第十二話 息を止めて書け
夕方、控えの間に戻ると、窓から西日が入っていた。
机の上に、黄ばんだ用箋が一枚。『陛』が何十個も並んだ紙だ。宰相は胃薬を湯に溶かしに出ていった。ラドミル騎士長は扉の脇で動かない。アレクは机の前に立ったまま、紙を見ていた。
昼からずっと、そうしていたらしい。
「シャル」
「はい」
「あの押し方は、先生のものだ」
私は黙っていた。
「十になるまで、字を教えてくれた人だ。宮廷書記局の書記で、手本を書かせたら右に出る者がいなかった。ヨゼフという」
アレクは紙の隅を、指でなぞった。
「いつも『陛』の最後の線だけ、朱で濃く書いて見せた。ここは息を止めて押せ、と」
あの『陛』を思い出した。右側のいちばん最後の縦の線。濃くて太い。
あれは、押した跡だったのだ。
「先生は十三年前の夜に死んだと聞いた。内乱の夜だ。裏門で、私を逃がしたあとに」
「この紙を書いたのが、その先生だと」
「分からない。字の形は違う。あの人はもっと丁寧に書く。ただ」
アレクは言葉を切った。
「あの夜、先生は私に言った。陛下、息を止めて。最後まで止めて走れ、と。それだけは覚えている」
十歳の子どもに。暗い廊下で。
私は何も言わずに、机の紙を取って、西日にかざした。
「見てくださいませ」
用箋の左右に、薄い折り筋が同じ幅で入っていた。罫のかわりに、折って字を揃えさせる紙だ。端には小さな針穴が二つ。束ねて綴じた跡。
「書記局の紙ではありません。習字の紙です。子どもに字を習わせるときの」
「習字」
「それから、これも」
給仕の前掛けの裏を返した。右の隠しの縁に、青いしみが指の形に残っていた。
「宮廷の墨は黒ですわ。これは青墨。安い墨で粉が粗いから、指につくと青く残ります」
ラドミルが、扉の脇から低く言った。
「青墨は、下町の運河沿いにしか売っておりません。代書屋と写字塾の並ぶ通りがございます。筆の小路と」
「そこに、習字を教える塾が」
「三軒。うち一軒は、ひと月半前から主人が夜しか姿を見せないと」
「どうして騎士長がそんなことを」
「賭けの胴元は、下町の噂が早いのでございます」
真顔だった。アレクが長く息を吐いた。
「……今夜、行く」
そこへ宰相が戻ってきて、湯のみを持ったまま固まった。
「陛下が、下町へ、夜に」
「そうだ」
「お供は」
「ラドミルと、シャル」
「胃が」
宰相は湯のみを机に置いて、壁に額をつけた。
◇
日が落ちてから、私たちは裏門を出た。
アレクは麻の古い外套に頭巾。ラドミルは荷担ぎの男の格好。二人とも似合っていなかった。
アレクは特に似合っていなかった。
背が高い。姿勢がいい。歩くたびに、石畳が皇帝の足音で鳴る。
「アレク。背中を丸めてくださいませ」
「丸めている」
「それで、ですの」
「これ以上は曲がらない」
氷の皇帝は、まじめに困っていた。
少し考えて、私は言った。
「では、こういたしましょう。足を悪くした兄を、妹が連れて歩いている」
ラドミルが、どこからか杖を一本出した。アレクは受け取って、黙って見つめた。
「……妹」
「ええ。兄上」
「兄上」
もう一度、小さく繰り返した。頭巾の中で、耳が赤くなっているのが見えた。
「兄上、足が悪いのですから、私の腕におつかまりください」
「……つかまる」
「はい」
腕に、重みがかかった。杖の音と、ゆっくりした足音。肩が触れた。
運河沿いの道に出ると、荷船の匂いがした。魚と、濡れた縄と、川の泥。宮殿の白い匂いとは、まるで違った。
運河の石段で夜なべの洗い物をしていた女が、桶から顔を上げてアレクを見た。
「あらまあ、いい男。どこの役者だい」
「役者ではない」
「声もいいじゃないか」
「妹がいるのだ」
「はいはい」
女は笑って、また桶に向かった。私は必死で口の端を押さえた。
「兄上、お顔が」
「何だ」
「兄上、でしたわ」
「……兄上、だ」
数歩先で、ラドミルの荷担ぎの背中が、ひどく揺れていた。
筆の小路は、運河から一本入ったところにあった。
細い道の両側に、小さな店が並んでいる。軒には筆の形の看板。この時刻は、ほとんど戸を閉めていた。
一軒目は真っ暗。二軒目には貼り紙が出ていた。『主人、旅に出ております』。
三軒目の軒に、青い竹の絵が描いてあった。
『青竹堂』。
その窓の奥に、小さな灯りがひとつだけ、ともっていた。
隣の店の戸が、がらりと開いた。パン屋の前掛けをした、小柄なお婆さんだった。
「そこなら、誰もいないよ」
「灯りが」
「あれは先生が、ずっと消さないんだよ。毎朝、出ていく前に油を満たしていくの。ミラちゃんが帰ってきたとき、暗くないようにって」
お婆さんは私たちを上から下まで見て、杖をついたアレクのところで目を止めた。
「あんた、足が悪いのかい。悪いようには見えないけど」
「……悪い」
「そうかい」
それ以上は聞かずに、お婆さんは続けた。
「ヨゼフ先生はね、ひと月半ほど前から様子がおかしくてね。夜遅くに戻ってきて、ミラちゃんの机だけ拭いて、朝にはもう連れていかれるんだよ。ミラちゃんは十日前、迎えが来て連れていかれたきり」
「迎え、とは」
「灰色の外套の男だって、近所の子が言ってた。毎朝、先生を連れていくのも同じ男だって。先生は止めなかったそうだよ。止められなかったんだろうねえ。あんな顔をして」
お婆さんは、ふっと息をついた。
「いい先生なんだよ。字のきれいな。この小路の子は、みんな先生に習った」
アレクが、杖の頭を強く握った。
先生。ヨゼフ。その名を、お婆さんは当たり前のように口にした。
戸に鍵はかかっていなかった。
中は小さな板の間で、低い机が六つ。壁に、子どもたちの習字がびっしり貼ってあった。丸い字、曲がった字、墨をこぼした字。
いちばん奥の机だけ、きれいに片づいていた。
その上に、紙が一枚。
『とうさま』
ひらがなだった。何度も書き直して、四回目でやっと形になった字。隣に小さく、日付と。
『みらの、れんしゅう』
喉の奥が、きゅっとなった。
九つにもならない子が、書いたのだ。
「十日前の日付だ」
ラドミルが低く言った。
アレクは何も言わなかった。壁の習字を、一枚ずつ見ていた。それから先生の机に、そっと腰を下ろした。
硯と筆が一本。青い墨が、乾いて固まっている。
アレクは反故紙を引き寄せ、固まった墨に筆先で水を落として、少しだけ溶かした。それを紙にのせた。
ゆっくりと、一字。
『陛』。
私は息をのんだ。
右側のいちばん最後の縦の線だけ、濃かった。
アレクは自分の書いた字を、じっと見ていた。
「……私の字だ」
かすれた声だった。
「私も、ここで息を止めている。教わったとおりに」
「アレク」
「先生の字が、私の手に残っていた」
十三年、誰も気づかなかった癖。アレクは自分では、もう『陛』を書かない。書く必要のない人になった。だから誰も知らなかった。
あの紙を見て「前に見たことがある」と言ったのは、先生の朱の線を思い出しかけていたからだ。同じものが自分の手にあるとは、思いもしなかったのだ。
私は、その隣に腰を下ろした。杖が床に転がっていた。
「アレク。先生は、あの夜、あなたに息を止めて走れと言ったのでしょう」
「……ああ」
「あの人は、『陛』と書くたびに、あの夜の廊下へ戻っていたのだと思います」
アレクが目を閉じた。
窓の外の運河で、荷船が動く音がした。
ラドミルは、いつのまにか戸口の外に出ていた。見張りだった。気遣いでもあった。
夜が更けていった。先生は、戻らなかった。
先生の机の前に、私たちは並んで座っていた。ときどきアレクが、壁の習字を見上げた。曲がった字を見ると、小さく息をもらした。
空が白みはじめて、窓の色が、青から薄い灰色に変わった。
アレクが、ぽつりと言った。
「……おはよう、シャル。まだか」
「まだです」
「そうか」
「今は、先生が先です」
「そうだな」
小さく笑って、アレクは膝の上で手を組んだ。指先が少しだけ震えていた。
戸の外で、足音がした。
ラドミルが、声を出さずに戸口の影へ下がった。
軽い足音だった。痩せた人の足音。
戸が静かに開いた。
薄い光の中に、男が一人立っていた。四十がらみの痩せた男。右手に小さな手拭い。
男は部屋の中の私たちを見て、動かなくなった。
アレクが立ち上がった。頭巾がずれて、灰色の目が、薄明かりの中で男を見た。
男の手から、手拭いが落ちた。
「……陛下」
声が割れていた。
「ヨゼフ先生」
アレクの声も割れていた。
男はその場に膝をつき、床に額をこすりつけた。背中が細かく震えた。
「お許しください。私は陛下に背く紙を、四十一枚書きました。皇太后様のお名前を借りたものも」
「顔を上げてください」
「いいえ」
「先生」
「私は、あの夜、陛下をお一人で走らせました。息を止めて走れと、それだけ申して。あの夜から、陛の字を書くたびに息が止まります。止めずには書けません」
肩が震えていた。
「給仕に紛れて、陛下のお声を聞きました。あの廊下と、同じ息の継ぎ方でした。手が、止まりました」
「生きていると、陛下に知られてはならないと思いました。あの夜、裏門で斬られて命だけは拾いましたが、書記局の名簿では、死んだ者のままです。戻る場所もなく、下町で手習いを教えておりました。死んでいたほうが、よかった者です。それを見つけて、ひと月半前に、娘の名を出されて。娘が、娘が」
「ミラ、ですわね」
私が言うと、男ははっと顔を上げた。
痩せた顔だった。目の下に深い影があった。ミラの机を毎晩拭いている人の顔だった。
「ミラちゃんの字を、拝見しました。『とうさま』を、四回書き直して」
男の顔が、くしゃ、と崩れた。
「あの子は、まだ、とうさま、としか、きれいに書けないのです」
アレクが先生の前に膝をついた。皇帝が、床に。
「先生。顔を上げてください」
男はゆっくりと顔を上げた。
アレクの目から、涙が落ちていた。
「生きていて、くださった」
それしか言えないようだった。氷の皇帝が、十歳の子どもの顔で泣いていた。
先生は、長いあいだアレクの顔を見ていた。
「……お大きく、なられました」
「先生は、小さくなった」
「陛下。私は、息を止めて書けとは教えました。ですが、止めたままでいろとは申しておりません」
泣き笑いのような声だった。
「息は吐いてよいのです。それをお教えするのを、忘れておりました。あの夜も」
アレクの肩が大きく揺れた。
私はそっと目をそらした。そらしても、涙が出た。
「先生」
少しして、アレクが静かに聞いた。
「あの用箋は。陛を書き連ねた紙を、置いていかれた」
「はい。見つけていただきたくて」
先生は目を伏せた。
「ですが、見つけていただかないほうがよかったのかもしれません。私の癖だと、お分かりになってしまう」
「見つけた。それでいい」
アレクは短く言った。
「砦の図を写したのも、先生か」
「写しました。ですが元の図は、渡されたものでございます。古い紙で、誰が描いたものかは存じません」
古い図。井戸道が塞がれる前の砦を知る誰かが、描いた図。
私は唇を噛んだ。それに、もうひとつ。十三年前に死んだとされた人を探し出して、使える誰かがいる。あの夜を知っている誰かが。
それから、布巾の下のあの一行を思い出した。『箱のことは、皇帝には言えますまい』。あれもこの人の手だ。文面を渡したのは誰か。聞きたい。けれど、アレクの前では聞けない。
先生が、懐に手を入れた。
折りたたんだ紙を取り出す。蝋の印は、書記局の発行印だった。
「昨日の朝、迎えの男に渡されました。今朝までに書いて写せと。……まだ、写しておりません」
広げると、短い文が書いてあった。
『本日夕刻、辺境の客人を北の庭の東屋へ案内せよ。皇太后陛下の御意』
皇太后の名を使った、六枚目の紙だった。
先生はその紙を、両手で持った。
「先生、それは」
「今度は、自分で」
先生は、紙をまん中から、ゆっくりと裂いた。
ばり、と乾いた音がした。裂いた紙をさらに裂いて、床に落とした。
皇太后様の声が、頭の中ではっきり聞こえた。そういう者は、いつか必ず、自分で紙を破る。
先生の手は、もう震えていなかった。
「陛下。娘は書記局の地下におります。十日前、一度だけ断ったとき、連れていかれました。私が書かなければ帰してもらえません。だから今日まで書きました。もう、書きません」
「先生」
「娘を、お助けください」
先生は深く頭を下げた。
アレクは、その肩に手を置いた。
「必ず」
短い返事だった。先生の弟子の声だった。
そのとき。
戸の外で、こつ、と音がした。
小さな音が、二度、三度。誰かが杖で、戸の板を叩いている。
戸口の影で、ラドミルが剣の柄に手をかけた。
先生の顔から、血の気が引いた。
「……朝の、迎えです」
囁くような声だった。
「毎朝この時刻に、私を迎えに来るのです。書記局の地下へ、書かされに」
戸が、ゆっくりと外から押し開けられた。
読んでいただき、ありがとうございます!
「陛」の字だけが濃い理由は、先生の教えでした。
アレクが「兄上」になる場面は、書いていて一番楽しかったところです。
次回、朝の戸を開けて入ってきた「迎え」の正体と、ミラの行方です。
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