第十一話 配膳係、承ります
扉を開けたら、アレクがいた。
昨日と同じ場所に同じ格好で座っている人には、もう驚かなくなってきた。外套と膝の剣と床。今朝は手に、紙を一枚持っていた。
「おはよう、シャル。まだか」
「まだです」
「そうか」
廊下の端で、ラドミル騎士長が懐から小さな帳面を出した。何か書きつけている。
「それは何ですの」
「賭けの帳面でございます」
真顔だった。
「旅の途中から、騎士団の半分が『今日こそ』に張っておりまして。残り半分が『まだ』です」
「あなたは」
「『まだ』に、全額を」
信頼なのか勝負師なのか分からない。アレクが「やめろ」と低く言ったのに、帳面は閉じられなかった。
アレクが紙を差し出した。
「女官長が夜明け前に走ってきた。次の書付だ」
写しだった。昨日の約束どおり、原本は女官長の手元に戻してある。
『辺境の客人は、砦育ちにて給仕に慣れておろう。本日より朝食の配膳を手伝わせ、令嬢方の茶を注がせよ。皇太后陛下の御意』
印はない。「配」の最後の画が、右上へ跳ねていた。隠す気のない手だ。皇太后の名を使った紙は、これで五枚目になる。
「私の客人に、給仕をさせろと」
アレクは紙の端を握っていた。紙が音を立てて縮んでいく。
「破らないでくださいませ。写しも証拠です」
「分かっている」
「分かっている顔では、ありません」
アレクは指をひらいて、紙を平らに戻した。皺は戻らなかった。
「断る」
「お受けします」
「シャル」
「配膳係、承りますわ」
廊下が静かになった。ラドミルの帳面の音も止まった。
「理由を聞く」
アレクの声は低かった。怖がっている声だった。
「二つあります。ひとつ。給仕なら、食堂の中を歩けます。令嬢の後ろに立てます。誰の袖の下にも、手が届きます」
「もうひとつは」
「この書付は、私に給仕の格好をさせたいのです。そこが気になります」
昨夜のうちに、先まで考えてあった。
「陛下のお客人の持ち物には、誰も触れません。でも給仕なら、女官長が持ち物を検めて当然です」
「……盗みの罪か」
「おそらく」
灰色の目が冷えた。
「持ち物に何かを入れられる前に、入れる手を見ておきたいのです。手が見えれば、持ち主が見えますわ」
長い沈黙のあと、アレクは息を吐いた。
「……ラドミル」
「はっ」
「給仕の中に、私の者を一人入れろ」
「すでに」
「言うな。シャルにも、誰かは教えるな。知らなければ顔に出ない」
「いい判断ですわ」
ほめたつもりなのに、アレクは少しも嬉しそうではなかった。
「お前に、盆を持たせたくない」
「存じております」
「お前には、座っていてほしい。私の隣で、茶を飲んでいてほしい」
胸が、少し熱くなった。
「座っているだけでは、守れないものもありますわ」
「扉の前にいる」
「今日は、扉を開けておいてくださいませ。指一本ぶんでは、見えにくいでしょう」
ラドミルの肩が揺れた。アレクは返事をしなかった。耳だけが赤かった。
◇
給仕の服は、思ったより着心地がよかった。
白い上衣に、裾の長い黒い服。腰に前掛け。右に隠しがひとつ。アンヌが袖を二度折って、あまりを縫い止めてくれた。
「お嬢様に給仕の服を着せるなんて」
針を持つアンヌの声が尖っていた。
「砦では毎朝していたわ」
「兵隊さんのスープをよそうのと、令嬢に茶を注ぐのは違います」
「同じよ。熱いものを、こぼさず運ぶだけ」
「違います」
アンヌは糸を噛み切った。
「お嬢様が笑われたら、私、あのカミラ様の扇を折ります」
「やめて。扇は証拠にならないわ」
アンヌが吹き出した。それで針の手がやっとやわらかくなった。
十二人の名前は、昨夜のうちにアンヌが調べてくれていた。侍女同士の話は、いつも宰相の書類より早い。
◇
白百合の食堂は、昨日と同じ匂いがした。
令嬢たちが席についていた。私が入ると、昨日と同じようにおしゃべりがやんだ。違うのは私の格好だった。
白い上衣。黒い裾。前掛け。盆。
小さな笑いが、あちこちで起きた。女官長は壁のほうを向いて、目を合わせなかった。
令嬢のうしろに控えているはずの侍女たちは、今朝は壁際まで下げられていた。給仕の邪魔になるから、という女官長の指図らしい。
「まあ」
カミラ・ノヴァーク伯爵令嬢が、扇の陰で声を高くした。
「本当に、お似合いですこと。昨日の席より、ずっと」
「ありがとうございます」
盆を持って、カミラの椅子のうしろに立った。
「お茶をお注ぎいたします。お砂糖は」
「縁までなみなみと。それから、もう少し高いところから。給仕の方は、そうなさるのでしょう」
「かしこまりました」
ポットを持ち上げた。肘の高さまで。それから、頭の高さまで。
細い茶の線が、湯気を引いて長く落ちていった。一滴も跳ねない。杯の縁まで、ぴたりと。
卓の端で、誰かが小さく息をのんだ。
「砦では、風の吹く城壁の上で、兵にスープを注いでおりました」
私は言った。
「こぼしたら、凍りますので」
カミラは何か言い返そうとして、杯を持ち上げた。持ち上げた拍子に、縁から熱い茶がひとすじ袖口へ落ちた。
「あつっ」
「縁までと、おっしゃったのは、カミラ様ですわ」
笑ったのは私ではなかった。向こう側の席の誰かだった。扇の裏で、ほんの少し。
カミラの顔が赤くなった。
「お手伝いいたしましょうか」
淡い金の髪が、席から少し腰を浮かせていた。イリーナ・ヴェルスキー公爵令嬢だった。
「お客様に給仕をさせるなど。わたくしが、盆をお持ちしますわ」
やわらかな声。もっともな申し出。
けれど今朝は、ほんの一拍、遅かった。
昨日はあれほど早かった人が。
「お気持ちだけいただきます。どうぞお座りになって、お茶を。冷めてしまいますので」
イリーナは、ゆっくり腰を戻した。扇の陰で何を考えたのかは、見えなかった。
(遅いのは、今朝は知らなかったからかしら。それとも、遅れるふりかしら)
どちらでもいい。決めるには、まだ早い。
それから朝食が始まった。
私は三度、卓を一周した。杯に茶を足し、パンかごを替え、空いた皿を盆に乗せる。そのたびに令嬢たちの背中のそばを通る。
歩いて分かったことがある。
令嬢の肩のうしろに立つと、卓の上は全部見えた。膝の上は、見えない。
だから膝は見ずに、手を見た。
こちら側の三番目、ドロタ・ペトロヴァ伯爵令嬢は、パンをちぎる手が一度も口へ行かなかった。ちぎって皿に置いて、またちぎる。
向こう側の五番目、ヤナ・コヴァーチ子爵令嬢は、右手を何度も髪へやった。右の耳の上に、金の百合の髪留めがひとつ。今朝、女官長から十二人全員に配られたのだと、アンヌが言っていた。お揃いで、裏にはそれぞれの名前が彫ってある。食堂では必ず付ける決まりつき。
痩せた給仕は、一度だけヤナのうしろを通った。
右手でパンかごを持ち、左手で布巾を直していく。そのとき、ヤナの膝のあたりで布巾がふくらんだ。
金色が、布巾の端から一瞬だけ光った。
次にヤナの前を通ったとき、右の耳の上の髪が、ひとふさほどけて垂れていた。
私は何も見なかった顔で、ポットを持ち直した。
(ああ。今朝は逆なのね)
昨日は、受け取る手を見た。今朝は渡す手だった。令嬢が差し出して、給仕が受け取る。
渡されたのが髪留めなら、行き先はひとつしか思いつかない。
小さな扉の前で、痩せた給仕とすれちがった。肩が触れるほど近かった。
前掛けの右の隠しが、ふっと重くなった。
羽根が一枚載ったくらいの重さだった。気づかなければ、気づかない。
男は目を伏せたまま、足音もなく卓のほうへ戻っていった。右手の中指が、ほんの少し曲がっていた。第一関節のわきに黄色い盛り上がり。
(来ましたわ)
私は隠しの上に手を置かなかった。盆を持ち直して、次の皿を取りに行った。
◇
朝食の終わりに、ヤナが立ち上がった。
「ない」
声が裏返っていた。
「わたくしの髪留めが、ございません。皆さまとお揃いの、あの」
右手が耳の上をさぐる。さぐりながら、周りを見た。見すぎないように。
「たしかに、朝は付けておりましたのに」
「まあ、お可哀想に」
ドロタが立った。声が、ずっと用意していたみたいに滑らかだった。
「わたくし、見ましたわ。さきほど給仕の方が、ヤナ様のうしろを」
一拍。
「いえ。新しい給仕の方が、通りがかりに、前掛けに何かを」
全員の目が、私の右の隠しに集まった。
隠しは少しだけ、ふくらんでいた。
「女官長」
ヤナが震える声で言った。
「給仕は検めを受ける決まりでございましょう」
女官長は壁際で拳を握っていた。固い声が出た。
「……給仕の検めは、決まりでございます」
書付の筋書きは、きっとここまで書いてあったのだ。給仕にして、検めさせて、盗みにする。
私は盆を卓に置いた。
「承知いたしました。ただし、お願いがひとつ」
「お願い?」
「検めは、皆さまの前で。それから、陛下の御前で」
「陛下は、ここには」
ヤナの声は途中で切れた。
入口の扉が、静かに、全部開いたのだ。
アレクが立っていた。
いつもの外套に、いつもの氷の顔。床に座っていた人とは思えない姿勢で。うしろにラドミルと、青ざめた宰相。
「扉の前は、私の場所だ」
食堂じゅうの空気が止まった。
「扉が開いていれば、中も、私の場所だ」
令嬢たちが、いっせいに立って膝を折った。カミラの扇が床に落ちた。ヤナは立ったまま凍っていた。
私は黙って、右の隠しに手を入れた。
指先に、冷たい細工が触れた。
取り出して、卓の白い布の上に置いた。
金の百合がひとつ。裏返すと、小さく名が彫ってあった。
食堂が静まり返った。
「盗んだわね!」
ヤナが叫んだ。叫んでから、周りを見た。誰も同調しなかった。
「……ええ。ヤナ様の髪留めですわね」
私はうなずいた。
「裏に、ヤナ・コヴァーチと彫ってございます。今朝、皆さまに配られたものです」
「でしょう。あなたの前掛けから」
「入っておりました。確かに」
声は落とさなかった。
「ところでヤナ様。この髪留めは、どなたの手を通って、私の隠しに入ったのでしょう」
「わたくしは、知りません」
「そうでしょうね」
私は微笑んだ。
「ご自分で外して、布巾の下で痩せた給仕さまに渡されたのですもの。そのあとのことは、ご存じなくて当然です」
ヤナの喉が、ひゅっと鳴った。
「そんな、そんなこと」
「見ていた者がおります」
アレクが言った。静かな声だった。
「トマシュ」
給仕の列の端にいた、いちばん年若い給仕が、盆を置いて膝をついた。
「見ておりました、陛下。ヤナ嬢は、布巾の下で髪留めを給仕に渡されました。その給仕はのちに、新しい給仕の前掛けへ」
若い給仕が、帽子を取った。
見たことのある顔だった。旅の途中、ラドミル騎士長の掌に銅貨を置いていた若い騎士の一人。
(あなただったの)
六人のうち誰かとは思っていたけれど、あまりに若い。「まだ」に賭けたのか、「今日こそ」に賭けたのか。あとで聞いてみたい。
「見ていたのに、止めなかったのか」
アレクが聞いた。
「触るな、とのご命令でしたので」
トマシュはまっすぐ答えた。
ドロタの顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「おまえたち二人」
アレクが、ヤナとドロタを順に見た。
「皇后候補は十二人だった。十人でいい」
誰も息をしなかった。
「私の客人に、盗みの罪を着せようとした者は、資格を失う。部屋に下がれ。書記局の命が届かぬ部屋だ。誰に頼まれたか、ゆっくり思い出せ」
「わたくしは」
ドロタが膝をついた。声が壊れた。
「言われたとおりにしただけでございます。毎朝、紙が布巾の下に。皇太后陛下の御意だと」
「誰が持ってきた」
「給仕が。……痩せた、右の指にこぶのある」
ドロタは、そこで言葉に詰まった。
アレクは黙って聞いていた。皇太后の名が出たとき、灰色の目が、ほんの一瞬だけ私を見た。
私は目を伏せなかった。何も言わなかった。箱のことは、言えない。
ラドミルが、二人を連れていった。ヤナは出ていくとき、一度だけ振り返って髪の右側に手をやった。そこには、もう何もなかった。
カミラが扇を拾った。拾って、なぜか私に、深く頭を下げた。
ほかの令嬢たちも、似たような顔をしていた。さっきまでの小さな笑いは、どこにもなかった。
イリーナだけが膝を折ったまま、動かなかった。表情は、少しも変わらなかった。
アレクは食堂の真ん中を歩いてきて、私の前に立った。
「シャル」
「はい」
「まだか」
十人の令嬢が、聞いていた。
聞こえなかったことにしてくれた人は、おそらく一人もいない。
「……皆さまの前ですわ」
「皆の前だから聞く」
アレクは真顔だった。
「聞かれて困ることでは、ない」
「困ります」
「私は困らない」
「私が困ります」
盆を抱えたまま言うと、アレクの口の端が動いた。笑いそうになって、押さえた。
「まだ、か」
「お茶が冷めます、陛下」
「……そうか」
「まだです」
食堂のどこかで、扇の落ちる音がした。二つ目だった。
十人のうち七人が下を向いた。二人は顔が赤かった。
イリーナはゆるやかに微笑んでいた。扇は少しも動かなかった。
◇
ラドミルが報せを持ってきたのは、昼前だった。胸の帳面の端に、「まだ」の線が一本増えているのが見えた。
「痩せた給仕が、消えました」
食堂の奥の控えの間。アレクと私と宰相と、ラドミル。
「見張りの目は、騒ぎのあいだ全員、食堂の中を向いておりました。その隙に。トマシュが小扉の外へ追ったのですが、角を曲がった先で、見失いました」
「ひとりで逃げたのか」
「前掛けと上衣を、廊下の釘にかけて、行きました」
ラドミルが、丸めた白い布を差し出した。給仕の前掛けだった。右の隠しが、ふくらんでいた。
私は手を入れた。
紙が出てきた。
小さな、黄ばんだ用箋。一枚。
広げた。
一面に、字が並んでいた。同じ字が。
『陛』『陛』『陛』『陛』『陛』。
何十回も。罫のない紙の上に、同じ一字が、行を作って。
そのどれもが、右側のいちばん最後の縦の線だけ、濃かった。
何十個も。
それでも、あとの行へいくほど、線は少しずつ薄くなっていた。
止まらずに書こうとした跡だった。
最後の一行だけ、『陛下』と、二文字で書いてあった。
その『陛』は止まっていなかった。かわりに、下の『下』の最後の一画が、紙を突き破っていた。
「……練習」
つぶやいたのは、宰相だった。
「止まらずに『陛』を書く練習を、していたのでしょうか」
「止まらずに書けるようになったら、その人の手は、見分けがつかなくなります」
答えながら、紙を握りしめていた。
「でも、これは忘れ物ではありませんわ。隠しに入れたまま、釘にかけていったのです。置いていったのです」
誰に向けてかは、言わなかった。
アレクは何も言わなかった。紙の濃い線を、長い間見ていた。灰色の目が、そこから動かなかった。
「……この字を」
かすれた声だった。
「前に、見たことがある」
「いつですの」
「分からない。……分からない、が」
アレクは紙を机に置いた。指先が、わずかに震えていた。
私はその手の上に、自分の手を重ねた。震えは止まらなかった。止めなくていい、と思った。
「あの者を探す」
「今夜、私も探しに出ます。この紙を置いていった方の、行き先を」
「お前が決めることだ。だが今夜は、私も行く」
「はい」
皇太后様は言った。そういう者は、いつか必ず、自分で紙を破ると。
この人は、破らなかった。
破るはずの紙を、一枚残して、消えた。
読んでいただき、ありがとうございます!
「まだか」を、とうとう皆さまの前で聞かれてしまったシャルロットです。
騎士団の賭けは、ラドミルの全額勝ちでした。
次回、消えた給仕の足取りをたどります。紙に残された、あの字の持ち主とは。
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