↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
13/18

第十三話 朝の迎え

 戸板が、きい、と鳴いた。

 開ききるまでに、数を三つ数えられた。数えているあいだに、私はやることを三つ決めた。

 ひとつ、アレクの頭巾。ふたつ、床の紙。みっつ、先生の前に立つこと。

 頭巾を目の上まで引き下ろして、アレクの肩を押した。いちばん近くにあった机へ。子どもが習字をするための、膝までの高さしかない低い机だ。

「座って」

「しかし」

「兄上は、足が悪いのですわ」

 杖を握らされたアレクは、並んだ六つの机の端に腰を落とした。皇帝の膝が、胸の高さまで来た。長い足を、机の下へ押しこませた。靴を見られたくなかった。

 私は手巾をわざと床に落とし、拾うふりでしゃがんだ。先生が裂いた紙の欠片が、床に散っている。蝋の印のかけらが爪に当たった。ひとつ残らず手巾に包んで、袖の奥へ押しこんだ。

 立ち上がったときには、先生がもう戸口に向かって歩き出していた。背筋が伸びていた。膝をついていた人の歩き方ではなかった。私はそのあとを追った。

 戸の裏に、大きな影がはりついている。ラドミル騎士長だ。開いた板が、ちょうど体を隠していた。剣の柄に手をかけたまま、息もしていない。


 戸口に、男が立っていた。

 灰色の外套。五十がらみ。目が小さくて、鼻の脇に深い皺がある。敷居はまたがずに、外から部屋を見ていた。

 右手に黒い杖。握りだけが銀だった。さっき戸を叩いた杖だ。

 私はちらりと足元を見た。杖の先に、石畳をこすった跡が一つもない。足は悪くない。戸を叩くためだけに持ち歩いている杖だ。

「先生。朝でございますよ」

 声は丁寧だった。丁寧なのに、湿っていた。

「お待たせしました」

 先生の声は、震えていなかった。

 男の小さな目が、部屋を一周した。低い机に折りたたまれている頭巾の男で止まり、私で止まった。

「おや。お客様とは。先生の塾は、店じまいと伺っておりましたが」

「鍵をかけ忘れて出まして。そのまま、中でお待ちに」

「夜明け前に参りましたの」

 私は先生の斜め前に出て、頭を下げた。髪は布でくるんで、顔の横に煤をつけてある。南門の広場にいた人の中に、この男もいたかもしれない。靴も、下町の古い革のものに替えてある。目は上げすぎなかった。

「灯りがついておりましたし、戸も開いておりましたから、お戻りになるまでと」

「ほう。どちらさんで」

「下町の外れの、馬具屋の者です。兄を、先生の塾に通わせたくて」

「兄」

「三年前に馬に蹴られて、足を悪くしました。馬具の仕事ができなくなりましたので、字を覚えて、帳簿をつけたいと。先生は読み書きを教えるのがお上手と伺いまして」

 口から出まかせは、案外すらすら出た。砦では、見張りが交代で嘘の訛りを練習する遊びがあった。

「塾は当分、閉めていると聞いたがね」

「存じております。でも兄は、昼間に外を歩けませんの。顔に火傷がございまして。人の少ない夜明けなら、と」

 低い机のところで、頭巾が小さく動いた。

「火傷?」

「兄は、人に顔を見られるのを嫌います。頭巾は、お許しくださいませ」

「ふん。見たくもないね」

 男は鼻で笑った。見たくもない、と言った相手が、帝国の皇帝だとは思ってもいない顔だった。

 頭巾の下から、何かを押し殺す音がした。

「兄上」

「…………ああ」

「落ち着いてくださいませ」

「落ち着いて、いる」

 全然、落ち着いていなかった。杖の握りが、白くなっていた。

 男は気づいたふうもなく、頭巾の男に目を戻した。

「兄さん、名は」

「……アレク」

「妹さんは」

「…………」

 間が空いた。

 まずい。偽の名前を、決めていなかった。

「…………シ」

 アレクの声が、喉の奥で止まった。

 床に伸びたラドミルの影が、戸の裏で身じろぎした。

「…………ミエル」

 アレクは、ゆっくり言った。

「ミエル。蜂蜜という意味だ」

 戸口が静まった。

 言わなくていいことまで言った。栗毛の馬の名前だ。私の馬の。

「変わった説明をする兄さんだ」

「……妹の名前は、大事にしている」

「そうかね」

 男は興味をなくしたように、先生のほうへ首を戻した。

 私は袖の中で手巾を握りしめた。ミエルに謝るのは、あとにしよう。


「先生。昨日お渡しした紙は」

 男の声が、すっと低くなった。

「写しは、できましたかね」

「…………できておりません」

「原紙は」

「帰り道に、運河へ落としました。夜道で風にさらわれて、拾えませんでした」

 先生の声は平らだった。男は、小さな目を細めた。

「落とした」

「手が、震えまして」

「それはそれは。拾ったのが、字の読めぬ者だといいが」

 男は喉の奥で、ひひ、と笑った。

「お嬢ちゃんも、毎朝先生のお帰りを待っておいでだ。昼までに、ね。お父上の筆が、間に合うといいが」

 先生の肩が、かすかに沈んだ。

 杖の握りが軋んだ。頭巾のなかで、歯を食いしばっているのが、見えなくても分かった。

 私は男と、アレクのあいだに一歩だけ体を入れた。

「兄上。膝が痛みますの」

「……痛まない」

「痛みますの」

「…………痛む」

 杖の握りから、指が一本ずつ離れた。

「では、先生。参りましょうか」

 男は戸口から身を引いて、先生を外へうながした。

「新しい紙は、あちらにある。落としたぶんは、そちらで書き直していただく」

 それから私たちを振り返った。

「弟子入りは、ご覧のとおり今日は無理だ。昼過ぎにまた来なさい。……先生が、おいでになれば、ね」

 戸口を出る前に、先生が足を止めた。

 窓辺の小さなランプを、見ていた。

「少しだけ。油を」

「灯りなど、昼に要るか」

「娘が戻ったとき、暗くないように」

 男の目が、一瞬だけ、先生を見た。

「戻るさ。お前が書けばな」

「あの」

 私は一歩出た。

「油でしたら、私が足しておきます。お待ちしているあいだ、手持ち無沙汰ですので」

「好きにするといい、妹さん」

 男は興味なさそうに言った。

 先生は私を、ちらりと見た。目の奥で、何かがほどけた。

 それから、振り返らずに戸を出ていった。こつ、こつ、と杖の音が、石畳を遠ざかっていった。


   ◇


 足音が角を曲がって消えたあと、たっぷり十数えた。

「陛下。もう、よろしいでしょうか」

 ラドミルの声が、戸の裏から小さく聞こえた。

 大きな影が、板の陰から出てきた。荷担ぎの外套の肩が、がちがちに固まっていた。右手は、まだ剣の柄にあった。

「……騎士長」

「は」

「手を、お離しになって」

「離しております」

「離れておりませんわ」

 ラドミルは自分の右手を見下ろした。指が、柄に貼りついたまま、動かなかった。

「……指が」

「固まってしまわれたの」

「息をしていなかったので、手を忘れておりました」

 アレクが机から立ち上がった。立ち上がった拍子に、低い机が持ち上がった。膝に引っかかっていたのだった。

「ラドミル」

「は」

「斬れたか」

「あの背中ならば、一太刀で」

「そうだな」

 アレクは低い声で言った。

「だが、ミラがいる」

 灰色の目が、戸口の向こうを見ていた。

「……斬らずにいてくれて、助かった」

「陛下……」

 アレクは、ラドミルの指を一本ずつ柄からはがした。小さな子の手をほどくような手つきだった。

 私は目をそらして、ランプに向かった。見ていたら、また笑ってしまいそうだった。


 ランプの油は、ほとんど残っていなかった。

 棚の下から油壺を出して、芯を整える。

「あの男、昼までにと言いました」

 私は背中で言った。

「ミラちゃんを傷つければ、先生はもう書きません。先生に書かせるための札ですから、使い切るまでは大事にします」

「札……」

 アレクはしばらく黙っていた。それから隣に来て、油壺を持ってくれた。

「注ぐ」

「ええ」

 とくとくと、油の落ちる音がした。火が、ぱちりと立ち上がって、落ち着いた。

 窓の外が、朝になっていた。小路のあちこちで、雨戸の開く音がする。

 押さえなかった理由を聞きたそうな顔だったので、先に言った。

「あの男を押さえなかったのは、先生を地下へ入れるためです。あの男が戻らなければ、中の人たちは警戒して、紙も人も動かします。ミラちゃんも。先生は、書くふりをしながら、中を見てくださいます」

「先生が、自分で選んだことか」

「ええ。『もう、書きません』と言った人が、そのあとの一歩を、自分で踏み出したのです。それと、時間です。先生が落としたことにした紙は、『今日の夕刻、北の庭の東屋へ』という中身でした。書き直されれば、夕方までに動き出します。猶予は昼、遅くとも夕刻です」

「東屋には、行かせない」

「行きません。……行くふりは、するかもしれませんけれど」

「……お前は、いつも先にいる」

「ですから、追いかけてくださいませ」

「追う。毎朝」

 アレクは、口の端を押さえた。押さえきれなかった。


「小路の端にいた者に、二人を追わせております。報せは舟で」

 ラドミルが言った。

「それと、宰相閣下には夜のうちに伝令を出してございます。『陛下は朝から、辺境のお客人と下町のご視察』と。返書がまいりました」

「何と書いてあった」

「一文字でございました」

「何と」

「『胃』と」

 ランプの炎が、じ、と鳴った。

 アレクが目を閉じた。

「……あとで、胃薬を倍にしてやれ」

「はっ」

 笑ったのは、私だけだった。ラドミルは肩だけで笑った。


 半刻ほどして、荷船の船頭に化けた騎士が、小路の裏の石段から駆け上がってきた。

「二人は運河沿いに北へ歩き、書記局の裏手へ回りました。外堀に面した石段の下に、荷揚げの口があります。そこから中へ」

「荷揚げ口」

 アレクが、眉を寄せた。

「書記局の裏には、紙と墨の舟が着く口がある。昔からだ。中は地下まで続く、紙の倉庫のはずだ」

 アレクは続けようとして、言葉を止めた。

「……人を置く部屋は、ない」

 私は袖の中の手巾に、指で触れた。

「ないはずの部屋が、あるのですわ。誰かが、作ったのです。書記局の、中の人が」

「書記局の中に」

「ええ。ミラちゃんを閉じこめて、先生に紙を書かせる部屋を、書記局の下に」

 国境で、紙に止められた。街道で、紙に眠らされかけた。南門で、紙に囲まれた。

 その紙が書かれていた場所は、宮殿の足の下だったのだ。

「書記局の長は誰ですか」

「書記長官だ。先帝の代からの老人で、去年の冬から床についている。局の実務は、副長官に任せてある」

 副長官。

 頭の隅に、置いた。まだ名前にはしない。顔のない人に名前をつけるのは、顔が見えてからでいい。

「正面から入って、地下を開けさせれば早い」

「開けさせたときには、空になっています。紙は燃やされ、ミラちゃんは別の場所へ。誰が黒いのか分からないうちは、正面は使えません」

「……中から見るのか」

「ええ。出入りの者に紛れて、中から見ます」

「荷揚げ口に、門衛はいたか」

「二人でございます。船頭に聞きました。毎朝、納品の荷車が着くそうです。運ぶのは、筆の小路の墨屋の小僧。門衛は荷の数しか見ないと」

「墨屋」

 私とアレクが、顔を見合わせた。

 そういえば、小路の入り口の角に、墨の看板が出ていた。


   ◇


 コルネル墨店は、小路の入り口の角にあった。看板の墨の字は大きいのに、戸は半分しか開いていない。前の石畳に、荷車が一台。樽が三つと、灰色の紙の束が二つ、縄で縛られて積んである。

 荷車の横に、男の子が立っていた。

 十二、三くらい。丸い頭で、前掛けが大きすぎる。仁王立ちだった。

「あんたら、青竹堂から出てきたろ。先生が連れてかれたあとも、中に灯りがついてた」

 先に言われた。男の子は足元の石を拾って、握った。

「先生を連れてったおじさんの仲間か」

 うしろで、荷担ぎ姿のラドミルが一歩出ようとした。アレクが腕を出して止めた。

「違う」

 アレクが言った。頭巾の下の低い声が、石を握る手を止めた。

「その男の仲間ではない」

「じゃあ、何だよ」

 私はしゃがんで、男の子と目の高さを合わせた。

「先生を助けたい人です。ミラちゃんが『とうさま』を、四回書き直しているのを見ました。四回目で、やっと形になった字を」

 男の子の肩が、ぴくりと動いた。

「ミラ、『と』の字がいつも逆になるんだ。先生が、直さなくていいって言ってた。逆でも、読めるからって」

 声が、細くなっていった。

「先生、ひと月半前から、ミラのことしか話さなくなったんだ。俺が声をかけても、聞こえてないんだ」

 男の子は、握った石を、そっと地面に置いた。

「……俺、ペタ。先生に、字を習った」

 懐に手を入れて、小さな紙を取り出した。何度も折った跡のある、薄い紙。

 広げると、丸い字で、一行だけ書いてあった。

『ペタ』

「最初に来た日に、先生が書いてくれた。先生は、習いに来た子の最初の紙には、その子の名前を書くんだ。手本にしろって」

 ペタの目が赤かった。

「俺、これ、まだ持ってる」

 隣で、アレクが息をのんだ。

 私も、のどの奥が詰まった。

 最初の紙に、自分の名前を書いてもらう。下町の子どもたちは、そうやって字を始めたのだ。

 アレクの手が、ほんのわずか、ペタの頭のほうへ動いて、途中で止まった。

「……ペタ」

「何だよ」

「お前の字は、これから上手くなる」

「はあ? あんた誰だよ」

「荷運びの兄ちゃんだ」

 アレクは言った。まじめな顔で。

 ペタは、疑わしそうに頭巾を見上げた。それから、石を拾って、ポケットにしまった。

「ふうん」

 それ以上は聞かなかった。聞かないことは、下町では礼儀だった。


「毎朝、納品に行っているのは、あなたですね」

「親方は、ひと月半前から注文が十倍になって、大喜びだよ。毎朝、樽を三つ、紙を二束。書記局の裏の荷揚げ口に運べって。自分は酒を飲んで寝てる」

「ひと月半前」

 先生が、娘の名を出されて書き始めた時期と、同じだった。

「門にヘンリクって門衛がいてさ。いつも俺の木札と樽の数しか見ないんだ。あと、あの灰色の外套のおじさんが、通りがかりに、俺の樽を蹴るんだ」

「蹴る」

 アレクの声が、低くなった。

「覚えておく」

「何を?」

「樽を蹴られた分を」

 ペタは、目を丸くした。それから、ふっと笑った。初めて笑った顔だった。

「あんた、変なの」

「よく言われる」

 私は、ペタの荷車を見た。

「今日の納品、私たちに運ばせてください。お代は払います」

 銀貨を三枚、握らせた。ペタは掌を見て、目を丸くした。

「だめだよ。ヘンリクが、知らない顔を見たら」

「ですから、あなたも一緒に来て、紹介してほしいの。親方の親戚だと。中へは入らなくていいわ。門までで」

 ペタは、私とアレクを交互に見た。

「兄ちゃんと姉ちゃんじゃ、似てなさすぎるよ。それより」

 首をかしげた。

「夫婦のほうが、通りがいいんじゃないか。親方の甥っ子が、嫁さんをもらって、手伝いに来たってことに」

「夫婦」

 アレクの声が、ひっくり返った。

「めおと」

「ふり、ですわ。ふり」

「あんた、首まで真っ赤だぞ、兄ちゃん」

「…………頭巾の中は、暑い」

「そうかなあ」

 ペタは首を傾げたまま、親方の古い外套と革の手袋と帽子を、店の奥から引っ張ってきた。

「頭巾は取れよ。荷運びは帽子だ。手袋もしろ、荷運びの手は荒れてるもんだ」

 アレクは頭巾を外した。朝の光で、髪が銀色に光った。外套は袖が短くて、手首が出た。右手の青い石の指輪の上から、革の手袋をはめた。

 帽子を目の上まで下ろしても、顎の線が立派すぎた。

 ペタがじっと顔を見て、口を開けかけて、閉じた。

「……兄ちゃん、荷運びやったことないだろ」

「ない」

「だと思った」

 私は店先の墨壺の縁で、指に墨をつけた。

「動かないで」

 アレクの頬と顎に、線を引いた。

「……動かない」

「もう少し、下を向いて」

 近かった。墨のにおいと、息の音。

「ひどいか」

「いい荷運びですわ」

 私も古い前掛けを借りて、頭に布を巻き直した。あの男に、顔を見られている。布を目深に落として、頬にも墨を一筋足した。籠に白紙の帳面を入れる。帳簿を持つ嫁の役だった。

「ラドミル様は」

「私は外から見張ります」

 荷担ぎの外套のまま、ラドミルが言った。

「あの方が樽を担がれるのは、見るに忍びませぬ」

「見るな」

「は。ただ、胴元として申し上げます。荷運びの最中の『まだ』は、数に入れぬことにいたします」

 ラドミルは背を向けた。肩が揺れていた。


   ◇


 運河沿いの道は、朝の光できらきらしていた。

 樽は三つ。一つは荷車から下ろして、アレクが肩に担いだ。残りは荷車に載せて、ペタが引いた。私は紙の束の横を、籠を抱えて歩いた。

 皇帝が、墨の樽を担いでいる。

 歩くたびに、墨が樽の中でちゃぷんと鳴った。

「重くないですか」

「軽い」

 アレクの額に、汗が浮いていた。

 運河の石段で洗い物をしていた女が、桶から顔を上げた。昨夜の女だった。背の高さで分かったらしい。

「あらまあ。昨夜の役者さんじゃないか」

「……役者ではない」

「今度は荷運びかい。足は治ったのかい」

 アレクは、一拍、置いた。

「……治った」

「奇跡だねえ」

 女は、うんうんとうなずいた。

 数歩先で、ペタが荷車の持ち手に突っ伏して、肩を震わせていた。


 外堀が見えてきたころ、アレクが、小さな声で言った。

「シャル」

「はい」

「……まだか」

 私は思わず足を止めかけた。

「樽を担いでおいでですのに」

「聞きたい」

「荷運びの最中は、数えません。胴元もそう申しておりました」

「数えないのか」

「樽を置いてからお聞きします」

「置けない」

「でしたら、まだです」

「…………そうか」

 樽の下で、アレクの声がうれしそうだった。

 前を歩くペタが、急に振り返った。

「なあ、姉ちゃん。兄ちゃん、いつもこうなの?」

「いつもです」

「大変だな、姉ちゃん」

「ええ。毎朝です」

 アレクが、樽を担いだまま、咳ばらいをした。


 書記局の裏手は、思ったより地味だった。

 灰色の石の壁。外堀に面して、石段が水際まで下りている。段の下に、鉄の格子をはめた重そうな戸があった。

 戸の前に、門衛が二人。ひとりは細くて、あくびをしていた。もうひとりは大柄で、白髪まじりで、木の札を何枚もぶら下げていた。

「ヘンリクだ」

 ペタが、小声で言った。

「ヘンリクさん、いつもの俺だよ! 今日は荷が多いんで、親方の甥っ子が手伝いに来てくれた! 嫁さんも!」

 ペタの声は、少し上ずっていた。

 ヘンリクは、のっそりと近づいてきた。ペタの木札を見て、樽を数えて、紙の束に指をかけた。

「甥っ子と、嫁さんね」

 眠そうな目が、アレクの頭から足まで、順番に降りていった。

 大きな外套。短い袖。革の手袋。墨の線。

 視線が止まったのは、足元だった。

 黒い革。細かい縫い目。踵に薄く銀の糸が通してある。夜道の泥はかぶっていたけれど、ひと目で上等と分かった。古い外套には、まるで似合っていなかった。

 机の下に隠したくせに、替えさせるのを忘れていた。

「……いい靴だな」

 ヘンリクが、のんびりと言った。

読んでいただき、ありがとうございます!


荷運びの墨の樽を担ぐ皇帝は、書いていて一番楽しかったところです。


次回、書記局の荷揚げ口と、その下の部屋です。


続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆で応援してもらえると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。