書記局の紙の先に、顔が一つ見えてきた。


 スープの皿が下げられたとき、膝の上の布巾が少しだけ重くなっているのに気づいた。

 皿を持った手が布巾の上をかすめた気はする。気がしただけで見えなかった。男はもう小さな扉の向こうで、ワゴンの車輪の音だけが遠ざかっていく。

 私は卓の下で布巾を開いた。

 たたんだ紙が、一枚。

 一行だけ、書いてあった。

『箱のことは、皇帝には言えますまい』

 息が止まった。

 昨夜、あの部屋には、私と皇太后しかいなかった。侍女は盆を置いて下がった。扉は閉まっていた。箱を開けたとき、息をしていたのは二人だけだった。

 それなのに。

 紙には宛名も署名も印もなかった。字を見る前にいつもの癖を探した。右上へすっと跳ね上げる、あの線。

 ない。

 ないことのほうが、おかしかった。あの癖は、書く人が気づかずに出てしまうものだ。それが一本も跳ねていない。

 よく見ると、どの線の終わりもわずかに押さえつけてあった。跳ねるはずの線を無理に止めた跡で、止めた分だけ墨が溜まり、小さな丸になっている。

 そして「皇帝」の「帝」。いちばん最後の縦の線だけが濃くて太かった。

 筆が、止まっている。

 同じ人だ。癖は隠せても、止まるところは隠せない。

(……あなたは、誰)

 紙を袖口にしまった。留め金を縫いつけた同じ袖に。

 箱のことは、アレクには言えない。昨夜、約束したから。

 それを知っている誰かが、私が言えないことまで見越して、こう書いてきた。


   ◇


 食事が終わって、十二人が席を立った。

 イリーナ様は出口で、私のほうへ軽く膝を折ってから出ていった。表情は少しも変わらなかった。あの二人も他の令嬢たちと同じように、何食わぬ顔で退出した。

 カミラが私のそばを通るとき、扇で顔の下半分を隠したまま小声で言った。

「……席のことは、わたくしの考えではありませんの」

「あら」

「女官長が、そう言うので」

 カミラはそれだけ言って足早に行ってしまった。

 誰かに言われたとおりに動いた、ということだ。席を決めたのはカミラではなかった。


 扉を出ると、アレクが立ち上がった。

「何か食べたか」

「いいえ。蜂蜜のパンを、とってありましたから」

 ポケットから布の包みを出して見せた。アレクの肩から、力が抜けた。

「席は」

「特等席でした」

「……椅子が低かった」

「見ていらしたのですね」

「見ていた。入ろうとして、三度やめた」

「三度とも、外で待っていてくださったのですね」

「お前が、一人で行くと言った」

 アレクは目をそらした。

「待つのは、慣れている」

 喉の奥が詰まった。

 十年。閉じた扉の前で、この人はずっと待ってきた。今朝も扉に三度手をかけて、三度やめた。

(泣かない。朝食のあとに泣くのは、割に合わない)

 右袖の中で、留め金が重かった。


 廊下の向こうから、固い靴音が近づいてきた。女官長だった。令嬢たちの退出を見届けに来たらしい。

 アレクが振り返った。それだけで、女官長の足が止まった。

「女官長」

「へ、陛下」

「あの席は、誰の指図だ」

 女官長は、その場に膝をついた。額に汗が浮いている。

「書付が参りまして。皇太后陛下の御意、と」

「見せろ」

 震える手で懐から出した紙を、アレクが受け取る。私も横からのぞいた。

 『辺境の客人の席は、入口脇の小卓とせよ。皇太后陛下の御意』

 末尾に印はない。そして「卓」の最後の画が、右上へすっと跳ねていた。

(同じ手。こちらは、隠していない)

 布巾の一行は隠して、この紙は隠さない。字を使い分けている。

 それに、皇太后陛下の御意。皇太后様が言っていた、四枚目だ。

「皇太后の名か」

 アレクの目が、一瞬だけ暗くなった。

 言いたいことはある。けれど今は、まだ言わない。私は黙って、紙の末尾を見ていた。

「御印がないな」

 アレクの声は低かった。

「三日前の布告を、宮殿の女官長が知らなかったと言うか」

「も、申し訳」

「御印のない書記局の文書に従った者は、その場に留め置く。決めたのは私だ」

 女官長の顔から血の気が引いた。廊下の侍女たちが息を詰めている。

「陛下」

 私は半歩前に出た。

「お留め置きは、少しお待ちください。書付は写しを取って、女官長様にお返しを」

「なぜ」

「次の書付が来たとき、女官長様にはまた従っていただきたいのです。いつもどおりに」

 囮になれ、と言っているのだ。女官長が顔を上げた。口が開いたまま動かない。

 私はにっこり笑って、その前にかがんだ。

「あの席は気に入りました。明日も同じ席をお願いいたします。ワゴンの脇の、特等席を」

 女官長の喉が、ひゅっと鳴った。

 アレクが短く息を吐いた。

「……聞いたな。席次は書付のとおりにしろ。次が来たら、写しを私に回せ。誰にも言うな。破れば留め置く」

「は、はい。かしこまりました」

 女官長は這うように下がっていった。


「アレク。もうひとつ、あります」

「聞く」

「給仕の中に、書記局の紙を運んでいる人がいます。四十がらみの痩せた男で、右の中指に筆だこ。あなたの声が聞こえたとき、手が止まりました。その男が布巾の下で何かを渡している令嬢が、二人います。こちら側の三番目と、向こう側の五番目です」

 アレクの目がすうっと細くなった。ラドミルが廊下の端から、音もなく近づいてきた。

「捕らえる」

「待ってください」

「なぜ」

「あの手の先に誰がいるのか、見たいのです。ここで押さえたら、あの人は運び手のまま口をつぐんで終わります。泳がせれば受け取る人まで見えます」

 アレクは、黙った。

 私は袖の中の紙のことを思った。言えないことがひとつある。その上に、言えることだけを乗せて渡そうとしている。

「それと、紙を一枚いただきました。中身は今は言えません」

「昨夜の皇太后の部屋のことか」

「……はい」

「そうか」

 アレクは、それ以上、聞かなかった。

 しばらく私の顔を見て、ラドミルに向かって短く言った。

「あの給仕と、二人の令嬢に、見張りをつけろ。ただし、触るな」

「はっ」

 ラドミルが行ってしまうと、アレクは私のほうに向き直った。

「お前が、決めることだ」

 昨日と同じ言葉だった。でも昨日より、ずっと静かな声だった。

 胸の奥が、きゅっとなった。

 この人は、聞かない。聞かずに、待つ。

「アレク」

「何だ」

「パンを、半分差し上げます」

「いらない。お前のだ」

「半分です」

 私はパンを割って、大きいほうを渡した。アレクは少し困った顔で受け取り、一口かじった。

「……甘いな」

「でしょう」

 氷の皇帝が廊下の真ん中で、蜂蜜のパンを食べていた。ラドミルがいたら、また肩を震わせていただろう。


 並んで歩きながら、私も自分のぶんをかじった。

 甘かった。ほっとするくらい、甘かった。

 それなのに舌の奥には、昨夜の渋さがまだ残っていた。

 あの箱を私が見たことを知っているのは、私と皇太后だけのはずだった。

 はずだった。

お読みいただきありがとうございます。

次話は、女官長の書付と、布巾の下の紙の先をたどります。

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