第十四話 地下の三つの戸
ヘンリクの目は、靴から動かなかった。
樽を担いだままのアレクの肩が、ぴくりと動いた。
私は帳面を胸に抱えて、にっこり笑った。
「質流れなんです」
「質流れ」
「この人が質屋で見つけて、ひと目惚れして。毎晩、磨いてますの。荷運びの仕事なのに、靴だけは譲らなくて」
ペタが、うしろで何度もうなずいた。
「親方も呆れてたよ。いい靴は足から人を駄目にするって」
ヘンリクは、のんびりとアレクの足元を眺めたままだった。
「質に流れるにしては、手入れがいいな」
「……妻が」
アレクが、樽の下から言った。
「妻が、選んだ」
声は低くて、少しかすれていた。
ヘンリクが、顔を上げた。
私は目を伏せた。選んではいない。選んではいないけれど、「妻」の一言が、予想より重たく胸に落ちた。
「ほう」
ヘンリクは、にやりとした。
「新婚か。女房の目利きに逆らうと、あとが長いぞ」
「心得ている」
「言い方が堅えな、甥っ子。ま、いい。通れ」
木札の束が、がちゃりと鳴った。鉄の格子の戸が、きしんで開いた。
戸をくぐってから、私は小声で言った。
「選んでいません」
「……分かっている」
「毎晩磨いてもいません」
「分かっている」
アレクは、樽の下で、耳の先まで赤かった。
「だが、嘘だとは思わなかった」
聞こえなかったことにした。ペタを門に残してきてよかった。いたら、一日中茶化されていた。
◇
残りの荷は、細いほうの衛士が荷車ごと引き入れてくれた。
中は、思った以上に静かだった。
戸をくぐると、天井の低い大きな部屋に出た。壁という壁に棚があって、紙が天井まで積んである。白、灰色、黄ばんだもの。墨とかびと古い糊のにおいがした。
奥の机で、白髪の老人が居眠りをしていた。
「納品です」
声をかけると、老人は目を開けずに、受領の判だけを紙に押した。慣れた手つきだった。
「樽運びの爺さんが、昨日腰をやった。下まで運んでいけ。地下の三番だ。台は中の右」
「三番」
「廊下の三つ目の戸だ。衛士が数える。……新顔か。なら、気をつけろ。階段は、濡れてる」
老人は、それだけ言ってまた目を閉じた。
頼む前に、行き先を教えてくれた。運がよかった。
紙の棚のあいだを抜けると、奥に、石の階段が口を開けていた。
下りるにつれて、空気が冷えた。灯りは壁の油皿だけで、一段ごとに影が揺れた。
アレクの足音は、一段目から重かった。樽のせいではない。
「アレク」
「何だ」
「ここ、昔から、こうでしたか」
「……分からない。降りたことがない」
皇帝の宮殿の足の下に、一度も降りたことのない場所があった。それが、いまは敵の道具になっている。
階段の先は、細い廊下だった。突き当たりに、上へ向かうもうひとつの階段が見えた。
戸が、三つ並んでいた。
一番の戸は、開けっぱなしで、紙の山が見えた。倉庫の続きだろう。
二番の戸は、閉まっていた。厚い木に鉄の帯。鍵穴の下に、蝋のしみが一滴、まだ新しく光っている。
私は足を止めずに、においを吸いこんだ。封蝋の、焦げたような甘いにおい。
三番の戸の前に、丸椅子が置いてあった。小柄な衛士が、膝に帳面をのせて座っている。目が合うと、あくびをした。
「墨だな。数は三。一本ずつ、中の台へ」
「聞いております」
「中のやつとは、口をきくな。叱られるのは俺だ」
私は頭を下げた。帳面を持つ手のひらが、汗でぬれていた。
廊下の突き当たりの階段から、足音が下りてきた。
こつ、こつ、と、杖の音がついていた。
丸椅子の衛士が、慌てて立ち上がった。
「ベネシュ殿。ご苦労さまです」
顔を上げなかった。上げられなかった。
アレクが、私の前に半歩だけ出た。樽を肩に載せたまま、帽子のつばを深く引き下げた。広い背中が、私の顔を隠した。声を聞かれたら終わりだ。アレクは喉の奥で声をつぶして、道々ペタから聞いた訛りを真似ていた。
「おい、そこの荷運び」
湿った声だった。
「へい」
「いつもの爺さんはどうした」
「腰を、やったそうで。親方の……甥です。今日から」
「ふん。見ねえ顔だな」
足音が止まった。灰色の外套の裾が、視界の端に入った。
灰色の外套。銀の握りの黒い杖。ベネシュ、と衛士が呼んだ男だった。
息を止めた。止める息なんて、もうないほど、止めていた。
「樽を、そこに置け」
「ここは、廊下で」
「置けと言っている」
アレクは、ゆっくり樽を下ろした。下ろしながら、ほんの少しだけ、樽を回した。鉄の帯が、ベネシュのほうを向くように。
ごと、と鈍い音がした。
ベネシュは、黒い杖の握りを肩に預けて、樽を見下ろした。
「遅いんだよ、毎朝毎朝。墨が遅れると、先生の筆が止まる」
それから、右足を引いた。
あ、と思った。
蹴る気だ。
アレクは、動かなかった。
ベネシュの靴先が、樽の腹に飛んだ。
鈍い、がつん、という音がした。
樽の腹には、鉄の箍がまいてある。
「ぐ」
ベネシュは、声にならない声を出した。
「ぐ、ぐ、ぐ」
右足を抱えて、片足で二歩、跳ねた。杖が、からん、と石の床に落ちた。足の悪くないはずの男が、見事に足を引きずっていた。
「き、貴様。こんな、箍の、上に、置き、やがって」
「すんません」
アレクの声は、平らだった。
「どう詫びる」
「すぐ、運びやす」
「当たり前だ!」
ベネシュは杖を拾って、左足だけに体重をのせた。
「次から、箍のないほうを向けておけ。……畜生。足の骨を折ったらどうしてくれる」
先生の様子を見に来たはずの足は、そのまま突き当たりの階段へ引き返していった。杖の音のあいだに、くぐもった悪態が、しばらく聞こえていた。
廊下が静かになった。
アレクが、樽の腹を、すっと撫でた。
「……返した」
「樽を、回しましたね」
「勝手に回った。蹴られた分は、返した」
口の端が、ぴくりと動いた。
私は、帳面で顔を隠した。笑ってはいけないと、必死で思った。思えば思うほど肩が揺れた。
「揺らすな」
「揺れて、いませんわ」
「揺れている」
「あなたも、口が」
「……動いていない」
三番の戸の前で、丸椅子の衛士が、あくびの途中で止まっていた。
「あんたたち、何を笑ってる」
「いえ。寒くて、震えているだけです」
「そうか。寒いよな、ここは」
衛士は、納得した。
◇
アレクが樽を担ぎ直し、三番の戸を内側へ押し開けた。入って、背中で閉めた。
広い部屋だった。細長い机が、ひとつ、壁際に据えられている。机の上に、筆が何十本も、ずらりと立ててあった。壁に張った縄には、乾かしている紙が洗濯物みたいに吊るしてある。どれも、灰色の麻紙だった。
壁のいちばん高いところに、古い紙が何枚も、びっしりと貼ってあった。
手本だ、と分かった。
右上へ跳ねる癖の、細い字。
部屋のいちばん奥は、麻の布で仕切ってある。その布の隙間から、ランプの光が、床へこぼれていた。
明るかった。
「樽は、右の台へ」
机の前で、先生が顔を上げずに言った。
筆は、紙の上をゆっくり動いていた。肩の上下だけが、少し速かった。
アレクが、樽を台に据えた。栓の向きを直す。その目は、先生の机のほうを一度も見なかった。見ないようにしている、のが分かった。
「失礼します。次の注文の目安に、墨の減りを帳面に控えるよう、親方に言われております」
私は先生の机の端まで寄って、帳面を開いた。書くふりをしながら、机の上の紙を見た。
新しい紙だった。書きかけの一行目。
『本日夕刻』
六枚目の、書き直しだ。
半刻以上、書いているはずなのに、まだ一行目だった。先生は、わざと遅く書いている。時間を稼いでくれているのだ。
先生の筆が、一瞬だけ止まった。そのまま、筆先が動いて、次の字に移った。
「ミエルさんのお兄上は、足の具合はいかがですか」
先生の声は、低くて、静かだった。
息を呑んだ。
「……お薬が、効いて、おります」
「それはなによりです」
先生は紙から目を上げなかった。
「樽の栓は、三度、叩いてください。一度では、墨が落ち着かないので」
アレクは、黙って、三度、叩いた。
叩くたびに、アレクの喉が動いた。
「娘の部屋は、この奥です。あのランプが明るいうちは、娘は無事だと、私が勝手に決めております」
「勝手に」
「毎晩、あの子が眠る前に、私が油を足します。昨夜も、足してから帰りました」
先生は、声を出さずに、少し笑った。
「油は、足しておくものですね」
青竹堂の小さな灯りと、同じ約束だった。娘のために、毎晩、毎朝、油を足す人。
「先生」
小さく聞いた。
「二番の戸は」
「入れません。鍵は一本きりです。上のお方だけが、お持ちです」
「上のお方」
「副長官、と皆は呼びます。音を立てずに歩く方です。足音がしたら、気をつけてください」
足音。
私は、さっきの階段を思い出した。ベネシュの杖の音は、聞こえた。副長官の足音は、聞いていない。
「この手本は」
私は壁の高いところを、目で指した。
「私が書いたものではありません。写せと、渡されたものです」
先生の筆が、止まった。
「古い紙は、のびやかな筆です。十年以上前のもの。ですが、新しい紙になるほど、字が硬くなる。左に傾く。……右手をお痛めになった方が、左で書き直したような、ぎこちなさがある」
「右手を」
「良い手でした。いまも、良い手です。ただ、この手は、書くたびに、何かを我慢している」
先生は、小さく息を吸った。
「私は、字を写すとき、その方の手のつもりで写します。ですから、よく分かるのです」
うなずく代わりに、私は帳面を持ち直した。喉の奥が、ひりひりしていた。
右手を痛めた人。十年以上前から、この字を書いている人。
そのとき、麻の布が、さらりと動いた。
「とうさま?」
小さな声がした。
布の隙間から、顔が覗いた。九つにもならない女の子だった。丸い顔、細い髪を二つに結んで、片方がほどけかけている。目が、先生を見つけて、ぱっと開いた。
「とうさま、きょうは、はやかったね」
「ああ」
先生の声が、割れた。
「早く、帰ってこられたよ」
「ミラ、ちゃんとまってたよ。ごはんも、たべた」
ミラは、布から出てきて、先生の脚にぎゅっとしがみついた。小さな手が、先生の袖をつかんだ。
先生の筆が、机の上に落ちた。拾おうともしないで、先生は片手で娘の頭を押さえた。もう片方の手は、まだ震えていた。
布の奥から、白髪の老女が出てきて、無言で会釈した。洗濯婦の前掛けをした人だった。目が疲れていた。
「ミラ。きょうの、れんしゅう」
「あのね、あのね」
ミラは、先生の机の端に紙を広げた。『とうさま』。四回、書き直した、ひらがな。四回目の、最後の字。
「ほら、『と』。またぎゃくになっちゃった」
先生は、紙をじっと見た。
「逆でも、読めるよ」
「ほんと?」
「ああ。とうさまが、読める」
喉の奥が、ぐっと詰まった。
隣の樽の影で、アレクが、唇を結んでいた。目は、紙のほうを見ていなかった。
見られなかったのだと思う。
ミラが、私たちに気づいた。
「おじさんと、おねえさん」
「荷物を運んできた人たちだよ」
先生が言った。
「ふうふ?」
「え」
私とアレクが、同時に声を出した。
「だって、おじさん、おねえさんのほうばっかり、みてるよ」
アレクが、咳きこんだ。
「ふうふじゃないの?」
「……ふり、です」
私が言うと、ミラは首をかしげた。
「ふりなの? ふりなのに?」
ミラはまっすぐ、アレクを見た。
「じゃあ、ほんとうは?」
「…………」
間があった。
樽の影で、荷運びの帽子が、動かなくなった。
「ほんとうは?」
「…………まだ」
アレクの声が、思ったより小さくて、思ったより真剣だった。
ミラは、「ふうん」と言った。それから、真剣な顔でうなずいた。
「まだ、なんだね」
「そうだ」
「がんばってね、おじさん」
私は、手のひらで口を押さえた。先生が、下を向いて、肩を震わせていた。笑っているのか泣いているのか、分からなかった。
「ミラ。奥で、お婆さんと遊びなさい」
「はあい」
ミラは、老女と一緒に、麻の布の向こうへ戻っていった。
いま、あの子を抱えて走ることは、できる。けれど、そうすればここは、今夜のうちに空になる。先生も、紙も、上の人の顔も、見えないままになる。
奥歯を噛んだ。助けるのは、一度きりだ。
先生が、小さく言った。
「陛下」
アレクの肩が揺れた。
「お呼びするのは、いまだけです」
先生は筆を拾った。
「息は、止めないでいてください」
「……ああ」
アレクが、樽の栓にそっと手を置いた。墨が落ち着く音がした。
背中に、風が来た。
ほんの少しの、冷たい空気の動きだった。
戸が、開いたのだと思う。
足音は、しなかった。
先生の顔から、すっと血が引いた。私はゆっくり、帳面を抱え直して、振り向いた。
戸口の外で、丸椅子の衛士が慌てて立ち上がる気配がした。ベネシュが報せたのか。それとも、ただの見回りなのか。
戸口に、男が立っていた。
四十前の、痩せた男だった。黒に近い紺の上着。髪をきちんと撫でつけて、顎の線が細い。静かな目が、部屋の中を一周した。
右手に、革の手袋。左は素手だった。
私は、息を吸うのを忘れた。
男の目が、ゆっくり、アレクの手に落ちた。
栓に手を置いた拍子に、荷運びの手袋が、手首のところで少しずれていた。
その隙間から、小さな青い石が、灯りを拾って、きらりと光った。
男の目が、その光から、動かなくなった。
読んでいただき、ありがとうございます!
ミラの「がんばってね、おじさん」は、書いていてにやけたところです。
次回、足音のしない男の名前です。
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