第十三話 朝の迎え
戸板が、きい、と鳴いた。
開ききるまでに、数を三つ数えられた。数えているあいだに、私はやることを三つ決めた。
ひとつ、アレクの頭巾。ふたつ、床の紙。みっつ、先生の前に立つこと。
頭巾を目の上まで引き下ろして、アレクの肩を押した。いちばん近くにあった机へ。子どもが習字をするための、膝までの高さしかない低い机だ。
「座って」
「しかし」
「兄上は、足が悪いのですわ」
杖を握らされたアレクは、並んだ六つの机の端に腰を落とした。皇帝の膝が、胸の高さまで来た。長い足を、机の下へ押しこませた。靴を見られたくなかった。
私は手巾をわざと床に落とし、拾うふりでしゃがんだ。先生が裂いた紙の欠片が、床に散っている。蝋の印のかけらが爪に当たった。ひとつ残らず手巾に包んで、袖の奥へ押しこんだ。
立ち上がったときには、先生がもう戸口に向かって歩き出していた。背筋が伸びていた。膝をついていた人の歩き方ではなかった。私はそのあとを追った。
戸の裏に、大きな影がはりついている。ラドミル騎士長だ。開いた板が、ちょうど体を隠していた。剣の柄に手をかけたまま、息もしていない。
戸口に、男が立っていた。
灰色の外套。五十がらみ。目が小さくて、鼻の脇に深い皺がある。敷居はまたがずに、外から部屋を見ていた。
右手に黒い杖。握りだけが銀だった。さっき戸を叩いた杖だ。
私はちらりと足元を見た。杖の先に、石畳をこすった跡が一つもない。足は悪くない。戸を叩くためだけに持ち歩いている杖だ。
「先生。朝でございますよ」
声は丁寧だった。丁寧なのに、湿っていた。
「お待たせしました」
先生の声は、震えていなかった。
男の小さな目が、部屋を一周した。低い机に折りたたまれている頭巾の男で止まり、私で止まった。
「おや。お客様とは。先生の塾は、店じまいと伺っておりましたが」
「鍵をかけ忘れて出まして。そのまま、中でお待ちに」
「夜明け前に参りましたの」
私は先生の斜め前に出て、頭を下げた。髪は布でくるんで、顔の横に煤をつけてある。南門の広場にいた人の中に、この男もいたかもしれない。靴も、下町の古い革のものに替えてある。目は上げすぎなかった。
「灯りがついておりましたし、戸も開いておりましたから、お戻りになるまでと」
「ほう。どちらさんで」
「下町の外れの、馬具屋の者です。兄を、先生の塾に通わせたくて」
「兄」
「三年前に馬に蹴られて、足を悪くしました。馬具の仕事ができなくなりましたので、字を覚えて、帳簿をつけたいと。先生は読み書きを教えるのがお上手と伺いまして」
口から出まかせは、案外すらすら出た。砦では、見張りが交代で嘘の訛りを練習する遊びがあった。
「塾は当分、閉めていると聞いたがね」
「存じております。でも兄は、昼間に外を歩けませんの。顔に火傷がございまして。人の少ない夜明けなら、と」
低い机のところで、頭巾が小さく動いた。
「火傷?」
「兄は、人に顔を見られるのを嫌います。頭巾は、お許しくださいませ」
「ふん。見たくもないね」
男は鼻で笑った。見たくもない、と言った相手が、帝国の皇帝だとは思ってもいない顔だった。
頭巾の下から、何かを押し殺す音がした。
「兄上」
「…………ああ」
「落ち着いてくださいませ」
「落ち着いて、いる」
全然、落ち着いていなかった。杖の握りが、白くなっていた。
男は気づいたふうもなく、頭巾の男に目を戻した。
「兄さん、名は」
「……アレク」
「妹さんは」
「…………」
間が空いた。
まずい。偽の名前を、決めていなかった。
「…………シ」
アレクの声が、喉の奥で止まった。
床に伸びたラドミルの影が、戸の裏で身じろぎした。
「…………ミエル」
アレクは、ゆっくり言った。
「ミエル。蜂蜜という意味だ」
戸口が静まった。
言わなくていいことまで言った。栗毛の馬の名前だ。私の馬の。
「変わった説明をする兄さんだ」
「……妹の名前は、大事にしている」
「そうかね」
男は興味をなくしたように、先生のほうへ首を戻した。
私は袖の中で手巾を握りしめた。ミエルに謝るのは、あとにしよう。
「先生。昨日お渡しした紙は」
男の声が、すっと低くなった。
「写しは、できましたかね」
「…………できておりません」
「原紙は」
「帰り道に、運河へ落としました。夜道で風にさらわれて、拾えませんでした」
先生の声は平らだった。男は、小さな目を細めた。
「落とした」
「手が、震えまして」
「それはそれは。拾ったのが、字の読めぬ者だといいが」
男は喉の奥で、ひひ、と笑った。
「お嬢ちゃんも、毎朝先生のお帰りを待っておいでだ。昼までに、ね。お父上の筆が、間に合うといいが」
先生の肩が、かすかに沈んだ。
杖の握りが軋んだ。頭巾のなかで、歯を食いしばっているのが、見えなくても分かった。
私は男と、アレクのあいだに一歩だけ体を入れた。
「兄上。膝が痛みますの」
「……痛まない」
「痛みますの」
「…………痛む」
杖の握りから、指が一本ずつ離れた。
「では、先生。参りましょうか」
男は戸口から身を引いて、先生を外へうながした。
「新しい紙は、あちらにある。落としたぶんは、そちらで書き直していただく」
それから私たちを振り返った。
「弟子入りは、ご覧のとおり今日は無理だ。昼過ぎにまた来なさい。……先生が、おいでになれば、ね」
戸口を出る前に、先生が足を止めた。
窓辺の小さなランプを、見ていた。
「少しだけ。油を」
「灯りなど、昼に要るか」
「娘が戻ったとき、暗くないように」
男の目が、一瞬だけ、先生を見た。
「戻るさ。お前が書けばな」
「あの」
私は一歩出た。
「油でしたら、私が足しておきます。お待ちしているあいだ、手持ち無沙汰ですので」
「好きにするといい、妹さん」
男は興味なさそうに言った。
先生は私を、ちらりと見た。目の奥で、何かがほどけた。
それから、振り返らずに戸を出ていった。こつ、こつ、と杖の音が、石畳を遠ざかっていった。
◇
足音が角を曲がって消えたあと、たっぷり十数えた。
「陛下。もう、よろしいでしょうか」
ラドミルの声が、戸の裏から小さく聞こえた。
大きな影が、板の陰から出てきた。荷担ぎの外套の肩が、がちがちに固まっていた。右手は、まだ剣の柄にあった。
「……騎士長」
「は」
「手を、お離しになって」
「離しております」
「離れておりませんわ」
ラドミルは自分の右手を見下ろした。指が、柄に貼りついたまま、動かなかった。
「……指が」
「固まってしまわれたの」
「息をしていなかったので、手を忘れておりました」
アレクが机から立ち上がった。立ち上がった拍子に、低い机が持ち上がった。膝に引っかかっていたのだった。
「ラドミル」
「は」
「斬れたか」
「あの背中ならば、一太刀で」
「そうだな」
アレクは低い声で言った。
「だが、ミラがいる」
灰色の目が、戸口の向こうを見ていた。
「……斬らずにいてくれて、助かった」
「陛下……」
アレクは、ラドミルの指を一本ずつ柄からはがした。小さな子の手をほどくような手つきだった。
私は目をそらして、ランプに向かった。見ていたら、また笑ってしまいそうだった。
ランプの油は、ほとんど残っていなかった。
棚の下から油壺を出して、芯を整える。
「あの男、昼までにと言いました」
私は背中で言った。
「ミラちゃんを傷つければ、先生はもう書きません。先生に書かせるための札ですから、使い切るまでは大事にします」
「札……」
アレクはしばらく黙っていた。それから隣に来て、油壺を持ってくれた。
「注ぐ」
「ええ」
とくとくと、油の落ちる音がした。火が、ぱちりと立ち上がって、落ち着いた。
窓の外が、朝になっていた。小路のあちこちで、雨戸の開く音がする。
押さえなかった理由を聞きたそうな顔だったので、先に言った。
「あの男を押さえなかったのは、先生を地下へ入れるためです。あの男が戻らなければ、中の人たちは警戒して、紙も人も動かします。ミラちゃんも。先生は、書くふりをしながら、中を見てくださいます」
「先生が、自分で選んだことか」
「ええ。『もう、書きません』と言った人が、そのあとの一歩を、自分で踏み出したのです。それと、時間です。先生が落としたことにした紙は、『今日の夕刻、北の庭の東屋へ』という中身でした。書き直されれば、夕方までに動き出します。猶予は昼、遅くとも夕刻です」
「東屋には、行かせない」
「行きません。……行くふりは、するかもしれませんけれど」
「……お前は、いつも先にいる」
「ですから、追いかけてくださいませ」
「追う。毎朝」
アレクは、口の端を押さえた。押さえきれなかった。
「小路の端にいた者に、二人を追わせております。報せは舟で」
ラドミルが言った。
「それと、宰相閣下には夜のうちに伝令を出してございます。『陛下は朝から、辺境のお客人と下町のご視察』と。返書がまいりました」
「何と書いてあった」
「一文字でございました」
「何と」
「『胃』と」
ランプの炎が、じ、と鳴った。
アレクが目を閉じた。
「……あとで、胃薬を倍にしてやれ」
「はっ」
笑ったのは、私だけだった。ラドミルは肩だけで笑った。
半刻ほどして、荷船の船頭に化けた騎士が、小路の裏の石段から駆け上がってきた。
「二人は運河沿いに北へ歩き、書記局の裏手へ回りました。外堀に面した石段の下に、荷揚げの口があります。そこから中へ」
「荷揚げ口」
アレクが、眉を寄せた。
「書記局の裏には、紙と墨の舟が着く口がある。昔からだ。中は地下まで続く、紙の倉庫のはずだ」
アレクは続けようとして、言葉を止めた。
「……人を置く部屋は、ない」
私は袖の中の手巾に、指で触れた。
「ないはずの部屋が、あるのですわ。誰かが、作ったのです。書記局の、中の人が」
「書記局の中に」
「ええ。ミラちゃんを閉じこめて、先生に紙を書かせる部屋を、書記局の下に」
国境で、紙に止められた。街道で、紙に眠らされかけた。南門で、紙に囲まれた。
その紙が書かれていた場所は、宮殿の足の下だったのだ。
「書記局の長は誰ですか」
「書記長官だ。先帝の代からの老人で、去年の冬から床についている。局の実務は、副長官に任せてある」
副長官。
頭の隅に、置いた。まだ名前にはしない。顔のない人に名前をつけるのは、顔が見えてからでいい。
「正面から入って、地下を開けさせれば早い」
「開けさせたときには、空になっています。紙は燃やされ、ミラちゃんは別の場所へ。誰が黒いのか分からないうちは、正面は使えません」
「……中から見るのか」
「ええ。出入りの者に紛れて、中から見ます」
「荷揚げ口に、門衛はいたか」
「二人でございます。船頭に聞きました。毎朝、納品の荷車が着くそうです。運ぶのは、筆の小路の墨屋の小僧。門衛は荷の数しか見ないと」
「墨屋」
私とアレクが、顔を見合わせた。
そういえば、小路の入り口の角に、墨の看板が出ていた。
◇
コルネル墨店は、小路の入り口の角にあった。看板の墨の字は大きいのに、戸は半分しか開いていない。前の石畳に、荷車が一台。樽が三つと、灰色の紙の束が二つ、縄で縛られて積んである。
荷車の横に、男の子が立っていた。
十二、三くらい。丸い頭で、前掛けが大きすぎる。仁王立ちだった。
「あんたら、青竹堂から出てきたろ。先生が連れてかれたあとも、中に灯りがついてた」
先に言われた。男の子は足元の石を拾って、握った。
「先生を連れてったおじさんの仲間か」
うしろで、荷担ぎ姿のラドミルが一歩出ようとした。アレクが腕を出して止めた。
「違う」
アレクが言った。頭巾の下の低い声が、石を握る手を止めた。
「その男の仲間ではない」
「じゃあ、何だよ」
私はしゃがんで、男の子と目の高さを合わせた。
「先生を助けたい人です。ミラちゃんが『とうさま』を、四回書き直しているのを見ました。四回目で、やっと形になった字を」
男の子の肩が、ぴくりと動いた。
「ミラ、『と』の字がいつも逆になるんだ。先生が、直さなくていいって言ってた。逆でも、読めるからって」
声が、細くなっていった。
「先生、ひと月半前から、ミラのことしか話さなくなったんだ。俺が声をかけても、聞こえてないんだ」
男の子は、握った石を、そっと地面に置いた。
「……俺、ペタ。先生に、字を習った」
懐に手を入れて、小さな紙を取り出した。何度も折った跡のある、薄い紙。
広げると、丸い字で、一行だけ書いてあった。
『ペタ』
「最初に来た日に、先生が書いてくれた。先生は、習いに来た子の最初の紙には、その子の名前を書くんだ。手本にしろって」
ペタの目が赤かった。
「俺、これ、まだ持ってる」
隣で、アレクが息をのんだ。
私も、のどの奥が詰まった。
最初の紙に、自分の名前を書いてもらう。下町の子どもたちは、そうやって字を始めたのだ。
アレクの手が、ほんのわずか、ペタの頭のほうへ動いて、途中で止まった。
「……ペタ」
「何だよ」
「お前の字は、これから上手くなる」
「はあ? あんた誰だよ」
「荷運びの兄ちゃんだ」
アレクは言った。まじめな顔で。
ペタは、疑わしそうに頭巾を見上げた。それから、石を拾って、ポケットにしまった。
「ふうん」
それ以上は聞かなかった。聞かないことは、下町では礼儀だった。
「毎朝、納品に行っているのは、あなたですね」
「親方は、ひと月半前から注文が十倍になって、大喜びだよ。毎朝、樽を三つ、紙を二束。書記局の裏の荷揚げ口に運べって。自分は酒を飲んで寝てる」
「ひと月半前」
先生が、娘の名を出されて書き始めた時期と、同じだった。
「門にヘンリクって門衛がいてさ。いつも俺の木札と樽の数しか見ないんだ。あと、あの灰色の外套のおじさんが、通りがかりに、俺の樽を蹴るんだ」
「蹴る」
アレクの声が、低くなった。
「覚えておく」
「何を?」
「樽を蹴られた分を」
ペタは、目を丸くした。それから、ふっと笑った。初めて笑った顔だった。
「あんた、変なの」
「よく言われる」
私は、ペタの荷車を見た。
「今日の納品、私たちに運ばせてください。お代は払います」
銀貨を三枚、握らせた。ペタは掌を見て、目を丸くした。
「だめだよ。ヘンリクが、知らない顔を見たら」
「ですから、あなたも一緒に来て、紹介してほしいの。親方の親戚だと。中へは入らなくていいわ。門までで」
ペタは、私とアレクを交互に見た。
「兄ちゃんと姉ちゃんじゃ、似てなさすぎるよ。それより」
首をかしげた。
「夫婦のほうが、通りがいいんじゃないか。親方の甥っ子が、嫁さんをもらって、手伝いに来たってことに」
「夫婦」
アレクの声が、ひっくり返った。
「めおと」
「ふり、ですわ。ふり」
「あんた、首まで真っ赤だぞ、兄ちゃん」
「…………頭巾の中は、暑い」
「そうかなあ」
ペタは首を傾げたまま、親方の古い外套と革の手袋と帽子を、店の奥から引っ張ってきた。
「頭巾は取れよ。荷運びは帽子だ。手袋もしろ、荷運びの手は荒れてるもんだ」
アレクは頭巾を外した。朝の光で、髪が銀色に光った。外套は袖が短くて、手首が出た。右手の青い石の指輪の上から、革の手袋をはめた。
帽子を目の上まで下ろしても、顎の線が立派すぎた。
ペタがじっと顔を見て、口を開けかけて、閉じた。
「……兄ちゃん、荷運びやったことないだろ」
「ない」
「だと思った」
私は店先の墨壺の縁で、指に墨をつけた。
「動かないで」
アレクの頬と顎に、線を引いた。
「……動かない」
「もう少し、下を向いて」
近かった。墨のにおいと、息の音。
「ひどいか」
「いい荷運びですわ」
私も古い前掛けを借りて、頭に布を巻き直した。あの男に、顔を見られている。布を目深に落として、頬にも墨を一筋足した。籠に白紙の帳面を入れる。帳簿を持つ嫁の役だった。
「ラドミル様は」
「私は外から見張ります」
荷担ぎの外套のまま、ラドミルが言った。
「あの方が樽を担がれるのは、見るに忍びませぬ」
「見るな」
「は。ただ、胴元として申し上げます。荷運びの最中の『まだ』は、数に入れぬことにいたします」
ラドミルは背を向けた。肩が揺れていた。
◇
運河沿いの道は、朝の光できらきらしていた。
樽は三つ。一つは荷車から下ろして、アレクが肩に担いだ。残りは荷車に載せて、ペタが引いた。私は紙の束の横を、籠を抱えて歩いた。
皇帝が、墨の樽を担いでいる。
歩くたびに、墨が樽の中でちゃぷんと鳴った。
「重くないですか」
「軽い」
アレクの額に、汗が浮いていた。
運河の石段で洗い物をしていた女が、桶から顔を上げた。昨夜の女だった。背の高さで分かったらしい。
「あらまあ。昨夜の役者さんじゃないか」
「……役者ではない」
「今度は荷運びかい。足は治ったのかい」
アレクは、一拍、置いた。
「……治った」
「奇跡だねえ」
女は、うんうんとうなずいた。
数歩先で、ペタが荷車の持ち手に突っ伏して、肩を震わせていた。
外堀が見えてきたころ、アレクが、小さな声で言った。
「シャル」
「はい」
「……まだか」
私は思わず足を止めかけた。
「樽を担いでおいでですのに」
「聞きたい」
「荷運びの最中は、数えません。胴元もそう申しておりました」
「数えないのか」
「樽を置いてからお聞きします」
「置けない」
「でしたら、まだです」
「…………そうか」
樽の下で、アレクの声がうれしそうだった。
前を歩くペタが、急に振り返った。
「なあ、姉ちゃん。兄ちゃん、いつもこうなの?」
「いつもです」
「大変だな、姉ちゃん」
「ええ。毎朝です」
アレクが、樽を担いだまま、咳ばらいをした。
書記局の裏手は、思ったより地味だった。
灰色の石の壁。外堀に面して、石段が水際まで下りている。段の下に、鉄の格子をはめた重そうな戸があった。
戸の前に、門衛が二人。ひとりは細くて、あくびをしていた。もうひとりは大柄で、白髪まじりで、木の札を何枚もぶら下げていた。
「ヘンリクだ」
ペタが、小声で言った。
「ヘンリクさん、いつもの俺だよ! 今日は荷が多いんで、親方の甥っ子が手伝いに来てくれた! 嫁さんも!」
ペタの声は、少し上ずっていた。
ヘンリクは、のっそりと近づいてきた。ペタの木札を見て、樽を数えて、紙の束に指をかけた。
「甥っ子と、嫁さんね」
眠そうな目が、アレクの頭から足まで、順番に降りていった。
大きな外套。短い袖。革の手袋。墨の線。
視線が止まったのは、足元だった。
黒い革。細かい縫い目。踵に薄く銀の糸が通してある。夜道の泥はかぶっていたけれど、ひと目で上等と分かった。古い外套には、まるで似合っていなかった。
机の下に隠したくせに、替えさせるのを忘れていた。
「……いい靴だな」
ヘンリクが、のんびりと言った。
読んでいただき、ありがとうございます!
荷運びの墨の樽を担ぐ皇帝は、書いていて一番楽しかったところです。
次回、書記局の荷揚げ口と、その下の部屋です。
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